レッキング・クルーのいい仕事・その3

前回の続き。

  • キャロル・ケイ一代記

キャロル・スミス。父はトロンボーン、母はピアノ奏者、ギグの稼ぎはささやかかつ不安定で生活は苦しかった。両親は離婚、父は姿を消す。母は福祉にたより、キャロルは9歳で放課後働くように。ある日訪れたスティールギターの訪問員に母は豚の貯金箱からなけなしの10ドルを払った。友達に誘われて覗いたギター教室、その才能を見ぬいたホレス・ハチェット先生は教室の手伝いをするなら無料でレッスンしようと提案。14歳にして先生の口利きでロングビーチ界隈でめきめき頭角を現し、週一でライヴ。高校生の頃にはダンスパーティーにひっぱりだこ。

 高校を卒業してすぐ、キャロルは二年のあいだヘンリー・ブッセ楽団と仕事をする機会にありつき、ダンスイベントなどで演奏を務めながらアメリカ中を旅した。彼女はバンドのベース奏者であるアル・ケイと結婚をすることとなり、まもなく娘と息子が誕生した。キャロルは離婚後もなお彼の名字を名乗ることとなる。
(略)
[昼間はタイピスト、夜は]ロサンゼルス中のジャズクラブでほぼ毎晩のようにギターを弾くようになった。二人の子どもを抱える母親は言うまでもなく、誰だってくたくたになるようなスケジュールである。しかし、ビバップを演奏することによってキャロル・ケイの音楽の魂は燃え盛った。彼女に音楽を捨て去ることなどできないのだ。彼女が演奏すればするほど、西海岸ジャズのトップシーンでの彼女の名声は上がっていく一方だった。
 しかし運の悪いことに、50年代後半にロック・アンド・ロール人気が高まると南カリフォルニアのジャズ愛好者だけを対象としたクラブはそのあおりを直に受けて消えていった。(略)
[そんな時、スタジオミュージシャンの依頼]
ジャズ以外のレコーディングに参加しようものならビバップのライヴ奏者としてのキャリアはご破算だ[戻り道はないが、キャロルは決断した。](略)
ミシシッピ出身の新人シンガーで、私がプロデュースに取りかかり始めたのがいるんだ」とブラックウェルは続けざまに言った。(略)
サム・クックというのだけれど」

 60年代の初頭、仕事の絶えないキャロル・ケイは、自分がプライベートでもプロとしても分かれ道に差しかかっていることに気がついた。
 アメリカが外地で戦争を行っている真っ只中のこと、ケイはじっくりと熟考を重ねたうえでユダヤ教に改宗することにした。バプティスト派のキリスト教信者として教育をうけた彼女だったが、1961年にデヴィッド・ファイアストーンというユダヤ人の有名実業家と結婚を果たしてからというもの、夫の家族が受け継いでいる宗教的・文化的伝統に魅了されていた。(略)
 1964年に離婚を迎え、一時はキリスト教に回帰しようと試みたものの、キャロル・ケイはそれでもユダヤ教の信仰を捨てなかった。(略)
 さらにキャロル・ケイはプロのミュージシャンとしても転機を迎えていた。ある日、彼女は驚いたことに、キャピトル・レコードのプロデューサーから本職であるギターの代わりにフェンダーエレキベースを弾いて欲しいと頼まれたのだった。いつものベーシストがセッションに来られなくなったため、ひどく困っているのだという。(略)
 しかし、ケイは思った以上にベースの演奏が楽しいということに興味をひかれた。リズム役としての演奏だけでなく、ベースの醸し出すフィーリングは彼女の性に合うものだった。そしてより現実的な問題としては、このまま正式にベーシストに転向すれば、プロデューサー一人一人の好みに合わせるために一日に何回も三本以上のギターを抱えてスタジオに行く必要はなくなるだろう。なんてったって、フェンダープレシジョン・ベースが一本あれば間に合うのだから。少し考えてから、彼女は決断をくだした。[しかもギターほど競争相手が多くなかった](略)
ジャズの経験が豊富なケイのような創意あふれる上級者たちは、ウォーキングベースを弾きながら大きなグルーブを生む術を心得ていたため、エレキベースで楽曲を生き生きさせることができた。
(略)
[「ヘルプ・ミー・ロンダ」録音時、クルーが延々演奏する間、ブライアン・ウィルソンはコントロールブースで電話で話し込みつづけ、しまいには乱入してきた父親と喧嘩、セッションは中止に。我慢ならないケイは帰り際、ブライアンに中指を立ててみせた。それでも干されなかった]

[69年初頭]何千曲もの楽曲を演奏してきたケイは、完全に燃え尽きてしまっていた。モンキーズを代表とするような、多くのロック・アンド・ロールアーティストのセッションで注文される演奏には腕の見せ所がほとんどないことに不満をつのらせた彼女は、業界に嫌気がさしてきてしまったのだった。それで彼女は業界から離れることにしたわけだ。(略)
教えることが大好きだったケイは、自分で音楽関連の書籍出版社を立ち上げようと思いついた。初の自著、『エレキベースの弾き方』が好セールスを収めたケイは、今度は主に上級者を対象にした音楽教室で自ら指導する仕事を始めたのだった。

