エリック・サティの世界 ユリイカ 2016年1月臨時増刊号

  • 宙吊りの状態のままに――サティの謎と固有性

坂本龍一×小沼純一

[最近の人は言葉やエピソードからサティに入ってるという話を受け]
坂本 やはりぼくらはロラン・バルトなんかの影響を受けているから、作者個人とは切り離し、何より音楽というテクストだけにこだわりたい、というところがあります。(略)
その意味で、音楽に直接向かったとき、やはりサティの音楽は、ぼくにとっては謎多きものなのです。ドビュッシーはある程度、その深化が推測できる。ラヴェルはさらに、です。しかしサティは……。で、「6人組」はそこから何を学んだか?というのも大きな疑問だったりするんです。あまりにもサティの痕跡がないようにぼくには思える。(略)
――これまたとても限定的だったんじゃないでしょうか、若かった「6人組」との付き合いと影響については。コクトーというバイアスが掛かっていたサティだったわけだし、大衆音楽をシリアスな音楽の場に持ち込むとか、ある種、異化効果のようなところで、だったのではないか。だから音楽の語りそのもの、響きそのものについて、ではなかった
坂本 少なくとも音楽的にはあまり繋がり、影響が感じられない。サティは非常に孤独な作曲家だ。

坂本 [近藤譲さんと]「サティは、いいんだけど、作曲法としては応用しにくいよね」っていう話をしたことがあって、妙に記憶に残っています。もう30年以上前でしょうか。ただ、そこを言葉で説明するのがなかなか難しいのです。応用しにくさで言うと、ドビュッシーも応用しにくい。こっちの方が分かりやすい。分かりやすい応用しにくさがある。ドビュッシーは全てがinventionだからです。サティも若干それに近いけれども、何かが違う。で、一番応用しやすいのは当然ラヴェルです。
――サティの音の数は多くない。そして剥き出しになっている。どの音も聞こえてくる。
坂本 そういうこともあるし、なんだろう……、コンセプトと楽曲と思想なんか渾然一体となっているので、作曲法として取り出すことが難しい、という面がある。(略)
それにね、マネすると、思想までマネすることになってしまう。思想抜きのマネは、最低です。思想をマネることは出来ないし。ですから、サティの音楽はけっこうお手上げのところがあります。音のことを考えても、あれはサティだからいいので、他の誰かがマネしたら、最低の音楽になってしまいます。
――う〜む……。響きの新しさを第一義に考えているわけではないですし。
坂本 違いますね。響きの発明だったらやはりドビュッシーでしょう。ただ、サティの才能を一番知っていたのはドビュッシードビュッシーの才能を一番知っていたのもサティ。
――だから、エピゴーネンがいそうでいないのではないでしょうか。
坂本 そうですね。
――ドビュッシーもどき、ラヴェルもどきは沢山いましたが。
坂本 (略)作曲的に応用しにくいってどういうことだろう……。これがもう40年以上分からなくて……。確かに応用しにくいんだけど、何故なのか?
(略)
坂本 他の音楽、バッハにしろベートーヴェンにしろ、さらにドビュッシーでさえ、はっきり先人からの影響から始まっています。しかし《ジムノペディ》の前に、あんな音楽はないのではないか? どこを探したら、あれほどシンプルな不思議な音楽があるでしょう?
(略)
坂本 ひとつ、サティがなぜあんな音楽を書くようになったかという謎ですが……もしかしたらブリコラージュという言葉がけっこう近いのかも、とフト思いました。(略)
つまり彼は明確にアカデミーの音楽とは違うものを目指した。その時、身辺にあるものに目を向けるとキャバレー音楽やら路上音楽やら、グレゴリアン聖歌以前の古代への幻想だったであろうと。それら想像も含めたあり合わせの音楽から、あの不思議な音楽が少しずつ形になっていったのではないか、と想像したんです。

