- 石田達郎
- Bittersweet Samba、チャック・ケイ
- 転換点の66年、ミュージカルライツ東京
- ゲフィンに投資、ビートルズの著作権
- CBSソングスでの後悔
- ウインドスェプト・パシフィック・ミュージック設立
- 業界入りの経緯、楊華森、高崎一郎
- 亀渕昭信
- 「帰って来たヨッパライ」
- ジャックス
- 「長い髪の少女」「黒の舟唄」「結婚しようよ」「春夏秋冬」
石田達郎
1966年に入社したパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)は、当時ニッポン放送常務だった石田達郎さんがつくった子会社である。石田さんは非常に発想が豊かな方で、音楽出版社のパシフィック音楽出版をはじめ、レコード会社のポニーキャニオン、出版社の扶桑社、通販会社のディノス、フリーペーパーのサンケイリビングなどの新会社をフジサンケイグループに次々と立ち上げた人物。テレビの隆盛をみて、のちのちラジオには厳しい時代が来ると予見していた石田さんは、「ラジオ業界が潰れるのなら、ニッポン放送は最後に潰れる会社になろう」との意気込みで、ラジオ事業の将来展望における阻害要因を一つひとつ取り除いていこうとしていた。その一つが、音楽著作権問題だった。
当時はまだ、どんなレコードを放送しても著作権使用料は「出所を明示すれば支払わなくていい」という日本国内にだけ通用する"特例"があったのだが、64年の東京オリンピックを機に国際化の波を受けて、その特例が外されることになった。そうなれば放送局が著作権使用料を払うことになるのは確実なので、石田さんはそのインパクトを少しでも弱めるよう、著作権収入をあげられるパシフィック音楽出版を立ち上げたのだと思っている。
その石田さん、アメリカでは車を運転する時、ラジオに替わってカーステレオが人気を得ていることを知って、これもラジオに対する脅威だ、とニッポン放送サービス(のちのポニー)を66年10月にスタートさせた。
(略)
[67年米国視察]留学していた亀渕昭信さんも合流(略)『モンタレー・ポップ・フェスティバル』が開かれるというので、3人で観に行くことに(略)
サンフランシスコの街に降り立ってみると、あの「花のサンフランシスコ」の世界そのまま。髪に花を挿した女性やヒッピー姿の人たちをみて、「うわぁっ!」って高揚し、「なんて素晴らしいんだろう」と感動したことは今でも忘れられない。
(略)
「音楽にはこういう風に新しい流れがくるんだ」とわれわれも勉強になった。71年にニッポン放送が『箱根アフロディーテ』というフェスを開いて、ピンク・フロイドを招聘した時にゴーサインを出したのも石田さんだった。
Bittersweet Samba、チャック・ケイ
『オールナイトニッポン』が始まったのは1967年10月。モントレーから帰って来たその年の秋、上司の高崎一郎さんから(略)テーマ曲を探すように、と指示があった。
毎日番組の最初にかかるので「シングル盤で出せばきっとヒットする。ぜひうちで権利を持っている曲の中から探そう」と思いついたのが、マッコイズの 「Come on, Let's Go」(略)
[しかし、高崎は]
「ヴォーカルものじゃダメだ。インストゥルメンタルの曲で探して!」
(略)
ようやく探し出したのが、ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスの65年のアルバム『Whipped Cream and Other Delights』に収録されていた「Lollipops and Roses」だった。(略)
[高崎は]「おお、悪くないな。でもイマイチだな」と言いながら、そのアルバム収録曲を順番に聴いていくと、4曲目に入っていたのが 「Bittersweet Samba」だった。高崎さんは「お前、これだよ、これ!」とようやく納得してくれた。
(略)
A&Mレコードには、アルモ/アーヴィンという音楽出版社があった。(略)
A&Mのトップはジェリー・モスで、音楽出版のヘッドはチャック・ケイ(略)
チャックはジェリー・モスから「日本からオファーがたくさん来ているから一回行って、ひと通り会ってきなさい」と指示を受け、さらにこう言いふくめられていた。「すべての会社の状態が同じようだったら、お世話になっているタツ(永島達司さん)にお願いしなさい」
