- カーリーン・カーターと結婚
- 義父ジョニー・キャッシュとの交流
- ドクター・フィールグッド、スクイーズ
- ロックパイル
- ニュー・カントリーはカーリーンが始めた
- 離婚
- 彷徨、デカいドラム・サウンドは嫌だ
- スーパーマンの彼女、ライ・クーダーとジム・ケルトナー
- 『ボディガード』サントラ大ヒット
- 30分Q&A
- ソングライティングのセオリー
- ロス・ストレイトジャケッツ
- ピーター・シルヴァートンによる分析
前回の続き。
カーリーン・カーターと結婚
『グリーク・シアター』での公演の後、ツアーの短いオフ日を利用して、ニックとカーリーンは結婚式を挙げた。1979年8月18日(略)カーリーンの自宅が会場となり(略)「恋するふたり」のミュージック・ビデオのセットとなった。(略)
デイヴ・エドモンズは運転手役、テリー・ウィリアムズはカメラマン、ビリー・ブレムナーはシェフ役に扮している。(略)ニックのベストマンはジェイク・リヴィエラが務めた。ニックの両親もわざわざ駆けつけ、二人の友人たちやカーリーンの娘ティファニーらと一緒に歌う姿が収められている。
(略)
79年10月、ニックはエルヴィス・コステロ『ゲット・ハッピー!』のプロデュースを開始
(略)
当時、コステロは60年代ソウルにハマっていた。カムデン・タウンにある『ロック・オン・レコード』でスタックスの45回転シングルをまとめ買いしたのがきっかけだった。そんなソウル・ミュージックにインスパイアされた曲が次々と生まれたが、それらの多くは、アトラクションズが長居をしすぎたオランダからロンドンに戻ったあと、手直しされてようやく完成する。いずれにせよ、この時期のコステロはいくらでも曲が書けたに違いない。20曲が収録された『ゲット・ハッピー!』のすぐあとには、デモやカヴァー曲、アウトテイクなどを20曲収めた『テイキング・リバティーズ』をリリースしている。そのほとんどはニックがプロデュース(略)
その頃、ワーナー・ブラザーズ・レコードからカーリーン・カーターの『トゥー・サイズ・トゥ・エヴリ・ウーマン』がリリースされた。(略)
カーター=キャッシュ家の第一後継者と思われてきたカーリーンだったが、ただ黙って用意された道を行く気はなかったのだ。(略)反抗心は、彼女をロンドンから日々生まれる"よりタフな"音楽へと近付けさせた。
「あの時のカーリーンは自分の宿命から逃れたいと思ってるようだった」と言うのは近くで見ていたポール・ライリーだ。「彼女ならカントリー界の大スターになれたわけだけど、そうならないためにあらゆることをしてたように見えたよ。(略)
ニックの世界に身を置くことで、彼女は敷かれた音楽のレールに乗って、決められた世界の中にとどまることを拒みたかったんだろう」
(略)
ニューヨーク『ボトムライン』に出演し「スワップ・ミート・ラグ」を演奏する際、彼女は次の曲をこう紹介したのだ。「これで"カント"をカントリーに取り戻せなかったら、他にどんな手があるっていうのよ?」(略)
[だが客席には]娘を驚かせようと内緒でやってきたジョニー・キャッシュとジューン・カーター(略)
「ライヴ後、ママとジョンが楽屋にやって来たわ。ジョンは顔を真っ赤にして怒ってた」。
義父ジョニー・キャッシュとの交流
[クリスマス、ジョニー・キャッシュとジューンがロンドンに]
