メイキング・オブ・サージェント・ペパー・その3

前日の続き。

メイキング・オブ・サージェント・ペパー

メイキング・オブ・サージェント・ペパー

 

アルバム・カヴァー

 そもそも初めにポールが考えていたのは、ビートルズが公園でロンドン市長か誰かそういった人から公式の紹介を受けるというものだった。北部のあちこちの公園に実際にあるような大きな花時計のうしろに彼らは立つことになった。この架空の公園には素晴らしい群衆がいる――架空の観客が見たり聴いたりしているのだ。ジョージ、ポール、ジョンは3人が希望するキャラクターのリストを[デザイン担当の]ピーター・ブレイクに渡した。(略)
 ジョン・レノンが選んだのは、黒魔術師のアリスタークロウリーアドルフ・ヒトラーイエス・キリストリヴァプールフットボール選手アルバート・スタビンス(実のところジョンはスタビンスが何者か知らなかった。父親が彼を好きだったことを知っていただけだ)といった人たちだった。ヒトラーのような人物をリストに入れたのは単にいたずら好きだからで、断じてヒーローなんかではない。キリスト発言が物議をかもしたあとだけに、これらの人物が使われないだろうことを、ジョンは百も承知していた。彼はただちょっと試してみただけだった。(略)
ジョージはもちろん12人のインドの導師を入れたがった。リンゴは「みんなに任せるよ」と言ってリストを作らなかった。彼らは私のヒーローを聞いてくれなかった。もし聞いてくれていたら、J・S・バッハとR・J・ミッチェル(スピットファイアー戦闘機の設計士)が加わっていたことだろう。(略)
 ソニー・リストンとダイアナ・ドーズの蝋人形を置いたのはピーターだった。(略)
 ビートルズはパッケージ代としてロバート・フレイザーに1500ポンド支払った。フレイザーはブレイクとハワースに200ポンドの下請け料を支払った。
 ブレイクは路上アーティストのジョー・エフグレイヴに、想像力に富んだ楽しい絵を2台のドラムの皮に描いてくれるよう頼んだ。(略)
 有名な“マリファナ・プラント”の中にT・E・ローレンスの胸像がある。(略)先端のとがった小さくて緑色をした問題の植物はカナビスというインド大麻であると、いろいろな方面で非難された。実はこれは非常によく秘密が守られた冗談だった。本当のラテン語の名前はペパロミアだ!(略)
 そのほかの植物については容易に確認できる。ヒアシンス、アジアンタム、ケンティア・ヤシ、アゼリア(略)
 とにかく、これらの草花が植物学上怪しいものであるはずはない。なぜかと言えば、これがロンドンのメイダ・ヴェイルに古くからある有名な園芸店、クリフトン・ナーサリーズから届いたものだからである。その店が畏れ多い草を配達するようなことはしないだろう!(略)
 植物を配達してきた3人の青年の中で一番若い男の子は大のビートルズ・ファンだった。彼は自分もカヴァーに貢献させてもらえないかと頼み、写真の最前部に黄色いヒアシンスでギターを型作り、その上に緑色の支柱を置いて弦に見立てた。このギターの形をした花が“ポール”と読める――ポールの“死”を証明しようとしている人たちはそう言った。
(略)
 ビートルズはこうした人たち全員の顔や姿を載せたがったが、著作権の問題についてはまったく考えていなかった。私はトラブルになるとわかっていた。(略)
[以前スコットランド人アーティストのアルバム・カヴァーに、キルトをはいた男性が壮大な高地を悲しげなまなざしで見つめている素晴らしい写真をエイジェンシーを通じて入手して使ったら、後日スコットランドの下院議員から訴訟を起こすと迫られ、EMIから大目玉を食らった]
 このような経験があったので、EMIの社長、サー・ジョセフ・ロックウッドが、提案された《ペパー》のカヴァーを一目見るなり、「たわけたことを。これじゃだめだ」と言ったのを、しごく当然のことだと思った。
 「これでいきます」とビートルズは答えた。(略)
「OK、そんなにやりたいのなら、必ずきちんとした手続きをとってもらいたい。EMIはいっさい責任を負うつもりはないからな。それに、何があろうと何人かの顔は外してもらう。まずはガンジーだ。インドにはいくらでも問題があるんだから、これ以上ひっかき回すことはない。それからヒトラーは断じて許さん」
 「わかったよ」サー・ジョーの厳しい条件を伝え聞いたポールは素早く言い返した。「マーロン・ブランドふたりとガンジーひとりの交換っていうのはどうかな」