永島さんは言わずと知れたキョードー東京の創始者で(略)A&Mの主要アーティストの招聘をほぼ全部手掛けていた。つまり、アルモ/アーヴィンの契約先はほとんど内定していたということだ。(略)
71年秋に来日したチャックは日本の音楽出版社とひと通り面会をして、一番最後のパシフィック音楽出版は高崎さんと僕が会った。(略)
[チャックが]最初に名乗った時(略)思い出したんだ。
「チャック・ケイって、フィル・スペクターがクリスタルズの最初のアルバムのライナーに"Thank you for my sales manager"として名前を挙げていた、あのチャック・ケイなの!」
これを聞いたチャックは飛び上がって、「なんで俺の名前を知っているんだ!」と驚いたのなんの。一気に距離が縮まって、チャックはその場で「お前が我々の出版社だ」と言ってくれた。(略)
こうして、アルモ/アーヴィンの日本の窓口は大逆転の末、パシフィック音楽出版が担当することになった。(略)
[帰国した]チャック・ケイから契約書が送られてきて、もう一度びっくりすることになった。
なんと契約書に僕の"キーマン・クローズ"が入っていたのだ。つまり、この契約は僕、朝妻一郎がパシフィック音楽出版に在籍するかぎり有効で、もし僕が会社を辞めたら、その時点ですぐに契約を終わらせることができる、しかもこちらが払ったアド ヴ ァ ンスは払い戻さない、というものだった。(略)
高崎一郎さんは(略)「ずいぶん気に入られたんだなー、君は当分会社を辞めないよな!?」とひとこと言っただけで、すぐに契約書にサイン(略)
転換点の66年、ミュージカルライツ東京
パシフィック音楽出版は1966年の3月に設立された。(略)
日本の音楽の歴史上でも一つの大きな転換点の年だった。(略)
日本のレコード売上げの60%前後を占めていた洋楽のシェアが、この年50・8%となり、翌年には邦楽に逆転され、以降年々減少していく、つまり66年は洋楽優位の最後の年になったのだ。
(略)
[邦楽は]レコード会社がその権利を所有していたから、我々音楽出版社が手を出すことはまず不可能だった。(略)
フリーの作家がつくるヒット曲も出始めていたが、数は非常に少なかった上に(略)アーティストの所属しているプロダクションの傘下の音楽出版社か、作家と強い関係を持つ音楽出版社が獲得していて、新参だった我々の手の届くものではなかった。
だから60年代に入って多く登場した日本の音楽出版社のほとんどは、海外の楽曲の日本での権利を獲得してビジネスをするサブ・パブリッシャーとなることが必然とされていた。(略)
かといって外国曲の権利[も](略)先行出版社ががっちりと契約していた(略)
毎週ビルボード誌のチャートを見て、新しい楽曲が登場してくると、その曲が日本のどの音楽出版社と契約している会社のものかを調べていた。この頃、アメリカの大手から中堅の音楽出版社については、名前を見ただけで即座に日本の契約先を言うことができるくらい頭の中に入っていた。
(略)
権利を取りたい曲が見つかると、その会社に「こういう条件で日本地域の権利をください」という手紙を出して、「OK」とか「NO」とか、ときには「我々は日本のどこどこと契約している」といった返事をもらった。こんな時はその日本の契約先から「人の契約先にちょっかいを出さないで!!」と文句を言われたこともある。大手の傘下の新しい出版社だったから気づかなかったのだ。
(略)
目を付けたのが、ミュージカルライツ東京という会社(略)[「Diana」「Only You」など]日本で十分売れそうな曲をたくさん持っていた。しかも管理しているのは弁護士事務所で、他の日本の音楽出版社が契約しているものを取るのと違って、このカタログを取ったとしても問題が起こる可能性はほとんどないのではないかと想像できた。
(略)
[オファーを断られたので]
「1年間我々にプロモーションをやらせてもらえれば、売上げを20%上げてみせるから、その結果を見て契約するというのはどうだ?」という申し入れをしたところ、「わかった。 ではやってみてくれ!!」と返事が来た。
