レッキング・クルーのいい仕事・その2

前回の続き。

ビリー・ストレンジとブライアン・ウィルソン

[ある日曜の午後、ビリー・ストレンジにブライアン・ウィルソンから仕事の依頼電話]
 「ブライアン、そうしたいとこだけど」ストレンジは返事をした。
 「今日は日曜だし、息子の世話をしてやらなきゃいけないんだ。それに、俺は今ギターを持ってないんだよ」
 バツイチの父親として、ストレンジは息子と過ごす時間をなにより楽しみにしていた。(略)
 「そうか、なら心配ないよ」ウィルソンは明るい声で言った。
 「息子も連れてくればいい。じゃあ、またあとで」
(略)
 35歳のストレンジは、この頃にはもうすでに業界屈指のスタジオ・ミュージシャンとしての地位を固めていた。彼はどんな弦楽器を手渡されても楽々と弾きこなしてしまうだけでなく、小さな文字で楽譜に書き込まれた注意書きの通りにその場で演奏する能力を持っていた。ストレンジはアレンジを生み出す腕にも長けていて(彼のアレンジによってナンシー・シナトラの「にくい貴方」は堂々とナンバーワンに輝いた)、それに今はプロデュースも行っていた。
(略)
 「ここだ、この部分を聞いてくれよビリー。ここに十二弦のエレキギターのソロが必要なんだ」
 「ブライアン、俺は十二弦のエレキギターなんて持ってねえよ」
 「よし、なら買えばいい」(略)
数分のうちに、二人の配達員が新品のフェンダーの十二弦エレキギターフェンダーのツインリバーブ・アンプを担いでスタジオの裏口に現れた。どちらも日曜定休の店から届けられたのである。
(略)
ブライアンに頼まれた通り、のちに「スループ・ジョン・B」となる曲のちょうど真ん中に八小節のソロをさっと弾いてみせた。
「それだ!」ウィルソンは喜びのあまり大声をあげた。
「上出来だぜ、ビリー」
 そういうわけで、あまりにも急に始まったその世界一短いレコーディングセッションは終わりを迎えたのだが、最後のサプライズが待っていた。
 ストレンジと息子が帰ろうと立ち上がると、ビーチ・ボーイズのリーダーは百ドル札の束を取り出し、そこから何枚かめくって、ビリーの胸ポケットにしまった。
 「今日はわざわざすげえリフを弾きに来てくれてありがとな。ギターとアンプを忘れるなよ」
 ビリー・ストレンジは目を丸くしてその場に立ち尽くした。ニューアルバムを期限と予算の範囲内で完成させなくてはいけないというとんでもない重圧を受けた世界的に有名なプロデューサーが、自分に現金で五百ドルを手渡し、二千ドルをゆうに超えるだろう高価な機材を新品のままくれたのである。それもたった二、三分の仕事の報酬として。

