- ピーターとジミー、ヤードバーズ
- ジョン・ポール・ジョーンズ
- アトランティックと契約
- ジミーは両性具有の完璧な英国ロック・スター
- 『Ⅱ』
- 盗作騒動
- グルーピー
- ブロン・イ・アー、新しい時代の始まり
- ヘッドリィ・グランジ
- 〈貴方を愛しつづけて〉
- 『Ⅳ』
前回の続き。
ピーターとジミー、ヤードバーズ
マリリン・コール ピーター・グラントはジミーにこれ以上ないほどの敬意の念を抱いていたわ。彼にとってジミーは本当に特別な息子、選ばれた若者だった。ジミーは神だったのよ。
エイブ・ホック ピーターは生涯にわたり、ジミーを愛していたと思う。ジミーはまるで彼の養子同然だったし、彼ら全員の中でジミーが一番策略に長けていたと思う。ジミーのやり方が、そのままその他すべてのやり方になっていた。
ヘレン・グラント 父がジミーについて悪口を言っているのなんて、本当に一度も聞いたことがないわ。父はとことん彼に入れ込んでいた。"ジミーが望むことは何でも(かまわない)"といった感じだったと思う。
マイケル・デ・バレス ピーターは心からジミーを愛していたし、ジミーが望まないことはとにかくなんであれ受け入れなかった。そしてそこから生まれたのが、"レッド・ツェッペリンを近寄り難い存在にする”というアイディアだった。
(略)
リチャード・コール ジミーはヤードバーズという名称を引き継ぐつもりでいて、スティーヴ・マリオットや、他にはベースにジョン・エントウィッスル、ドラムにはキース・ムーンのような感じの人間を集めると話していた。基本的なアイディアとして、新バンドはヤードバーズよりもヘヴィな感じにするつもりだったんだ。ジェフ・ベック・グループをお手本にした可能性もあると思う。でも彼はフーやジミ・ヘンドリックスにも目を向けていたからね。
(略)
ジミー・ペイジ (略)そのバンドがどの方向に進んでいくのか、私には分かっていた。ヤードバーズでアメリカに足を運んでいたから、何がどういう状況なのかは正確に分かっていたしね。自分がどういうスタイルのヴォーカリストを探し求めているのかについても、はっきりした考えがあった。
(略)
オーブリー・"ポー"・パウエル (略)レッド・ツェッペリンを始めたのはジミーとピーター・グラントだ。(略)ピーターには強い影響力があり、ジミーには才能と、ツェッペリンを作るための先見性が備わっていた。
(略)
クリス・ドレヤ ジミーは「他の人間よりも最終的に絶対金持ちになってやる」と、そう思っていたんだ。(略)一番最初の頃、彼の態度には、「お前は今、オレを見下しているが、いつかはっきりと見せつけてやる」という姿勢がはっきりと表れていた。そして彼は本当にそれを実現したんだ。(略)
とにかくとことんまで成功したがっていた。全員に「くたばれ」って言えるようにね。
リチャード・コール ピーターは最高のギタリスト(略)ベックとペイジを抱えていた。でも、ジミーはジェフと比べると遥かに意欲的だったね。ジェフは素晴らしいギタリストだけれど(略)少し不安定だった。(略)"ショーはやらない"と決めてしまったら、彼は決してやらなかった。(略)
ロッド・スチュワート ベックがシンガーを必要としていて、それで私が彼のシンガーになったそれだけのことさ。すべてが彼自身のギターのためにお膳立てされていた。
(略)
ニック・ケント ロッドからピーター・グラントに関するゾッとする話を聞かされたことがある。(略)グラントに自分の名前をバンド名に入れたいと言ったらしいんだ。"ザ・ジェフ・ベック・グループ・ウィズ・ロッド・スチュワート"みたいにね。するとむっとしたグラントから、こう言われたそうだ。「よく聞け、お前は単なる取るに足らないホモ野郎だ。ミッキーからお前について警告されていた。彼は最初からお前をこのグループに入れたくなかった。お前を加入させたがったのはジェフだけだ。お前ともう一人、あの無能のマンコ野郎のロニー・ウッドをな!」
(略)
マーク・ロンドン ピーターがツェッペリンを始めた頃、ジェフ・ベックはアメリカで一晩で7500ドル稼いでいた。もしピーターから離れていなかったなら、彼はもっと稼げていたと私は思うね。
アラン・カラン ジェフはいつだって自分の頭の中で聞こえている音を鳴らすことができた。でも、彼は自分が文化というものに対しどんな影響を与えているのかについて、何ら洞察力を持っていなかった。彼は純粋なギター奏者だったんだ。一方でジミーは深みと明晰さと目的意識といったものと共に自分を表現する方法を身に付け、そしてそれによって彼以外の人間全員を凌駕することができたんだ。
(略)
リチャード・コール なぜジェフはリーダーになりたくなかったかというと、それは、自分以外の誰かの責任を負いたくなかったからだった。ジミーはそれとは全然違っていた。ピーターもジミーの場合、「オレたちがこれからやるのはこれで、そしてオレたちはそれに取り掛かって、それをやるしかないんだ」という感じだと分かっていた。
(略)
テリー・リード(ピーター・ジェイ&ザ・ジェイウォーカーズのシンガー、ソロとしてミッキー・モストと契約した) ジミーはあるバンドを作ろうとしていて、それで彼が、私をそのバンドのシンガーにしたいと言ってきたんだ。私は言った。「それはどういうバンドだい?」とね。でもバンドなんて存在していなかった。彼は単に、"やるかもしれない案"をあれこれ練っていただけだった。彼はスティーヴ・ウィンウッドにも、スティーヴ・マリオットにも声をかけていた。とにかく特定のタイプのシンガーが欲しかったんだね。
(略)
私は本当に光栄に思って、それで言ったんだ。「私がストーンズとのツアーから戻ったらやってみよう」とね。でもジミーが言うんだ。「いや、オレは今、やりたいんだ」と。それで私はバンド・オブ・ジョイのロバートとジョンを見た時のことを思い出したんだ。そこで私は(略)「あの二人をチェックしておくべきだ」と言った。ロバートだけじゃなくて、二人をね。
(略)
