死刑に直面する人たち 佐藤大介

 

ドキュメント 死刑に直面する人たち――肉声から見た実態

ドキュメント 死刑に直面する人たち――肉声から見た実態

  • 作者:佐藤 大介
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

袴田巌の精神状態

[議員時代の保坂展人が2003年に面会した際の会話]
保坂氏「今日はあなたの誕生日ですが、わかります? 67歳ですね」
袴田さん「そんなことを言われても困るんだよ。もういないんだから、ムゲンサイサイネンゲツ (無限歳歳年月?)歳はない。地球がないときに生まれてきた。地球を作った人……(=意味不明)」
神の国の儀式があって、袴田巌は勝った。日本国家に対して五億円の損害賠償を取って……」(略)
袴田巌は、智恵の一つ。私が中心になった。昨年儀式があった(略)
儀式だ……宇宙……。全世界のばい菌と戦っている。(ばい菌に)死刑判決を下している。昨年一月八日まで袴田巌はいた、もういなくなった。一月八日に全能の神である自分が吸収した。中に入っていった。私の智恵の一つ。なくなっちゃう」
 やりとりの一部からも、長期の身柄拘束によって、袴田さんが通常の精神状態を保てていなかったことがわかるだろう。

拘置所内でシャドーボクシングをしていたこともあったが、[衛生夫だった]江本さんは「そうした様子は一切見たことがないし、話に聞いたこともない」と言い切る。1980年の死刑確定後、隣接する房にいた死刑囚が処刑されたことなどをきっかけに精神のバランスを徐々に崩していったとされる。(略)
ポットのお茶だけではなく、トイレの水までも飲むようになってしまったことから、一日に摂取できる水分は二リットルと決められていたという。食事はデザートも含め、出されたものをすべてご飯にかけて食べていた。空になったごはんの容器にはお茶を入れ、最後はすべてをなめて食器を返す。袴田さんは基本的に食事を残すことはなく、たまに残すことがあれば「体調がわるいのではないか」と担当の刑務官が心配するほどだった。(略)
[普段は無口だが面会の申し入れがあると]
 「今さらなんだ!」
 「俺には関係ない!」
 袴田さんは、人が変わったように怒鳴り散らし、面会の申し出を拒否した。多くの確定死刑因にとって、面会は外部との接触ができる数少ない貴重な機会だが、袴田さんには独居房の中に作り上げた自らの「世界」を壊される時間としか映らなかったのかもしれない。(略)[江本は]袴田さんが認知症であるとの見方には懐疑的だ。(略)
 「僕らがビデオ視聴の日を忘れるとすぐに報知器を押すんです。そうして「今日はビデオの日でしょ」って言ってくる。これで認知症なのかなと思うんです。だから、試したことがあるんです。配当でデザートがあるのですが、わざと入れなかったり。そうすると「今日、デザート来てないよ」と。献立もルーティンが決まっているからわかっている。入れないとすぐに報知器。怒るわけじゃなくて「デザート忘れてない?」と。40年以上いるから当たり前ですが、刑務官以上に拘置所の生活を熟知しているんです」(略)
 「デザートで出されたイチゴ牛乳をごはんにかけて食べるのも、[〜大王といった]別の名前を願箋に記入するのも、それだけを取り出せば異常な行動に映るかもしれません。でも、気が遠くなるほど長い拘置所生活のなかで、すこしでも変化を出そうとするための行動とも考えられるのです」(略)
風呂上がりには、クシで髪をセットすることを忘れなかった。
 「自分がなぜここにいるのか考えたくないし、考えないようにしている。その代わりに、今の生活をどう謳歌するかを考えている。ここが自分の中の世界で、それをどう満足させるか。袴田さんの日常からは、そうした思いが感じられました」