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『ペット・サウンズ』

 三ヶ月といううんざりする期間のあいだ、グレン・キャンベル、キャロル・ケイ、ハル・ブレインをはじめとするミュージシャンたちは『ペット・サウンズ』の制作に骨身を削った。ときには夜の七時から深夜過ぎまでスタジオで作業をすることもあったが、そのあいだにレコーディングされるのはせいぜい一曲といったところだった。次のセッションが始まる数時間後にそなえて睡眠時間を確保しておきたいブレインがドラムの脇で雑魚寝をするはめになったのも一度や二度ではなかった。(略)
 『ペット・サウンズ』の制作過程において、演奏に万全を期したかったウィルソンは、バンドの連中を手元に置いておきたかったのだった。(略)
[長期におよんだセッションのおかげで]ブレインは自分たちがブライアン・ウィルソンの心を読めるのではないかと思うほどだった。(略)
「神のみぞ知る」のパーカッションに「なにか」が欠けているのだがそれがわからなかったとき、ブレインは代わりにオレンジジュースのペットボトルをテープで巻き合わせて叩いてみたらどうかと提案した。ウィルソンはその結果に大満足だった。
 別のセッションで、ウィルソンはハモンドオルガンの足元にあるベースペダル鍵盤の音色がどうしても気にいらなかったので、オルガン奏者のラリー・ネクテルに床に寝そべって手を使って演奏するように指図した。どう考えてもオーソドックスとはいえない演奏法だったが、ネクテルもブレインも、レッキング・クルーの他のメンバーの誰だって、それに文句を言う人はいなかった。うまくいけばなんでも良かったのである。
(略)
[だが『ペット・サウンズ』のセールスは無残な結果に]
 「あんなブライアンは見たことがないよ」
その数週間後のある夜、ネクテルはブレインに言った。彼らはリリースを目前に控えた単発シングル「グッド・バイブレーション」の重ね録りのために大急ぎで設けられたセッションに参加していたのだった。
 「俺もだよ」ブレインはそう認めた。
(略)
 ベル・エアの上品なベラジオ通りに面したブライアン・ウィルソンの薄黄色に塗られた豪邸の門に立ち、呼び出しブザーを鳴らしたハル・ブレインは、なにかがおかしいと気づいた。1967年の秋のことだった。(略)
[ウィルソンが精神を病み、ドラッグ中毒にという噂が既に出ていた]
 はっきりとした理由はわからないが、スタジオの心臓部であるべきコントロールブースだけは奇妙にも一階ではなく二階のバルコニーらしき場所に設けられていた。この不吉の前兆を知らせるような気味の悪いブースには小さなスリット窓がいくつも並んでいて、階下の様子を脅迫的に見下ろしているのだった。まるで中世の戦争に用いられた要塞のようだった。音楽を作るのにうってつけの環境とは到底いえないな、ブレインはそう思った。(略)
三時間のセッションからはなにも生まれなかった。(略)
 その日の帰り道、レッキング・クルーの何人かが誰かの姿をちらっと目撃した。あれは一体ブライアン・ウィルソンだろうか? 少なくともぼんやりと彼に似た誰かではあった。ゴールド・スターやウエスタン・レコーダーズで彼らの演奏を指揮した、あの愛想の良く、身なりのよい、精力的な男はもういないのだ。そこにいたのは、汚らしい髪に、ふるびたバスローブを身にまといスリッパをはいた肥満体型の男だった。影の中をなにも言わずに通りすぎたその男の目つきは――目つきとは到底いえないようなものだったのだが――彼らを透かしてその向こう側を見ているかのようだった。名高いプロデューサーであり、音楽界のスターだった男が、自分自身の殼の中の世界に閉じこもってしまったことは明らかだった。そしてその世界にレッキング・クルーはお呼びでないのだ。
 ミュージシャンたちは驚いて立ち止まった。
 「よう、ブライアン。調子はどうだい?」彼らの一人が言った。
 ウィルソンは返事をしなかった。
 「ヘイ、ブライアン。会いたかったぜ」別の一人が言った。
 それでも返事はない。
 アメリカでかつて一番の人気を博したバンドのリーダーが、重い体を引きずるように薄暗い廊下に姿を消してしまうと、言葉にできない悲しさがあたりに漂った。彼らの目にした光景に胸が張り裂けそうになっただけではない、自分たちが過ごしたたぐい稀な時間が、世界を変えた時間が、ついに、正式に終わりを迎えたのだと彼らは気づかされたのである。もう二度と、あの時間は帰ってこないのだ。
 ブライアン・ウィルソンとレッキング・クルーは五年近くのあいだスタジオで家族同然の時間を過ごし、二十二曲という先例のないほど多くのシングルをトップチャートに送り出したのだったが、ウィルソンはもはやレッキング・クルーのメンバーが誰だったかさえ覚えていないようだった。