ジミー・ペイジ (略)オブス・トゥイードルか……。彼らはバーミンガム郊外にある教員養成大学で演奏していた。12人ほどの観客相手にね。(略)
ロバートは素晴らしかった。あの晩の彼を聞き、そして彼からもらったデモを聞いた私は、彼の声がずば抜けて素晴らしいことと、非常に個性的な声質だということに気付いた。
(略)
ロバート・プラント (略)私は、ジョンを探して(略)こう言った。「いいか、お前は絶対にヤードバーズに加入しなくちゃいけない」とね。でも、既にアメリカのポップの歴史の中に埋没していたその名前以外に、彼を説得できる材料なんて何もなかった。(略)
[ボーナムはティム・ローズの下で良い仕事にありつけていたため、話には乗らず]
マック・プール (略)「バンド・オブ・ジョイであれだけ数多くのギグをやって結局誰にも注目されずに終わったのに、何のためにティムから離れてプランティ(訳注=プラントのこと)と一緒にならなくちゃいけないんだ?」ということだったんだ。
(略)
[ところが]数週間後に二人をラム・ランナーで見かけたんだ。それで私がジョンに、「まさか、そのバンドに入ったんじゃないよな?」と訊くと、彼は、「そうだ」と言うじゃないか。(略)「前金をもらった」(略)一人頭3000ポンドだって言うんだよ!そこからは本当に別次元の話になっていった。だって、それまで誰もそんな大金を手にしたことなんてなかったからね。突如としてジョンはジャガーと最新のステレオを手に入れた。
ジョン・ポール・ジョーンズ
クリス・ドレヤ 胸に重苦しさを感じつつあった。私はジョン・ポール・ジョーンズではなく、ジム・マッカーティーはジョン・ボーナムではなかったんだ。
(略)
あの時点でのベーシストとしての彼は、ギタリストとしてのジミーより優れていた。そして言うまでもなく、彼は音楽というものを理解していた。彼があのバンドに加入するのを邪魔するなんて、私にはできるはずがなかった。しかも、彼は誰よりも良い奴なんだ。
(略)
ヘンリー・スミス レッド・ツェッペリンにいるミュージシャン全員の中で、ジョンジーは恐らく一番過小評価されている存在だろうね。彼はジミーに、曲の他のパートのことで頭を悩ますことなく自分がやりたいことをやれる環境を与えたんだ。
(略)
アラン・カラン 当初、彼らはキーボード奏者にキース・エマーソンを据えるつもりでいたんだ。そうしたらジョンジーがこう言った。「いや、キーボードはオレがやる」。それで他のみんなが言った。「だったら、他の楽器も全部やってもらうことになるけど」とね。だから彼はヴァイオリンまで学んだはずだ。
(略)
マギー・ベル (略)ピーターがジミーにこう言った時、私も彼のオフィスにいたのよ。「ジミー、君がリーダーだ。君が楽器を演奏する。君の頭の中には音楽がある。私はあらゆるくだらない面倒なことを君から遠ざけることができるし、このバンドを正しい方向へ導くことができる」と。
(略)
フィル・カーソン ロバートは"歩く音楽の一覧表"みたいだった。彼はジョン・ポールよりもブルースやロックンロールのルーツに精通していた。ジミーと同レベルだったのは間違いない。だから音楽作りに取り組む時の彼は知的なレベルでは誰にも負けなかった。
ジョン・ポール・ジョーンズ 私の父はジャズ・ミュージシャンで、それで私はビッグ・ビル・ブルーンジーやサニー・テリーやブラウニー・マギーのような音楽を聞くようになったんだ。でも、ブルースについて彼ら以上のものは何も知らなかった。デルタ・ブルースについては大して知らなかったんだ。関心があったのはマディ・ウォーターズなどの都会的なブルースだった。もっと古い時代のブルース・ミュージシャンたちを発見したのは、ツェッペリンを通じてだった。
(略)
ヘンリー・スミス 彼はいつもとても冷静でもの静かだった。(略)
ジェフ・ベックはまるで高校生のいじめっ子みたいだった。でもジミーはまったくそういうんじゃなかった。
(略)
ロバート・プラント ペイジとジョーンズはもちろん(私の)友人となった。でも、ボンゾのような"仲間"ではなかった。なぜって、(ボンゾと私は)あの年齢で一緒に始めて、いろいろなことを体験していたからね。そのギャップは最後まで完全には埋まらなかった。
(略)
ジミー・ペイジ アーティスティックな面のコントロールは自分が握りたいと思っていた。彼らと一緒にどんなことをやりたいのか、私には正確に分かっていたからね。実際のところ、アトランティックに交渉に行く前に、ファースト・アルバムの録音を完成させ、そのすべての費用を負担したのは私だった。ファースト・アルバムは全体でほんの30時間で録音したんだ。それが事実だ。私はそれを知っている。なぜなら、私がその請求書を支払ったんだからね。
(略)
グリン・ジョンズ 私にとってレッド・ツェッペリンはそれ以外のどんなバンドともまったく違っていた。あれは完全に新しい章の幕開けだったんだ。(略)
クリームとは全然違っていた。ツェッペリンのアレンジは洗練されていたからね。それが鍵だったんだ。フリー・フォームな要素なんて一つもなかった。すべてが細心の注意でアレンジされていた。とにかく抜群の腕前のアレンジャーたちの手によってね。(略)ストーンズは1枚のアルバムを作るのに9ヵ月かけていたが、彼らは9日かけただけだった。ミキシングを含めてだよ。彼らはスタジオ代を節約しようとしていたのかって?その可能性は高いね。
(略)
彼らは本当にしっかりリハーサルしていて、やる曲はすべて練習済みで、自分たちが何をやっているのかも分かっていた。だから彼らの――そして多分ジミーの――お陰で仕事の半分は終わっていたんだ。その賛辞を受け取るべき人間は確かにジミーだった。しかし、彼らがスタジオに入ってからは、私がかなりあのレコードの制作に貢献した。疑念の余地はないね。
(略)
ボーナムは驚異的なドラマーだったが、ベース奏者にとってはとても気楽な相手ではなかった。でも、ジョン・ポールはあらゆるタイプのドラマーと演奏した経験があったから、彼は音の捉え方を知っていたんだ。複雑な部分まで、恐らくは無意識にね。