 ドビュッシーの父はパリ・コミューンで投獄されてから社会的に不安定な立場にあった。(略)義務教育が法定化される前の1866年生まれのドビュッシーは学校に行かなかったが叔母とその愛人を通して文化サロンの社会と出会い、コンセルヴァトワールで才能が開花した。
(略)
 カトリックの教養のないドビュッシーがはじめてグレゴリアン旋法と出会うのも[銀行家未亡人と結婚して]社会的上昇を果たしてからだ。(略)
カトリック趣味は当時の多くのブルジョワが貴族化するのに必要な戦略だった。(略)
第三共和国のブルジョワにとっても、旧領主や地主は銀行と産業の邪魔になる。労働者に寄り添うジェスチャーが必要で庶民のふりをしながら、本心は貴族になりたかった。プルーストにも見られるように、このようなブルジョワスノビズムが、「反動、右派、ナショナリズム」という感性を育てた。その中には芸術擁護や豪奢な生活も含まれている。ドビュッシーが18世紀の宮廷や王立アカデミーの中で花開いたフランス・バロック音楽を研究したのもその貴族趣味のおかげだ。(略)
ドビュッシーにとってのフランス・バロック音楽は、当時のロマン主義ナショナリズムの文脈で掲げられるものだった。出身階級を裏切った罪悪感がナショナリズムに向かったのだろう。(略)
 一方、サティはその反対だった。裕福な海運業者で音楽的教養もカトリック的教養もあり10ヶ国語を話す父と、フランス語を習いにやってきたスコットランド人の母との間にまれた。そのせいで聖公会の洗礼を受けたが母が死に、六歳で祖父母に引き取られてカトリックの再洗礼を受け八歳からの四年間、聖レオナール教会のオルガニストから個人教授を受けて教会旋法を身につけた。その後で彼を引き取った父の再婚相手はピアニストだった。父はサティを公教育から外してエリート教育を施した。その恩恵を受けたにもかかわらずサティの心は民衆に向かった。社会的に認められる道を歩まず、労働者の子供に音楽を教えたり曲をキャバレーの劇団に捧げたりした。近代都市の貧困を前にして怒り、富裕層が礼拝する神の偽善性に反発するようになる。「神さまなどそこいらのならず者のひとりだと思うようになった。慈悲とかいうやつはどこかにおいてめったに出さない(からだ)」と言い捨てて、神の国からも自分の出身階級からもひたすら下降していくのである。
(略)
薔薇十字団のエリート主義や三位一体のカトリック臭や誇大な演劇趣味もサティの求めるものではなかった。とうとう彼は自分とイエスだけが率いる「芸術のための教会」を設立する。信者も司祭も聖歌隊長もサティひとりで、聖堂は狭い居室の物置でしかなかった。やがてサティはそこも捨て、パリ郊外の労働者地区に住み、ほぼ路上生活者のようなその日暮らしの中で労働者を支援し、死後は共同墓地に埋葬されるのだ。

  • サティのイロニー 椎名亮輔

[サティが自分を音響測定者だと書いてるのは、実は『フランスの音楽家たち』における自分の評価への皮肉だったという話]
なるほど、サティは自分が「不器用な」「テクニシャン」とか「奇妙な」「探求者」とか書かれているのを、逆手にとったんだな、ということがわかる。ヴォルタはその直後、注釈中で「オクターブ・セレなるペンネームのかげに身をひそめているのは − 自分の著作のなかで、作曲家としての自作に言及するためである − 批評家マリ=オクターヴ=ジェラール=ジャン・プーエーである」と述べ、結局、サティがこの文章を書いたのは、このような卑劣な策略をとってまで自画自賛をするような人物に、不当に悪い扱いを受けて怒ったのだ、ということをにおわせる。
(略)
[『フランスの音楽家たち』で扱われている作曲家の顔ぶれは]何たる乱雑さであろう。有名無名が混在しているのは、100年後の私たちがそれを見やすい立場にあることを割り引いでも、やはり目に余る気がする。たとえば、カスティヨンの作品などは、どう考えてもドビュッシーのものと同列に置くことはできないと思う。(略)そしてサティの名はないのである。
 これこそが、サティが自分は「音楽家ではない」と言った原因ではないか。カスティヨンやシュヴィヤールのような二流の作曲家さえ一章をさかれている「現代フランスの音楽家」という書物に、一章を設けて論じられるどころではなく、ドビュッシーの項目の隅っこに、侮蔑的な言辞[「それほど重要ではない」]を伴って自分の名前が出ているのに、サティは怒ったのだ。