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「明日に架ける橋」

 ガーファンクルとネクテルが完成させた素晴らしいテイクをコントロールブースで聴きながら、ブレインはどういったわけか、囚人の群れに鎖に繋がれ、足を引きずりながらぬかるんだ道を歩いている気の毒な男の姿を思い浮かべ続けていた。(略)
 「もしよければ、この部分で試してみたいアイデアがあるんだ。ちょっと変に思うかもしれないけど、うまくいくかもしれない」
 もちろん、ブレインがサイモン&ガーファンクルのセッションで並外れたアイデアを思いついたのは今回が初めてではなかった。その数ヶ月前、(アルバムから最初にシングルカットされた)「ボクサー」のレコーディング中に、このデュオは「ライラライ」と繰り返されるコーラスの合間にメリハリをつけるための破裂音を加えたくなった。最大限のエコーを引き出すために密閉空間が必要だったので、サイモンはブレインをニューヨークまで呼び出した。するとヘイリーはコロムビアのエレベーターシャフトの一番下までブレインを連れて行き、そこで彼にスネアを思いっきり叩かせたのだった。
 サイモンの了承を得たブレインは今回、駐車場まで行って車のトランクからスリップ防止のためのチェーンを引きずり出した。それから数時間のあいだブレインは機材倉庫にしゃがみこみながら、その頑丈な鉄の鎖をセメントの床に叩き付け、その音を遠くから録音させた。一拍目でまず引きずり、二拍目で床を打ち、三拍目でまた引きずると、四拍目でまた床を打ったのだ。この素晴らしいアイデアは曲の三つ目のバースから壮大なエンディングまでパーカッションの一部として組み込まれることになった。
(略)
 ラリー・ネクテルに関していえば、「明日に架ける橋」に残した不滅のアレンジによってグラミー賞を獲得するまでに至ったのだった。雇われプレーヤーであるにも関わらず、卓越した演奏技術を評価されてグラミー受賞までいったのはレッキング・クルーのなかでもネクテルが最初で最後だった。(略)[「明日に〜」の大ヒットで]ネクテル、ブレイン、オズボーンの三人はロック・アンド・ロールの世界で最も熱い期待を集めるリズム隊になったのだった。

