1977年パンク開眼
(略)一九七六年に私が自分で購入したレコードは以下の七枚であったらしい。
デイヴィッド・エセックス「ロック・オン」
ダイアナ・ロスの「ラヴ・ハングオーヴァー」の入ったアルバム
リンダ・ルイス「アイル・ビー・スウィーター」
ビーチ・ボーイズ『グレイテスト・ヒッツ』
イーグルス『グレイテスト・ヒッツ・VOL1』
ジェファーソン・スターシップ「ウィズ・ユア・ラヴ」
カン「アイ・ウォント・モア」
(略)
どの一枚に対しても恥ずかしく思うような気持ちは一切ない。しかし、これらのどれもが典型的なパンクの古典であるとは言えないことも同時に明白だ。
(略)
日記の中に音楽への言及はあと四箇所しか見つからない。
一月十六日 ニルソンのレコードがラジオでかかった。割りと好き。
四月三日 ブラザーフッド・オブ・マンがユーロヴィジョン・ソング・コンテストで優勝した。
六月二十二日 ザ・リアル・シングがトップ獲得。最ッ高。
十月二十九日 『キー・オブ・ライフ』は素晴らしい。そう言うしかない。
(略)
日記が明らかにしてくれるのは、当時の私の興味というものがむしろもっぱら男の子たちや、あるいはテレビの上に見つけられるような物事へと向けられていたという事実だ。
(略)
この年の二月にセックス・ピストルズはセントアルバーン芸術大学でライヴをやっていた。(略)我が家からは通りを降りてすぐの場所だった。しかし明らかに私は天気予報にばかり気を取られ過ぎており、そちらには気づきもしなかった様子なのだ。
そして同年十一月、彼らはあの「アナーキー・イン・ザ・UK」をリリースする。そして直後の十二月の一日にはテレビ番組の『トゥデイ』で(略)電波に"オカマ"と"腐れオメコ野郎"の言葉を載せ、ポップの歴史の一幕を作り上げてしまうのである。(略)
しかし同日の日記にはこの事件に関する記述は見当たらない。その代わりどうやらアスリーツたちの祭典『スーパースターズ』の中継に見入ることと、それからお風呂に入って髪を洗うこととに集中力のほとんどを奪われてしまっていたようである。
(略)
ところがいよいよ翌七七年の日記を開けてみると、これがかなり衝撃的だ。表紙の裏側にはジョニー・ロットンその人の写真がセロテープで貼り付けられていて、向かいのページには"勝手にしやがれ!!――これが我が日記だっ"と手書きの文字が躍り狂っているのである。
(略)
[一時音楽への興味をなくし]六月までに買ったレコードの枚数はゼロである。ところがここで突然に"それ"が始まる。何かが起きたのだ。六月から年が終わるまでの間に買い求めたレコードの数は八枚(略)
ザ・ジャム「イン・ザ・シティ」
ドクター・フィールグッド「ライツ・アウト」
再びザ・ジャム「オール・アラウンド・ザ・ワールド」
ストラングラーズ「サムシング・ベター・チェンジ」
エルヴィス・コステロのデビュー作『マイ・エイム・イズ・トゥルー』
アドヴァーツ「ゲイリー・ギルモアの瞳」
やはりストラングラーズの「グリップ」
ヴァイブレイターズ「ロンドン・ガールズ」
(略)
七月十四日 テレビの『トップ・オブ・ザ・ポップス』にコモドアーズとスーパートランプ、それから我らがセックス・ピストルズが出演した。
(略)
八月七日 『ロンドン・ウィークエンド・ショウ』にピストルズ出演。視聴。彼らはマジでめっちゃ素晴らしい。
八月三十一日 ジャムにストラングラーズ、アドヴァーツにブームタウン・ラッツにミンクデヴィル。もし彼らがいなかったらヒットチャートはまったく慢性的に変わり映えしないと言っていい。
(略)
十一月二十日 ラジオルクセンブルクでやってたパンクの特集を聴く。
十二月十日 クラッシュが『ソー・イッツ・ゴーズ』に出たのを観た。
(略)
これも正直に認めておくべきだろうと思うのだけれど、この段階での私の興味というものは、広義の理解では(略)標準的ベイ・シティ・ローラーズのファンたちが抱いていたものとほぼ変わらない。つまりはその相手に夢を見ていたのだ。
八月七日 スティーヴ・ジョーンズだっ。く。
十月六日 JJバーネルってまったく素敵。!!!*???!!*
だからあのジーンズなんだってばさ!!!*???!!*
十一月三日 デイヴィッド・ボウイ『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演。
ああ、なんて素敵なの。
十二月一日 ボブ・ゲルドフって魅力的かも。
ギグ仲間
