浄瑠璃を読もう・その2 橋本治

前回の続き。

浄瑠璃を読もう

浄瑠璃を読もう

 

「恋愛への衝動」をどう考えていたか

 前にも言ったが、江戸時代の人形浄瑠璃に登場する「お姫様」の仕事は、「恋をすること」である。ただもう一途に恋をする。はたの迷惑も考えず、「逢わせてたべ」と泣きすがる。「お姫様」ばかりでなく、「若い娘一般」がそうである。江戸時代というと、「不義はお家のご法度」で、社内恋愛は厳禁である。だから、武部源蔵と戸浪は、菅丞相の邸を追放になってしまう。菅丞相の処置は江戸時代一般の常識を純化したものだが、その家のお姫様である苅屋姫は、自由奔放である。「厳格な父のあり方に反発して」という、現代にありがちの言い訳が、彼女の中にはない。
(略)
 一体、「モラル第一主義」でもある江戸時代は、その制約からたやすく脱してしまう「恋愛への衝動」を、どう考えていたのだろうか? 果して江戸時代に、「恋愛は自由」だったのだろうか?それともいけないことだったのか?(略)
あまり感心されない娯楽の雄である人形浄瑠璃や歌舞伎は、この「恋愛」を大きな主題として掲げるが、それは、窮屈な体制社会に対して、「恋愛は自由だからどんどんしなさい」と訴え続けた、思想運動の成果なんだろうか? 答は、もっと現実的である。江戸時代人は酸いも甘いも噛み分けた「大人」だから、そんな単純な考え方をしない。「恋愛の衝動は誰にでも訪れる。しかし、それが幸福な形で結実するかどうかは分からない」という、いたってノーマルなジャッジをするのである。

「明確なる状況認識」と「覚悟」

[伝聞と噂だけで情報収集が容易じゃない江戸時代]
だから情報分析の方が重要で、自分に関わりのある人物の情報であればこそ、その断片を耳にしただけで「核心」にピンとこなければならない――つまり「人に聡い」のである。
(略)
情報量の少ない社会で生きるには、自分が直接間接に関わりを持つ人の「ありよう」を把握しておかなければならない。それをしなければ、自分の生きている社会は、壊れるかもしれないのである。だから、情報分析が重要になり、「自分が経験したこと」を洗い直して、情報分析が可能になるデータベース化しておかなければならない。これが出来るのが「バカじゃない」で、出来なければすなわち「バカ」なのである。
 バカじゃ困るから賢くなれ――これを観客に言い続けるのが、江戸時代の人形浄瑠璃である。だから、深い。『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助と加古川本蔵は、山科と鎌倉に離れて住んでいても、「相手はきっとこう考えるはず――こう考えるべきはず。そうでなければまともじゃない」という分析判断をしている。その結果、「なんでもお見通しの超人的人物」になっているが、江戸時代人にとっては、これが「立派な人物」で、「人に関するスタンダード」なのである。だから、市井の名もない庶民だって、これをやる。状況分析の出来ない人間は、ドラマの主役にはなれないのだ。
(略)
重要なのは、「決断を下す」の前にある、「明確なる状況認識と分析」なのだ。(略)だから、回りくどくてややこしいものになる。「明確な状況認識があれば、事態は必ず打開される」というのは幻想で、そうだったら、頭のいいサラリーマンは会社を変革出来ているのである。明確な状況認識があったって、事態は打開されない――これは、封建的な江戸時代管理社会でも、現代管理社会でも、同じである。
 だからと言って、「明確なる状況認識」を放棄してもいいという理由にはならない。だから、「明確なる状況認識」をして分析し、その後に「覚悟」が訪れる。明確なる状況認識をして、その結論が「こりゃだめだ……」になっても、自分を包んでいる状況が動いている限り、なんらかの「覚悟」をしなければならないのである。状況認識の結果、「こりゃだめだ」をひそかに理解した人は、だからこそ、孤独の内に覚悟を決める。情報が流れない社会は、個人の認識だって、そう簡単に流通しやしないのだ。だから、人形浄瑠璃での悲劇は、突然かつ唐突にやって来る。十分な認識の結果、ある結論に達した人物は、「自分が理解してしまった決断へと至る肚の内」を、決して人に語らないからだ。だから、人形浄瑠璃の悲劇は、周囲の人間にとって、いつも「突然やって来る」になる。もちろん、観客だって「周囲の人間」の一人である。
 それは、当事者にとっては、「かねて覚悟の上」である。覚悟はしてもどうにもならないから秘され、周囲の人間にとって、「悲劇は突然現れる」になる。「悲劇」は顕われ、そうなって当事者は、やっと周囲の人間に、自分の把握した悲劇状況を説明することが出来る。だからこそ、持って回ってややこしい。そして、そこからある一つの難点さえ生まれる。唐突に現れ出た悲劇の状況を当事者が説明しても、それがあまりにも唐突だから、周囲の人間――つまり観客の中には、この経緯が呑み込めない人間が出て来る。そうして、「重要なのは、まず決断、覚悟をすること――そうすれば、説明は後からついて来る(はず)」という短絡をしてしまうのだ。江戸時代が終わり、近代になる――近代になって軍国主義の総力戦へ日本が進んでしまうのは、この江戸時代に用意された、「決断すべきものは、つべこべ言わずにさっさと決断されなければだめだ」が、短絡して受け継がれた結果だろうと、私は思っている。そういうメンタリティがなければ、あんなに極端な方向へは行かない。

