「表現の自由」を求めて―アメリカにおける権利獲得の軌跡

治安妨害をめぐる裁判

[80歳近いアンドリュー・ハミルトンがゼンガー弁護に立ち上がった。その戦術は]
植民地当局が治安妨害煽動行為であるといきり立っているところの新聞記事は、本当のことをいっているのだ、と陪審に訴え、そう感じさせることにあった。なんのことはない、コスビー総督下でおこなわれている統治にはあれやこれやの欠陥があり、これらがあるからこそ、「ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル」は記事に書いて指摘したのだ、そうした指摘のどこが悪いのか、なぜそういった行為は治安妨害煽動という名の罪に当たらねばならないのか――陪審員たちにそう考えさせ、無罪評決へと誘導しようという作戦である。
 けれども、ハミルトンのこの戦術には、法上致命的な困難が立ちはだかっていた。それはこうである。さきにイギリスにおける伝統的な「治安妨害煽動」に関する法を紹介したが、その部分を想い出していただきたい。当時アメリカ植民地にも支配していたイギリスの「法」によれば、第一、ある文書が「治安妨害煽動」に当たるかどうかは、それがなんらかの意味で統治の妨げになる「悪しき傾向」をもつかどうかによって決まる。当該文書が本当に公共の秩序を乱すおそれがあるかどうかを問題にする発想は、この「法」にはない。ましていわんや、当該文書が指摘している事実が真実であるかどうかといった、文書の内容分析は、「法」にとっては問題外であった。記事の真実性ということでいえば、当時の「法」の背後には、むしろ逆の発想があった。どういうことかというと、それは「(文書の中で摘示している事実の)真実性が強ければ強いほど、治安妨害に該当する割合は高くなる」という格言に示されている。つまり、当局やお偉らがたにとっては、本当のことを衝かれることは、いちばん痛いところを衝かれることになり、それだけ権威や名誉が深くきずつけられ、その分だけスムーズな統治の妨げになる、という論理である。このように「真実の証明」は許してはならないということが、伝統的な「法」の本質的な部分をなしていたのである。それがハミルトンの前に立ちはだかる第一の壁であった。
 もう一つの壁があった。このことも、じつはすでに紹介済みである。治安妨害煽動罪の裁判にあって、陪審が審理し認定すべきなのはただ一点、すなわち被告人が当該文書の作成・伝達に関与したかどうかという事実の有無のみである。あとのことはすべて、裁判官のみが判断する「法」の解釈・適用問題である――これが当時支配した「法」にほかならなかった。
(略)
[この既存「法」の難関に対しハミルトンは]
問題の告発状には、ゼンガーが「虚偽の、スキャンダラスで、悪意にみちた、治安妨害的な」文書を刊行したことが犯罪容疑事実にされていた。つまり、当該新聞は、あられもないことを書き立て、悪意ある中傷をおこなうことによって統治の妨げをしたから「治安妨害」に当たるという言い方になっているのである(略)[であるなら]陪審員各位に向かって、本件記事が「虚偽の」ものであるかを判定してもらい、もしあられもないことが書き立てられているのでないとしたら、「無罪」評決をおこなうべきだ、と要請してもいいわけである)。
 ハミルトンの弁論がこうした方向をとったのを察知して、検察側も裁判官も、「法」においては、当該記事が真実かどうかは問題とはならないと懸命に牽制球を投げたのはもちろんである。老獪なハミルトンは、これをはねかえすべく、次のように反撃した。第一に、「治安妨害」に関する裁判で、真実かどうかを証明することを許した先例がある、と論じた。第二、当局は、真実の証明を認めないのが確立した「法」だというが、その「法」はイギリス絶対王制期の悪名高い星室庁裁判所が作ったものであって、現代(1734、5年当時)ではもはや効力を失い適用しえないのだ、と主張した。
[結果は無罪評決]
(略)
 もともとゼンガーはドイツから移民してきた、まだ英語も十分にしゃべれない、単なる印刷職人でしかなかった。反総督派の面々が反体制紙を発刊するにあたり[採用しただけで](略)
いってみれば、ゼンガーは、「ダミー」でしかなかったのである。当局もまた、そうであることを知悉した上で、ゼンガーを、そしてゼンガーのみを逮捕し裁判にかけようとしたのである。

