文字化けするので「トウ」にしました。
エズラ・F・ヴォーゲル・インタビュー
聞き手=橋爪大三郎
- 作者:エズラ.F・ヴォーゲル,橋爪 大三郎
- 発売日: 2015/11/19
- メディア: 新書
毛沢東の「反省」
毛沢東はおよそ一切、「反省」というものをしないひとなんでしょうか?
ヴォーゲル 頭のなかで、少しは反省しただろうとは思うんです。だけど、そういうふうに、おおやけに言わない。(略)
ただたとえば、だいぶあとになりますが(1972年)、陳毅の葬式のとき、彼はいい男だった、と。陳毅は(略)人気の高い指導者ですが、文革のあいだ残酷に攻撃された。
あれほど批判されたのは、毛沢東の意図に決まっているのだが、毛沢東は、四人組のせいだということにした。だけれど実際に、毛沢東の資料をみてみると、この件は間違ったと思っていたようなのです。間接的に、自分は間違ったという態度をみせる。でも、おおやけには四人組が悪いとする。そういう意味で、陳毅はいい男だなあ、と言ったんですね。
毛沢東が文化大革命を発動した理由
[ひとつは自分の地位を保とうとした]
もうひとつは、毛沢東が、党内の官僚主義を克服しなければ、と思ったこと。共産党も長く続けば、国民党や、前の支配階級みたいな組織になってしまって、ふつうの国民から遊離する。それでは国民は、怒ってしまうだろう。(略)[そこで]大衆運動を使おうとした。
もうひとつは、反腐敗ですね。(略)そこで、みんな協力して、腐敗と戦う。
毛沢東のやり方は、それを順番にやる。まず数人を対象とし、ほかのひととは全部協力して、その数人を倒す。倒してから、また次の数人、とか。
――文化大革命というと、紅衛兵が出てきて勝手に暴れ回るというのが、一般のイメージだと思います。でも、最近出た本(王輝『文化大革命の真実』)などから私が理解したのは、文化大革命のプロセス全部を通じて、党中央(特に、毛沢東や、文化革命小組)からのコントロールが、ずっと効いていたということです。党中央からの線、権力のラインは、混乱のなかでも、ずっと生きていた。(略)
ヴォーゲル ボクは最初、そういうふうに見ていたんですね。(略)
[ところが]毛沢東は完全に紅衛兵を指導することはできなかったんですね。非常な混乱が起こった。自分でも収拾がつかなくなった。そもそも毛沢東は当初、文化大革命が10年間も続くと思っていなかったんですね。もう少し早く、区切りをつけるばずだった。だけど、党の幹部たちは、[批判の矢面に立たされることを恐れ]自分を守るために紅衛兵を使ったんです。そこで、紅衛兵の組織が乱立して、組織と組織の争いが起き、大混乱になってしまった。
67年の夏には、紅衛兵の衝突が繰り返されて、損害も大きくなった。そこで、林彪の軍隊を使って、収拾をはかるほかなくなったんです。
トウ小平のライバル
57年モスクワに行った毛沢東は、トウ小平は非常に将来がある、と考えていた。たぶん後継者になるだろう。(略)
で、ボクがトウ小平の娘と話したら(略)ほかのすべての将軍と関係がいいけれど、たった一人、林彪とだけはよくなかった、と証言しました。
どうして林彪とうまく行かなかったのか。ライバルみたいな感じがあったのではないか? 林彪も、自分は後継者の可能性が大きいと思っていた。
(略)
[どうして亡くなったばかりの周恩来を祈念する日に、トウ小平を完全に追い出したか。華国鋒が新たな指導力を発揮するのに邪魔になるから]
案の定、78年に、トウ小平が復帰してきたときには、華国鋒はもちこたえられなかった。
毛沢東が先に死んでたら、
林彪は四人組を逮捕したか?
[イエス、だろうがその必要はなかったかもしれない]
毛沢東の死後どうして、四人組を急いで逮捕しなければならなかったかと言うと、おそらく、軍隊の誰かが、四人組を支持して動く必要があったわけです。
もし林彪生きていたら、そういう心配はなかったかもしれない。
66年失脚、69年江西へ
当時、地元の人びとに、自分は北京へ帰る可能性が大きいと、言っているんです。毛沢東は劉少奇は完全に切り捨てたんだけど、トウ小平のことは、いざとなるとまた必要になるかもしれないと、取っておいたのですね。(略)
そのことは、トウ小平にも感じられる。(略)
そこで、自分と中国の将来を、あれこれと思い描いたことと思う。
天安門事件
トウ小平はそもそも、何のために戦ったか。ボク自身の解釈は、共産党よりも、国のためである。そう私は思うんですね。彼の、国のためによかれと思う政策で、共産党が変わってもかまわない。もっと民主主義でやっても、中国のためにそれが必要なことなら、かまわないという考え方だと思うんです。
共産党とほかの党があって、選挙があっても、トウ小平は反対しない。共産党の代わりにほかの党、たとえば社会党が、政権を担当しても、20年、30年あとなら許したっていい。それがトウ小平の考え方だと思うな。
トウ小平は、それを頭のなかで考えた。でも、それを絶対に言わない。
(略)
そんなふうに柔軟に、中国の将来を考えることのできたひとが、次の章でみるように、天安門事件にぶつかってしまったのは、まことに不運なことだと思います。
『トウ小平』(本編)への中国の反応
左からの反応は、こうです。市場開放以降は、個人主義が強まり、いま腐敗問題が出てきた。これは市場開放をやりすぎた結果だ。古い共産党の考え方は、まだよかった。毛沢東は、大躍進は間違ったし、文化大革命も間違ったけれども、国のため、個人の利益のためではなく集団的なやり方のため、政策を行なった。トウ小平はその点ダメである。私は彼をほめすぎている。以上が左からの批判。
右からの批判は、こんな具合ですね、胡耀邦の政治改革プランはすばらしかった。トウ小平は権力を持っていたのに、どうしてせっかくの改革プランを活かして、民主主義の国をつくらなかったのか。どうして胡躍邦に対して、あれほど冷たかったか。どうして天安門事件で、人を殺したか。そういうような、トウ小平の問題点を、ヴォーゲルは十分に批判していない。右からは、こういう見方ですね。
胡錦濤寸評
胡錦濤は、日本でたとえるなら、松下政経塾。政治家の親戚もいないし、友達もいない。そこで、自分の道を選ぶとき、共産主義青年団に入り、そのあとずっと歩いてきた。(略)
ちょっと官僚タイプですね。優秀。ただ、政治の力はあまりなかったし、人間関係もあまりなかったんですね。
だから、強いことができなかった。
いい政策はあったわけです。たとえば、政府の資金をやりくりして、農村の財政をテコ入れしよう。トウ小平の時代には沿海地方が発展するわりに、内陸が立ち遅れていたから、そちらを重点にしよう。そういう政策は、悪くなかったと、私は思いますね。
ただ彼は、腐敗問題がどんどんひどくなって、国民も、なんとかしてほしいと思ったのに、それほど大胆なことができなかったんですね。胡錦濤は、遠慮がちに、あまり目にあまるケースを取り締まっただけだった。彼は、よくも悪くも、いい官僚的な人間だった、という感じがしますね。