 1898年から彼はパリ南郊アルクイユに引っ越す。そこは貧しく薄汚れた工業地帯だったが、サティは地域の活動に徐々に参加していくことになる。地域青年会に参加し、音楽会や遠足を企画・運営し、夜警をし(うるさいと苦情が出て中止)、県から表彰され(1909年)、最後には選挙にまで打って出た(1919年)。これだけ地域に貢献しているのだから当選して当然、と思いきやあえなく落選。アルクイユの住人たちは、パリ上流社会に出入りしているサティを、やはり疑惑の眼差しで見ていたのだった。プロレタリアに親近感を抱き、社会党共産党(!)にまで入党した「貧乏紳士」サティは、ここでも無理解による幻滅を味わうのだ。

[日本人がイメージするミラーボールなキャバレーとは違い]
サティが生きていた時代のキャバレー、より正確にいうならば「芸術キャバレー」は(略)諷刺のためのメディアだったのである。
(略)
 フランスにおける「シャンソン」こそ、諷刺のためのもっとも理想的な武器だといえる。(略)
様々な事件や政治家などを揶揄する内容を持った歌を、「シャンソニエ」と呼ばれる人たちが街角で歌い人気を博した。シャンソニエによって生み出された反逆の歌は、民衆という不特定多数によって取り込まれ変容していく過程で諷刺のエネルギーを膨張させていく。近代の芸術キャバレーは、そのエネルギーに形式を与え、ひとつのジャンルとして確立させたものといえる。
 芸術キャバレーの先駆者には、18世紀に誕生した「カヴォー」や「ゴゲット」、19世紀の初めから工業都市や港町に誕生した「カフェ・シャンタン」とその規模が大きくなった「カフェ・コンセール」などがあるが、いずれも、時事問題や政治諷刺をテーマにしたシャンソン・ポピュレールが生み出される場として機能していた。特に、カフェ・コンセールからは、自ら作詞作曲し歌う自作自演歌手が登場した。
(略)
ギルベールは、シャンソンにおける「語り女性歌手」のスタイルを確立した。もともとは、正規の音楽教育を受けていない歌手の声量不足という欠点を補うものだったが、言葉を語るように歌うそのスタイルはシャンソンの歌唱様式となって定着した。
 1881年11月18日、モンマルトルのロシュシュアール大通りにキャバレー〈黒猫〉が、ロドルフ・サリによって開店する。歴史上初の芸術キャバレーの誕生だ。このサリという人物、表向きは画家ということになっているが、絵の才能よりはむしろ口が上手い、一種のPRマンだった。
(略)
サティは〈黒猫〉の第二ピアニストになった。彼が就いた初めての職業である。(略)同郷のアルフォンス・アレーは、そんなサティをファーストネームのエリックに引っ掛けて「エゾテリック・サティ(気難し屋のサティ)」と呼んだ。
(略)
〈黒猫〉における重要な出し物のひとつに影絵芝居があった。これは、「フランスの浮世絵師」とも呼ばれるジャポニスムの画家アンリ・リヴィエールが考案したもので、当時はまだ発明されていなかった映画に先駆けて生まれた映像芸術である。縦1メートル40、横1メートル20のスクリーンに、移動可能な色とりどりの光をあてて動物や人間を浮かび上がらせる。スクリーンの前には朗読者、歌手、小規模の楽団や合唱隊が配置され、芝居に合わせて演奏が繰り広げられる様は、まさに小さな「総合芸術」であり大好評を博した。群衆が「ボール紙で作られている」という《ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン》は、この影絵芝居のために作られたのではないだろうか。サティとコンタミーヌによる他の歌曲の成立時期から考えても、この作品が〈黒猫〉での上演を想定して生み出された可能性は極めて高い。
 「ジムノペディスト」と紹介されたサティが実際に《三つのジムノペディ》を書いたのは1888年。(略)
 斜めに影を切り、光り輝く清流が
 黄金の波立てて流れていた、磨かれた石板の上
 そこに琥珀の粒が光にきらめき合いながら
 サラバンドの舞をジムノペディに溶かし込んでいた