ロックvsシンフォニー

 《ペパー》で我々が開発したあらゆるプロダクション技術をジョンが気に入っている、と私は思っていたのだが、間もなく彼はそのやり方に反発するようになってきた。彼は彼が言うところの“誠実”なレコーディングに戻りたがった――言い換えれば、彼はできるだけライヴ・パフォーマンスに近いレコードを作りたがったということである。私たちはステージの演奏をレコードにしようとしたのではなくて、音でちょっとした映画を作ろうとしたのだ。そのように私は考えていた。(略)
 当時私は彼らにこう言った。「交響曲のように考えるんだ。異なったキーでも呼び戻すことのできる主題を考える。対位法を考える。ひとつの歌を別のもうひとつの歌と対比するように置くことを考える。そうすれば思わぬ相乗効果が得られるものだ――どれもきみたちにできることばかりだよ」だが、ジョンはそのいっさいを否定した。
 「そんなのぼくにとってはロックンロールじゃないよ、ジョージ」と彼は言った。「ロックンロールっていうのはグルーヴがあってこそいい歌なのさ」
 一方、ポールは、“継ぎ目のないシンフォニー”(略)という考え、つまり我々が《ペパー》で思いついたような考えを本当に気に入っていた。こういう理由で《アビー・ロード》の1面はジョンの望んだ通り(略)2面にはポールと私でさらに《ペパー》のスタイルを継続(略)
 《アビー・ロード》に取りかかった頃には、狂乱の年月が過ぎ去っていったので、ジョンは喜んで2面を手伝ってくれた。彼は結構歌を書いてくれた! 〈ビコーズ〉は彼の最高傑作のひとつに入る。問題は何も起こらなかった。だが彼はやはり徹底したロックのほうを好んだ。

まだ許してくれないリンゴ

今日までリンゴは、ビートルズの初レコーディング・セッションで彼に演奏させなかった私を、決して許してくれなかった。(略)
[30年経つが]我々が会うと未だに波風が立つ。どうしてこんなに長びくのか驚かされる。
 〈ラヴ・ミー・ドゥ〉にはふたつのヴァージョンがある。リンゴがドラムを叩いたシングル・ヴァージョンと、アンディ・ホワイトがドラム、リンゴがタンバリンを叩いたアルバム・ヴァージョンである。アメリカでは《レアリティーズ》が発売されるまで、リンゴのドラミングは日の目を見なかった。
(略)
[私はエプスタインにピート・ベストは首だ、セッション・ドラマーを呼ぶと伝えていた。ビートルズの3人も同じ結論だったことをエプスタンが伝えなかったので、スタジオに]
 リンゴが現れたとき、私は彼をいったい何者なのかと思った。[その技倆をはかっている時間はなかったので、アンディに叩かせ](略)
リンゴには残念賞としてタンバリンを与えた!(略)
 のちにリンゴに演奏してもらったところ、彼がとても素晴らしいことを知った。(略)
 リンゴは昔からずっとユニークなドラム・サウンドを叩き出してきた。彼の声と同じくらい独特のサウンドだ。(略)
[ポールの《タグ・オブ・ウォー》でスティーヴ・ガッドとリンゴの]演奏は同じマイクでひとつのトラックに一緒に録音された。
 サウンドの違いは驚くほどだった。リンゴはゆったりした太くてユニークな音を生み出した。彼はバス・ドラムの音をさらに太くしたがったために、テープ・スピードを変えることがしばしばあった。このようにドラムの音色にこだわるところが彼の素晴らしさのひとつである。(略)
 ぼくは大のビートルズ・ファンだった。彼らはアルバムごとに自分たちを磨いてきた。例えば、特に《ラバー・ソウル》とそれ以降は、何よりもドラミングが変った。そのアルバムの前まで、ロックンロールにおけるドラムの“フィル・イン”は基本で、どれも似たようなものが多かった。だけどこのレコードにはスペース・フィル――ぼくはそう呼んでいるんだけど――があるんだ。そこにはものすごい雰囲気が残されている。そこが音楽的に一番ぼくにアピールした。それにドラムのサウンドがずっとよくなってきた。そこで今ぼくが考えなければならないのは、あんな音を出すドラムをどうやって手に入れるかってことだ。――アル・クーパー
リンゴは優れたタム・タム・プレイヤーでもあった。〈ア・デイ・イン・ザ・ライフ〉ではリンゴのタム・タムをかなりフィーチャーした。おそらくこれは、このアルバムで聴ける、いや、ビートルズの全作品で聴ける彼の最高の演奏といえるだろう。

DI導入

 ビートルズのアルバムでは初めて、マイクとアンプの代わりにダイレクト・インジェクション(DI)・ボックスを使い、ギターとレコーディング・ボードを接続してポールのベースがレコーディングされた。それは、目立たないところで黙々と働きつづける天才技術士、ケン・タウンゼンドが、急場しのぎにやってくれたものだった。DIボックスは我々にとって初めての試み、まさに大発見だった。これによって我々はベース・ギターを思いのままに“料理”できたのである。
 新し物好きのジョンが言った。「それ、いいねえ、ほかの楽器も全部やってみようよ。それにあんなふうにうたってみたいなあ!」
 「あのねえ、ジョン」と私は答えた。「きみの声を直接ボードに入れることはできるけど、ひとつ小さな問題があるんだよ。きみにちょっとした手術を受けてもらって、首にプラグの差込み口を取りつけてもらわないとね」