「俺にリズムを合わせろ」

 サイモン&ガーファンクルのエンジニア兼プロデューサーであったロイ・ヘイリーはよく「ジョー・オズボーンがミスをしたからってテープを止めなきゃいけないなんてことはあり得ないよ。だって奴は絶対にミスをしないからね」と言っていたぐらいだ。そして今度はアルパートがオズボーンのレッキング・クルー仲間であるハル・ブレインをカーペンターズのセッションドラマーとして推薦した。もちろん、ティファナ・ブラスの数多くの大ヒット作でドラムを叩き、アルパートを長年のあいだサポートしていたのがブレインだった。(略)
「遥かなる影」の演奏にギタリストのルイ・シェルトンと取りかかったブレインは、その体に深く染み付いたリズム感で、リチャード・カーペンターのピアノ演奏のリズムがどんどん先走っていることに気がついたのだ。(略)
 皮肉にも、その数年前にブレインは、まだ駆け出し時代のルイ・シェルトンがレッキング・クルーとスタジオで初めて一緒に仕事をした際、同じような状態に陥っていることを気に留めたことがあった。ブレインはその時シェルトンに言った。
 「ルイ、お前のギターはかなり気に入ってるし、お前はこの業界でこれからも良い仕事ができると思う。けど、さっきから少しリズムが先走ってるんだ。いいかい、レコーディングの現場ではドラマーが神様なのさ。俺よりも先に拍子を変えられちゃ困るぜ。とにかく俺にリズムを合わせろよな」
 ブレインのこの言葉を心に刻み付けたシェルトンは、モンキーズの「恋の終列車」の冒頭の有名なギターリフをはじめ、それから数多くの偉業を成し遂げていった(のちにシールズ&クロフツのすべてのヒット作をプロデュースしたのも彼だった)。彼にとってそれは目から鱗のアドバイスであり、大きな勉強になったのだ。(略)
ロック・アンド・ロールのセッション界における長老であるブレインから間違いを正されたことをきっかけに、(グレン・キャンベルの親友でもあった)もの静かで控えめなシェルトンはいわゆる業界の「お抱えプレーヤー」としての役を得たのだった。シェルトンは、レッキング・クルーの常連メンバーとして引っ張りだこの存在になれたこともあって、生涯にわたってブレインのこのアドバイスに感謝し続けた。
 さて、ブレインはどうにかして同じような知恵をリチャード・カーペンターに授けなくてはいけなかったのだが、カーペンターはミュージシャン仲間であるだけでなく、そのセッションにブレインを呼んだアーティストでもあった。勇気を出して物言いするにも、うまく立ち回らなくてはいけない。
「リチャード、ちょっと待った」ブレインはそう言うと、演奏を一時中断した。「こんなテンポの速い曲にしたいのかい?」
「どういうことだい?」
 カーペンターはキーボードの演奏もアレンジの腕前も優れていたが、テンポがかすかにズレていることに気がついていなかったのだった。(略)
 「ピアノがちょっと速くなってると思うんだ。試しにクリック・トラックを使ってみるってのはどうだい?」
(略)
「遥かなる影」のレコーディングが進むうちに、ブレインはまた違うことに気がついた。そこで彼は休憩のあいだにカレンに話してみることにした。
 「ねえ、これは俺が話すべきことじゃないのかもしれないけど」
 ブレインは慎重に話を切り出した。
 「ひょっとしたら違うキーで歌ったほうがいいんじゃないかな」
 長年にわたってペトゥラ・クラークバーブラ・ストライサンドなどの大物シンガーと仕事をしてきたブレインは、女性ボーカリストの長所を引き出すにはどうすればいいか、直感を働かせることができるようになっていたのだった。そして今回のケースで言えば、カレン・カーペンターが類まれな才能の持ち主であるのに関わらず、彼女が歌っているピッチが高すぎると彼は感じたのだ。彼女は本来、もっと低いキーで歌うのが理想的なのである。
 「でもこのキーでリハーサルをしたのよ」
 カレンはそう答えると、事実確認のために近くに座っていた両親のほうを見た。彼女の両親、ハロルドとアグネス夫婦はブレインがおせっかいでなにを言おうが気にしていなかった。
 「駄目よ、それがカレンの歌い方なんだから」アグネスは冷たく言い放った。
 「それに、このデュオの花形はリチャードなのであって、カレンはドラマーでしかないわ」
 ブレインはすぐに引き下がり、この話題をそこでやめにした。(略)
家族がからんでいる仕事に口をはさむのはリスクの高いことだった。しかし、その夜にミュージシャンたちと最後の仕上げをしていたブレインは、カレンが結局違うキーで歌ったことを知った。
[「遥かなる影」は四週連続ナンバーワンに]