それでも地元のレコード店たちはなお、髪を脂で固め、革のジャケットを羽織ったステイタス・クォーのファンたちの占領下にある堅牢な要塞で在り続けた。当時は確か"グリーボ"なんて呼び方をしていた(略)
欲しいレコードの在庫がその店にあったとしても、女の子一人でもぐりこんで行きたいと思えるような場所ではまるでなかったのである。
(略)
そういう訳で私は〈NME〉の最後の方の頁に載っていた郵便注文リストというものに頼り始めたのだった。注文用の小さな書式を埋め、為替と一緒にポストに投函したのだ。すると〈スモール・ワンダー・レコード〉というところから、どこかいかがわしく見えなくもない七インチ四方の茶色いボール紙でできた封筒が、私宛に玄関まで届けられて来るという具合であった。
クラッシュにエックスレイ・スペックス、あるいはパトリック・フィッツジェラルドなんかのシングルはこの方法で手に入れた。
(略)
一緒に行ってくれる仲間が必要だった。そこで私は、ギグやなんかへ顔を出したがりそうな感じの(略)少しやさぐれた感じの女の子たちと友達になろうとする努力をし始めた。
(略)
まずはジョアンナがいた。彼女の机の天板の下にはザ・ジャムの写真の切り抜きが数枚ため込まれていて、私がそれに気づいたのだ。
(略)
これ以上はないキツキツのジーンズと、アマンダのところから借りて来たブカブカで青白い警官用のシャツ、そして安物のスチレットブーツに前面を缶バッジで埋め尽くした学校の上着というのが、我々の共通したおめかしだった。そうして、誰かの父親が繁華街のヘメルヘムステッドの大テントの界隈で、私たち四人を車から落としてくれるという案配だった。そこで私はそれから数ヶ月の間に、イアン・デューリーやスージー&ザ・バンシーズ、サブウェイ・セクトにブームタウン・ラッツなんかをこの目で観たのだった。(略)
[BBC『イン・コンサート』]ザ・ジャムの回の公開収録に参加できるチケットが手に入ったなんてことまであった。私は今にも息も絶え絶えになりながらこの日のことを日記に記している。
「表で、ポール・ウェラーと、リック・バックラーとが、私の、横を歩いてった!」
(略)
女子校というものが大抵そうであるように、そこはまあ、実に恐ろしい場所ではあった。激しくかつ巧妙に感情的に操作された、十代の女の子たちにつきものの、あの異質な空気に充ち満ちていたのである。当時の基準では私がつるむようになった不良たちなどほぼあばずれの極みで、従って彼女たちへの忠誠の証しを示すためには、私自身もまた、学校での行動を些か修正せざるを得なくなった。(略)
[優等生をやめ]日々厄介ごとを起こす努力に励まなければならなくなったのだ。
(略)
[不良少女に忠誠を誓うことなく]
自分の好き勝手に出かけて行くことができたなら。そう願っていた。(略)
私が必要としていたまさにうってつけの人物が(略)登場して来てくれていたのだった。姉の学校の友人の、さらにそのお兄さんだった人物だ。このハウは、私より五歳も年上だった。(略)芸術系の大学に入学し、写真家として身を立てるべく勉強していたのである。(略)文学にも通じ、少なからず政治的でもあった。(略)
彼は七六年の一時期をニューヨークで過ごし、スーサイドというバンドとすっかり仲良くなっていた。やがて彼らがクラッシュのツアーに同行することになった際にはハウ自身も一緒について行き、ツアーのすべてをカメラに収めもしている。七八年になると彼は今度は〈ウィークリー・バグル〉というローカルファンジンを自分で立ち上げ(略)お前も何かここに書かないかと誘ってくれもしたのであった。
(略)
[ハウの]車でバンドを観にロンドンまで(略)
[両親が許したのは]当時私は十六で、彼は二十一だ。それならば私の面倒もきちんとみてくれるだろうというのだ。はぁ?という感じもしなくはない気もするけれど。
(略)
実際私たちの関係はプラトニックというべき以上のものになることはついになかったのだ。
初めてのエレキ
私が生涯で最初のエレクトリックギターを買ったのは、一九七九年は八月(略)
黒のレスポールのコピーモデル(略)〈メロディーメイカー〉(略)広告欄を通じ、ロンドンにいた男性から六十ポンドで譲り受けた(略)
手にした最初の最初から、それはずっしりと重かった。私はそんなことも知らないままで購入を決めていたのである。(略)間を置かず肩がすっかり痛くなった。
(略)
私はアンプはもちろんのこと、ケーブルさえ持ってはいなかったのだ。いや、もっと正直に白状してしまうと、実はこの段階ではそういうものが必要であるという理解さえ、あったかどうかもほとんど怪しかったのである。(略)