近松 半二

[近松門左衛門の死の翌年に]生まれた近松半二は、二十代の初めに三大浄瑠璃の出現を目の辺りにする――三大浄瑠璃最後の『仮名手本忠臣蔵』の初演(一七四八年)は彼が二十四歳の年。『本朝廿四孝』はそれから二十年近くがたった一七六六年に登場し、彼は四十二歳になっている。
 彼が若い頃には、三大浄瑠璃の登場によって人形浄瑠璃界は全盛期を迎えているが、彼がいよいよその世界の作者であろうとする頃には、もう衰退期と言われるようになっている。歌舞伎が人形浄瑠璃のドラマを取り込み、完璧とも言えるようなドラマを生み出した人形浄瑠璃の方は、「またか――」のワンパターンに落ち込んでしまうからである。人形浄瑠璃の人気はドラマの人気で、歌舞伎の人気は役者の人気でもある。台本がイージーなものでも、役者に人気があれば歌舞伎に客は入る。その歌舞伎が人形浄瑠璃のすぐれた台本を取り入れて上演してしまえば、人形浄瑠璃に勝ち目はない。そこに登場するのが近松半二で、彼は人形浄瑠璃の人気を盛り返した人だから、「彼は人形浄瑠璃のドラマを革新してしまった」ということにもなる。
 人形浄瑠璃では三味線を相方にした太夫が物語のすべてを語る。作中人物を演じる人形達のありようは、ある意味で「運命に翻弄される」に近い。しかし、歌舞伎の舞台では、ドラマを語る太夫と作中人物のあり方は逆転する。役者の方が地位はずっと高くて、ドラマのすべてを語るはずの太夫は「ト書き語り」にまで落ちてしまう可能性があるからだ。同じドラマを演じるにしても、歌舞伎の舞台では、登場人物達がかなりの部分で、太夫の語る「運命」に抵抗してしまうのである。
 おとなしくドラマを演ずるだけではなく、相応以上に自己主張をしてしまう――それが役者の魅力でもあって、近松半二のドラマは「人形浄瑠璃のドラマを取り入れた歌舞伎」を、もう一度人形浄瑠璃の中に取り入れ直しているのである。どういうことかと言えば、それ以前の人形浄瑠璃のドラマに比べて、近松半二のドラマは、作中人物が野放しになっているということである。