すぐさまレコード会社各社に連絡をして、ミュージカルライツ東京の楽曲をいろいろなかたちで再発売したり、B面に組み込んでもらったり、コンピレーション・アルバムに選曲してもらったり、考えられるあらゆる手段を使って売上げを増やす努力をした。その結果、76年の初めに「こんなに我々の楽曲をよく理解してくれているなら、いっそのことミュージカルライツ東京を買う気はないか?」という驚くべき申し入れが先方からなされた。
(略)
まだアメリカでの著作権の売買がそれほど一般的ではなかったこともあって、買収金額は今から思えばかなり安く(当時はそれでもけっこう大きな決断だった)、5年も経たないうちに全額を回収したと記憶している。
ゲフィンに投資、ビートルズの著作権
チャック・ケイに、「日本地域の権利だけじゃなく、全世界の権利を持ちたいんだ。(略)」と相談をしたところ、チャックはすぐさま「共同で会社をつくろう!」と言ってくれた。(略)
[しかし]A&Mレコード内部からの反対で、この計画は頓挫することになってしまった。(略)
彼は結局このことが原因でロンドールを辞めることになってしまう。1980年初めのことだ。(略)申し訳ないという気持ちと、あの実力のあるチャック・ケイがこのまま何もしないはずがない、必ず何かみんなをあっと言わせるようなことをするに違いない、と思った僕は、羽佐間さんに話して10万ドル(2500万円くらいだったと思う)を用意してもらい、チャックに「次に何をやるかわからないけど、日本の権利はうちにしてくれ」と話して、その前払い金として彼に投資をした。
思った通り、すぐにチャックから「デヴィッド・ゲフィンと共同で"ゲフィン・ケイ"という音楽出版社を作った」という連絡があり(略)
[最初の契約がジョン・レノン『Double Fantasy』](略)
投資した分はあっという間に回収することができた。
(略)
この頃になると、世界的企業のCMに対してアメリカのオリジナル・パブリッシャーが全世界を対象に直接許諾を出すようになり、日本でCM音楽が使われても日本の音楽出版社は蚊帳の外、というケースが出始めた。また、衛星放送サービスが始まり、全世界同時に放送されるようになると、日本地域の権利だけ持っていても意味を成さなくなる懸念がますます強くなってきていた。
そんな思いで何か手に入れられるものはないかと目と耳を使っていると、1984年にビートルズの著作権を持つATV音楽出版が売りに出され、金額は90億円くらいだ、日本のシンコーミュージックもスウェーデンの会社と連合を組み買収レースに参加している、などという記事が音楽業界誌に載っていた。(略)
[鹿内春雄は]日枝久さんとこの買収の可能性を検討してくださった。しかし、お二人から「面白いな。でも100億円は今のフジサンケイグループを逆さに振っても難しいんじゃないか」という結論が伝えられ、レースに参加することはなかった。
(略)
[CD再発期]という素晴らしい追い風が吹き、マイケルは高いといわれた買収金額のかなりの部分を、 これで回収してしまったのだ。春雄さんと日枝さんはこの動きを見て、「お前の言っていた通りになったな」と言ってくださった。
CBSソングスでの後悔
ザ・ビートルズの著作権が売りに出されたのが1984年。その2年後(略)"SBK"という投資グループが、CBSの音楽出版社CBSソングスを1億2500万ドル(約200億円)で買うことになった。そこにはユナイテッド・アーティスト映画やMGM映画の中の楽曲が全部入っていて(略)[「虹の彼方に」「雨に唄えば」「007のテーマ」]といった大スタンダードがたくさん含まれていた。
そこで僕はこう思った。「彼らは、その買収資金の大部分を銀行から借りたに違いない。だとすれば借入金を減らすことに神経を使っているはずだから、いくばくかでも現金が入れば喜ぶだろう」と。そして日本地域の権利を買収資金の10%で売らないかと彼らにオファーをした。(略)
