なぜ国々は戦争をするのか ベトナム、ユーゴ

ベトナム戦争

 リンドン・ジョンソンは負けられないと思っていたため、その段階でもまだ北ベトナムに爆弾を落とし続け、さらに兵士を送り込み、死に追いやっていた。彼は米国がベトナムで戦うのは、私心が無く理想主義的な理由によるものなのだと信じることによって自己防衛をしていた。(略)ベトナムにおける戦争は、最終的には堕落した十字軍と化してしまった。
 ホーチミンは、毛沢東の操り人形に過ぎないというジョンソンのイメージとは大きく異なる人物であった。事実、この北ベトナムの指導者は1920年フランス共産党を設立した一人でもあり、老齢のボルシェヴィキだったのである。そして彼は共産主義者としては毛沢東よりも古く、また生まれつき個性的な容貌をしていた。彼は共産主義者であると同時にベトナムナショナリストでもあった。デイヴィッド・ハルバースタムは彼のことを次のように描写した。「部分的にガンディー、部分的にレーニン、全体としてはベトナム人」。1954年にディエンビエンフーでフランスに勝利した後、ホーはベトナム人からの畏敬の念のみならず、第三世界全体において特別な尊敬の念を勝ち取っていた。毛沢東は単に、国民党政権というもう一方の中国人の陣営を打ち破ったに過ぎない。しかしホーは強力な西洋国家に打ち勝った人物であった。
 しかしながら、ホーチミンの最も特徴的な資質は、買収されないことであった。ベトナムの指導者たちは、ある程度安定した地位につくと必ず西洋的になり、ベトナム人らしさが減少し、金と権力によって腐敗していった。対照的にホーチミンは普通のベトナム人であり続けた。彼は高い地位に上がれば上がるほど、権威の装飾から目を背けるようになっていった。彼は記念碑、元帥の軍服、将軍の星の階級章を遠ざけ、常に質素な軍服を好んで身にまとっていた。ジョンソンが嘲笑した「黒いパジャマ」は、実際には彼の強さの源であり、彼を愛し、彼に心服した小作農民たちとの親密さを象徴するものであった。(略)
ソヴィエトの共産主義者たちは彼の強さを認識していた。ベトナム共産党スターリンの時代ですら、少しも粛清されることなく生き残ったのである。ホーチミンのリーダーシップには、スターリンですら干渉できなかった。
(略)
[晩年、半生を総括してジョンソンは言った]
「俺は偉大なる社会と幸福な結婚をした。その後、ベトナムという名前のあばずれ女がやってきて、すべてを台無しにしやがったのさ」。
(略)
 ベトナムに関する答えの出ない歴史的な質問として、おそらく次のようなものがある。早期に共産主義が勝利してしまうのと、戦争を戦い抜くことと、どちらの方が犠牲が少なかったであろうか?(略)
結果としてベトナムはより早い時期に共産主義体制になっていたかもしれない。しかしその共産主義は、モスクワと北京の両者に対する強烈な独立精神を含む独特なナショナリズムと結合しており、ティトー主義の一形態と言えるものであった。米国は、そのような結果とならば確実に共存できたはずである。そのような結果を遅延させることに、五万八千の水兵と三百万のベトナム人の生命と千五百億ドルの戦費が釣り合うとはとても考えられない。
(略)
共産主義国として残ったベトナムは、米国との貿易を奨励し、ホーチミン市は新たなビジネスの機会を求める米国人で溢れた。
(略)
 ロバート・S・マクナマラに次いでベトナムの悲劇に最も大きな影響を与えた者が、ジョンソン大統領の政策顧問を勤めたマクジョージ・バンディであったことに疑いの余地はない。バンディは戦争を支持しただけではなく、米軍が五十万も展開するに至るまでのすべての紛争のエスカレーションを支持していたのである。
(略)
[30年後悩む]バンディは次のような走り書きをしていた。「ハト派は正しかった」「戦うべきではなかった戦争」「私は大いなる失敗に加担していた」「状況の認識、政策の提言、計画の遂行の面で過ちを犯した」。