ジョン・ポール・ジョーンズ 私はすぐさま彼のドラミングの音楽性を認識した。ジョンはたとえば〈ユー・シュック・ミー〉のようなスロウな曲では、とことんストレートなビートを続けた。最大の理由は、それが彼には"できた"からだろうね。あれができる人間はそんなに多くないんだ。速いテンポで演奏できる奴は大勢いるが、しかし、ゆっくりとしかもグルーヴを出しながら演奏することほど難しいものはない。でも、私たちは二人ともそれができたんだ。しかも、お互いにそのことを認識していた。ああしたビートにもたれかかれるのは喜びでもあった。単にそれに乗っかるだけでいいっていうのはね。とことんまで集中しなければならなかったけれど、でも、同時にとことんまでリラックスできたんだ。同じリズムでも、私たちは常に"どうやって演奏するのか"の選択肢を持っていた。そのことが演奏を音楽的に面白くてエキサイティングなものにしていたんだ。
(略)
レッド・ツェッペリンでダンスすることだってできるはずだ。私たちが経験していた黒人音楽はブルースだけじゃなかった。ジョンと私はどちらもソウルとファンクが好きだったし、私はジャズもお気に入りだった。セッション・ミュージシャンとして、私はあらゆる類のモータウンのカヴァーをやったけれど、その理由は、あのスタイルでの演奏の仕方を知っている人間が私しかいなかったからだ。
エディ・クレイマー その分野ではジョンジーが先頭にいたと思う。なぜなら、彼はデトロイトのベース奏者やフィラデルフィアのベース奏者がやっていることをすべて吸収済みだったからね。
クリス・ドレヤ 調子が良い晩のクリームは素晴らしかったが、とんでもなくボロボロのことも時折あった。ツェッペリンには、"構築物"という感覚が伴っていた。
(略)
マック・プール 音楽面で言えば、彼ら4人のうち、ジョン・ポール・ジョーンズこそが唯一無二の人間だったと思う。〈幻惑されて〉での彼のベースラインはシンプルかもしれないが、しかし、曲のムードに関する彼の考え方はとても音楽的で、それのお陰であの曲が成立しているんだ。ジミーは素晴らしいギタリストだが、しかし、あのバンドにジョーンズがいなかったなら――あの土台がなかったなら――意味の無いバンドになっていただろう。
ジョン・ポール・ジョーンズ 本当に正直に言えば、ツェッペリンの初期の楽曲の作曲者クレジットに関して、もっと多くの注意を払っておくべきだったと思っている。あの頃は、「確かにそれを書いたのは私だが、単なるアレンジの一部だからね」とかそんなようなことを言うだけで、あとは勝手にやらせていたんだ。
(略)
すべての曲に"ペイジ/プラント"とクレジットされているのを目にすると、たとえば"レノン/マッカートニー"のような状況のように思えるかもしれない。つまり、その二人がすべてを書いていて、ジョンと私はジミーとロバートから教えてもらう(略)だけ、のようにね。でもそれはあまりにも現実とかけ離れている、馬鹿げた認識だ。(略)
アトランティックと契約
テリー・マニング クリス・ブラックウェルは、ツェッペリンと契約して彼らをアイランドに連れて来る寸前までいっていた。彼はツェッペリンに裁量権と制作権を認めていたが、そうしたのはそれが彼の信念だったからだ。ピーターはその後、そのアイランドの条件をアトランティックとの交渉のテコに使って(略)同じ内容の契約でより多くの金を手にしたんだ。
(略)
クリス・ブラックウェル (略)あの交渉は合意の握手までいっていたんだ。(略)
で、本当のことを言うとね、彼らと契約しなくて私は喜んでいるんだ。なぜなら、アイランドの私たちにとってあれは上手くいきっこなかったからね。暗すぎだった。私の手に負えるはずがなかったんだ。
(略)
グリン・ジョンズ ピーターはニューヨークに行き、アトランティックと契約をまとめ、戻って来てバンドとミーティングをした。私の推測でしかないが、彼はバンドの面々に(契約の)金額と分割方法と印税がどうなるかについて話をしたはずだ。(略)話が私と私の取り分に関することになった時、ジミーがこう言ったんだろう。「いや、彼はこれをプロデュースはしていないし、彼が印税を受け取ることはない」と。
(略)
ジミー・ペイジ (グリンは)プロデューサーのクレジットを上手く自分のものにしようとした。私は言ったんだ。「それはない。このバンドをまとめたのは私だし、彼らをスタジオに入れて、録音作業全体を指揮したのも私だ。私には自分のギターのサウンドというものがある。いいかい、君に望めるものなんてこれっぽっちもないんだ」と。
グリン・ジョンズ あれ以降、ジミーは彼自身が関わったものに関して非常に奇異な態度を取ることで知られるようになった。彼はとにかくすべての物事の貢献を自分のものにして、どんなことであれ自分以外の誰かを貢献者として認めることは決してないんだ。
(略)
クリス・ドレヤ ニューヨークに引っ越す前に、自分のスタジオでツェッペリンの最初のフォト・セッションを行った。謝礼は21ギニーだったと思う。(略)ヤードバーズの名前を使い続けることに対し私が口を挟んでこないよう、私の機嫌を取りたかったのだと考えている。数年後、何か変な理由でジミーが私に連絡してきて、彼がその名称を所有していることを証明する紙切れを持っている、と伝えてきた。
(略)
エド・ビックネル (略)ギター・ソロがちょっと長かったが、でも、バンドのエネルギーと、特にあのリズム・セクションがね。あれにはとにかく吹っ飛ばされたよ。それで私はこう思ったんだ。「このグループをブッキングしないとな」と。それで私は彼らを正式にジェスロ・タルのサポートに据えた。100ポンドでね。タルは400ポンドだった。でも私はニュー・ヤードバーズと契約したはずだったのに、公演する段階になると、彼らはレッド・ツェッペリンになっていた。ピーターは契約書の"ニュー・ヤードバーズ"という部分を横線で消して、"レッド・ツェッペリン"と書き直した。"レッド"は"LEAD"だった。そして"ジミー・ペイジ"と署名した。でも彼らがそのショーをやることはなかった。なぜなら、その代わりに彼らはアメリカに行ってしまったからね。