交渉に入ってみると、彼らは自分たちが買収したCBSソングスが持つ音楽著作権のうち、日本地域の権利だけはCBS・ソニーグループの子会社である日本のエイプリル・ミュージックが持っていることを理解していなくて、彼らが提案した金額はエイプリル・ミュージックが持つ分も含めた数字であることが分かった。当然、それは違うと説明をしたんだけど、なかなか理解してもらえない。こちらも話すうちに、だんだん「この人たちは、僕を騙そうとしているんじゃないか」と思えてきた。今考えれば、彼らも騙そうとしていたわけではなく、単にSMEグループの構造を理解していなかっただけだとわかるんだけど、あの時の僕は疑心暗鬼になるばかりで、「こんなに吹っかけられて、とんでもない条件で契約させられてしまったら、僕のあとの人が迷惑するだろう」と考えるようになってしまい、途中で降りることにしてしまった。
(略)
結局シンコー・ミュージックが買うことになった。草野さんは数年で回収ができたらしく、実際のところ向こうの提案は決して悪い条件じゃなかったことが、のちにわかることになった。
ウインドスェプト・パシフィック・ミュージック設立
チャック・ケイと(略)88年1月末に会った時、彼がハッピーじゃない顔をしているのに気づいた。(略)「もしもワーナーを辞めるようなことがあったら、資金を出すから一緒に音楽出版社をやろうよ」と言ったら、その時は曖昧な反応だったが、3月に向こうから電話がかかってきて、「あのMIDEMでしてくれた、出版社を立ち上げる話はまだ生きているか?俺、やっぱりワーナーを辞めることにしたんだ」と言うので、「ぜひ一緒にやろう」ということになった。
(略)
[88年ウインドスェプト・パシフィック・ミュージック設立、軌道に乗り、93年ウインドスェプトUK設立、スパイス・ガールズ出版権獲得レースに参加]
(略)
[オフィスを訪ね、メンバーから感想を尋ねられ]
「すごくいいよ。絶対に日本で当たる」と答えたら喜んでくれた。さらに「個人的には 「2 Become 1」が好きだ」とメロディーを歌ってみせたら、彼女たちがこう言った。「サイモン、イチの出版社とサインをして!」
メンバーたちは僕を気に入ってくれて、無事に出版権を取ることができた。
その契約金は25万ポンド、当時のレートで3500万円ほどだった。それほど安くはなかったが、元は取れるだろうと思っていた。 その 半年後(略)日本デビューを果たし、 一 気にブレイク(略)サイモンはとにかく日本でのブレイクが世界的なヒットにつながったと僕たちに感謝をしてくれた。
(略)
アメリカの音楽出版業界(略)で独立系としては最大、メジャーを加えてもEMI、ワーナー、ポリグラム、ソニーに次ぐ全米5位にランクされるヒット曲の数を誇る成功を収めていた[が](略)損益計算書を見ると常に赤字ということになってしまう。(略)カタログの市場価値は簿価よりはるかに勝っているのに、貸借対照表にはその数字は出ない。(略)銀行にしてみると「この会社は赤字じゃないですか!」ということになってしまう。
97年当時銀行からは9000万円くらい借りていた。不良債権を整理しなければいけないという金融庁からのお達しがあって、我々にも銀行の担当者が来て9000万円を回収したいと申し入れてきた。(略)
フジテレビの日枝久社長は著作権ビジネスを理解されていたので、「売ったらもう取り戻せないだろ? 売らないで済む方法はないか」といろいろ考えてくださったが、96年末にニッポン放送が東証二部に上場したばかりでタイミングが悪く、フジとニッポン放送の足並みをそろえるのが難しくて、新たな借り入れは不可能になってしまった。
いろいろ考えた末にとても残念だが、金融関係の人たちに音楽著作権の資産価値を理解してもらうためにはちょうどいい機会だと、ウインドスェプトを手放すことにした。
(略)
EMIとワーナー・チャペルに話を持ちかけ(略)最終的に、EMIに200億円以上で売れて、100億円以上の利益を出すことができた。
(略)
その後アメリカに行くと、若い業界人たちから「理想の音楽出版社は、ウインドスェプトだ」という声がけっこう耳に入るようになっていた。 ソングスという音楽出版社を2017年に1億6000万ドルでコバルトに売って話題を呼んだ創業者のマット・ピンカスからも「イチ、オレの希望は新しいウインドスェプトをつくることなんだよ」と(略)言われた。ソングスは創業10年足らずの会社にもかかわらず、ロード、ザ・チェインスモーカーズなどのアーティストで大成功を収め、コバルトに大金で売られた。
業界入りの経緯、楊華森、高崎一郎
高校1年のとき2代目会長に就いたポール・アンカ・ファンクラブ(略)
あの頃はファンクラブの会長を高校生が務めるというのが一般的で(略)