ジム・ゴードンの悲劇

 シャーマン・オークスに暮らすゴードン家は、見かけの上では典型的なサンフェルナンド・バレー中産階級家庭だった。父親は会計士で、母親は看護婦だった。よくしつけられた二人の子どもは、電話に出るときには必ず「もしもし、こちらゴードンでございます」と答えていた。(略)人生は健康的なテレビドラマのメイキング場面のようだった。
 しかし、幼いジェイムズ・ベック・ゴードンは物心ついたときから、この明るい陽光とアメリカン・ドリームに彩られた、金太郎飴のような世界に居心地の悪さを感じていたのだった。ゴードンは両親から溺愛されていたにもかかわらず、自分だけ取り残されてしまったような、不安でたまらない気持ちをぬぐい去ることはできなかった。彼は内気な少年でもあったので、友だち作りにも苦労した。食べることで気分は良くなったが、そのせいで彼は太りだし、精神的にもさらに不安定になってしまった。ディキシー・キャニオン小学校の同級生にデブと呼ばれ、嘲笑されることがなによりも嫌だったのだ。そんなことは絶対に間違っている。
 内面に動揺を抱えこんだゴードン少年に、問答無用の安らぎを与えてくれる存在がひとつだけあった。不安に怯える彼の心をやさしくなだめてくれる、ささやき声である。その親切な存在のことを、彼はただ「声」と呼んでいた。物心ついたころから彼の頭のなかに聞こえていたこの「声」は、彼の真の友人であった。「声」はいつでもゴードン少年に寄り添って、彼の心を導き、苦痛をなだめてくれるのだった。(略)
八歳になったときに空き缶をいくつも組み立てて、手作りのドラムセットを作ると、それからヒマさえあればラジオに合わせてそのドラムを叩くことに熱中するようになった。若くして才能の片鱗をのぞかせた息子の姿に感激した両親は、彼に本物のドラムキットを買い与え、高い金を払って地元のプロの手によるレッスンに通わせた。(略)
15歳になるころには、彼をワールドクラスのドラマーだとみなす人は多かった。
 ハンサムで背の高い、巻き毛の青年となったジム・ゴードンは――相変わらずやや肥満気味ではあったものの――(略)学校でリーダー格となった(略)ジルという美しい金髪のガールフレンドまで手に入れたのだった。
 人生は上々だ。「声」ですら、そうささやいた。
(略)
 1963年の半ば、典型的なアメリカ人の好青年のような身なりを整えたジム・ゴードンは18歳の誕生日を目前に控えながら、偽造した身分証明書を使ってエヴァリー・ブラザーズとともに遥かイギリスまで飛行機で旅をした。(略)
 一緒に仕事をした誰もがゴードンをべた褒めするので(略)なんとあのブライアン・ウィルソン様からお呼びの声がかかり、『ペット・サウンズ』の歴史的セッションに数曲参加したのだった。それからというもの、ゴードンのキャリアは順風満帆だった。親切なハル・ブレインが自分のスケジュールに合わないレコーディング日程を彼にまわしてくれるようになったおかげもあり、次から次ヘトップアーティストとの仕事が舞いこんでくるようになったのだ。60年代の後半には、ブレインとアール・パーマーの二人をのぞけば、ジム・ゴードンはロサンゼルスのロック・アンド・ロール界でもっとも忙しいドラマーになったのだ。
 しかし、この時期に、ゴードンの清廉潔白なイメージは少しずつその輝かしい風格を失い始めたのだった。(略)
[ドラッグの]強烈な幻覚効果は、生まれつきパラノイアの傾向があったゴードンには悪い取り合わせだった。そして急激に、「声」は彼に害悪を及ぼすようになったのである。
(略)
 ニヶ月にわたってド派手な乱痴気騒ぎを繰り広げたマッド・ドッグス・ツアーの真っ最中のある日、特に深い理由もなく、ゴードンはガールフレンドのリタ・クーリッジの腕を引くと、その美しい顔面をおもいっきり殴った。そのしばらく前にレオン・ラッセル破局していたクーリッジは、当時ジョー・コッカーのバックコーラスを務めながら、ゴードンと付き合っていたのだった。
(略)
彼の精神的なもろさに気がついている人間は音楽業界にはほとんどいなかった。彼は懐かしのホームコメディー『ビーバーちゃん』を思わせるような好青年で、フランク・ザッパにいたっては彼をスキッピーという愛称で呼んでいたほどだった。それに、少なくともその時点では、ゴードンの演奏にはひとつの乱れもなかった。
(略)
[70年代末には]「スピードボール」と呼ばれるヘロインとコカインの同時併用を好んだせいもあり、ダメージはさらに深刻になっていった。「声」と禁断症状でカッとなって突発的な癇癪を起こすことも多くなり、ときにはスタジオ内で異様な行動にでることもあった。(略)
[ドラマーとしての信用を完全に失い]スタジオでは誰も彼に近づこうとはしなかった。二度の離婚も経験した。彼のドラッグとアルコールヘの依存は軽減されることがなかった。ロサンゼルス中の精神病院に通ったが、ほとんど効果はなかった。このドラマーの人生はもうめちゃくちゃだった。
 1983年の7月3日の晩に、頭の中にとどろきわたる「声」に身も心も縛られ続けたせいで精神的にも感情的にも疲弊していたゴードンは、なんとかしてその状況から抜け出したくなった。「声」は彼の一挙一動を監視し、食事の際にもなにを、いつ、どれだけ食べるべきか指図していた。それだけでなく、「声」はもうゴードンにドラムを叩かせてくれなかったのだった。ゴードンは、「声」が母親の生身の声と一体化してしまったと考えた。なんとかしなくてはいけない。
 ハンマーと刃渡り八インチ以上のナイフを革のアタッシュケースにしまいこむと、ゴードンは白いダットサンに乗り込み、車でひしめく道路にそっと乗り出した。そして彼はバン・ナイズのマンションから母親の往むノース・ハリウッドのアパートを目指して東に向かったが、そのあいだすべての交通規則に忠実に従った。「声」は車の運転にはうるさいのだ。
 アパート正面の駐車場に車を停めると、ゴードンは二つの道具を入れたケースをつかみ、車から降りた。そして建物に向かって歩いていき、ベルを鳴らしたのだった。72歳の母親が足を引きずりながらドアをあけると、自分の末の息子が彼女を上からにらみつけるようにして立っていたので思わず彼女は驚いた。自分のすべての苦しみの源は母親だと信じきっているゴードンは、目の前の彼女に対してなにをしなければいけないか分かっていた。錯乱状態にある彼にとっては、それはすべて自己防衛のための策だったのである。この女は敵だ。殺らなきゃ、俺が殺られる。彼の表情はそう物語っていた。(略)
ハンマーで母親の脳天を激しく打つと(略)母親の胸めがけて、そのキラリと光る鋸状の刃を繰り返し振り下ろした。そうして、ついに目的が達成されたと分かった。「声」は――母親の声は――ようやく鎮まったのである。
 その翌日、母親の死を告げるだけのためにゴードン宅を訪れた警察は、激しい苦痛に心を苛まれ、リビングのカーペットに顔を埋めて泣いている彼の姿を見つけた。ゴードンは即座に自首し、パトカーの後部座席で抑えきれないほどの涙にむせびながら、「ごめんなさい、本当にごめんなさい、でも母さんは僕をずっと苦しめていたんです」と警官に言った。
[無期懲役で服役中](略)
ときには囚人仲間とバンド演奏をすることもあるという。