(略)
クリス・ウェルチ (略)私がその新バンドの名前をメモすると、ジミーがそのスペルを直した。「L-E-A-Dじゃなくて、L-E-Dだ」とね。
(略)
ロバート・プラント (略)ジミーとジョンジーに関しては年功序列があった。彼らの方がより大人で世慣れしていた。一方でボンゾと私はどちらも自分勝手だったね、実際は。私たちをディナーに招待してくれた人のクルマのホイールキャップを盗んだりしていたんだから。
(略)
ガイ・プラット 私が80年代後半にジミーと一緒に演奏していた頃、彼はツェッペリンの海賊盤を全部聞いていた。彼はいつもどこのギグでどんな演奏をしたのかに関心を持っていた。すべてが毎晩違っていて、とにかく新しいアレンジで演奏していたんだ。ジミーは、「ああそうだ、それはあれをやり始めた時だった……」ということをよく話していた。
ジミーは両性具有の完璧な英国ロック・スター
ベベ・ビュエル ラジオではレッド・ツェッペリンはかからなかった。でも学校の教室で男の子たちが彼らについて話すのが聞こえてくるのよ。たいていの場合、最初にバンドの良さを理解するのは女の子たちの方だったけれど(略)自分のガールフレンドにビートルズのどのメンバーが好きかと訊くような感じじゃなかった。男性ホルモンで突き動かされていたのよ。(略)男の子たちがあれを聞くと、みんな極端に横柄になって、自信満々になったってことは知っているわ。
ヤーン・ユヘルスズキ (略)男たちは彼らのようになりたいと思い、女たちはそんな彼らと一緒にいたいと思った。人々はかつて、「ステージでのヘンドリックスは、彼を見ているあらゆる女性をレイプされているような気持ちにした」と言い(略)ツェッペリンはそういう女性軽視を自分たちのために都合良く利用した。彼らの音楽はセックスだったけれど、セックスを超えたものでもあった。
(略)
ベベ・ビュエル 私の仲間うちでは誰一人プラントのことを気にしていなかった。とにかくペイジとボーナムだったのよ。ヘンドリックスとクラプトンも魅力的だったけれど、でも、ペイジとボーナムには滅多に目にできないほどの素晴らしく個性的な音楽の才能があった。
ヤーン・ユヘルスズキ ペイジには、どこか壊れやすい、お人形みたいな部分があった。もちろんその後の彼のことを考えてみると、彼が威圧的じゃなかったなんて想像することすら、かなり甘い認識ね。だけどあれは、あどけない目をしたイギリス的な男っぽさというものを私たちに思い出させてくれて、それにみんなが反応していたんだと私は思う。アメリカのティーンエイジャーにとってあの頃の彼はイギリスの男性の美しさの典型みたいな存在だった。ペイジの魅力はあの謎めいた部分にあったんだけれど、ロバートはもっと大柄で、ある意味、アメリカの男性っぽかった。彼の魅力はもっと分かりやすかったのよ。
(略)
パメラ・デ・バレス ジミーは青白い肌に紅い唇をした完璧な英国ロック・スターだった。女性にとって、両性具有というのは、あたかも自分自身を抱きしめるようなものなの。そこには――たとえ実際には危険を伴うものだとしても――安全だという感覚がある。両性具有の彼らは女性というものを理解しているのよ。だから口紅を共有できたりもする。同じ整髪用品を使っておめかししたり、同じ服を着たりもできる。ジミーは街を離れる時、それまで着ていた服を私にくれるんだけど、それが私にピッタリなのよ。それに彼は女性関係にちゃんとロマンチックな部分も用意していた。彼は恋愛関係のあらゆる部分に気を配っていたから、だから彼には心底夢中になってしまうのよ。彼は自分がやっていることを完璧に把握していた。感覚や感情やあらゆる物事を操作することに信じられないくらい長けていた。今あれを思うとかなりサディスティックだって思うけれど、でも、彼は私たちにおとぎ話を信じてもらいたかったのよ。
(略)
『Ⅱ』
エディ・クレイマー (略)週末の2日間であのアルバムをミックスした。結果はご覧の通りだね。あれは素晴らしいサウンドのレコードだし、その後の数年間の彼らの基準になった。そうなった要因は、A&Rスタジオでいっぺんにミックスしたからだ。その音がどう聞こえるべきかについて、ジミーには非常に明確なヴィジョンがあった。
(略)
ブラッド・トリンスキ みんながジミーのギターの音はバカでかいと思っている。でも実際はどちらかと言うと小さい方で、そしてそのお陰でドラムとベースがのびのびと本物らしい音を鳴らすことができたんだ。そうした部分を最高のものにして現代的な音を作るとなると、オタクっぽい技術的な細かい話になるんだけどね。『ベック・オラ』や当時の他のジェフ・ベックのレコードをかけてみればいい。どれも酷い音だよ。次にツェッペリンの最初の2枚をかけてみると、どちらもまるで先週録音したみたいな音がする。聞き手を引き込むのは、制作時のそうした圧倒的な音質とスケールの大きさなんだ。それに、ギターの音の多様性がもたらす実際の音の美しさだね。
ヘンリー・スミス ボンゾは今もってドラムを楽器のように演奏できる数少ないドラマーの一人だ。彼は単に音を出すためにドラムを叩いていたんじゃない。彼が一人で叩いているのを聞くと、彼自身が自分がやっていることに魅了されているのが分かる。彼はリズム&ブルースのリックをたくさんロックに持ち込んだ。当時それは誰もやっていないことだった。
(略)
サイモン・カーク 私はもう45年ほどドラムを叩いているが、今に至るまで、彼がやったドラミングの幾つかのやり方はまったく見当が付かない。
テリー・マニング ボンゾはジーン・クルーパが大好きでね。私の考えで言うと、ボンゾは誰よりもハードなジャズを演奏していたんだよ。それまでのドラマーがやったのと同じくらいシンプルな形でね。彼は実際のところ、ロック・ドラマーのような叩き方はしていなかった。叩き方が巧妙だったんだ(略)