アルファミュージックの大橋一恵さんがリッキー・ネルソン・ファンクラブの会長をやっていたのも、高校時代だったと思う。
(略)
61年の末にポール・アンカがABCパラマウントからRCAへ移籍(略)
[脱アイドルし、フランク・シナトラになりたいと]
格上のRCAに移って、ステップアップということだったんだと思う。(略)
[日本の窓口がキングからビクターに、挨拶に行ったが]
シングル1枚しか出していなかったから、町田さんとしても協力しようにもどうしようもないという状態だった。(略)
キングの武田さんが「ポールの著作権は日本ではヤマハミュージックが管理しているから、ヤマハに行ってみたら?」と助け船を出してくれた。挨拶に行ったら、窓口になってくれたのが楊華森さんだった。
当時のヤマハミュージックは、日本のレコード会社から出ていないアメリカのヒット曲を『エアメール・スペシャル』というソノシートで毎月発売していて、「おもしろい会社だな」という印象を持っていた。行ってみたら、専務の鈴木策雄さんが僕のよく聞いていたラジオ関東の『飛び出すアメリカンジュークボックス』のDJで、しかもご自分のことを"太平洋の担ぎ屋"と称される面白い方だった。(略)アメリカのレコードの原盤や著作権の権利の日本地域の代理権を本当に数多く持っていて、著作権では、ポール・アンカのほかに(略)「ルイジアナ・ママ」などの権利もその中に含まれていた。
その鈴木専務のアシスタント役だった楊さんは(略)高校生の僕にもとても親切にしてくれた。僕はヤマハに通っては、会報を作るためにコピー機を貸してほしいとか、ビルボードやキャッシュボックスを見せてほしいとお願いしたのに対して、楊さんはいつも二つ返事で応じてくれた。そうしているうちに、「お前な、音楽に詳しいから高崎一郎に紹介するよ」と言われた。
(略)
じつは、僕が高崎さんに紹介される数カ月前、のちにニッポン放送社長になる亀渕昭信さんが、楊さんの紹介で高崎さんのもとでアルバイトを始めていた。亀渕さんは輸入盤を買うために銀座ヤマハのレコード店に毎週のように通っていたのだが、「名前を聞いたこともないレコードを注文しに来る人がいる」ということで、困った店員から助けを求められた楊さんが亀渕さんと話してみたら、洋楽にとても詳しい若者だということがわかった。それで高崎さんに亀渕さんを紹介したらしい。そうしたら亀渕さんがとても優秀だったので、高崎さんが「(亀渕さんみたいに)おもしろいやつがいたら、また紹介してくれ」と楊さんに頼んでいて、そこに僕が現れたということになる。だから、亀渕さんがあれほど優秀じゃなかったら、僕は確実にぜんぜん違う人生を歩んでいたと思う。
(略)
ちなみに楊さんはヤマハのあとに渡辺音楽出版へ入って、辺見マリなど多くのナベプロ所属アーティストをプロデュースして数々のヒット曲を作った。(略)トワ・エ・モワの「或る日突然」もその一つだけど、村井邦彦君に言わせると「あの曲は、楊さんがつくったようなもの」ということだった。
(略)
楊さんはまた、"よう・かもり"をもじって"かもり・ようじ"とか"加茂亮二"というペンネームで訳詞や作詞もしていた。安倍律子の「愛のきずな」はその一つだ。
(略)
採用が決まり、さっそく高崎さんがプロデューサーだった「電話リクエスト」の「選曲をやってくれ」と言われた。
(略)
会社(石川島重工)が4時に終わると(略)有楽町へ向かい、高崎さんの番組の手伝いがなければ(略)ニッポン放送のレコード室で、曲名とアーティストの書かれたカードとレコードを調べながら番組の選曲・構成を考えるというのが日課になった。
亀渕昭信
仕事ぶりはテキパキしているし、段取りもよい。音楽はもちろん、なんでも知っている亀渕さんは、僕と一歳しか年が違わないとはとても思えないほどずっと大人に見えた。ある時、勇気を出して、「亀渕さん、なんでそんなに詳しいんですか。どうやって勉強すればそんなにいろいろなことがわかるんですか?」と訊ねたら、「そういうことは人から教えられるものではなく、自分で学ばなきゃだめだよ」と答えてくれた。
(略)
[そこで日々亀渕の行動を観察]