[フルニエ(1893-1963)は後期印象派の画家。第一次大戦中にサティと親しくなった]

彼がロトンドにふらりと現れると、私はとても嬉しくなるのだった。多くの場合、パリを歩き回った後、帰る途中に立ち寄っていた。だから埃まみれだったが、あの天使の微笑とともに、愛想は良かった。身なりは、公証人のように、実にきちんとしていた。山高帽、ハイカラーのシャツ、絹の糸くずでできた灰色の手袋、そして雨傘を脇にもって、彼は私たち仲間のテーブルに加わり、楽しそうに話しはじめる。(略)
味わい深い話は魔法のようだった。たしかに、口調はきつかったが、決して意地悪ではなかった。独り苦しむのに慣れている人なら誰でもそうであるように、彼もまた感じやすく、非常に鋭い感受性が表に出ないように言葉を選んでいた。自分の見方にこだわるので、付き合いにくいと感じる人もいた。
(略)
彼の自作以外には、ラグタイムの演奏を聞いたことがある。その奇妙な新しさに、私は魅せられてしまった。あの前代未聞のシンコペーションのリズムと黒人の奏者の特徴である左手の動きによって度肝を抜かれた私は、まだ一般には知られていなかったこの驚くべき音楽をどこで見つけたのか、彼に聞いてみようとも思わなかった。時が過ぎ、ジャズ音楽に詳しくなった今では、サティが私たちに内輪で弾いてくれたのは、ジャズの開祖の一人であるジェリー・ロール・モートンの曲だったと確信できる。(略)
[ストラヴィンスキー関連の本を読んで、ようやくサティがどうやって黒人音楽を知ったかわかった]
1916年にアメリカを訪れたスイスの指揮者のエルンスト・アンセルメが、ジャズのレコードを何枚かストラヴィンスキーに渡したと書かれていたのだ。当時は『バラード』より前の時期で、パリに滞在していたストラヴィンスキーは、サティの前でそれらをかけたに違いない。『バラード』以前の、それも『兵士の物語』以前のことだった。そう強調しておきたい。
(略)
[サティが音楽を担当したコクトーの『バラード』公開舞台稽古の日]
ジャン・プエグはサティにお世辞を言いに、楽屋に来た。次の週、攻撃的で俗な言葉遣いで作品をこきおろすジャン・プエグの記事を読んだサティの驚きはどれくらいだっただろう。サティは激高し、当然のことながら、怒りと驚きを伝えるためプエグに反論することにした。(略)
あなたはどうしようもない間抜けだ、しかも音痴。
 怒り狂ったジャン・プエグは、名誉棄損の廉でサティを軽罪裁判所に訴えた。弁論には私も出席し、目をぱちぱちさせながら、不正に憤るあまり感情を抑えられないでいるサティの姿を認めた。
(略)
 プエグは弁護士を通して、厳しい判決を願った。「判事の皆さん、お忘れなく。この絵葉書は、封筒に入れられていないので、依頼人の住むアパルトマンの管理人に始まって、誰でも読むことができ、悪い噂は建物全体に広がりうるのです。さらに、通りの両側の住人へ、界隈全体へと広がって、依頼人ジャン・プエグ氏の名誉に現実の、かつ相当な侵害を引き起こすことになります」。
 私たちの叫びは判決の言い渡しの際に激しさを増し、聴衆の退席が命じられた。(略)待合室へと追い払われたジャン・コクトーは、化粧がわからなくなるくらい怒りで真っ青になり(略)
私自身も、プエグの弁護士が居丈高に私たちの前を通り過ぎるのを見て唖然としたのだった。動揺が広がり「あいつをぶっころしてやる!」と叫び声がとどろいた。平手打ちをくらわせたのはジャン・コクトーだった。ただちに警備員に捕まったコクトーは、裁判所の地下にあった警察署に連行され、そこで私たちは、手ひどく扱われたらしき状態の彼に再会した。
(略)
[訳者解説](略)
公判の印象も悪く刑務所行きが確実視されたサティだが、結局、「パリの女王」ミシア・セールの奔走のおかげで最後には執行猶予(五年)を得て、収監はされなかった。