検閲

 しばしば、「印刷術の成立とともに検閲制がはじまった」といわれる。ことのはこびはそれほど単純ではないが、印刷媒体の展開がちょうど王権による国家統合がはかられる絶対主義の時代に当たったイギリスにあっては、比較的形姿のはっきりとした検閲システムができあがっていた。けれども、17世紀の中葉に近づくにつれ、絶対主義そのものがゆらぎはじめ、ピューリタン革命、名誉革命という二度の市民革命にさらされて、事前検閲制はついに命脈を失うことになるのであった。
 ふたつの市民革命を経過したのちも、しばらくは検閲制を支える法律が、議会の効力延長措置によってともかくも生き延びてきていた。しかし、1695年、議会はついに効力延長の承認を拒んだ。これによってイギリス本国では、この年をもって、事前許可制は正式に廃絶された。しかしイギリスにあっては、根拠法が失効したために検閲制がなくなったというよりも、むしろ印刷出版人らがいまでは胡散臭い存在にみえてきた許可官庁を無視して、無許可出版をあえておこなう者がふえ、根拠法が事実上その効力を失うという状況になっていた。議会は、たまたま期限つき立法であった印刷許可法の時限延長手続きに手をかさないことによって、この現状を追認した、といえる。
 この国では、ちょうどそのころから、時事を伝える新聞および政論を展開するパンフレットが順調な展開をみせるようになる。実際のところ、さまざまな主題を扱う、多量の出版物が出回るとなると、とてもとても、事前にその原稿の一枚一枚を検閲するなどというメカニズムがはたらくはずがないのである。事前許可制は崩壊すべくして崩壊したというべきである。
(略)
[一方アメリカでは]
印刷事業を欠いていたという植民地事情を、権力者たちは大いに得としていた。このことを反映する論説としてしばしば引用されるのが、1671年、時のヴァジニア総督W・バークレイによる次の言明である。バークレイ総督はいう、「神に感謝すべきことに、(この地には)自由な学校も印刷業もありません。こんご将来何百年ものあいだ、こうしたものがないままでありたいものだと私は望みます。というのは、学習することによってこの世の中に不服従と異教と諸教派がもたらされます。また、印刷物はそういったことをあからさまにし、最良の統治に対してさえ非難中傷をおこなうからです。神よ、どうぞこの二つの悪からわれわれをお守りください。」

「コムストック法」

 「コムストック法」というのは、「わいせつ、低劣、みだらな書物、パンフレット、図画、印刷物、そのほか品位を欠いた性格の出版物……などは、郵便により配達されない」と定めた。郵便禁制品の指定である。(略)
性風俗に関係するものは、微に入り細をうがって列挙していて、そのなかには「避妊または堕胎をなすために作られ用いられる論文または物」もちゃんと入っている。要するにヴィクトリァ風の紳士と自任する連中からみて、「いかがわしいもの、不道徳なもの」と見なされた出版物などは、洩らさず郵便禁制品と指定して流通過程からしめ出し、そのことをつうじて出版物そのものの存在価値を公に否認するという、断固たる国家意思が表明された。
 この法律は、1873年の段階では性風俗文書にねらいを定めたが、70年代後半には富くじ類の宣伝勧誘、詐欺欺罔にわたる文書などなどを禁制品のリストのなかに加えてゆくという修正増補を重ねてゆくのであった。
 「主(イエス・キリスト)の使い者」として振舞って疑うところを知らなかったコムストックは、合衆国郵便法の改訂増補という形式でこの方面にまず楔を打ち、社会「浄化」運動の雰囲気を作ったのち、こんどは各州での出版物の直接取り締まりをねらう立法化に精力的に取り組んだのであった。こうして州レベルに出来あがったわいせつ文書取締法のことを、後世ひとは、連邦レベルの「コムストック法」との対比で、「リットル・コムストック法」と称する。
(略)
[20世紀に入り]郵便締め出しという同じ手口を使って、政治的な意味合いにおいて反社会的、あるいは反体制的な出版物が取り締まれることになるという事態の進展である(現実にまず規制対象に挙げられたのは、20世紀初期、無政府主義出版物であり、ついで第一次大戦前後、反戦平和を訴える出版物であった)。
(略)
出版物規制システムの発展との関係で、「警察権」というコンセプトに言及しておくことが望ましいと思う。(略)
 「警察権」という概念は、アメリカの社会が産業化し都市化し、その意味で近代化するとともに、産業的な秩序・労使関係・生活環境など社会過程に生じはじめた阻害要素を、「公共の福祉」の見地から公権力が規制するようになるのであるが、こうした新規の権限体系を説明し正当化するために出てきた、と要約しえよう。家畜屠殺場の運用、公共的施設の使用料などへの州権力の介入という形で現われてきた「警察権」行使の可否が、1870年代に入るや合衆国最高裁に持ち込まれるようになった。従来は人びとがおのおの自由勝手にやってきた生活、職業領域への権力介入というわけだから、当時はそれなりに大議論の的になったのである。けれども、合衆国最高裁は、概していってこうした権力介入に好意的であった(もっとも、間もなく最高裁は、レッセ・フェール哲学にもとづき資本家的な経営の自由の名において、工場立法・社会立法に対しては、批判的な判断をするようになるのであるが)。
(略)
賢敏なる読者はお気づきのように、まさにこうした「警察権」の登場時期というのは、コムストックらによる運動が出てきて(略)精神活動領域に権力介入が始動しはじめる時期と、ぴったり一致するのである。時期が一致するだけではない。産児制限を唱えることも含めた反社会的な――と当局が考える――あれやこれやの出版物の取り締まりも、そっくりそのまま、「警察権」コンセプトのなかに取り込まれ、そういうものとして正当化され社会的に是認されることになっていくのである。つまり、労働条件・市場秩序・公衆衛生・消費者問題など人間の外面的・物理的な環境にかかわるものとして成立した「警察権」が、公衆道徳・趣味そのほか人間の内面的精神的なありようにも、その規制を加えることになったのである。
 こうして、19世紀後半から20世紀にかけて、確立した「警察権」の名において、わいせつ文書などの性風俗関係出版物の取り締まりが当然のこととしてまかりとおるようになるとともに、人びとの集会・結社活動もまた、この規制体系のもとに組込まれてゆく運命にある。表現の自由、政治活動の自由、集会結社の自由を確保する観点に立って、このような包括的な「警察権」コンセプトはおかしいのではないかと人びとが明確に意識し、「警察権」支配からの脱出を試みるようになるのは、ややのちのことに属する。