強く叩きつつ、抜群のタイミングの感覚があった。彼は自分独自のテンポを設定していて、残りの連中はそれに従うしかなかったんだ。彼は全体のサウンドとプロダクションの中で占める割合が比較的大きくて、他のどのバンドのどのドラマーよりもそのバンドの印象に大きく貢献していた。彼は常にドラムを重要な存在たらしめていたんだ。
ジミーが私に言ったことがある。「オレたちのテンポの感覚は違うんだ。一般大衆や他のミュージシャンたちがオレたちのやっていることを理解したり、それに追い付いてくることは決してないだろう」とね。
盗作騒動
マリー・ディクソン (略)娘のシャーリーが(略)〈胸いっぱいの愛を〉(略)が、私の夫の歌である〈ユー・ニード・ラヴ〉とまったく同じものだと確信した。
(略)
夫は、彼らが〈ブリング・イット・オン・ホーム〉を録音したことを大いに喜んでいたけれど、でもそれほど知られていない別の曲をもう一つ使っていたなんて、そしてそれに新しいタイトルを付けていたなんて、まったく知らなかったわ。
ドン・スノウドン(ウィリー・ディクソンの伝記の著者) (略)彼のマネージメントの人間たちもマディのヴァージョンの〈ユー・ニード・ラヴ〉を聞いたことはなかったから、その関連性に気付かなかった。そもそも、〈ユー・ニード・ラヴ〉を知っている人間すら、ほとんどいなかったんだ。あの曲はアメリカでは60年代初期のチェスのシングルにしか収録されていなかったからね。
(略)
スモール・フェイセズのヴァージョンのクレジットは"マリオット/レイン"だったが、そのサウンドはオルガンを含めほとんどマディの曲と同じだった。プラントはそのマリオットのヴォーカル・スタイルをコピーして踏み台に使ったんだ。
(略)
スティーヴ・マリオット (略)ヤードバーズと一緒にギグをしたことがあって、そこにはロバートもいた。そうしたらジミー・ペイジが私たちがやった曲について訊いてきた。「〈ユー・ニード・ラヴィン〉だ。マディ・ウォーターズの曲さ」と私は答えた。実際それはその通りだった。(略)私たちが解散した後、彼らはあの曲を頂戴して、それで作り直したんだ。上手くいくといいね、ってやつだな。あの曲に目を付けていたのはパーシーだけだった。彼は同じように歌い、フレーズ回しも同じだった。最後の歌の止め方も同じだったんだ。彼らは単にあれに別のリズムを付けただけさ。
ロバート・プラント ペイジのリフはペイジのリフだった。何よりも先にそれがあったんだ。私はちょっと思っただけさ。「さて、オレは何を歌おうか?」とね。それだけのことだった。頂戴したものに対しては、今は喜んで支払うよ。当時はどうすべきかについてかなり話し合いがあった。でも時間的にも影響としても相当に遠く離れていたからね……。まあ、捕まるのは成功した時だけ、ということさ。
ジェフ・ベック 見て見ぬふりっていうのは、当時はたくさんあった。リズムを変えたり、アプローチの角度を変えれば、それはそいつのものだった。私たちは自分たちがやっていることに対しほんのわずかしか支払われていなかったし、自分以外の人間のことなんてどうでもよかった。
エド・ビックネル ミック・ジャガーのよく知られた発言に、「オレたち(のレパートリー)には"チェスのベスト"があった」というのがある。ある意味、彼らはすべてをつまみ食いして、しかもそれに何も支払っていなかったんだ。同じことがツェッペリンにも言えた。
(略)
ロバート・プラント 頭を下げて自分の仕事に邁進して、あとは何も言わないことさ。ハハハ!ロバート・パーマー著の『ディープ・ブルーズ』を読めば、私たちは他の誰もがやっていることをやっただけだと分かるだろう。ロバート・ジョンソンが〈プリーチング・ブルーズ〉をやっていた時、彼は実際のところ、サン・ハウスの〈プリーチング・ブルーズ〉を取り上げて、それを改作していたんだ。
(略)
ニック・ケント チャーリー・マレイといった人々は、レッド・ツェッペリンが好きじゃなくて、自分の古い時代のブルース・ヒーローたちから彼らが曲を盗んでいることに対し、モラルの面で憤りを感じていた。彼はブルースが非常に適応性の高い形式であり、それを自分風にする一つのやり方が必ずしも不適切で罰当たりな行為ではないことを受け入れていなかった。
マリー・ディクソン ウィリーは(略)自分が適切な見返りを得られなかったという思いを抱えたまま亡くなったのよ。恐らく皆さんはどこかで、それは700万ドルだったといった話を読んだことがあるでしょうけど、実際にはそんなことはまったくなくってね。100万ドルどころか、それに近いものですらなかったわ。ウィリーにとっては大きな落胆だった。でも彼は言ったわ。誰かに対し腹を立てている暇はない、と。彼は誰かを恨んだりはしなかった。彼はとても幸せな人間としてこの世を去ったと、私は信じているの。(略)
グルーピー
フィル・カーロ (略)グルーピー全体の規模はとてつもなかったよ。ちゃんとした奴らは――ペニー、ザ・フライング・ガーター・ガールズ、リトル・ロック出身のスイート・コーニー、ゲイル・マコーマックとかは――出会う人々の中でも最高に良い人たちだった。彼女たちのことは完全に信頼できたし、彼女たちはこちらのことにも気を配ってくれた。彼女たちとは毎年顔を合わせていたし、お互いへの敬意もあった。フライング・ガーター・ガールズのリーダーだったペニー・レインが私にこう言ったのを覚えている。「これって変てこよね。私たちのところには、アメリカ中の女の子たちから履歴書付きの入会申込書が届くのよ」。それはまるで会社のビジネスのようだった。
コニー・ハムジイ (略)グルーピーのそもそもの始まりはシナトラよ。権力と性的魅力は常に女を引きつけてきた。ティーンエイジャーだったら、絶対にチアリーダーか、学校のバンドか、あるいはフットボールのチームに入るもんだったけれど、私のような人間はそのどの型にもハマらなかった。それで私はグルーピーになることに決めたの。(略)