『本朝廿四孝』のドンデン返し

[近松半二は、「道」の字が共通なことと、太田道灌の故事で有名な「みの一つだに悲しき」に「美濃がない」をこじつけ、斎藤道三太田道灌の子孫にしてしまい、先祖が太田道灌を滅ぼした上杉謙信に恨みを持っていることにする。足利将軍に攻められ美濃を失い]浪人中の斎藤道三は、「まだ日本に渡来していない鉄砲」を《種が島》で手に入れ、これを「献上する」という名目で室町の御所に正体を隠して参上し、将軍義晴を銃撃してしまう。(略)[さらに道三は北条と組んで]武田と上杉を滅ぼそうとしている――そういう大悪人の斎藤道三の企みを、智将上杉謙信武田信玄が力を合わせておびき出し、退治するというのが、『本朝廿四孝』なのである。
「どこまで本当なの?」とか、「斎藤道三て、そういう人なんですか?」と言ったら、もう作者近松半二の罠にかかっている。
(略)
 斎藤道三の井上新左衛門は、「この新兵器があれば、戦場で敵は皆殺しに出来る」と言い、まぬけな将軍義晴は「じゃ、射ってみろ」と言う。そしてその通りに、道三は将軍義晴を射殺してしまう
(略)
 既に斎藤遺三と意を通じている北条氏時は(略)「足利幕府の執権でありながら、将軍殺害の場に居合わせなかった責任をどう取るんだ。お前達二人が将軍暗殺を仕組んだんだろう」と武田、上杉の二人に吹っかける。
 安い喧嘩を売られた信玄の晴信は、「そんなことは企んでいない。無実だということを証明するために、息子の勝頼の首を打って差し出す」と言い、謙信の方も「謎の男を追ってどこかへ行ってしまった息子の景勝を探し出して、その首を打つ」と言う。それを聞いた手弱女御前は、「そんなせっかちなことをしなくてもいい。将軍の三回忌までに将軍暗殺の犯人を探し出せばいい。それが出来なかったら、二人の息子の首を打ちなさい」と言う。(略)そういう段取りを踏んで、話はいよいよ「本篇」である甲斐、信濃の方面へと舞台を移すことになる。
(略)
[それから三年、期限が迫る。17歳の武田勝頼は盲目の美少年。家老の板垣兵部は身代わりを探しに出ているが間に合わず、勝頼は切腹する。身代わりの蓑作を連れ帰った兵部はそれを知り、蓑作を切ろうとするが]何者かが障子の向こうから突き出した刀で殺されてしまう。兵部を殺したのは、この館の主人の武田信玄。なぜ兵部を殺すのかと言えば、「若君のお命を救わなければ――」で奔走していた兵部が、実は「お家乗っ取りを企む大悪人」だったからである。
 盲目の勝頼は、実は偽者で、同じ時期に生まれた板垣兵部の息子だった。自分の子供と主君の子供を入れ替えた兵部は、実の勝頼を信濃のはずれに養子に出して知らん顔――その子供が簑作だった
(略)
 健気な「武田勝頼」は、「親のため、家のため」を思って死んで行くが、彼は「偽の勝頼」でしかない。だから、彼の死はなんの意味も持たず、嘆かれる理由もない――そういうドンデン返しを持ち合わせて、偽の勝頼の「親のエゴによって偽の人生を歩まされた子の哀れさ」がうっすらと浮かび上がる。
(略)
 哀れなのは濡衣である。さっきまでは「悲劇の勝頼を支えるしっかり者の腰元――許されてその正式な妻」だったのが(略)
「真の勝頼=蓑作」は「将軍義晴暗殺犯の探索」を目的として、濡衣と共に信濃へと向かう
(略)
 上杉(長尾)謙信の娘八重垣姫は、許婚になっていた武田勝頼の「死」を聞かされ、その絵姿を前にして、嘆きの内に回向をしている。そこに新しく召し抱えられた蓑作が長裃姿で現れ、八重垣姫はポーッとなり、これも新参の腰元である濡衣に「知り合いなら仲立ちして」と積極的に頼み込む。
(略)
 実は濡衣は、信濃に往む「関兵衛」という人物の娘で、関兵衛は謙信館でガーデニングを担当する「花作り」なのだ。(略)
その関兵衛が、初めは「井上新左衛門」を名乗っていた「斎藤道三」だからである。濡衣は「斎藤道三の娘」なのである。そうなると話は一層ややこしくなるが、おそらく濡衣は、自分の父親が「斎藤道三」だということを知らないのだ(略)
 悪い親父の関兵衛は、自分の素姓がバレていないと思って、館の主人謙信に、「簑作は勝頼ですよ」とバラしてしまう。
(略)[だがこれは引っ掛かったと見せた上杉・武田の共同作戦で]
道三は捕まり、娘の濡衣は、この館に来ていた手弱女御前の身代わりとなって、父の放った鉄砲の犠牲となって死んで行くのである。
(略)
[舞台は三段目へ]
この「勘助」はもちろん、武田信玄の偉大なる軍師山本勘助だが、「勘助住家」と言いながら、ここに山本勘助は存在しない。(略)その未亡人である老婆が「山本勘助」を名乗っているのである。この一筋縄ではいかない婆さんの家には、二人の息子がいる。一人は、二段目に登場した「気のいい無頼漢」の横蔵。もう一人の弟の方は、かつて室町御所にいたイケメンの直江山城之助――長尾景勝に仕えていながら「謎の男」に賤の方を奪われ、腰元の八つ橋とオフィスラブをしていた困った山城之助は、主人謙信から勘当をされ、「お種」と名を改めた八つ橋と共に「慈悲蔵」と名を変え、この実家に戻って来ていた。(略)
[自分を邪険にする兄をかわいがり、親思いの弟につらく当たる母。そこへ勝頼同様腹を切らねばならない景勝が身代わりを求めてやってくる]
 そのことをさっさと理解してOKを出してしまう母親は、「横蔵なら景勝の身代わりになって首を打たれてもいい」と言ってしまったも同然なのである。つまり、「お前は可愛くない。兄の方が可愛い」と言っている母親の本音は逆で、実のところは「兄のことなんかどうでもいい」なのである。
 この母親の考えは、「兄を景勝の身代わりにして、弟の方には六韜三略の巻物を与え(元の通り)長尾家に奉公させる」なのである。[その魂胆を見抜いているので横蔵は母親に冷たくしていた]
(略)
 もちろん、横蔵は誰よりも頭がよくて、すべてを了解している。室町御所から賤の方を救い出したのも横蔵で、彼が連れて来た「どこかの女に生ませた子供」というのは、賤の方が生んだ「足利家の若君」なのである(賤の方は出産後に死亡している)。しかも横蔵は、「このままでは足利家の存亡の危機になる」と推測する智将武田信玄と組んで、彼の軍師になる約束さえしているのである。(略)
[北条の陰謀を危惧した]横蔵は、「生まれる若君」と、その正統性を証明する「源氏正統の白旗」を抱えて、室町御所から姿を消したのである。裏の竹藪に埋めてある「なにか」は、その白旗だったのである。「そういうややこしい事情も知らず、我が家の人間は長尾に臣従することしか考えていない大バカヤローだ!」というのが、「大曲中の大曲」を成り立たせる横蔵の「怒れる動機」なのである。
 横蔵は、「ここで景勝様のお身代わりになりなさい」と切腹を迫る母親の目の前で自分の片眼を潰し、「これで景勝の身代わりなんかにはなれないぞ」と言ってすべてを明かし「隻眼の軍師」である山本勘助としての名乗りを上げる。後の四役目で、斎藤道三をおびき出す段取りを仕掛けたのも、実はこの「信玄の軍師」である二代目山本勘助=横蔵だった、というわけである。
(略)
 以上、『本朝廿四孝』はこういう作品であると言って、おそらく「なるほど」と納得してくれる人間はそうもあるまい。(略)
これは、うっかりすると自虐的な考え方をしてしまう日本人に対して、「そんなにめんどくさい考え方をしなくてもいい」ということを明らかにするために作られた「無意味かもしれないドンデン返しが連続するドラマ」だからである。そうしておいてしかし、この「ドンデン返し」は、あるものの存在をあぶり出す――つまり、「親孝行って、そんなにたいしたもんなのか?」という疑問である。(略)
その元になる中国の『廿四孝』が、子供に自虐をすすめる無茶なものだということも、日本人はまた一方で理解している。そこを踏まえて、『本朝廿四孝』は、黙って「親孝行ですよ」と笑っているのである。だからこの作品は、ちょっとばかり変わっているのである。