エレキギターというものは、壁のコンセントに電源を差し込めばあの喧しい音が出て来るのだろうくらいに想像していたのに違いないのだ。(略)
かくして私は寝室の床に座り込み、どこにも繋いでいないエレキギターを静かに弾いていたのである。
(略)
[両親の監視を過剰に意識して]
こと音楽に関してはすっかり秘密主義者となり、聞かれないようにするためならば労を惜しまないようにもなった。
しばらくして、知り合いの誰だったかから首尾良くアンプを借りられることにもなったのだが、喧しいと言えそうな音量にまで上げてみることはやはりできなかった。我が音楽の大きな特徴である静けさとも呼ぶべきものは、実はこのようにして誕生していたのである。必要と無知と当惑との産物だったのだ。
(略)
[知り合いになっていた男子校の二人がバンドを組んだと知り]
日記にこんなことを書き留めている。
「ジェーン・フォックスと私もいつか一緒に自分たちのバンドなるものに挑戦してみようと決めた」
スターン・ボップス参加
[ある夜デイヴ・フォスターから電話]
「お前が自分でギターを買ったって聞いたんだけどさ」(略)
「ええ、その通りよ。あたしも自分で、ジェーン・フォックスって娘と一緒にバンドを組もうと思っているの」
「そっか。いや、俺たちも実はもう一人ギターがいるのもありかなとか思い始めててさ、一回ちょっと一緒に練習やってみる気はないかなと思って訊いてみたんだ。(略)」
ワォ、なんてカッコいいんだろう。私はバンドに加わらないかと誘われているのだ。しかも唯一の女性メンバーだとなれば、それこそ看板娘みたいなものではないか。(略)楽器を弾けると言えるような域にまでは達していない事実については当座黙っておくことにし(略)彼らの曲の幾つかをそれなりに覚え込んでから当日を迎えた。
(略)
[紅一点を気にするどころか]
ある種のアピールにもなるだろうくらいに考えていた様子である。そもそもがギターを持ってステージに立つというそれだけで、もうどこか艶やかではないか。
(略)
しかも私はすでにかなりはっきりと、バンドをやっている彼氏を作るにはきっとこれが一番いい方法だよななんてこともどこかで考えていたのである。(略)
そして実際そのようになった。私はほどなくバンドのベーシストだったエイドとつき合うようになったのだ。(略)
バンドをやっている男の子というものに関しては、私はただ単に彼らとつきあいたかった訳ではなかったのだ。心の奥底では彼らになりたいと望んでいたのである。
(略)
[ヴォーカルが脱退して、歌えるかと打診され、恥ずかしいからと衣装ダンスに入ってボウイの「愛しき反抗」歌うも、結局、ボーカルは男子が担当することに]
家へと向かうバスの中では終始嫌な思いばかりが(略)この身を責め立てた
(略)
どうしてもっと貪欲にならなかったのだろう。(略)本心ではずっとやってみたいと思い続けて来たことだったのではなかったか。しかし人の注目なるものに対するこの私の態度というのはどうしてこういつもいつも煮え切らないものなのだろう。
(略)
音楽を作るということは(略)聴いてもらうということではないか。つまりは、自分の中にあるヴィジョンのために戦うということでもあろう。自分自身の舞台というものを作り、そうやって多くの人に聴いてもらいその重みを確かめてもらう。そうやって人々に目を覚まさせ、この私に、あるいはそこに秘められた価値に気づいてもらうということでもあるはずだ。
しかしそういう一切を切望していながらもこの私という人間は(略)
聴かれないまま聴いてもらえることを望んでいた。いや、より厳密に言うならば、こちらに目を向けられることなしに聴いてもらいたいと思っていたのだ。
このスターン・ボップス時代の練習を録音したテープというのが一本だけ手元に残っていて
(略)
カセットの片面には殴り書きの"ちょっといいもの"と書かれた文字が躍っているのだが、反対側にはより一層威圧的な"絶対二度とかけるな"という、やはり手書きで記された警告が大きくのたくっている。(略)
騒々しくもパンキッシュで、同時にどことなくポップなガレージバンドの姿をしっかりと捉えてもいる。
(略)
私たちのドラマーは生姜色の髪の毛をスキンヘッドにしていたのだが、いつも必ずフレッドペリーの薄い青のシャツに靴はドクマーティンという格好で、ドラムキットのあらゆる場所を叩くことが好きだった。おそらく靴でも音を出していたはずだ。バズコックスとアンダートーンズ、それにスペシャルズといった辺りからの影響が顕著で(略)私たちに関する唯一の印刷された記事の切り抜きに拠れば(略)