ミス・パメラが、いわば最初のグルーピーだった。彼女が先頭になってバター・クイーンやその後のシンシア・プラスター・キャスターのために道を切り開いて、その後私が彼女たちの道程をいわば後追いしたわけね。私は本物になりたかったし、もしそれをやるんだったら、半端な気持ちではやりたくなかった。自分にできる限りの、一番大きな存在になりたかった。そのためにどれだけ多くの人間とやらなくちゃいけないとしてもね。
(略)
ジャック・カームズ (略)バター・クイーンはなんだか売春宿の女経営者みたいで(略)バーバラ・コープがバター・クイーンの本名だった。彼女自身もグルーピーの一人だったけれど、ただし、彼女は全員の仕切り役で、やるべきことを女の子たちに指示していた。(略)
ブロン・イ・アー、新しい時代の始まり
ジョン・ポール・ジョーンズ (略)かなりの回数イングランドをツアーして、ハードに仕事をしたが、メディアの連中はほとんど私たちに関心を持たなかった。(略)
"アメリカではビッグだが、イングランドでは違う"という感じだったな。(略)
初めて"オレたちはここにいるぞ"みたいなショーをやれたのは、アルバート・ホールだったと思う。
(略)
ロバート・プラント DVDであのアルバート・ホールの映像を見た時は、とにかくショックだった。あのちょっと可愛くて、恥ずかしがり屋の部分と言うかな、ナイーヴな側面や、"オレたちはここで何をしているんだ?"という当惑した気持ち、バンドが新鮮だったこととかが目で見て分かったからね。ロック・シンガーにお決まりの型のようなものがまだ何も私の中にしみ込んでいなかったんだ。(略)私はとにかく必死で歌って、演奏して、当時最も素晴らしいミュージシャン3人の間を縫うように歩いていただけだった。私はちょっと色っぽさのあるウブな恥ずかしがり屋で、純情ぶった態度をして……、実際のところ、ちょっときまりが悪かったね。
リチャード・ウイリアムズ (略)ロバートにインタヴューしたんだ。バッファロー・スプリングフィールドやフライング・ブリトー・ブラザーズなど、彼が大好きな西海岸の音楽について話した。その時の原稿の中で私は、「このヘヴィなグループのシンガーでありながら、かれは実は良質な音楽が好きなんだ……」と書いた。
(略)
[ピーター・グラントを後ろに従えたジミーがやって来て言った]
「キミはオレのバンドを壊そうとしているのか?」と。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ ジミーとロバートの友情が大きく育まれたのは、ツアーをしていない時に彼らが一緒に旅をしていたからだ。ジョンと私が自分たちの家族のところに戻る一方で、彼らは曲作りか何かをやっていたんだ。
(略)
ロバート・プラント (ブロン・イ・アーは)山のそばにあって、電気も何もなかった。たいていは雨が降っていたな。私たちには美しい女性が一緒だった。彼と私に一人ずつね。
(略)
クライヴ・クルソン(ツェッペリンのローディー(略)
小川から水を汲んで来て、それをホット・プレートの上で温めて洗い物に使った。風呂は一週間に一度、マキンレスにあるオウェン・グレンダワー・パブでだった。
(略)
ジミー・ペイジ ある日のこと、私たちは長い散歩を終えてコテッジに戻ろうとしていた。その時の私はギターを一本抱えていた。渓谷を降りて来るのがけっこう大変で、それで私たちは立ち止まってその場に座ったんだ。私が(〈ザッツ・ザ・ウェイ〉の)あの旋律を奏でると、ロバートがすぐさま何かの歌詞を歌い出してね。私たちはテープレコーダーも持っていた。
ロバート・プラント ウェールズの山々に向けて出発した時、ジミーと私が抱えていた命題は、なにはともあれ、"自分たちはどんな野望を持っているのか?""そしてそれらすべてはどこへ向かっているのか?""自分たちは世界とそのあらゆるものを支配したいのか?"ということだった。
私たちはストーンズやビートルズや誰かのことなど、まるで気にしてはいなかった。私たちはただウェールズへ行き、ある丘のそばで暮らし、一連の曲を書き、歩き、話し、考え、そして聖杯を隠したとされる大修道院に向かった。
(略)
あの体験が私たちに本当に多くのエネルギーを与えてくれた。なぜなら、私たちは本当に何かに近づいていたからね。私の気持ちはとても軽やかで幸福だった。あれはすべての新しい時代の始まりだった。1970年、あの時、あの年齢にして……。そこには、私がそれまでに目にした中でも最も大きな青空が広がっていた。
(略)
ロバート・プラント (略)私の周辺にいた知り合いの人間は、かなり刺激的な奴らだった。彼らはアフガニスタンに行って(略)インドへ行き、そしてヴァンにカーペットとマリファナを満載にして戻って来た。
(略)
その頃になると私たちはフェアポートとインクレディブル・ストリング・バンドの連中とかなり仲良くなっていたんだ。それからロイ・ハーパーもその場にいた。(略)
フェアポートとストリング・バンドの原点は、私たちが本当に気に入っていたものと同じだった。それでツェッペリンも自分たちなりのやり方でああした分野に移行していったんだよ。あれは一つには虚勢だったが、もう一つにはこの上ないエクスタシーでもあった――〈ユー・シュック・ミー〉から〈ザッツ・ザ・ウェイ〉への移行はね。実際、ブルースに基づいた要素を取り入れなくても、みんなに受け入れてもらえるようなメロディを紡げるくらい、私はリラックスしていた。
ヘッドリィ・グランジ
アンディ・ジョンズ 私がストーンズのモバイルを使うことを提案したんだ。あれはヨーロッパで最初のモバイルだった。ミック・ジャガーの邸宅に行くことも提案した。(略)
私が「モバイルのトラックが週1000ポンド、ミックの家が週1000ポンドだ」と答えるとペイジーは、「ミック・ジャガーに1週間で1000ポンドもオレは払わない。もっと良い場所をどこかに見つけてくる」と言った。それで彼はハンプシャーにあるあの古い邸宅を見つけてきて、それで私たちはそこへ行ったんだ。