ニックは言う。「タクシーが列をなしてやってきて、シェパーズ・ブッシュの僕らのささやかなテラスハウスの前に横付けしたんだ。1台にはジョニーとジューンが乗ってて、もう2台は彼らの荷物を乗せていた。それじゃなくても義理の親が家に来たら、こちらの背筋もピンとするってもんだが、それがジョニー・キャッシュとジューン・カーターなんだぜ。(略)家が1/4くらいに縮んじゃったんじゃないかと思ったよ。二人がそこにいるってことが信じられなかった。朝起きて降りていくと、僕らのちっちゃなキッチンにジョンがいるんだ。ガウン姿でコーヒーをすすり、膝にはギター。ジューンもガウンなんだが、ダイヤが輝いてたよ、一つか二つか。その格好でガスレンジの前に立って、スクランブルエッグを作ってるんだ」
「(略)ジョンは大の音楽ファンで、音楽を聴くのも音楽の話をするのも大好きだった。音楽を作るのと同じくらいにね。僕は彼ほどの人は、僕や僕の仲間みたいなレコードの聴き方はしないんじゃないかと思ってたんだ。つまり、半分取り憑かれたみたいにとことん聴き込んで、理解しようとするなんてことはしないんじゃないかと。このグルーヴは一体どうなってるんだ?どうしたらこうなるんだ?この曲のアレンジは?なぜこのヴォーカリストの歌詞は伝わってくるのに、こっちのは伝わってこないんだ?なぜ?なぜ?というようなことさ。でも僕は間違ってた。少なくともこの点に関しては。彼も、僕らと同じような音楽の聴き方をしてたんだ」
「(略)よくカセットがいっぱい入ったバッグの中から曲を聴かせてくれた。『次はこれを聴け』と言いながら、片手で、20とか30もの曲の中からお目当ての曲をピタリと見つけ出す。(略)
ボブ・ルーマン、ジョニー・ホートン(略)ファーリン・ハスキーなんかを聴かせてくれた。『このギターはグレイディ・マーティンだ』とか『今のはナッシュヴィルっぽくないな。キングで録ったんじゃないかな』とコメント付きで。なんて贅沢な時間だったことか!」
(略)
[12月26日ニック自宅のスタジオに]ジョニー・キャッシュがいた。(略)
エルヴィス・コステロ、デイヴ・エドモンズ、マーティン・ベルモント、ピート・トーマスも集まっていた。キャッシュとコステロは「ウィ・オータ・ビー・アシェイムド」をデュエットし、キャッシュはニックが書いた「ウィズアウト・ラヴ」を歌った。それはのちにキャッシュのアルバム『ロカビリー・ブルース』に収録される
(略)
[妻の次作プロデュースに乗り気ではなかったニック]
「だからニックがイヤと言えない曲を書くことにしたのよ。彼が『これぞロックパイルの曲だ』って思えるのをね」(略)[それが]「クライ」だった。デイヴ、ビリー、テリーはニックに言った。「やろうぜ。これをアメリカ人のやつらとレコーディングさせるわけにはいかない。彼女には俺たちが必要なんだ」
ドクター・フィールグッド、スクイーズ
1980年のイーデン・スタジオの予定表はリヴィエラ・グローバルとそのクライアントによってほぼ埋まっていた。(略)
[『トラスト』、過酷なツアーで燃え尽きていたコステロとバンド]
「疲労困憊してた時期だ」とコステロは言う。「(略)しこたまスクランピー(訳者註:強いシードル酒)とウォッカを飲み、レコーディングが終わる頃には、セコナル(訳者註:鎮静剤)をウィスキーで流し込んでいた。気分は最悪。すべてクソ。何もかもがマイナス思考。飲んで、酔って、二日酔いになって、自分を憐れむ。(略)
ニックは僕らがベストを尽くしてないって幻滅してた。ジェイクにこっぴどく怒られたのも覚えてるよ」
(略)
80年6月、ニックは再会したドクター・フィールグッドの『ア・ケース・オブ・ザ・シェイクス』をプロデュースする。(略)
[主治医から白ワインならいいと言われたリー・ブリロー]
シャブリの海と化したスタジオからは、巨大スピーカーをガンガンに揺らす「ドライヴス・ミー・ワイルド」や「ベスト・イン・ザワールド」などが生まれた。(略)
[ジッピー・メイヨ談]