確定死刑囚へのアンケート

東京拘置所内の死刑因(匿名希望)からは「皆ギリギリのところでしずかに生活しているのです。(略)一生懸命に警察検察裁判所のおかしなところを弁護人と話し戦っているのです。その一生懸命に戦っている人たちに、現行制度を答えられるわけがないじゃありませんか」といった、質問に対する抗議が寄せられた。だが、そうした声はこの一通のみで、回答を寄せた確定死刑囚たちは、時に饒舌と思えるほど、現行の死刑制度に対して意見を記している。
(略)
 「反対。自分も人を殺しておいてなんですが、だからこそわかることもあります。人の命はこわれてしまえば、二度ともどすことができない。死んでしまって、なにがつぐないでしょうか? 死ぬことが、つぐないになるのでしょうか」(匿名希望)
 「反対。人間の生きる権利を残酷に根こそぎ奪うものだから」(坂口弘
 「反対。人は変わり得るものだから」(連続企業爆破、大道寺将司)(略)
 「絶対反対。自分が死刑確定者だから反対というのではなく、恣意的にこれが適用、運用されているからです。三名殺害で無期、一名殺害で死刑。実際にこのような裁判は存在します」(福岡・強盗殺人放火、尾田信夫)
(略)
 さらに、執行方法についての質問では、回答した78名のうち44名が見直しを希望していた。「(絞首刑は)最も野蛮で非人道的な殺し方」(山野静二郎)(略)
 44名のうち25名は、執行方法を絞首刑から、米国などで採用されている薬物注射に変更するよう求めていた。(略)
強盗殺人の倉吉政隆死刑囚も「絞首刑でも三〜四分で逝けるので、どうってことはないけれど、人としての心で考えたら執行までの期間を何十年も苦しんで、その償いはしていると思うので、薬物注射の方がいいのではないでしょうか」との考えを述べている。実際に執行に携わる刑務官の負担軽減を理由に「自らが薬物注射のスイッチを押す」(宮前一明)との方法を提案する回答もあった。
(略)
庄子幸一死刑囚は「舌骨が折れ眼球が飛び出し、口中、耳鼻孔より止めどなく血が流れ、一本のロープに吊されて死が確定するまでくるくると身を回転させ、けいれんを続け、絶命する時間をいつも想像している」と記述している。「身体の損壊がない執行(をしてほしい)」とも書き、絞首刑に処されることへの恐怖心を露わにしていた。
(略)
[1970年代前半までは執行前日や二日前に告知されていたが、自殺者が出て当日言い渡しになった]
[回答者の六割が事前告知を求めたが]一方、事前告知は不要と回答したのは四名だった。倉吉政隆死刑囚は「別に知らせてもらえなくても、その時期が来ればそれなりに感じ、自分で自然と悟ると思いますので、その日が来るまでは普通通りに生活をしていれば、死刑だの執行だの考えて悩むようなことはないと思います」と、淡々とした筆致をみせる。(略)
女性二人殺害の兼岩幸男死刑囚は「(事前告知を)してほしい、してほしくないのどちらも嫌である。事前告知されたら自殺を考えるだろうし、突然執行されるのもその時に何をするかどんな行動をとるかわからない」と、揺れる心境を書いている。
 男女二人刺殺の中山進死刑囚は「私は、大人しく殺されてやらない。一生、忘れさせない」と、激しい感情をアンケート用紙にぶつけていたが[2014年病死]。