ディーン・マーティン「ヒューストン」セッション終了後、ちょっと重ね録りをさせてくれと言ったハル・ブレインは、スタジオにあったガラスの灰皿をドラムスティックで叩き

そのハンマーで金床を叩くようなビートは、マーティンの気だるそうなボーカルにウエスタン調のくっきりした輪郭を与えることに成功したのだった。

Sonny&Cher - The Beat Goes On (live)

 

「ビート・ゴーズ・オン」

ソニー・ボノが作ったFコードだけの「ビート・ゴーズ・オン」。その単調さにレッキング・クルーの士気は低下、ついに無頼派バーニー・ケッセルが「こんなに腕の見せ所のない曲は初めて弾くぜ」と一言。

[キャロル・ケイ]の意見では、このダラダラしたワンコードの曲はひどい代物だった。最初から最後まで、だらけっぱなしなのである。そこで自分のアコースティックギターでいくつかのベースラインを戯れに弾いているうちに、彼女はダン・ダン・ダン・ダ・ダン・ダン・ダ・ダン・ダンという跳ね回りたくなるようなフレーズを思いついた。
 ボノはそれを聞くとすぐにセッションを中断した。
 「それだ、キャロル!」彼は感極まって言った。
 「いま弾いてるのはなんのフレーズだい?」
[こうして救われた曲は二年ぶりのヒットとなり]
低調だったソニー&シェールのキャリアを破滅の道から救い上げたのだった。

モンキーズ

当初はラヴィン・スプーンフルという新人バンドを採用するつもりだったのだが、このプロデューサーニ人組は彼らの番組にピッタリな愉快な無法者たちを取り揃えるために、キャスト募集をかけることにした。(略)
[その簡潔な広告文は]
 「イカれてるぜ! 新番組に出演するフォーク&ロールのミュージシャン、シンガーのオーディションを開催。17歳から21歳までのアホどもを四人募集中。ベン・フランクのような元気ある連中を求ム。仕事をする勇気があるなら、面接に来るベシ」(略)
[最終候補]のなかには将来的に有名になるスティーブン・スティルスヴァン・ダイク・パークス、そしてゲイリー・ルイスなどのミュージシャンの姿もあった。