第5章 サラエヴォからコソヴォへ――

ヨーロッパ最後の独裁者の戦争

ティトーはこのような民族的かつ宗教的な不協和音を外交手腕と、場合によっては暴力により管理していた。彼の長い治世を通じて、その指導力は疑問の余地なく維持されていた。彼の「臣民」が、彼の描くユーゴスラヴィアの理念に忠誠を保っていた間は、自由に旅行し、共産圏では異例の経済的繁栄を謳歌し、スターリンフルシチョフ、ブレジネフらを鼻で引き回すという、ソ連に力があった当時としては小さからぬ特権を享受していた。
 ティトーの死後、ユーゴスラヴィアという火山は、たちまち溶岩を吹き始めた。それがコソヴォセルビア自治区から始まったのは、驚くには当たらない。(略)
当時のユーゴ大統領イヴァン・スタンボリッチは宥和的な人物であり、アルバニア人との対立を忌み嫌った。(略)自分の代わりに25年来の友人で目をかけていた若いスロボダン・ミロシェヴィッチを派遣した。スタンボリッチは彼に「慎重に、冷静に」と助言した。(略)
 スロボダン・ミロシェヴィッチ第二次世界大戦を通じて、死と裏切りの影の中で育った。両親は共に自殺している。彼にとっては愛妻のミラとセルビア民族主義大義が救いであった。(略)
ミロシェヴィッチコソヴォ市庁舎のバルコニーに立ち、セルビア人たちに投石するアルバニア人たちを見た。「誰も諸君に挑戦してはならないのだ」と彼は叫んだ。「ここは諸君セルビア人の土地だ。諸君の家があり、思い出がある。諸君の先祖と子孫のために、ここにとどまらねばならない」。セルビア人たちは「スロボ、スロボ」と気勢を上げ、アルバニア人たちを攻撃し始めた。アルバニア人たちは散り散りになって逃げ、ミロシェヴィッチベオグラードに戻ったが、もう以前の彼ではなかった。ユーゴスラヴィア共産主義者は、セルビア民族主義者に変容した。スタンボリッチは「ミロシェヴィッチコソヴォで変わった」と、首を振って嘆いた。彼の心配は的中し、六ヵ月後にスタンボリッチは親友の手で大統領職を追われることになったからだ。
 ミロシェヴィッチは次第に、ユーゴスラヴィアで最も人目につき、最もダイナミックな政治的人物になりつつあった。彼以前のデマゴーグたちと同様、ミロシェヴィッチも大衆の動員という武器を用いた。
(略)
次の課題は、ユーゴスラヴィア最小の共和国モンテネグロだった。(略)セルビア人の支持者はモンテネグロの中枢深くに入り込み、おまけにミロシェヴィッチモンテネグロ出身だった。ここにいたって彼の力はセルビアの国境を越えた。(略)モンテネグロ支配下に置いたことで、ミロシェヴィッチはティトー後のユーゴスラヴィアの正統な首班を決める選挙において、票の半分を掌握した。(略)1989年、スロボダン・ミロシェヴィッチは連邦の最も強大な政治的存在であった。