江戸時代の観客は教育も受けていないのにどうして「歴史に関する知識」を有していたか

 今の観客は、自分の知識外のドラマを与えられると、平気で「分かんない」と言ってしまうが、江戸時代の観客は大人だから、そんなことを言わないのである。自分の知らないことでも平気で付き合って、「知っている」という顔をするのである。江戸時代の学習法は「マニュアルを与える」ではなくて、「まず実地に体験する――そうして分かる」だから、「知らない」ということは障害にならない。それを言いわけにすることが出来ない――そういう前提の上で、江戸時代のドラマ作者達は、なにも知らないかもしれない観客を、とりあえずは「知っているはず」という形で持ち上げて、「それはこうこうこういうことなんですよ」と、いつの間にか分からせてしまうテクニックを持っているのである。観客もまた、そういうものでなければ容認しない。
 だから、江戸時代の人形浄瑠璃は、「歴史に関する知識がないと分からないが、知識がなくてもかまわない」になり、「ろくに知らない人間にでも、こっちは分からせてやることが出来るんだ」と作者の方が思っているから、「細かい歴史知識」がギューギュー詰めになって、「改めて現代人に説明しようとするとややこしいことだらけ」ということにもなる。だから、「人形浄瑠璃のドラマは複雑」ということにもなる