「あのアルバムでのニックの功績、特にでかい音でバシバシ飛び散るようなドラム・サウンドは気に入ってるよ(略)サンディ・ネルソンっぽいものを目指したんだ。ニックからは言われた。『そのまんまでいいんだよ。荒々しさ、そこで生まれるものそのままで。君たちはドクター・フィールグッドだ。ドゥービー・ブラザーズじゃないんだ!』」
(略)
[マイルス・コープランドがザ・ポリスのマネージメントに専念、ジェイク・リヴィエラがスクイーズを担当]
ジェイクはスクイーズに二つの提案をした。一つは脱退したキーボードのジュールズ・ホランドの後任に、元エースのポール・キャラックを入れること。さらには、2枚組のアルバムにして(略)[プロデュースは]ポール・マッカートニー、デイヴ・エドモンズ、エルヴィス・コステロ、そしてニック・ロウ。(略)
[ポールは辞退、ニックはパブで話してばかりで仕事にならず、デイヴも数曲で断念、結局コステロがやることに]
ロックパイル
ずっとネックになっていたデイヴ・エドモンズとスワン・ソングとの契約が片付き
(略)
アンディ・チーズマンは言う。「(略)ピーター・グラントにしてみりゃ、レッド・ツェッペリンのメンバーたちを喜ばせたいだけ。(略)正直、彼らがデイヴのために何をしたのか疑問が残るところさ。スワン・ソングにとっても、デイヴとの契約は不毛に終わった印象だったね」
ロックパイルのデビュー・アルバム『ロンドンの街角(Seconds of Pleasure)』の広告がアメリカの音楽誌のページを飾った。「4つの将来有望なソロ・キャリアはここで葬られる」というキャッチコピー。
(略)
ニックの茶目っ気ある歌詞とポップ・センスに、デイヴのプロダクションとロックンロールなグルーヴ、さらにヴォーカル・ハーモニーとギターが何重にも重なれば、それは究極に心地よい音楽に決まってる。夢は膨らむ一方だ。(略)
ニックは言う。「『何曲出来た?11曲?よし完成だ』とね。個人的には、もっとポップな曲で人を驚かせたかったんだ。恥ずかしながら、僕はホリーズやフォーチュンズとかが好きだったからね。ロックパイルの失敗はデイヴに固着しすぎたせいもあるけど、ロックパイル自体、常にチャンスに見逃されていた。ちょっとだけ呪われてたっていうとこだね」
(略)
[全米プロモツアー開始]
F-Beatのアンディ・チャイルズは言う。「[3日間とも完売の]『リッツ』でのロックパイルはすごかったよ。アルバムがちょっと残念だったのとは対照的にね。バンドの中に不和が生じているとは気付かなかったな。確かにニックだけ周りから距離を取り、ホテルの部屋にこもることはあったんだが」
(略)
こともなげにニックが言ったのだ、その日、ロックパイルが解散したと。「なんだって?」と僕は叫んだ。
(略)
デイヴ・エドモンズは不服だった。ロックパイルのアルバムが全米チャートを上昇するにつれ、今の契約書には自分の権限がないことを感じ始めていた。何度もリヴィエラとの話し合いが持たれたが決裂に終わる。イーデン・スタジオでストレイ・キャッツのミキシング中のエドモンズに電話で連絡は入った。「バンドは終わった」と。
エドモンズにとって皮肉だったのは、4作目のソロであり、スワン・ソング最後となる『トワンギン』を無事に届け、ようやく契約的にも理論的にも、ロックパイルを含む誰とでも好きにレコーディング出来るようになった矢先、バンドの基盤の二人であるニックとジェイクが興味を失ってしまったことだ。
「ロックパイルのことは大好きだったけど、次への一歩でしかなかったんだ」と、何年も経ってからニックは胸の内を明かしている。「そこまでの熱意はなかったよ」
(略)