ようやく僕も「そうか!」と気づいた。それまで僕はビルボードやキャッシュボックスのチャートだけしか見ていなかったのだが、それからは記事をすべて読むようになった。そうした記事の中に、アルドン・ミュージックの作曲家のバリー・マンと作詞家のシンシア・ウェイルが結婚したというニュースを見つけて、「亀渕さん、バリー・マンとシンシア・ウェイルって、夫婦なんですね」と話を向けたら、「おお。お前もようやくわかるようになってきたな」と褒められて、とてもうれしかった。
亀渕さんが言いたかったのは、「チャートというのは結果であって、そこに至るすべての動きは、きちんと業界誌を読んでいれば理解できるんだよ」ということだったのだと思う。また、ビルボードのエグゼクティヴ・ターンテーブルという音楽業界の人事異動の欄で、いろいろな人がレコード会社や音楽出版社を移り替わっていることを知ったのも後の仕事で大いに役に立った。
亀渕さんはその後、レコードのレーベル・クレジットをきちんと見ることや、チャートでは曲名とアーティスト名、レコード会社だけでなく、作家や出版社も見るべきだと教えてくれた。とくにレコードのクレジットというのは情報の宝庫であり、そこに書かれている情報を覚えたり、ほかの情報とつき合わせて新しい知識を得ることを教えてくれた。
このアドヴァイスはのちにパシフィック音楽出版へ入社して、洋楽の契約を進める時にも活かされた。
(略)
高崎さんのところには、各レコード会社の洋楽担当者が自分たちの楽曲の売り込みに毎週顔を出していた。彼らはどうやって高崎さんに自分の押し曲を印象づけ、番組で掛けてもらうかをいろいろ考えて、日本語のタイトルを番組で募集してみたり、高崎さんに頼んで付けてもらったりしていた。
キングレコードの武田一男さん[は](略)クリスタルズの第6弾シングル「Da Doo Ron Ron」が勝負曲になると考えたのだろう。高崎さんに日本語のタイトルを依頼したところ(略)自分の好きな麻雀にちなんで「ハイ・ロン・ロン」と名付けた。(略)思惑通り、この曲はクリスタルズの最大のヒットになった。と同時に、当時麻雀の場でこの"ハイ・ロン・ロン"という言葉がよく飛び交うくらいの流行語になったのも、紛れもない事実だ。
日本語のタイトルといえば、高崎さんはもう一つ素晴らしいヒットを生み出している。(略)ポリドール・レコードの洋楽部員だった渡辺さんが、高崎さんに「この曲は絶対ヒットすると思いますから、いい日本語のタイトルを考えてください」と、ガス・バッカスというドイツ人の歌う「Short on Love」というテンポのいい曲を聴かせた。すると高崎さんは、「「Short On Love」なら、これは「恋はスバヤク」だよ」と一発で決めた。この曲も日本で大ヒットになったが、この曲がヒットすると確信していたポリドールの渡辺さんとは、のちに作曲家に転身される筒美京平さんだ。
(略)
僕と亀渕さんがアメリカのヒット曲に詳しいからと、[武田さんから]面白い仕事を仰せつかった。音羽のキングレコードの木造事務所の屋根裏に、契約先のロンドン・レコード傘下のモニュメントや、ケーデンス、デル・ファイといったレーベルから送られて来たシングル盤が山積みになっているので、この中から日本で売れそうなものを見つけ出してほしい、というのだ。(略)
エディー・ホッジス、ジョニー・クロフォード、ジョニー・ティロットソンなどの、アメリカではけっこうヒットしていたのに日本では未発売だったレコードを発見して発売にこぎつけたりしたが、たぶんわれわれ二人のこの時の一番の成果は、ロイ・オービソンの「カム・バック・トゥ・ミー」とヴェルヴェッツの「愛しのラナ」を探し出したことだろう。両方ともアメリカでは全然ヒットしなかったレコードだが、日本では大ヒット(特に「愛しのラナ」は)となったのだから。
(略)
[亀渕さんの先見の明といえば]
63年の終わりに近い頃、亀渕さんが「朝妻、このビートルズというグループのメンバーの顔をよく覚えておいた方がいいぞ!」と(略)僕に言ってくれたことは、今でもはっきり覚えている。ビートルズがアメリカで大評判になるのは翌64年2月
(略)63年暮れにはまだ(略)数カ月後に起きる大狂乱のかけらも感じられなかったからだ。
「帰って来たヨッパライ」