なぜ近松門左衛門 の紹介が最後の方になったか

この私が近松門左衛門を「人形浄瑠璃の中ではちょっと変わった存在」と考えているからである。
 近松門左衛門の名は江戸時代を通して高かった。別に「忘れられた作家」ではない。だから近松半二のように、死んだ近松門左衛門に憧れて「近松」姓を名乗る作家も出て来る。しかしその一方で、近松門左衛門には「明治以降の近代になって再発見された作家」という側面もある。どうしてそういうことになるのかというと、近松門左衛門が「有名ではありながらもその作品があまり上演されない作家」になっていたからである。
(略)
[それは]近松門左衛門人形浄瑠璃が「上演しにくいもの」に変わってしまった[から](略)
[近松の時代には人形はすべて「一人遣い」だったが、死後10年経って「三人遣い」に]
三人遣いの人形は、人間以上に複雑な感情を表現出来るが、大雑把な動きしか出来ない一人遣いの人形に、それは出来ない。
(略)
 近松門左衛門の作品は上演しにくい。だからその内に、これを上演するのに必要な三味線の「譜」がなくなってしまう。そうなると、上演しようと思っても上演することが出来なくなる。(略)歌詞があっても楽譜がなければ上演が出来ない。詞章だけが残されている浄瑠璃作品は、「芸能」の面を欠落させて「文学」になるしかないのだ。
 近松門左衛門以降の作家達の作品は舞台の上で生き残り、当たり前のように上演される――そのことによって「前近代の俗なもの」と思われ、その文学価値が過小に評価されがちになるのに対して、文字だけで残った近松門左衛門作品は、これを読む者の胸を撃つ「文学」にもなる。
(略)
最初に登場した三人遣いの人形は、ワンシーンのショーアップのために出された限定的なもので、これ以前の人形には「複雑な感情表現」というものが必要ではなかった。それは、作者の書いたテキストを語る太夫が担当すればよかったのだ。
 近松門左衛門は、人形浄瑠璃の筆を執る先、初世坂田藤十郎が主演する歌舞伎の台本を書いていた。それが喧嘩別れをするような形で歌舞伎から離れ、人形浄瑠璃のテキスト執筆に専念するようになる。考えてみれば、この理由は簡単である。人間の歌舞伎役者は、作者の意図を超えた「勝手な自己表現」をするが、人形浄瑠璃の人形はそれをしない――まだ十分に出来る段階に来ていない。おそらく近松門左衛門は、ドラマの演じ手である人形達に「私の書いた人間ドラマの感情を、もっと深く緻密に表現しろ」と要求する必要を感じなかったのである。「私の書いたままに演じればよい」だったはずである。
 近松門左衛門人形浄瑠璃の主役は、人形でも太夫でも三味線でもない。太夫にその詞章を語らせる、作者の近松門左衛門である。近松門左衛門の書いたテキストには、それをさせる「作者の強さ」が歴然としてあるが、音楽劇でもある人形浄瑠璃は、しかし、「作家性を明確にさせるもの」ではないのである。
(略)
 「悲しいから泣く」というだけのことであっても、三人遣いの人形は複雑な動きをする。それは「作者の意図を超えて心理的になる」ということであり、人形がそういう動きをするものになってしまえば、音楽劇である人形浄瑠璃の者も、このことを反映する――その動きを可能にするように「音の手数」も増え、間も長くなる。それを実現するべく、詞章の方も譲歩をする。そうなってドラマは、「間延びのしたもの」と捉えられかねなくもなる――それが近松門左衛門の後である。
 近松門左衛門の作品は激しい。噛んで吐き捨てるように、ドラマは一直線に進んで行く。「情を語る」が浄瑠璃のあり方だとすると、近松門左衛門は「非情を語ることによって、そこに存在するはずの情を暗示する」というような書き方をする。(略)
 近松門左衛門は、世界を統率する絶大なる認識者でもある。しかし、自身の感情表現を獲得してしまった「三人遣いの人形のドラマ」を綴るその後の作者達は、人形達の動きに翻弄されでもするかのようなドラマを書かなければならない。人形浄瑠璃のドラマが「くどくどと語られる情の緻密さ」によって形成され、屈曲した構成を持つようになったのもそのためで、「作者のあり方が後退した」ように思われてしまうのもそのためだろう。しかし、人形が独立した感情表現を獲得したことによって、人形浄瑠璃のドラマは「テキストに書かれていない深み」を獲得したことも事実で、日本人のメンタリティの深層部はこれを共有することによって形成されて来たとも思う。そのように、「近松門左衛門ばかりが特別な作家ではない」と私は思うから、偉大なる近松門左衛門の出番はこんなところにもなるのである。