「(略)ロックンロールをただ速く、大きな音でやることが苦痛になってたんだ。(略)なんの責任もなくやってるうちは良かったんだが、突然、『OK、みんなのサインを契約書にもらった。今度こそロックパイルとしてレコードを作れるぞ、さあ取りかかれ!』となった途端『いや、作れなかった方がずっと良かったんだけどな』って思っちゃったんだ」
(略)
ニュー・カントリーはカーリーンが始めた
[81年5月コステロは]ナッシュヴィルで、カントリーのカヴァー・アルバム『オールモスト・ブルー』をレコーディングする。プロデュースにはカントリー界の大物、ビリー・シェリルが当たり、コステロにとってニック以外のプロデューサーと組む初のアルバムとなった。「あとで振り返ってみると、ニックの方が良かったのかもしれない。ビリー・シェリルほど気取ってない誰か、ニック、もしくはカウボーイ・ジャック・クレメントとかの方がね(略)ナッシュヴィル・アルバムというのは、僕にはコンセプチュアルすぎた。だからあえて相手の懐に飛びこんでみたかったんだよ」
(略)
結婚2周年を祝ったニックとカーリーンのウェルズリー・ロードでの生活は順風満帆だった。二人並んだ姿は、まさにダウンタウン・ポップス界のキング&クイーン。(略)彼女のため、昼夜問わず曲を書き続けているように見えた。(略)ヒップなジャッキー・トレント&トニー・ハッチ夫妻といったところか。
「そう、僕ら自身、二人でいる自分たちが好きだった。カーリーンも僕もキャリアには野心があったし、人目を引くカップルだってことも意識してた。でも多くの部分で意見はまるで合わなかったんだ。例えば彼女と"スコットランドの権限委譲について"真剣に議論しようとは思わなかった。でも本来、僕はそういうことに関心がある方なんだ。ただ、自分達がおしどり夫婦だって思えること自体が好きだったし、実際、似合いのカップルだと思ってたよ。そのわりには二人ではあまり一緒に仕事をしていない。夜、家でギターで曲を書いたりしたが、これと思えるものは生まれなかった。ちょっとだけ感覚のズレがあって、口論するほどの価値はないように思えたんだ。彼女の歌詞の意味はいまだに理解出来ない。アメリカ人ソングライター、特にカントリーの世界にある、ちょっとフォーキーな、ボブ・ハリスのラジオ番組でかかりそうなやつさ……アメリカーナとかニュー・カントリーって言うのかな。あれはカーリーンが最初にやり始めたようなもんだ。ナッシュヴィルのソングライターにとって、彼女がロックパイルと作った『ミュージカル・シェイプス』は、彼らが今やってることのテンプレートだったと言ってるのを聞いたことがあるよ。フライング・ブリトー・ブラザーズのギアをさらに上げ、セックスを強調した感じさ」
(略)
この時期のカーリーンは成功を求めていないかのようだった。確かに曲は多く書いている。「ドゥ・イット・イン・ア・ハートビート」や「クライ」といった名曲も生まれた。でも、もともと名家に生まれた彼女には、そんなことはどうでもいいという自棄的な様子が窺えた。
「彼女には貪欲さがなかったんだ」とニックは言う。「自らチャンスを無駄にしたんだと思う。今だから言えることだけど、その頃も気付いてたよ、僕は。彼女には自分の金があった。どこから入ってきたのかは分からない。でも金を巡って揉めたことは一度もなかった。僕もあの頃は十分に稼いでたしね」
「そこが私達の不思議な点だったの」とカーリーンも言う。「実際、二人でいくらお金を持ってたか知らなかったわ。互いに自分のお小遣いは自分で稼ぐ。私の稼いだお金は二人の口座に入り、ニックの稼いだお金は、さあ、どこへ行ってたのかしら(笑)。ニックがツアーに出るのにお金が足りないって言えば私が出してあげて、その次の時はニックに出してもらうというように、対等にサポートし合う結婚生活だった。若かったし、それぞれに稼ぎもあって良い家に住んでいた。(略)」