「パターソン」事件

[州最高裁を侮辱する記事を載せたとして訴えられた「パターソン」事件]
1907年、すなわち1735年「ゼンガー」事件から数えてほぼ170年を経過した時点、あるいは1791年の合衆国憲法権利章典が成立してからを起点として100年以上たったのちにおいて、ほかでもない合衆国最高裁が、しかももっとも学識に富み高い権威が認められた裁判官のひとりホームズをつうじて、憲法でいわゆる「出版の自由」は、たかだか「検閲=事前抑制からの自由」でしかないとする、もっとも狭義の「法理」を宣言したのであった。こうして、少なくても合衆国憲法レベルでは、「出版の自由」の意味内容は、17世紀末に成立したコモンロー上の「法理」(「検閲からの自由」)から一歩も出るものではないことが、20世紀に入ってあらためて確認されたのである。自由に関する法の発展というものはまことにしばしば、牛歩に似てきわめて緩慢なものであることを、あらためて思い知らされた感がある。

ラーネッド・ハンド裁判官

[1917年に成立したスパイ防止法にもとづき雑誌「ザ・マッスィズ」(大衆)が郵便禁止処分に]
当時代の「リリカル左翼」を典型的に反映したこの雑誌は、「面白さ、真実、美しいもの、リアリズム、自由平和、フェミニズム、革命」の追求を標榜するラディカルな定期刊行物であって、左翼系知識人のあいだで非常な人気を博していた。(略)
[雑誌社の差止請求を]
受理し裁断したのが、のちこの国の憲法史上にかならずや名を残すことになるであろうラーネッド・ハンド裁判官であった。(略)英語には“pathbreaking”ということばがある。「未開の分野にみちをつける」というほどの意味である。一地方裁判所のほとんど成りたての若い判事でしかなかったハンドが書いた、この郵便禁止処分差止め命令決定における表現の自由論は、文字どおり“pathbreaking"なものであった。
(略)
「本来それ自体として正当なアジテーションを、暴力的な抵抗を直接煽動する言動とを混同してしまうとすれば、それは、平時にあって自由な統治形態を確保するために許されてきている、政治的アジテーションのあらゆる方法を無視してしまうことになるのである」と。(略)
「この区別は、学者のごまかし言辞(subterfuge)ではなくて、自由のための闘いのなかにあって高い代価を払ったうえで析出したものである。そして、権力が存在するところ、つねにこの区別をないがしろにしてしまおうとする意欲がはっきりうかがえるのである」として、次のようにあるべき基準を提示した。「ある者が、法に反抗することこそが自分たちの義務あるいは自分たちのためになるということを、他人に対して慫慂する一歩手前にとどまっているばあいには、私が考えるに、この者は、法違反をひき起そうと企てたものとして責任を負わされてはならない。
(略)
[ハンドの差し止め命令を破棄した]控訴裁判所の判決ではなくて、この上級機関によって簡単に一蹴されたハンド決定のほうが、歴史のなかに生き残り、その後多くの裁判・研究論文・教科書でくりかえし引用され参考にされているのは、興味ある事実である。
 ハンドは、それまでいかなる裁判所も試みることがなかった仕方で、表現の自由に関し自由・不自由の線引きをおこない、そのことによって表現の自由に対する司法審査の可能性のみちを、期せずして開いたのであった。これを起点として、裁判所の関与をつうじて表現の自由(およびその他の市民的な諸自由・平等・福祉)に関する憲法体制が、新しく形成されることになるのである。

次回に続く。