「イチ、こんなおもしろい曲が関西で流行ってるんだけど、アマチュアが作った自主制作レコードらしいよ。まだどことも契約がないらしいから、これPMPで権利を取ったらいいんじゃない?」と[木崎義二さんが]テープを聴かせてくれたのが「帰って来たヨッパライ」だった。僕も「これはおもしろい!」と[伝を辿って](略)
アートプロモーションの秦政明さんに「権利をうちにください」とお願いしたら、「今、いろんなところから話がいっぱい来てるけど、今まで来た人の中では君が一番若いから、君に権利を渡そう。ただし原盤権は譲ってあげるけど、自分でこれから音楽出版社を作ろうと思っているから著作権は売らないよ」と仰ってくださった。
(略)
この後すぐにアート音楽出版を立ち上げ、さらにURCを始める秦さんからしたら、フォークルのレコードは既成のレコード会社ではなく、いずれ発売するURCのアーティストに理解のある新しい会社がいいということで、ニッポン放送傘下のパシフィックと契約してみようという深慮遠謀があったのではないだろうかとも思う
(略)
PMP社長の石田達郎さんに「こんな曲のレコードの権利が取れました」と報告をしたら、「これは良い、ANNの独占放送にしよう」とおっしゃって、"ANNを聞かなければ「帰って来たヨッパライ」を聴けない"という状況を鶴のひと声でつくり上げてしまった。その代わりANNでは何度掛けてもいいというのだ。石田さんとしては、始まったばかりのANNのプロモーションにもなるし、同時に「帰って来たヨッパライ」のレコードが話題になって大きなヒットになるという相乗効果を考えていらっしゃったのだ。
(略)
[レコード発売1ヵ月前、高嶋弘之から「録音契約は?」と指摘される]
アマチュアの作ったレコードの原盤を買い取る、ということにだけ頭が行っていて、今後の契約のことはまったく意識していなかったのが事実だった。
(略)
「このあともフォークルの新譜を出したいんだろ?だったらレコーディング契約をしないとだめだろう」と諭されて、僕は「まったくその通りです!」とようやく自分のチョンボに気づいた。
(略)
高嶋さんがあの時に気づかせてくれなかったら、その後の「悲しくてやりきれない」、アルバム『紀元貮阡年』のヒットも生まれなかったし、加藤和彦・北山修の「あの素晴しい愛をもう一度」もベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」もPMPの管理楽曲ではなかったろう。加藤君の紹介で著作権を管理することになった「結婚しようよ」(よしだたくろう)や「春夏秋冬」(泉谷しげる)と出会うこともなかったに違いない。
(略)
このレコードが発売された翌年、[PMPの]68年度の決算では売上げが対前年比800%近い急成長を遂げることになった。
(略)
ニッポン放送とフジテレビの社長だった鹿内信隆さんから呼ばれた。用件は、鹿内さんのお嬢さんが慶応大学に通っていて、彼女の友だちのグループが東芝からレコードを出したので応援してほしいということだった。そのグループというのはたしか"万里村れいとザ・タイム・セラーズ"だったと思う。(略)
[高崎さんが高嶋さんに相談]
「いきなりこのアーティスト1組だけを盛り上げるのは難しいかな」と高嶋さんは答えたという。しかし、「慶応か」とつぶやいて「今、うちに学習院のグループをデビューさせる話があるから、この間の『フォーク・ビレッジ』のアーティストも含めて大学生のグループをひと括りにしてキャンペーンをしてみたらどうだろう。みんな大学生なんだから名前は"カレッジ・ポップス"がいいな」と話が一気に広がった
(略)
その学習院大学のグループというのは、作曲家の都倉俊一さんのいたザ・パニック・メン。他に早稲田大学のザリガニーズの「海は恋してる」(略)成城大学の町田義人君のいたキャッスル・アンド・ゲイツの「おはなし」などが次々と東芝から発売された。
ジャックス
[GSブームが来たが、多くが既にプロダクションに所属していたので]
PMPでもバンドを手がけたいと、ライブハウスに足を運んでおもしろそうなグループを探していたら(略)ジャックスに出会うことができた。すでにラジオで「からっぽの世界」を聴いて彼らを知ってはいたけれど、実際にステージを観たら、そのジャズとフォークとロックの融合した音楽性と、リーダーの早川義夫君の作る詞と曲の世界とヴォーカルの独自性がおもしろくて、いっそう興味を惹かれた。
(略)