「カーリーンと一度でも真剣な話をしたことはあったんだろうか、覚えてないよ(略)お互いのキャリアについてさえ話さなかった。(略)
僕ら、楽しく生きるのに忙しすぎたんだ。夢を追ってはしゃぐ子供みたいにね」
離婚
ニックはレーベルと年1枚アルバムを作る契約を交わしていた。アドバンスとして入る現金収入は役に立ったものの、コマーシャルなサウンドの曲を書く意欲はどんどんなくなっていた。(略)
かみ合わなくなり始めたのは『ニック・ザ・ナイフ』の頃からだ。ニックは初めて「7位以内に入るんだ。猶予はない」と責められている気がしていた。(略)
プロデュースしてきた経験から(略)経営陣(略)がアーティストをどう見ているかも分かっていた。(略)
「僕には、何10年もポップでいられるサー・エルトンとかサー・クリフのような選ばれた人間の資質がなかったってことさ。彼らのレコードを一体どんな人たちが買っているんだろう?って思うよね。でも実際には多くの人が買っているわけさ。レコード会社の上層部がアーティストのことを話す時の、本当に恐ろしくなるような口ぶりを僕は耳にしていた。アーティストはいわば金のなる木で、彼らから給料をもらってるくせしてさ。こりゃあ潮時かなと初めて気付いたのは、ある時、レーベルを訪ねたら『ニック!入っておいでよ!』と言われる代わりに、警備の人間に『おい、ちょっと待て。パスはどこだ?』と止められちゃった時だね」
(略)
[カーリーンとの]ぎくしゃくした関係は続いていた。(略)
「約1年かけて立ち直り、酒は絶っていた」と言うニック(略)
カーリーンはこの頃のニックの気の短さを覚えている。「アルコールはやめてたわ。でもそれだけ。キッチンのテーブルに座ってソリテアをしながら煙草を吸い、BBCのラジオを聴く。それを一日中やってるの。(略)」
(略)
愛のない家で生活を続ける苦痛に耐えられなくなったニックは、1985年春のその日、ついに行動を起こす決心をした。「これ以上引きずってはいられない。離婚をする。ここを出る。今日、ここを出る」
彷徨、デカいドラム・サウンドは嫌だ
1985年8月にリリースされた『ザ・ローズ・オブ・イングランド』(略)
ニックは不満を募らせていた。結局、自分は同じことを繰り返しているだけで、作っているレコードは「目も当てられない、ひどいものなんじゃないか?」(略)
レーベルだって本当は僕なんかいらないんだ。それなのに次のレコードはどうなっている?と尻を叩いて急かす。しまいにはこんなことを言ってくるのだ。「そういえば、君はヒューイ・ルイスと友達だったよな?」(略)
[〈アイ・ニュー・ザ・ブライド〉のプロデュースを依頼されたヒューイ・ルイスは快諾]
「そこは[LAの]超高価な一流スタジオ。ヒューイはやる気満々だった。あいつにあんなことを頼まなきゃならないのは嫌だった。でも彼はやるよと二つ返事で、端正な曲に仕上げてくれたんだ。隣のスタジオにスターシップがいて(略)〈シスコはロックシティ〉の頃だ(略)やたらと愛想良くて、こいつら火星人か?と思うくらいだった。僕らのスタジオにやって来ては、『ごきげんなサウンドが聞こえるんで、来ずにはいられなかった。最高だね。ロックしてるよ』とか歯が浮くような社交辞令を言うもんだから、吐いちまうかと思った」
(略)
[レコード会社の要求は満たせたが]
ニックは気付いたのだ。これまでずっと避けてきたはずの"ドラムマシンを駆使した鋭角的ノイズ"の中に自分がまんまと巻き込まれていることに。
(略)
1986年になる頃、ニックの心はどっちつかずの場所で揺れていた。ポップ・アーティストとしてのキャリアもいいが、もっとアーティスティックに羽ばたきたい、その地図さえ手に入れられるのであれば。