終焉

 レノンのアルバム『ロックンロール』のレコーディングが1973年の12月に終わりを迎えるころには(略)、レッキング・クルーは就職難が自分たちの仕事に明らかな影響を及ぼしていることを感じていた。実際のところ、ロック・アンド・ロールの仕事数が大幅に減っていることにずっと気がついていたメンバーも多かったのだ。AMラジオのチャート番組が消え始めたこと(さらに楽曲の時間が長くなったこと)がその一つの理由だったが、それよりも音楽業界をとりまく状況自体が変化したことのほうが深く関係していた。業界の流儀が変わり始めていたのである。プロデューサーやアレンジャーは自由契約のセッションミュージシャンたちにすべてのパートの演奏を肩代わりさせるという、かつて猛威をふるったやり方に魅力を感じなくなってきていた。アメリカやドアーズなどのロサンゼルスを拠点として次々とヒット作を生んでいた有名バンドでさえ、前期作品ではレッキング・クルーの助けを借りることもあったが(ハル・ブレインとジョー・オズボーンは「ヴェンチュラ・ハイウェイ」に、ラリー・ネクテルは「ハートに火をつけて」に参加している)、その後は自分たちの力でレコーディングをするようになったのである。
 大手レーベルもまた、ひと足ふた足遅れ気味ではあったものの、アメリカの若者たちの気概をリリース曲に反映するために、60年代の後半から70年代の前半までには自分たちですべての楽器演奏を担当したいと主張するアーティストたちとの契約をすすめるようになった。パッケージングの上手さはもう流行遅れなのだった。内容に嘘がないこと、つまりリアルであることこそが新しい哲学だった。イーグルスや、スリー・ドッグ・ナイト、シカゴ、ドゥービー・ブラザーズ、そしてフリートウッド・マックのような、自分たちですべてを取り仕切ることができるバンドが人気を高めていくにしたがって、レッキング・クルーのキャリアもまた危険にさらされることになったのである。
 それだけでなく、技術の発達が大きな影響力を持ち始めていた。48トラックのスタジオは言うまでもなく、シンセサイザーやドラムマシーンが登場したことにより、多くの場合では(シンガーだけのレコーディングはとくに)必要にあわせて一人か二人のミュージシャンを起用し、何パターンものベースやギターを弾かせ、個別のトラックを重ねて録音したほうが楽だし、コストもかからなくなっていった。(略)
(スペクターのように)ギャラの高いプロミュージシャンを大きなスタジオに一度に何人も集めてレコーディングをする必要もなくなった。時代は変わってしまったのだ。今やすべての仕事をバラバラに、安上がりに仕上げることが可能になったのだ。
 ややこしいことに、ハングリーな若手セッションミュージシャンたちが、まだありつけそうな仕事が残っているならばなんだってかすめ取ってやるうと待ち構えていた。それはちょうどレッキング・クルーが青いブレザーにネクタイを着用した先輩連中にたいしてしたのと同じことだった。彼ら新人たちはさらに、より現代的で「カリフォルニアらしい」サウンドと感性を持ち合わせていたので、1970年代のシンガーソングライターたちが得意とした、まろやかなアコースティックサウンドにはぴったりだった。(略)
好むと好まざるとにかかわらず、聖火は次のランナーの手に渡ったのだ。
 70年代の半ばには、キャロル・ケイや、ゲイリー・コールマン、アール・パーマー、ドン・ピーク、ビル・ピットマン、ミシェル・ルビーニ、そしてトミー・テデスコなどのメンバーはすでに映画やテレビのサントラ制作の仕事に主戦場を移し、時にはジャズの演奏にも手をのばしていた。ロック・アンド・ロールではもう飯が食えなくなっていたのだ。バーニー・ケッセルのように、ソロアーティストとしてアルバムを発表するメンバーも数人いた。ジョー・オズボーンがナッシュビルに移ると、フランク・シナトラからナッシュビルのレコード会社を経営してほしいと頼まれたビリー・ストレンジもそれに続いた。ラリー・ネクテルはブレッドというバンドに加入した。マイク・ディージーはロック・アンド・ロール仕込みの牧師として再出発を果たした。ライル・リッツは世界最高のウクレレ奏者としての地位を手にした。アル・ケイシーはフェニックスに引っ越し、セッションで演奏したり、音楽教師の仕事をしたりした。レッキング・クルーは、そのほとんどが散り散りになっていったのだ。
 そして、グレン・キャンベルはどうだったかといえば、1972年の7月に冠番組である『グレン・キャンベル・グッドタイム・アワー』が終了すると同時に、ヒット曲にも見放され始めていた。(略)
[だが「ラインストーン・カウボーイ」という曲で返り咲き]70年代のあいだ大ヒット作を楽々と発表できるようになった。
(略)
 しかし、ハル・ブレインはいまだに現役を続けている数少ないベテランとして、ロック・アンド・ロールの仕事はなんでも引き受けていた。(略)
大物ミュージシャンのセッションに呼ばれることはじわじわと少なくなっていった。そこで彼はバドワイザーやりコカコーラ、そしてグッドイヤーのような大手企業を相手に短いコマーシャルソングを作る仕事の数を増やし、収入を補うようになった。ギャラは良かったが、いつでも満足感を得られるような仕事ではなかった。しかし、ブレインが身を託した業界はめまぐるしく様変わりしつつあったものの、彼のドラムの腕が発揮された最後の大ヒット曲が、まもなくひょんなきっかけで舞いこんで来るのだった。
(略)
 「デニス、無知を承知で聞くんだが、そのキャプテン&テニールってのは一体どこのどいつだい?」
 ドラゴンは微笑んだ。
 「あんたも知っているはずさ」彼はブレインの記憶を呼び覚まそうと、そう返事をした。
 「一月に俺の兄貴と、その奥さんとパラマウント・レコーディングでしたセッションだよ。覚えているだろ?」
 ああ、あのセッションか。ひょっとしたら、[「あなたが演奏しているんじゃない」と]妻が口にしていた曲はこれだったのかもしれない。
(略)
「愛ある限り」はヒット曲どころのさわぎではなかった。さらに単にナンバーワンに輝いただけでもない。この曲はいたるところでガンガン流れるようになり、キャプテン&テニールを一夜のうちにスターにしてしまったのである。(略)
 しかし、「愛ある限り」を最後にハル・ブレインの比類なきキャリアは低迷の一途をたどっていった。70年代が終わり、80年代に突入するころには、ジョン・デンバーとの仕事はとっくに終わっていて、まるでかつてスタジオで使用されていた4トラックのテープレコーダーのように、どんなセッションにも呼ばれなくなってしまった。そしてブレインはついに引退を決めたのだった。