「ポップな独創性という意味ではなかなかいい線を行っているのではないかと思われる。六〇年代のビートグループの音楽の残響と、そしてより現代的な早いビートの持つ熱量とが非常に上手く組み合わせられている」
自分でやる――DIY
まったく出し抜けに、周りにいる誰も彼もがこぞってバンドを組み始めているかのような空気になった。(略)
[バンドを始められたら、次は公演をどう仕切るのか、レコーディング、どうやって売り出すかについて学ぶことが必要に]
パンクとポストパンクの時代というのはインディーズレーベルなるものが爆発的に立ち上がって来た時期でもあった。〈ラフ・トレード〉を筆頭に〈スモール・ワンダー〉〈ミュート〉〈ズー〉〈ファクトリー〉(略)
しかしこのような会社たちでさえ、私たちからすれば音楽業界という梯子の二段も三段も先にいるように見えていたものだ。(略)それぞれが本拠を置いた都市部にきっちりと根差したものだった。〈ラフ・トレード〉なら西ロンドン、〈ファクトリー〉はマンチェスターといった具合だ。しかし郊外に暮らしている者からすれば、まだまだ町で起きていることからは自分たちなどすっかり隔離されているように感じることは容易かった。
(略)
〈ウォルドズ・レコード〉という(略)地元の会社でさえ、自分たちには敷居が高過ぎるように思えていたものだから、結局デイヴはまず同じ地区のバンドを集めた編集カセットを作ることに決めた。それをやはり自分たち自身の手で売ろうというのだ。
(略)
[リチャード・ノリスによる]〈9%〉という名前の、やはり自主制作によるファンジンもあり(略)ほかでは決して手に入らないようなこの手の情報をまとめた冊子が付録としてつけられていたりもした。トラックダウンや編集のノウハウ、あるいはカセットなりシングル盤なりの頒布の仕方などにかかる一つ一つの細かな手順が、自分たちでライヴを主催する場合のアドヴァイスと一緒に載せられていたのである。こんな具合だ。
「まずは地元の演らせてくれそうな店のリストを入手する。たとえばもしセントアルバンズでライヴを開催しようと考えているなら、同市の娯楽や公的サーヴィスの係の担当者に手紙を書いてみるのも一つの手である―――」
こんな考え方が周囲に蔓延していたものだから、自分たちの手でカセットを作りそれを自分たちで売るということが至極まっとうに思えたのだ。デイヴによってまとめ上げられたテープは「地産音楽」とかなんとか名付けられ、一ポンド五十ペンスの定価がつけられた。我々はこれをハットフィールドにあった〈JアンドJレコード〉と、それから〈ラフ・トレード〉を通じて売り出したのである。在庫がなくなってしまった際には、私がエイドと一緒にロンドンにあったテープの複製工場まで遥々出かけ、いわば増産をしたりもしたものだった。
(略)
スターン・ボップスに関して言えばもうほとんどその終焉を迎えつつあった。
(略)
当時の地方のバンド同士のライヴァル関係というのは本当に緊張を孕んだもので、時には卑劣な行為が伴うことさえままあった。
(略)
下町出身の札付きばかり[のバンドが](略)
最前列までにじり寄って来たかと思うと、なんだかよくわからないものを私たちに向かって投げつけ始めた。(略)
重さはあるが柔らかい。瓶やその類では決してない。(略)
青白くてしかも血で汚れている(略)心底気色の悪いものであることだけは間違いがなかった。演奏が止まるとお察しの通りたちまち喧嘩が始まった。エイドがしたたかに殴られ、結局最後にはまた警察がやって来た。その頃までにはもう私たちも皆、ステージの上に転がったものがいったい何であるかを理解していた。
そいつは豚の耳だった。
(略)
あまりに『キャリー』っぽ過ぎて(略)
以来私は二度とスターン・ボップスと一緒にステージに立とうとはしなかった。
(略)
その代わりと言ってはなんだが、同じ年の八月十二日に友人のジーナ・ハートマンが家まで遊びにやって来て、その時に一緒に私の部屋で「ゲッティング・アウェイ・フロム・イット・オール」という曲を録音
(略)
ジーナは学校の友達で、キャンバス地にジョイ・ディヴィジョンの写真を自分でシルクスクリーンを使ってプリントした鞄を持って歩いていることで有名だった。
(略)