(略)
「コロムビアから僕はもう望まれていない気がしていた。しばらくRCAにいたが、その時のことはほとんど覚えていない。レーベルからレーベルへ、トーテムポールの高い所から転げ落ちたみたいだった。突然、僕は重要じゃなくなり、別の誰かに取って代えられていた。でもそいつも僕と同じくらいひどかったけどね。終わりが近い予感はあったけど、実際に終わった時はショックだったよ。プロデューサーとしては何枚かヒットも出し、イイ線いっていたし、何人かのアーティストによって曲もカヴァーされいい思いもさせてもらった。ビスケット工場かなんかの仕事に戻るべきだったのかもしれない、うまくいかなかった者がそうするように。実際、自分には大したことは出来てないって思ったのさ」
それからの1年半、ニックは次なるアルバムの制作にかかりっきりとなる。だが、頭の中に聞こえるサウンドは、何度レコーディングを重ねても形にならないように思えた。彼の言葉を借りれば「わざと国産テープレコーダーで、ローファイな音を出すようなスタジオの使い方をしていた」という。目指すは軽めのドラム。ライヴなヴォーカル。ミスは直さずそのままに……。
(略)
ウェールズのロックフィールドでニックは5年ぶりにデイヴ・エドモンズとスタジオに入る。「新しい自分を見せるべきだ、という思いがどんどん深まっていったんだ。そのためにいったん僕は忘れられなければならなかった。荒野の中でしばらく過ごさなきゃならなかった。でもそれをいくら言っても分かってくれるやつはいなくてね。(略)
なぜデカいドラム・サウンドを僕が嫌がるのか、コリン・フェアリーも理解出来なかった。僕にしてみれば、なんでドラムキットの周りに、マイクがこんなに置いてあるんだ?いっそ紙を破る音でも録音するか?と。アイディアはいっぱいあった。でもそれを手伝ってくれる人間が見つからず、諦める一歩手前だったんだ」
「『うそだろ!今どき、ギターの弾き語りをしたいっていうのか?』」
「『そうさ!』。僕は本物の曲を作りたかった。予想外の事故や間違いだらけのやつをね。エコーなんていらない。録ったまんまでいい。ひどくて、とても聴くに耐えないものが良かった。自己陶酔してたわけじゃないよ。自分でもこりゃひどいって思ったさ。でも同時に、そこには輝くような瞬間がいくつかあった。オースティンで〈ワイルデスト・ドリーム〉と〈アイ・ガット・ザ・ラヴ〉をファビュラス・サンダーバーズのジミー・ヴォーンをギターに迎えて録った時のことは覚えているよ。ボビー・アーウィンが当時テキサスに住んでいたんで、ダンボールの箱を叩いてくれた。ヘンテコなグルーヴに乗せたレゲエ・ロカビリーみたいなこともやった。オースティンの音楽シーンを代表する一流の連中ばかりを詰め込んでね。みんな、そのサウンドに唖然としてたよ。僕は頭を掻きむしってた。確かに型破りだったと思うが、それほど良いものは出来なかったね」
コリン・フェアリーはその意見に同調しかねるようだ。「あのオースティン・セッションでのニックはそれまでにないほどクリエイティヴだった。あそこじゃ、彼はアーティストとしてすごく高く評価されていて、毎日それを感じたよ。どこへ行っても有名人扱いだ。3度の猛暑の中のテキサス風バーベキュー、キム・ウィルソンやジミー・ヴォーンと行ったブルース・クラブの『アントンズ』……。どれも最高に楽しかったよ」
これらのセッションの合間には、さらなる音楽的再会があった。エルヴィス・コステロの『ブラッド・アンド・チョコレート』をニックがコリン・フェアリーとプロデュースしたのだ。ニックがコステロをプロデュースするのは、1981年の『トラスト』以来だ。