世話浄瑠璃と時代浄瑠璃

 時代浄瑠璃を書く近松門左衛門は、リアリストなんかではない。時代浄瑠璃を書く近松門左衛門は、荒唐無稽な構想を案出するファンタジー作家である。そうなる理由は簡単で、時代浄瑠璃というものが、そもそも「旧知である――あるいは旧知であるはずの歴史を改変して、そこに江戸時代人魂のドラマを嵌め込んでしまう」という前提にのっとっているからだ。
(略)
 世話浄瑠璃は、時代浄瑠璃ではない。つまり「固定された枠組」がない。「現在」が舞台である。そこは、「義理と人情」によって出来上がっている世界であるかもしれない。しかし、世話浄瑠璃の主人公達は、そこからはみ出してしまうことによって、「自身のドラマ」を提供することになる。だから、近松門左衛門の創出した世話浄瑠璃の世界は、「義理と人情によって調和的に成り立っている世界」ではないということである。現実の中にいて、現実からはみ出してしまった人間達の物語が世話浄瑠璃になる――創始者近松門左衛門の世話浄瑠璃は、そうしたものである。
 だから、「義理と人情」をそこに見出すことには、ほとんど意味がない。見出されるべきものは、いつの時代にも存在する「調和的な現実からはみ出してしまう人間達」であり、「調和的な現実からはみ出しても不思議がないようなものを抱えている人間のあり方」である。リアリズムとは、そうしたものを描き出す段取りなのであろうと、私は思う。
(略)
 なにしろ、寄っかかるべき「物語」という枠組みはないのである。主人公が動いて行く、そのこと自体が「物語」を構成するように組み立てるしかない。だから、近松門左衛門の手は写実にしかならない。
(略)
 その主人公の周辺データは「描写」となって積み上げられる。しかも主人公が「破綻」というところへ行ってしまった人間である以上、その「描写」の一々も破綻というところへしか行き着かない。哀しいことに、現実を取り仕切る「義理と人情」によって調和的に出来上がっている世界から、人間はうっかりと足を踏みはずすことがあり、そうした人間の物語は、救いのない「破綻へ至る物語」にしかならないのだ。
 それを書く近松門左衛門は、冷淡に近い突き放し方をして、物語を「物語」たらしめるように、ディテールを明確かつ淡々と積み上げて行く――そしてその途中で、「なんという哀れな、愚かしい……」という感慨が生まれる。
(略)
物語は、虚と実の間に存在する微妙なズレの中に作者が立つことによって生まれるのだ。
(略)
「物語」を生きる中で、主人公は愚かな選択をする――あるいは、愚かな選択を続ける。それを「哀れ」と思う作者は、どこかでストップをかけさせたいとも思う。しかし哀れなことに、その主人公はもう「破綻へと至った物語」を生きてしまったことによって、「物語の主人公」となっているのだ。今更その「愚かな選択」を止めようがない。
 かくして主人公は、一気呵成に破綻への道を滑り落ちて行く。作者はそれを見守るというわけではない。近松門左衛門は、そのようなサディストではない。そうなって行くしかない経緯を、冷静かつ明確に記して行く。だから文章は、熱を持った嘲笑のように冷たくもある――決して美しくはない。それでいい。そうならないと物語の終着点へ行きつけない。その終着点とは、「なんと哀れな――」の一言である。