この新しいプロジェクトでの私の担当はやはりギターで、二本の旋律が絡み合うようなサウンドを産み出そうとそれなりに懸命に試みている。この頃からドゥルッティ・コラムやアンダートーンズといった辺りにハマり始めていた事実を如実に反映している(略)ヴォーカルはジーナが取っている。本人の記憶に拠ればこの時彼女は、自分なら、当時の我々の共通のヒロインでもあったペネトレーションのポーリーン・マーレイみたいに歌えるからといって私を説得したのだそうである。(略)
安っぽいドラムマシン(略)ビスケット缶が自分で動いているような音しか出て来ないような代物だった。
(略)
我が日記はいつもとはやや異なった、ちょっとだけ気取ったような調子でこんな具合に記されている。
「追伸:私たちはマリン・ガールズといいます」
マリン・ガールズ
九月になってこのバンドに我が親友ジェーン・フォックスがベースとして加入した。(略)
私とジーナとが結成メンバーだった(略)のだけれど(略)バンドの核となってくれたのはジェーンとの友情の方だった。
(略)
独立独歩の精神の持ち主ではあったが生徒からも教師からも好かれており、最終的には制服廃止の主張を掲げて生徒会長にまで選ばれていた。
また、この時代にはまだ滅多にないことだったのだが、彼女の両親は離婚していた。
(略)
彼女のことをよく知るようになるに連れ私も、なんて素敵な娘なんだろうと思うようになり、是非友達になりたいと考えた。カッコよくて芸術への素養もあり、しかもジョン・ピールのラジオ番組を聴いているのだ。だがそんな一切よりよほど重要だったのは、優しくて暖かな彼女の人柄である。
(略)
三人が三人ともパンクとポストパンクへの嗜好をそれぞれの音楽的趣味の基盤として持っていたにもかかわらず、バンドにはドラマーが要るものだという固定観念を持ち込むことをしなかったのである。(略)
この点はやがて私たちのトレードマークともなり、また、ある種の異端性の一つの声明としても機能して行く[が、実際は](略)周りにドラムキットを持っている女の子が誰一人としていなかったという、まさに単純明快な事由の故の選択だったのである。この頃までにはもうメンバー全員が女の子だけのバンドにしようと決めていた。
(略)
一度ジーナが練習に来られなかった時に、ジェーンの妹のアリスが代わりにヴォーカルを務めてくれた。そのまま私たちは四人になった。アリスは私たちより二つ下だったから、まだたった十五歳でしかなかった。しかも彼女の歌い方はある意味では無表情で気配が薄く、どんな情緒も表に出て来ないような冷たさを持ち、その特徴が(略)私たちの、時にやや感情的になり過ぎるような歌詞と真っ向から対照的に響いてくれた。
この彼女の資質のおかげで私たちのサウンドには思ってもいなかったような尖った部分ができあがり、あからさまにインディーズっぽく響くようになった。またジェーンはベースを習得するに際し、独学でしかもまったくもって独特の手法を編み出して行ったものだから、こちらもまたバンドのサウンドの、いわば名刺代わりともいうべき要素ともなった。ドラマーがいないということはすなわち、ベースラインがリズムセクションの一部としてのみ機能しなくてもよいということでもあったのだ。
むしろ私たちの音にはリズム隊なんてものは不要だった。(略)代わりに(略)
ジェーンは、複雑で繊細な旋律をこの楽器で弾いてみせたのである。
(略)
十一月頃までにはレパートリーも八曲ほど[に](略)最高傑作とも呼べそうな「ヘイト・ザ・ガール」という曲もある。もっともこれはデルタ5の「ユー」の完璧なパクリ(略)自分の彼氏にちょっかいを出してくる女への憎しみをテーマにしたものだった。
(略)
エイドから四トラックの録音機を借りて来て、一晩をかけてその使い方を研究した。(略)
結局この四トラックを使いこなすという作業に関しては、私はまったく一切前進することができなかった。
(略)
それぞれのチャンネルの録音ボタンの押し方だけはどうにかわかった。でもそこから先は、残念ながら私と彼らとは終生別々の道を進まざるを得なくなったのである。
それでもその次の夜に皆で揃って十曲を録音してみた。自分たちの名義だけのカセットを仕上げてみるつもりだったのだ。(略)ファースト・アルバムをレコーディングしていたのだということにもなろう。
この段階でも我々はまだ結成から高々三ヶ月しか経ってはいなかった。
(略)
新たな二曲が加わえられ、いよいよ『ア・デイ・バイ・ザ・シー』という一本のカセットとなって仕上がった。私たちは[バイトで稼いだ]三十六ポンドを費やしてこれを五十本コピーした。
(略)