執行の日

確定死刑囚の首にロープがかけられてから踏み板が外れるまでは、わずか数秒程度。「この時間をすこしでも短くしてやることが、我々が死刑因にしてやれる精一杯の施し」と、執行に立ち会ったことのある刑務官は話した。
(略)
[落下してきた体が大きく揺れぬよう刑務官二人で抱きかかえ]さらに、ロープのねじれで体がきりきり舞いにならないようにし、立会人の方に向かせて静止させる。この「受け止め役」は死刑執行に立ち会う刑務官のなかでも最も敬遠される仕事で、拘置所幹部に指名された際、泣き顔になりながら「勘弁してください」と懇願したベテラン刑務官もいたという。(略)落下してから死亡確認までは15分ほど(略)
知らせを受けた肉親は、すぐに遺体を引き取りに来るケースもあれば、引き取りを拒否して無縁仏として供養されることもある。
(略)
[当日]「拘置所の職員全体に、どこか重苦しい雰囲気が漂います。誰が執行に立ち会ったかなどは、長く務めていればだいたいわかるものですが、刑務官同士で死刑の話題に触れることはありません。触れたくないというのが正しいでしょうか」(略)
元死刑囚を知る関係者は、執行後、担当の刑務官が「辛い」とこぼしながら、独房の遺品を整理していたことを鮮明に覚えている。
 「(元死刑囚は)部屋をいつもきれいにしていて、対応も素直でね。壁には子どもや家族の写真を貼っていて、おとなしく過ごしていた。やったことは凶悪だけど、普段接していると情は移るよ。いつも見ているのは、そんな素直なやつでしかないんだから。(執行は)ただ悲しいとしか言えない。悲惨だよ」
 その元死刑囚は刑場に連行され、目隠しや手錠をされる直前になり、抵抗をしたという。関係者は、かみしめるような口調でこう話した。
 「最後になって、やっぱり嫌だったんだろうね。でも、暴れられると刑務官も嫌なんだよ。押さえつけて手錠して縛ってなんて、誰もやりたくない。できれば、素直に応じてほしいんだよ……」(略)
[刑務官のそうした気持ちを知っているある死刑囚は]
 「名古屋での執行のとき、(刑務官が)苦しそうに辛そうに仕事をしておられ、執行があったのは(ニュースで)知っていたため、願い事など当時はいろいろとたのんでいたために、大変だと思ったので、私は今日は願い事とかいいので一日ゆっくり休んでくださいと言ったところ、今にも泣きそうな状況で「ありがとう、そんなこと言ってくれるのお前だけだわ」と言って、ポロッと「長いつきあいの奴を、なんのうらみもないのに……」と帰って行きました。国民は刑務官のこのような苦悩を知りません」

松田幸則の母

 松田元死刑囚は、執行の直前に母親へ送った手紙に「(執行の)順番が近づいてきている」と書いていたという。だが、死刑執行への恐怖などには触れず、母親への感謝の気持ちを綴っていた。
 「「母ちゃん、好きなもの食べて、元気でおって」っていうてな。「母ちゃんは自分にばっかりお金を送ってくれて、いつも感謝しとる」って。いつも感謝しとったです。私も精いっぱいなことをしたんでな……」
 拘置所で息子と対面し、霊柩車に遺体を乗せるとき、拘置所の看守が母親に言った。
 「模範囚でした。いつも笑顔で、頭が低かった」
 別の看守も「私は松田に教わりました」と語りかけてきた。松田元死刑囚は、立ち会いの拘置所幹部や看守らにそれぞれお礼を述べ、静かに絞首台に立ったという。「お母さん、最期は立派でしたよ」。母親は、拘置所幹部にそう言われた。
 「こぎゃんうれしかったことはないと、泣いたですたい。来てよかったと思ったですたい」
 視線を落としたまま語す母親に、少し間を置いて「そうした言葉を聞いて、お母さんはどう思われましたか」と尋ねた。母親は、一瞬視線を上げて目を合わせ、それからまたうつむいて「私は……本当はですね……」と言葉を続けた。
「ほんとは、[踏み板を外すスイッチの]電気を押しなった人たちに、どぎゃんした気持ちで押しなったですかと聞こうかと思ったですたいね。ばってん、もう、できんかったですたい」(略)
 「でも、仕事上、仕様がなかったですもんな。電気のスイッチ押すのはな。そんなの聞いても、返事はできんもんな。仕様がなかったもんな」

名古屋アベック殺人事件

[6人組(未成年5人)で、デート中の男女を鉄パイプ木刀で暴行、女性を強姦、連れ回したあと絞殺]