67年6月25日〈オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ〉

全世界同時中継

 私個人にとってあの放送は、混乱に満ちた恐怖の7日間を締め括るものだった。あの週、ジュディと私は小さなアパートから引越した。そのアパートはやがて生まれてくるはずの子どもにふさわしくなかったからだ。私は『ア・ハード・デイズ・ナイト』の映画音楽のギャラを貯金しておいたので、それをハイド・パーク・スクエアから少し離れたところにある家の購入資金に充てた。私たちは6月24日の土曜日に引越した。
 その前の週末、私の父が胸を患って入院した。父は84歳の老人だが、これまで病気をしたことがなかった。私は毎日見舞いに行き、彼は回復しているかに見えた。体力は衰えていたが、気持ちは負けていなかったのだ。6月20日の朝、私はいつものように彼を病院に見舞った。私が病室に入ろうとしたとき、シスターに呼び止められた。「残念ながらお父さまは今朝早くお亡くなりになられました」そう彼女は言った。そういう事だった。私の人生は文字どおり粉々に砕けた。信じられなかった。私はよろめき、涙で目がかすんだ。愛こそはすべてである。

ブライアン・エプスタインの死

《ペパー》が終われば我々の生活も一区切りつくと私は思っていた。(略)
 6月いっぱいにかけて〈マジカル・ミステリー・ツアー〉と、〈オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ〉のレコーディングを済ませると、7月はビートルズのレコーディングからやっと解放された。(略)
8月9日、私たちの初めての子ども、ルーシーが生まれた。(略)
 ビートルズの4人はマハリシに会いにウェールズに行っていた。そこで私たちは、その週末に当たる8月25日、初めてルーシーを抱きしめて心を跳らせながら家族だけで田舎へ出掛けた。(略)
 日曜日、私たちは早めの昼食をとりに村のパブヘ出掛けた。私たちが店へ入っていくと、急に静まりかえった。私たちはすぐに何かおかしいことに気づいた。店主が私のほうへ身を乗り出して小声で言った。「お友だちが亡くなられました」「えっ?」私にはなんのことだかさっぱりわからなかった。
 「エプスタイン氏です」と彼は言った。「ブライアン・エプスタイン氏です」
(略)
[結婚した時、ブライアンはジョージ夫妻とビートルズカップルだけのディナーパーティを開いてくれた]
みんながナプキンを広げると、ブライアンは参列者を見回しながら言った。「さて、みなさん、食事が終ったらみなさんのナプキン・リングをジュディとジョージに戻して下さい。そのわけはそこをご覧に……」彼は急に言葉を切ると、うれしそうに私たちを見た。私たちが小さなリングに目をやると、それぞれに“M”という字が彫られていた。この食事の席で我々11人組を賛えた11個の銀のリングは、今でも大事にしまってある。
 とても素敵なことだ。彼はそういう人だった。寛大で想像力に富み、衝動的。私はそのパブに立ちつくしていた。何も見えず、何も聞こえなかった。突然、なんの前ぶれもなく彼が死んでしまった。どうしても実感がわかなかった。
 いったいどうして彼が死んでしまったのか、私は納得がいかなかった。最後に彼に会ったとき、彼はとても元気だった。それに彼はまだ若い。まったく説明がつかなかった。(略)
 ブライアンは自ら生命を断とうとしたわけではない、と今でも私は信じている。もしそうだとすれば、彼はもっと華々しくやっただろう。いわば彼は賑やかに去らず、めそめそと泣きながら去っていった。だがブライアンはショウマンなのだ。彼が自分の死を計画したのなら、あのように人目を忍んだ大胆さに欠けるやり方はしなかったろう。
(略)
 彼は前に自殺を図ったことがあったが、必ず失敗するように注意していたし、誰かの目に留まるところに助けを求めるメモを残していた。その夜もいつものように薬を飲んでいたのは明らかだ。彼はピルを常用していた――一日をスタートさせるための覚醒剤、眠るための睡眠剤。酒も飲んでいたようだが、そこがいつもと違っていた。
 私は、その夜彼がとても疲れて帰宅し、睡眠薬を2錠飲んだのだ、と思っている。ところが深夜に目が覚めてこう思ったのだ。「夜が明ける前にもう少し眠っておかなければ」そしてさらに2錠口に放りこんだ。しかしながら彼は目を覚まさなかった。
(略)
 私たちは全員葬儀に参列した。シナゴーグユダヤ教の礼拝堂)に入ってきたときのビートルズを、私は今も忘れない。ショックのあまり顔は青白く引きつっていた。ブライアンに敬意を払って、4人は頭にヤムルカをかぶった。その小さな丸い帽子は彼らの洗い髪からすぐに滑り落ち、それを彼らの後ろにいたウェンディ・ハンスンが拾い上げて4人のモップ頭に戻す。これを何度もくり返していた。その様子を見ながら、私はなぜかとても悲しくなり、やりきれなかった。
 ジュディと私がロンドンの家へ戻ると、ブライアンを痛切に思い出させるものが待っていた。(略)[娘の誕生を祝う]大きな花束がジュディ宛に送られてきたのだ。メッセンジャーは留守であることを知ると、そのまま玄関前に置いていってしまった。花は、ブライアンのように、死んでいた。

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