[〈J&Jレコード〉に置いてもらい]〈NME〉にも小さな広告を打ってみた。私の住所宛てに郵便為替を送ってもらえればお売りできますというものだ。この広告が出たまさに翌日には、もう最初の注文がやって来た。次の日にはさらに二通の為替が到着した。
さらに数日が過ぎ(略)あるレコードチェーン店から何本か都合して欲しいという手紙が届きもしたのだけれど、その頃にはもう、要求を満たせるだけの本数は手元に残ってはいなかった。その一週間後に今度はドイツから、自分のラジオでこのカセットをかけたいと思っているのだがという連絡が来た。同じ郵便の中には、オランダで出ているファンジンからのものだという私たちへの質問書が数枚同封されてもいた。
お気づきになっている方もたぶんいらっしゃるだろうが、この時点では私たちはまだ、私の寝室以外の場所で演奏したことさえただの一度もなかったのだった。
(略)
ほとんどの曲でヴォーカルを取っているのはジーナだ。私が歌ったのは二曲で、コーラスに関しては四人で随時分け合っている。
(略)
当時全員がヤング・マーブル・ジャイアンツに、デルタ5、オー・ペアーズにモデッツといった辺りを聴いていた事実が容易に察せられる(略)
少なくとも彼らのレコードのように聴こえるにはどうすればいいかということを試みながらやっていたのだろう点は疑いようもない。もっともこの頃のジーナとジェーンとはむしろジョイ・ディヴィジョンの方によほどハマっていた(略)
彼らのアート・ロック・サウンドを真似るのは、私たちには決して容易なことではなかった。
(略)
「マリン・ガールズ」(略)の方は実は純然たるフェミニストの毒舌なのだが、まるで童謡みたいな雰囲気で歌われていたりする。
「一生懸命頑張って、女の子はこうあるべきよという姿になろうとして来た/大人しく控え目で子供には親切で/賢くもなければ意見もなく/優しくて可愛くて甘ったるくて自発的で、どんなパーティーでもぞくぞくしちゃうような娘に」
こういった言葉たちから滴り落ちている皮肉は、しかしまださほど巧妙なものとはとても言えない。むしろ見えて来るのは私たちがなお成長の過程にあったこと、そして女であることによって加えられてくる様々な制限や、目の前にいつも突きつけられたその変形でしかないような物事にすっかりうんざりしていたという事実である。
(略)
[音楽制作に進歩をもたらした出会い]
"ダブ・レゲエ"の熱烈なファンであったパトリック・バーミンガムは、自分のバイクと移動式の録音スタジオ[を](略)自宅の庭の物置の中に設置した。
(略)
パットが次に思いついたプランは、六十分テープの片面にまず我々の当座の持ち歌を収録し、もう片面を、それらのいわゆるダブ・ヴァージョンで埋めようというものだった。残念ながらこのダブの方の内容が完成することは結局最後までなかったのだが、とにもかくにも我々は、この八一年の三月から五月までの期間、せっせと彼の物置まで通って曲を録音したのである。結果としてこれらが『ビーチ・パーティー』という形にまとまったのだ。念のためだが、そのうちの六曲は『ア・デイ・バイ・ザ・シー』に入れていた作品を新たにレコーディングしなおしたものである。
(略)
パットのプロデューサーぶりは見事なものだった。空間と隙間とを自在に操るとでも言うべきだろうか、本当の意味でのダブのエッセンスというものをサウンドに持ち込んでくれていて、可能な場面でエコーのレベルを、ぎりぎりの十一の数字まで上げることに躊躇っている様子はまったくもって見当たらない。
実際これはまだ全然スカスカの録音なのである。基本はギターとベースのみで、時折そこに申し訳程度にパーカッションが紛れ込んでいるだけだ。だが不思議なことにこれが全然アコースティックに響いていないのである。
確かにギターはすべてエレキギターを用いてはいるが、そこからさらにギターとヴォーカルの両方のパートに、パットの手による加工が施されたことで、音の全体が樹木の手触りというよりむしろ、金属的なそれに変更されているのだ。
曲調の方はまだまだポストパンクの極初歩的な、スカ・ポップとファンク・ポップ、それに古典的なシャングリラスチックな女性グループによるポップの混淆という感じであり、そこに〈ポストカード〉レコード辺りが大胆に扱っていた脱ロック的なエッセンスが少々加味されているといった印象であろう。この辺りはオレンジ・ジュースやアズテック・カメラといった当時のバンドたちから教えてもらった要素である。
(略)
八一年の三月にマリン・ガールズはいよいよ初めての舞台を踏んだ。会場はハートフォードのボールズパーク大学というところだ。(略)