[早川も音楽評論家として朝妻の名前を覚えており、一気に意気投合。「からっぽの世界」の著作権と録音契約を結ぶ。しかし、アルバム制作が8割過ぎた時に]
「朝妻さん、じつは僕、「からっぽの世界」以外の曲の著作権はシンコーと契約したんですけど、なにか問題ありますか?」
「えええっ!」としか僕は反応できなかった。(略)
[タッチの差で接触してきたシンコーの草野が]
録音契約はしたけれど、楽曲の著作権契約は交わしていないと早川君から聞き、「それでは著作権契約だけでも」と曲の権利は新興楽譜のものになってしまったのだ。
(略)
他のメンバーの書いた曲は無事にPMPで契約できた。フォークルの時といい、今回のジャックスといい、契約の重要性をしっかり勉強させてもらったと思うほかなかった。
フォークルの時は草野さんの方が先にアプローチしていたのに、あとから出て行った僕が契約することになったので(略)その敵を討たれた感じになった。
「長い髪の少女」「黒の舟唄」「結婚しようよ」「春夏秋冬」
[PMP設立の]翌67年の2月には、雑誌『ティーンビート』から内垣内佳子さんが参加して外回りを手伝ってくれるようになり、少しずつ音楽出版社としてかたちが整ってきた。
(略)
岡林信康君の「山谷ブルース」との契約は(略)秦政明さんと高崎一郎さんが交渉してまとまった契約だった。
(略)
ゴールデン・カップスの「長い髪の少女」は、入社して1年も経っていなかった内垣内さんが(略)東芝レコードに行った時、自分の好きな(略)ゴールデン・カップスが(略)グループサウンズ風な作品を歌っているのを担当の安海勲ディレクターに聞かされて、「これはヒットする!!」と直感[ぜひPMPにと契約し、大ヒット]
(略)
[RCサクセション「宝くじは買わない」も、彼女が「このグループは才能がある!」と契約したもので、初期のPMPの発展に内垣内さんの果たしてくれた役割はとても大きかった。
(略)
野坂昭如さんの「黒の舟唄」(略)ヤマハのコンテストに参加した野坂さんが「マリリン・モンローノー・リターン」を歌っていたのを見て、これは売れると思って契約をお願いしに(略)
[「マリリン~」作詞作曲の]桜井順さんのブレーン・JACKには制作担当として大森昭男さんがいらした。大森さんとは資生堂CMの仕事で関わり、加藤和彦君を起用してもらって以来仲よくしていただいていた(略)
「あの曲の権利はヤマハに渡さなければダメなんですか?」「うん、そうなんです」となったものの、諦めずに「それならB面の権利をくださいよ。マリリンも一生懸命プロモーションしますから」とお願いして契約してもらったのが(略)「黒の舟唄」なのである。
(略)
ある日、「朝妻さん、よしだたくろうって絶対に売れますよ」と加藤君がPMPに顔をだした。
(略)
[エレック]初代社長は永野譲さん。専務がギターの澤田俊吾さんの弟子だった浅沼勇さんで、制作・宣伝についてはすべて浅沼さんが仕切っていた。
僕はすぐに浅沼さんのところへ向かい、「よしだたくろうは絶対に売れると思います。「結婚しようよ」の著作権をぜひうちにください」とお願いをした。浅沼さんから「著作権をあげたら、何をしてくれるの?」と尋ねられたので、こちらも必死になって「「結婚しようよ」を一生懸命宣伝して、たくさん売れるようにがんばります」と答えた。浅沼さんもしばらく考えて、「本当にそうしてくれるなら、「結婚しようよ」だけじゃなく、よしだたくろうのアルバムの曲の著作権を全部あげるよ」ということになった。(略)
[ただ]「人間なんて」だけはダメだと言われた。浅沼さんが「人間なんて」という曲が本当に好きで絶対に手放したくないというのだ。しかしそのほかは「イメージの詩」や「夏休み」などの楽曲も任せてくれて、「一生懸命売ってくれよ」ということになった。
加藤君がプロデューサーをしていた泉谷しげる君もそうだ。やっぱり加藤君から「朝妻さん、泉谷の「春夏秋冬」って絶対に売れますよ」という話があって、また浅沼さんのところへ行き、「春夏秋冬」の権利をくださいとお願いしたら、よしだたくろうで成功したあとだったので、「いいよ」とすぐに返事をもらえた。本当に加藤君に感謝である。
次回に続く。
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