 殺害方法は、「このたばこを吸い終わるまで引っ張ろう」と話し合いながら、綱引きのようにしてロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。
(略)
[新聞記事]文中の「A」は、中川政和受刑者のことを指す。
 「「死刑、出ますか?」と判決前、拘置所へ接見に訪れた弁護士に不安をもらしていたAの顔色が、この日午前10時50分すぎの死刑宣告でサッと変わった。(略)
 小島裁判長の声が「冷酷、残忍、非道」と罪を指弾するにつれ、少年たちのイガグリ頭がうなだれ、うつむき、二人の少女の長い髪が揺れた。
(略)
[死刑判決まで罪の意識は薄かった]
[面会した母は話す]
「たいしたことないって感じなんです。未成年だからなんともならない、という考えがあったんでしょう。「どうしたのか?何かあったのか?」と尋ねても、ただ笑っている。ショックでした」 その印象は、別の日に面会に訪れた弟、健一さん(仮名)も同じだった。
 「会ったら「(自宅の)車をきちんと整理しておいてくれ」って言うんです。すぐにでも出られて、正式な裁判を受けるとは思ってもいなかったんでしょう」
 健一さんの言葉からは、中川受刑者が犯行当時「未成年だから厳しい刑罰を受けることはない」「すぐに釈放される」と考えていたことがうかがえる。
(略)
君江さんは振り返る。
 「死刑になりそうということになっても、面会では「もう疲れた」「もう(死刑で)いい」と、そんなことばかり言っていました。(略)
 当時の心境を、中川受刑者は関係者へ宛てた手紙の中で、こう記している。
 「一審で死刑判決を受けたときの私は、ある意味でもう人生を投げていて、どうせ悪くされるのなら思いきり悪のまま死んでいくしかないと思い、生きることに対しての執着はほとんど持っていませんでした。被害者のお二人に対しても、かわいそうなことをしたという気持ちはあったものの、自分でやっておきながら、本当にまるで他人事のような気持ちしか持っていなかったことも事実です。(略)
「[母から、死刑になれば楽になるだろうけど]それは本当に罪を償ったことにならない。生きていくことが、本当に罪を償うことになるんじゃないのか[と諭され、自分の犯した罪と向き合い、生きることの意味を問い始めるように。反省の態度が認められ、高裁で無期懲役、検察の上告断念で刑確定。作業賞与金を積み立て謝罪文を添えて被害者に送る。そして被害女性の父から返事]。
(略)
「橋本様が私の共犯者たちにことごとく裏切られているということは私も知っておりますので、橋本様からお便りをいただいた時には本当にとてもおどろき、又、とてもありがたいという気持ちと、とても申し訳ないという思いで一杯でした」
 中川受刑者の両親は、殺された二人の家族に賠償金をそれぞれ二千万円支払うことを決め、退職金やローンを利用して捻出した。だが、事件に加わったほかの五人の家族からは、賠償金の支払いはされていない。また、社会復帰した元被告人からも、遺族への謝罪は一切ないという。その現状を、中川受刑者は「裏切り」と表した。
(略)
橋本さんはアパートの一室に一人で暮らしていた。事件後、住んでいた家は売却し、妻は病死。自らも体調を崩して、入退院を繰り返した。事件の前後で、その生活は大きく変化していた。
 「世の中は加害者が中心なんですよ。だって、死んだ人間はなにも言えないし、帰ってもこない。そのなかで、被害者は苦しまなくてはならない。(中川受刑者)以外の加害者から、謝罪などはなにもないし、そうした連中が許される社会になっているんです。この世から、本当に殺生がなくなってほしいと思いますよ」(略)やや疲れた表情を見せながら、橋本さんは「殺生がなくなってほしい」と何度もつぶやいた。(略)
 「(略)刑務所の中にいるといろいろ苦労もあるだろうし、寂しい気持ちもあるだろうから、何か声をかけてやろうと思って送ったんです。彼を許したわけでは決してない。絶対に許すことはないですよ」
(略)
 「(中川受刑者に)更生してほしいとか、そうなったら私も救われるとか、そういうことを考えて手紙を書いてはいません。ただ、彼が謝っているのもわかる。それは事実でしょう。そして、娘が帰ってこないのも事実です。彼は、一度死んだ人間。そこから、裁判で判決が決まって、刑務所の中で一生懸命がんばっている。そのことは受け止めています」
(略)
[文通を始めたのは]
「手紙の中に、父が死んだということを書いてあったんです。本当かどうかはわからなかったけれど、そのことが、自分の中できっかけになったのかもしれませんね。彼も、自分の子供みたいな年齢ですから」(略)
 「いろんな気持ちが起きるんです。仏と鬼の両方の気持ちを持っている。それが人間でしょう」[橋本は仮釈放の許可を担う組織に中川の社会復帰を促す手紙を書いた](略)
直後に中川受刑者へ出した手紙には「君の気持ちは僕の身に突き刺さるほどよく分かりました。その気持ちを永遠に忘れることなくお願いします」と書かれていた。

次回に続く。

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