[ライヴ評にはこうある]
「メンバーは全員なかなかの美声の持ち主で、しかもそれを上手く使いこなしている。とりわけトレイシーがいい」
(略)
スターン・ボップス時代には気が小さくて歌うことなどできなかったことを思えば、どうにか数歩は前進し、自分の声がどのように響くものか、人に聴いて判断してもらうことを受け容れられるまでにはなっていたという訳だ。そのうえ彼らはそれを気に入ってくれさえした。歌うことはひょっとして、ただギターを弾いているだけでいるのとは比べものにならない満足をこの身にもたらしてくれるのかも知れない。
(略)
自分がずっとそうなりたいと望んでいたような、いわゆるシャウトを得意とするタイプのヴォーカリストとなることは、とてもではないが無理だった。けれどその代わり、疑いを挟む余地なく感情的で、しかも人々の琴線に触れ、かつ誠実にも響くような歌い方ならできるのだ。さらにそれはほかの誰かの心に届き、のみならず感動させることさえ可能なのだ。
(略)
歌うことこそが、この私にとっては河口のようなものだった。中に籠もってばかりしようとしていた自分自身をじかに外の世界へと連れて行くことのできる唯一の水路であったとも言える。
(略)
七月に(略)創設メンバーのジーンがバンドを離れることを決意した。(略)実は彼女は両親から辞めるようにと命じられていたのだ。(略)プライドの高かった彼女には、自分が実質的に外出禁止を命じられたなどと私たちに口にすることはどうしてもできなかった[から](略)バンドを離れるのは自分の意志だと告げた。そして、十代の子供たちがほとんどそうであるように、私たちもまた、それぞれに自分自身のことで手一杯だった。
(略)
ただ肩をすくめ、もうバンドに飽きてしまったのだという彼女の弁明を額面通りに受け取ってしまった。真相が明らかになったのはほんの二十五年ばかりの時が過ぎた後のことになる。(略)
アリスがメインヴォーカルの位置に就いた。残念ながら私ではなかったのだ。
(略)
自分が作った歌ならば自分で歌いたいという欲求が(略)表に出されることはなかった。(略)[煩悶が]爆発寸前の状態で心の中にわだかまり続け、おそらくは最終的にバンドが崩壊して行く、その起点となった(略)
もうこの頃には私たちはそれこそまるでジェットコースターに乗せられでもしてしまったかのようで(略)
まず〈ラフ・トレード〉が『ビーチ・パーティー』のカセットを五十本取り扱ってくれることになった。しかも彼らはそのうちの二十五本をアメリカに送るつもりだとまで申し出た。六月にはジェーンと私はさらに追加の商品を持ち込むため、自ら当の〈ラフ・トレード〉まで足を運んでいる。(略)
[ジョン・ピールの番組で紹介され、その結果]
〈チェリー・レッド〉のマイク・オールウェイ[が登場]
〈チェリー・レッド〉
〈チェリー・レッド〉という会社は、イアン・マクネイという人物によって七七年に立ち上げられていた。(略)その精神とやる気においては尊敬に値する独立性こそ堅持してはいたのだが、首尾一貫したイメージも持たなければ信頼に足るような評判にも欠けていた。(略)
この状況を打破する方策の一つとして、マイク・オールウェイがA&R[として迎えられ](略)課せられた役割は、有望な新人との契約を会社にもたらすことだった。
(略)
いつも完璧に磨き上げた革靴を履き(略)
触れればパリパリと音のしそうな綿のシャツに身を包んでいた。さらには髪型だが、これがまるでリチャード三世みたいな感じの旧式のボブカットだった。
(略)
「自分が加わる前の〈チェリー・レッド〉は正直ひどいレーベルだったと考えている(略)まるで牛乳配達が歌っているような、その程度のものばっかり出しているなと思っていた。でも自分が関わる以上は絶対に〈ファクトリー〉や〈ラフ・トレード〉や、それから〈4AD〉に〈ミュート〉いった辺りと肩を並べられるような存在にしてやろうと決めていたんだ」
(略)
「ちょうど〈ラフ・トレード〉のヘッドA&Rのジェフ・トラヴィスがレインコーツを獲得したことに軽い嫉妬を覚えていた時期だったんだ」(略)
そこへ登場したのが我らマリン・ガールズだったということになる。
この時にはもうベン・ワットともいい友達にもなっていたのだそうで、二人は一緒に『ビーチ・パーティー』のテープを聴き、とりわけ私の声に心を打たれもしたらしい。
(略)
契約の可能性に関しては、何度か〈ラフ・トレード〉に足を運ぶこともしてはいた。なんといっても当時の〈ラフ・トレード〉は、私たちにとっては一つの聖地のようなものだった。