「エコーはどうした?」とスペクター

[92年復活したフィル・スペクターのためにレッキングクルー再集結]
 スタジオ56の若い経営者たちが伝説的なプロデューサーであるフィル・スペクターの好むレコーディング方法をまったく知らないということは、最初から明らかだった。巨大なマルチトラック機材があるにもかかわらず、数本のマイクしか使用できないこの環境は、明らかに多重録音を繰り返すために設計されており、一度に三十人近くの大所帯を詰めこんで、一人一人に個別の入力信号を必要とするようなレコーディングを行うのは不可能だったのだ。
(略)
若手の専属エンジニアがテープを回すと、流れてくる演奏は上出来だった。良い曲に仕上がっている。しかし、ひとつ決定的な要素が抜け落ちていた。スペクターサウンドの代名詞であり、彼が録音したすべての音をつなぎ合わせる要素であるエコーが欠けていたのである。スペクターがモニターでレッキング・クルーの生演奏を聞いていたときには聞こえていたのだが、それがなぜか消えていたのだ。
 「エコーはどうした?」困惑したスペクターはエンジニアに尋ねた。
 「ああ、えっと、うちのスタジオはエコーをかけて録音しないんです」
 この若造はさりげなく返事をした。
 「とりあえずそれはモニタリング用のテイクです。エコーなら、あとでミックスダウンのときに付け加えられますから」
 ミックスダウンのときに、だって? スペクターは絶句しかけた。こいつらは俺が数時間かけて念入りになにをしていたかなど、まったく理解していないのだ。それでも、どこか別の場所を探してもしょうがないことだった。このスタジオがこうやってセットアップするなら、他所に行ってもおそらく同じことだろう。古き良きゴールド・スターが、スペクターにとっての最後の砦だったのだ。
 「これでセッションは終わりだ」
 スペクターは隣の部屋で期待しながら待っているミュージシャンたちに向かって、マイク越しにぶっきらぼうに言い放った。それから、ほんのすこし物憂げな口調で、彼は優しくこう付け加えた。
 「ありがとう、みんな。素晴らしい演奏だったよ」

次回はキャロル・ケイ・ヒストリーとジム・ゴードンの悲劇。