セルビア人による長いサラエヴォ包囲

「このヨーロッパの都市はカルタゴのようにゆっくりと消滅していく。ただし今回は、観客とビデオカメラの前で」。これは、ラドヴァン・カラジッチとその軍事的な片腕であるラトコ・ムラジッチが熟考の上で採用した戦略だった。サラエヴォがメディアの注目を集めるかげで、二人はボスニア全土で容赦ない「民族浄化」政策を推し進めていった。
(略)
 ミロシェヴィッチがロンドンにいる間、その配下のカラジッチとムラジッチは、ドリナ峡谷の愛すべき都市スレブレニツァヘの圧力を強めていた。(略)
「スレブレニツァの全イスラーム教徒は、降伏するか、町を退去せよ。さもなければ二日以内に町を攻略する」。市のUNHCR指導者は、深い自己嫌悪とともに屈服した。「三千人の死体よりは三千人の難民の方がましだ。われわれは彼らの命を救わねばならない」。彼は、力なくそう話した。このようにボスニアにおけるもっとも広範な「民族浄化」は、皮肉なことに国連の手で成し遂げられたのだった。
(略)
国連安保理は、古典的な泥縄対策として、スレブレニツァ、トゥズラ、ジェパ、ゴラズデ及びサラエヴォを「安全地帯」にすると宣言した。誤称という言葉では穏やか過ぎる。そこは「安全地帯」どころか、世界で最も危険な場所だった。セルビア人に「浄化」されたイスラーム教徒の難民が大勢、ボスニアクロアチア人地区で、又はクロアチア全体で、隠れ場所を探していた。このことが、イスラーム教徒とクロアチア人との絶望的な戦闘を招いた。もちろん、ムラジッチ将軍は大喜びだった。彼は上機嫌で、「連中が潰し合うのを見届けたうえで、両方とも海に叩き込んでやる」とコメントした。
 1994年2月5日、サラエヴォの市場で爆弾が爆発した。それは、手をこまねいていた国際社会が目を覚まして介入する、最後の機会だった。
(略)
 イゼトベゴヴィッチ大統領は、ガーリ国連事務総長に対して絶望的な手紙を出している。「安全地帯と呼ばれる場所は、世界で最も危険な場所です……もしゴラズデが陥落したら、責任を取って国連事務総長を辞任することをお勧めします。あなたにできるのはそれだけです」。(略)
 ガーリ事務総長からの反応はなかった。彼がサラエヴォを訪れたのは1992年12月31日の一度だけであり、彼はそのとき「あなたたちの苛立ちはよく解る。しかし、世界にはもっとひどい状況の場所が十ヵ所はある……なんならそのリストを提供できる」とたしなめて、サラエヴォ市民を唖然とさせた。(略)テキサスから来た献身的な支援活動家のフレッド・キュニィは(略)「もし1939年に国連があったら……われわれはいま皆、ドイツ語を喋ってるだろうさ」と吐き捨てた。
(略)
 最新の和平案は、米英露仏独の五カ国からなる「連絡会議(コンタクト・グループ)」から提案された。(略)
ミロシェヴィッチは、提案は受諾できないとするカラジッチとムラジッチを説得し、コンタクト・グループとの折衝では柔軟な姿勢を装った。案の定、ボスニアセルビア人二名は激怒し、見事にミロシェヴィッチの罠に落ちた。ミロシェヴィッチが平和構築者として現れたとき、彼らは血に飢えた戦争屋にしか見えなかった。ミロシェヴィッチはゴラズデ陥落以降、カラジッチとムラジッチの役目は済んだと結論しており、彼らには退場願って自分がスポットライトを浴びる時だと考えた。しかし彼の動きは、ボスニアセルビア人の目には裏切りに映った。政治的ライヴァルを除くために、ミロシェヴィッチは、戦闘組織としてのセルビア人勢力を意気阻喪させてしまった。これは致命的な失敗であった。
(略)
 20世紀の戦争愛好家に戦争の機会がめぐって来たとき、彼らが示したのは自国民を無視することだった。ヒトラーは1945年、ナチが炎の中で滅ぶ時「ドイツは私に値しない!」と絶叫した。サダム・フセインは1991年、多国籍軍に自軍が地上戦で大敗しているとき、その激情をイラク国内のクルド人シーア派の少数派にぶつけた。そしてスロボダン・ミロシェヴィッチは、クロアチアボスニアを追われ、1996年にベオグラードの選挙に敗れたさなか、コソヴォから百万のアルバニア系住民を追放することでセルビアにおける権力を奪取しようとした。(略)
 ミロシェヴィッチが軍事的敗北の後に計画した、コソヴォアルバニア系住民に対する「民族浄化」こそが蛮行の中核であり、ボスニア紛争で行われたそれなど予行演習のようなものだった。ただ思い返してみると、78日間におよぶNATO軍による空爆を経てミロシェヴィッチが屈服を余儀なくされ、一世紀にわたる蛮行の連続で感覚が麻痺してしまっていた国際社会は、ようやくミロシェヴィッチの政策の悪辣さと規模の大きさに気付いたと言えよう。
(略)
ミロシェヴィッチヒトラーを真似しなかったのは、アウシュヴィッツガス室だけであった。
(略)
 NATO軍による空爆の発案者が、幼少期をホロコースト時代のセルビアで過ごした一人の米国人であったことは、驚くことではない。マデレーン・オルブライトは、チェコスロヴァキアの外交官だった父ヨセフ・コーベルが第二次世界大戦中に駐ユーゴスラヴィア大使を務めていたため、少女時代の二年間をベオグラードで過ごした。国務省に入った後、彼女は自身の一族の何人かはユダヤ系で、ナチス政権下で殺害されたことを知った。1998年にミロシェヴィッチアルバニア人の迫害を始めたとき、オルブライトの天性が前面に出るようになった。「歴史が我々を見ている」と彼女はNATO外相会議で語った。「まさにこの部屋で、我々の前任者はボスニアの惨状に手をこまねいていた。もし我々が同じことをしたら、歴史は我々を許さないだろう」。英仏の大使が、セルビア人勢力を脅す表現を和らげるよう提案すると、オルブライトの補佐官ジェイミー・ルービンは受け入れるべきだと彼女にささやいた。彼女は「我々は今どこにいると思っているの。ミュンヘン?」と切り返した。彼女は倦まず弛まず、ときに英外相を説得して、動揺する諸国の外相たちを引っ張った。誰もミロシェヴィッチに不鮮明なシグナルを送ることは認められなかった。彼女があまりに強硬なため、NATO各国では空爆を「マデレーンの戦争」と表現した。おそらく幼少期にヒトラーから、あるいはスターリンから逃れた者にとっては、この戦争は個人的な使命になる。