(略)
リチャード・コール ヘッドリィ・グランジはピーターの秘書のキャロル・ブラウンが見つけてきんだ。
(略)
すこし湿った感じがして寒々としていたな。ジミーの部屋は一番上だったが、あの部屋は取り憑かれていたよ。間違いなくね。彼らは考えられる中でどこよりも最悪な場所で録音したんだ。ジミーが心の中で、「外の環境を可能な限り不快にすれば、みんなさっさと仕事に取り掛かるだろう」と思っていたのかどうかは私には分からないけどね。
アンディ・ジョンズ ペイジーはそれまで聞いたこともないようなアイディアを思いつくんだ。あの頃の彼はとにかく細かな部分の調整に熱心で、しかもそれが本当に良い結果を生んでいた。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ (略)
ジミーはいつもそばにアコースティック・ギターを置いておいて、いろいろなアイディアをアコースティックで弾くことがしばしばあった。(略)
アメリカ・ツアー中にマンドリンを購入していた私は、その時にはもうそれを使い始めていた。(略)それに、たぶんあの頃の私たちは以前にも増してジョニ・ミッチェルをよく聞くようになっていたと思うし、他には、そう、フェアポートのような人たちもね。私が最初にマンドリンの曲を学んだのは、『リージ・アンド・リーフ』(訳注=フェアポート・コンヴェンションの1969年のアルバム)からだったと思う。文字通り、私はヘッドリィの暖炉のそばに座って、あのレコードから音を拾って、弾き方を覚えようとしたんだ。「よし、オレたちはヘヴィなものはやったから、今度はソフトな方向に目を向けよう」などというのでは決してなかった。
ジョニ・ミッチェル レッド・ツェッペリンは私の音楽を好きだと言ったけれど、あれは勇気のいる発言だったわ。ほかの人間ならそんなこと認めようとしなかったのに。私の市場は女性で、長年私の支持層の大半は黒人だった。でもストレートな白人男性は私の音楽に問題を感じていた。彼らは私の所にやって来てはよくこう言ったわ。「私のガールフレンドはあなたの音楽がとにかく好きでね」と。まるで、ターゲット層が間違っているとでも言わんばかりだった。
ロイ・ハーパー (略)
〈ザッツ・ザ・ウェイ〉はおそらくロバートが自分自身を発見した曲だろう。本当に彼自身が自分で曲を書くようになった頃の最初の曲だ。あのアルバムを一歩引いた場所から眺めてみれば、あれこそが彼らの実質的なファースト・アルバムのように感じるはずだ。(略)
〈貴方を愛しつづけて〉
アンディ・ジョンズ アイランドとオリンピックで『レッド・ツェッペリンⅢ』を完成させた。オリンピックでは、素晴らしいミキサーが使えてね。その機材がとにかく良い仕事をしてくれた。あの録音作業には少々怖じ気ずいた。というのも、彼らはとにかくデカい音で演奏したからさ。ああした狭い空間では音圧が高まっていって、他の周波数帯域の音が上手く響かなくなるんだ。
ディグビー・スミス (略)ツェッペリンは『Ⅲ』と『Ⅳ』の制作の際、ベイジング・ストリートにあるアイランドのスタジオ1を多用した。あのスタジオは巨大で、70人編成のオーケストラだって入れることができた。サウンドは大きな洞窟のような感じで、リヴァーブとライヴ感が十分だった。(略)
問題はそのライヴ感をコントロールすることで、そのためにアンディはサウンドをかなり圧縮したんだ。彼がコントロール・デスクの前にいる時は、いつだってすべてが更に大きく、ラウドになっていった。興奮のレベルが上昇していったんだ。彼が作り出せるサウンドの質と、彼の仕事の速さに、私は本当に感銘を受けた。彼から滲み出る自信がバンドにも伝わっていた。ジョージ・マーティンが5人目のビートルだというなら、あの時のアンディは5人目のツェッペリンだった。
(略)
〈貴方を愛しつづけて〉のヴォーカルはほとんど1テイクだったはずだ。あれはしびれるようなパフォーマンスだったな。スタジオのエンジニアとしては、ディストーションを考慮して音量レベルに注意し、リヴァーヴの量とEQを適切に保つよう目を配るのが仕事だが(略)時には自分が録音をしていることを本当に忘れてしまって、別世界に突き抜けてしまうこともある。スタジオの中で繰り広げられているパフォーマンスのためだけに、自分が存在しているような感じになるんだ。あの曲を聞くと、私はすぐにあの場所に引き戻される。まるで初めてあれが演奏されたときのような気持ちになるんだ。スタジオの中に自分がいて、あらゆる息づかいが聞こえてくる……、今でも魔法のような感じがするんだよ。
ロバート・プラント 歌詞の各段落の最後だけれど、あそこの曲の進行は自然にそうなったものではない。ただの2小節というよりは、もう少ししゃれたものになっているし、そしてあの盛り上がる部分が、あの曲をすごく堂々とした感情に訴えかけるものにしている。誰があれをやったのか、どういう成り行きであれが生まれたのかは分からないけれど、でも、歌詞の各段落のあの部分に到達すると、音楽的にも感情的にも、演奏にそうした高ぶりが投影されているために曲に品位が加わり、そしてそれは何か誇りすら感じられるものになる。(だから)聞いている人はその音の中にいるだけで、胸に熱いものが込み上げてくるんだよ。(略)
『Ⅳ』
ジミー・ペイジ たぶん、ブロン・イ・アー滞在で生じた小さなさな火花が、「モバイル・トラックと一緒にヘッドリィ・グランジに戻って、あそこに籠ろう。そしてそこから何が生まれて来るか見てみよう」という一言に繋がったんだろうな。あの邸宅での滞在から生まれたのが、4枚目のアルバムだった。
(略)
規律正しく生活して、仕事にしっかり取り組むという意味ではあれは本当に良かったよ。ヘッドリィでたくさんの曲ができたのはそれが理由だと思う。たとえば〈カリフォルニア〉と〈限りなき戦い〉はあそこでできたものだ。