ジーナがスウェル・マップス(略)のニッキ・サドゥンという子と友達になっていたものだから、その頃は私たちも遙々ノッティング・ヒルズにあった同レーベルのショップまで、彼に会うために足繁く通いもして(略)チラシを折って封筒に入れる作業を手伝いましょうかなんてことを申し出たりしながら、だらだらと時間を過ごしていたのだ。(略)
ジェフ・トラヴィスもまた、テレヴィジョン・パーソナリティーズ(略)のダン・トレイシーの誕生日に私たちが揃ってケーキを携えて現れ、店の奥でいきなりパーティーを始めたことは忘れずにいてくれているらしい。
しかしこの〈チェリー・レッド〉のセオという人物はなかなかに強硬で、しかも説得力も有していた。そういう訳で九月までには私たちも、出版まで含めた契約をほとんど締結してしまおうかという状況になっていた。
(略)
ロンドンでの初ライヴは八月二十七日(略)
[緊張で吐いてしまった]私に同情の手を差し伸べてくれたのはフェルトのローレンスただ一人だった。かつて経験したことのなかった恐怖心がいきなり一気に膨れ上がり、私は突然、ほとんどパニックのような状態になってしまったのである。
(略)
この夜のステージを観ていた聴衆の中にはベン・ワットその人もいた。次の夜には彼自らが同じ舞台に立つ予定になっていたのだ。
絶望的な恋、「オン・マイ・マインド」
[男性がモテたくてバンドを始めるのと同じ期待を自分も抱いていたが]
一九五八年頃までにはすっかり死に絶えてしまった(略)"女性的な従順さ"というものが(略)[同世代の]少年たちに対しても、十分どころではなくアピールするものなのだと気づいてしまって、私は気が狂いそうになった。(略)
自分が男の子たちの中に、あ、ここは魅力的だなと思って見出すような要素、つまり賢さとか溌剌さとか、レコードのコレクションの趣味がすごくいいとか、そしてバンドに加わっていることとか、そういうのは実は、立場を入れ替えてしまうとまったく逆方向に働いていたという訳だった。(略)
[男にとっては]魅力的どころかむしろある種の脅威のように感じてしまうのだ
(略)
一方で私は当時、とある相手にほぼ絶望的な恋をしてもいた。向こうは私になどまるっきり興味も抱いていなかった。いや、少しは持ってくれていたのかも知れない。ひょっとすると本当はすごく興味があったのに、間抜け過ぎて何も行動することができなかったのかも知れない。本当のことは私には何一つわからない。
(略)
「オン・マイ・マインド」(略)は最も純粋な形で心の底から生まれて来たと言っていい、そういう出来上がり方をした曲だ。
(略)
この片想いはまるまる夏中続いた。ちょっとでも反応を引き出せればと考えて、彼の目につくような機会を選んでほかの子と出かけるようなことまでしていたようだ。もっとも反応などまるでなかった。(略)虚しい試みの後、私は「ドント・カム・バック」という新曲を書いている。
(略)
「オン・マイ・マインド」(略)が苦しみをどうにか受け容れようとしているのだとしたら、この「ドント・カム・バック」の方は、もう無視してやろうくらいの意気込みをモチーフにしてできあがっている。(略)[ヴォーカルの]アリスは、この頃まだたった十六歳だったというのに、賢明にも私の意図を見抜きこんな質問をぶつけて来さえした。
「ねえ、いったいどうやったらこの「オン・マイ・マインド」と「ドント・カム・バック」とが実は同じ一人の人のことを歌っているんだなんてことができちゃう訳?」
(略)
彼はまだ少年で、しかも十七歳でしかなく、女の子の持つ世界などというものに直面する準備などまったくできてはいなかった。
(略)
少女の私のこんがらがった頭の中でいったい何が起きているかなどということは、察することすら到底できなかったに違いない。しかも実際にそこで起きていたことといったら、結局はただの混乱だったのだから。
〈ベイスメント〉への二回目の出演が終わった後(略)問題の少年が観に来てくれてもいたのだけれど、私はもう最悪の気分であったらしい。日記にはこんなことまで書かれている。
「最後には窓ガラスを叩き割りたくてたまらくなった」
(略)
家に帰った私が日記に記したのは、以下のようなジャック・ケルアックの引用だけである。
「彼の胸にはいびつな憂鬱さが不吉な予兆のように兆していた。心は重く、喪失感を伴った緩やかな崩壊が始まってさえいた。十九にして老人になってしまったかのようだ」
次回は、ベン・ワット登場。