アンディ・ジョンズ ミュージシャンとして(略)彼らはとても仕事が速かった。(略)一晩で3曲か4曲仕上げるんだ。ジミーとジョン・ポールはかつて(略)"最高のセッション・ミュージシャンだったからね。
(略)
ジミー・ペイジ 3枚目、4枚目、5枚目のアルバムのために集まった時は、いつも誰彼かまわず、「どんな曲を持ってる?」という話をしていた。まあ正直に言えば、ジョンジーが何かもっていないかなと思ってね。
ジョン・ポール・ジョーンズ ペイジと一緒に当時のマディ・ウォーターズのアルバム『エレクトリック・マディ』を聞いていたのを覚えている。その中のある曲にとりとめもなく長く続くリフがあってね。それでそういう曲を書くというアイディアを私は本当に気に入ってしまったんだ。まっすぐ伸びていく旅みたいなリフをさ。
(略)
アンディ・ジョンズ 〈レヴィー・ブレイクス〉は2テイクくらいやった。サウンドの音圧がだんだん上がっていってね。あの連中とやるときはいつもそうだった。
(略)
ドラム・キットを台車に乗せて、広々としたロビーに運んだ。天井の高さは少なくとも25フィート(約7.6メートル)あったな。そうしたら本当に良い音になった。(略)「ボンゾ、こっちでこれを聞いてみろ!」と言うと、「こいつはすげえな」と彼が言った。「押し込むような力がある音だ」とね。
ロバート・プラント 〈レヴィー・ブレイクス〉はとてつもなく大きな一歩だった。ジョン・ボーナム以外の誰もあんな性的なグルーヴは作り出せなかった。ずいぶん大勢が挑戦したけどね。
(略)
デイヴ・ペグ サンディ・デニーとジミーは学校時代からの大の友人だった。サンディはアート・スクールにいた当時からジミーを知っていた。
アンディ・ジョンズ ロバートが言ったんだ。「サンディに来てもらって、〈限りなき戦い〉を歌ってもらうぞ」とね。素晴らしいアイディアだと私は思った。もちろん彼女はぴったりだった。
(略)
ロバート・プラント サンディと一緒に歌うのは最高だったよ。サンディと私は友人だったし、〈限りなき戦い〉で彼女に歌ってもらうよう頼むのはごくごく当たり前の成り行きだった。ナイーヴさと大人っぽく見せようとする態度が両方見えていたとしても――私はまだ23歳だった――二人の声と演奏が一つになっていたから、それがそのマイナス面を埋め合わせてくれた。
ディグビー・スミス (略)
〈天国への階段〉のドラムのサウンドの70%は、ボーナムの頭上4~5フィートに備え付けられたベイヤーM500リボン・マイクで録ったものだ。ジョンジーはキーボード・ベース、ジミーはアコースティック・ギターを演奏した。彼はベージュ色のバッフル4枚に囲まれていて、ほとんど姿が見えなかった。ガイド・ヴォーカルすらなかったと思う。複雑な構成の曲で、2~3の小曲を一つにまとめたものだった。どこかに1回目のテイクを録音した2インチのテープがあるはずだ。あれは凄かった。最初から最後まで一つもミスがなくてね。アンディが全員をコントロール・ルームに呼んで、プレイバックを聞かせた。音量を暴力的なレベルまで上げてさ。ボーナムとジョーンズとロバートは3人とも、これで決まりだ、と同意した。「オレたちはやったな」とね。でも唯一、ジミーが無言だった。ボーナムが彼の方を向いて、「何が問題なんだ?」と訊いた。ペイジは何も悪くないと言ったんだけれど、ボーナムは「いや、何かがまずい。それは何だ?」と続けた。「いや、何もおかしなところはない」「じゃあ、このテイクで決まりなのか、違うのか?」「これで大丈夫だよ」「これで大丈夫?つまり、オレたちにもう一度やってもらいたいのか?」
(略)
機材の箱の所に座って、なかなかスタジオに入ってこなかった彼の姿を覚えている。彼は腹の中が煮えくりかえっていたんだ。そしてようやく戻って来た彼は、自分のドラムからとんでもない音を叩き出した。全部のメーターの針がレッドゾーンまで行っていた。そして彼らはまたコントロール・ルームに戻って来て全編のプレイバックを聞いた。そうしたらさっきよりもう少しだけ切迫感が加わっていた。ボーナムはペイジにちょっと彼を抱擁するような態度で、「お前が正しかった」と言った。
私たちはジョン・ポールの3トラックをオーヴァーダブした。ギター・ソロの録音では、ヘッドフォンの代わりに巨大な再生用モニターを用意した。ホイール付きの大きなオレンジ色のロックウッド・キャビネットを幾つかね。そいつはペイジと同じくらいの大きさがあった。彼はその1台に煙草をくわえながらもたれかかっていた。リード・ギターは3テイク録って、その3テイクを編集してソロを完成させた。
(略)
そのソロの後、ロバートがスタジオに入って、ヴォーカルを収録した。1テイクか、あるいは2テイクだったな。
(略)
ロス・ハルフィン ジミーが数年前に私に言った。「いつもエンジニアを変えるのは、誰かに"彼らがレッド・ツェッペリンのサウンドだ"と言わせたくないからだ。オレこそがレッド・ツェッペリンのサウンドなんだからね」と。大事な部分が分かってるよね。事実、彼こそがレッド・ツェッペリンのサウンドなんだ。どのツェッペリンのアルバム(略)
もまるで今朝録音したみたいに聞こえる。そしてあれは100%ジミーなんだ。
アンディ・ジョンズ 最終的に私が不愉快だったのは、ジミーが"事実上エレクトリック・ギターを発明したのは自分で、樹々にとまっている鳥たちだって撃ち落とせる"みたいに公言していたことだ。彼はいつも私がやった仕事を自分のものにした。「アンディはただあそこにいただけで、何もしていない。私がすべてをやった」と言ってね。私は、「おいおい、曲を書いて、それを演奏したのがあなたなのに、そのくらいのことすら私の功績にしないんですか?」と思ったよ。
ジミー・ペイジ (メディアは)3作目の後になるまで、ほとんど私を無視していた。私たちがあれだけのことを成し遂げた後ですら、メディアは"単なる誇大広告"と見なしていた。4作目が無題になったのはそれが理由だ。
(略)
次回に続く。
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