「あれは"決闘アルバム"だった。ニックにしか作れないアルバムだったよ」とコステロは言う。「ニック自身、ロックンロールにはいい加減うんざりしていたんだ。ところが自分のアルバムにはそれがまったく反映されてなかった。でも『ブラッド・アンド・チョコレート』は捉えようによっては、時代の6~8年先をいく、一種のグランジ・アルバムだった。ニックは最高のプロデューサーだったよ。2テイクくらいやったところで、そろそろ俺たちが喧嘩を始めることを分かってたのさ。キンクスのレコードと一緒。常に緊張感が張り詰めてたよ」
「僕はあえて条件をたくさん出した。本心どう思ってたかは知らないが、ニックはそれらに従ってやってくれたよ。例えばヘッドホンを使わず、モニター・スピーカーだけでやって欲しいとか。これはリズム主体のレコードで、君にはバンドの5人目のメンバーでいて欲しいとも。実際、ニックはめったにブースには入らず、ほぼ全曲でリズム・ギターを弾いている。本当にうまいんだよ、リズム・ギターを弾かせると。ベース・プレイに関してはちょっと見くびってるところがあると思うけど、僕はニックの腕をとても買っている。リズム・ギター・プレイヤーとしては、僕が知る中でスウィング感もリズム感も一番なんじゃないだろうか。(略)」
(略)
1986年秋の時点で、禁酒生活は3年近くなっていた。(略)見た目も気持ちの面でも、すっかり健康を取り戻していた。(略)さらに大きな出来事が(略)
なんと37歳にして、2度目のトライでめでたく運転免許を取得したのだ。
(略)
スーパーマンの彼女、ライ・クーダーとジム・ケルトナー
数日後、彼女の秘書経由でデートに誘われた。(略)喜んでお誘いを受けたよ。ガールフレンドもデートも久しくごぶさた(略)
『最高じゃないか!スーパーマンの彼女だろ(略)』ってね」(略)
「[デート当日](略)ジョン・ハイアットから電話があったんだ。(略)
『戻ったよ。すぐにレコーディングをしたいんだ。ライ・クーダーとジム・ケルトナーに声をかけ、オーシャン・ウェイ・スタジオも押さえた。ベースを弾いてくれないか?」。それは夢のような話だったが、その瞬間に思ったのは、無理に決まってるじゃないかということ。ベースの勘は戻り始めていたが、相手がライ・クーダーとジム・ケルトナー?僕にとってみりゃヒーロー二人だ。彼らの前に出て全然弾けなかったりしたら、いちるの望みも消えてしまう。(略)」
[もごもご言い訳して断った1時間後、ブチ切れたジェイク・リヴィエラから電話]
『この哀れで惨めな野郎め。この3年間、俺がどんな思いでお前の愚痴をずっと聞かされてきたと思ってるんだ。仕事もパァ、結婚もパァ。このミミズ野郎め(略)
いいか、よく聞け。これからすぐに荷物を用意しろ。2時間後に出る飛行機があるんでそれに乗れ。ロスに着いたらベースを借りろ。そのままスタジオに行くんだ。そしてレコーディングするんだよ、分かったか、このクソ野郎!』」
「ジェイクの口ぶりに僕は驚き、これは行かなきゃまずいことになるぞと思った。でもまずはマーゴットに電話だ。(略)『本当にごめんよ。ロスに急遽、ライ・クーダーとジョン・ハイアットのレコーディングで行くことになって』と、あの"ロイス・レイン(スーパーマンのガールフレンド)"を振ることが、むしろ彼女をその気にさせてしまうとはね。(略)僕のことを"たいして売れてないミュージシャン”程度にしか見てなかったのが、一気に興味津々となったわけさ。(略)
手荷物一つでロスへ発った僕は、到着するなりタクシーに飛び乗り、途中でベース・ギターをレンタルし、すぐさまスタジオに向かった。レコーディングしたのは〈メンフィス・イン・ザ・ミーンタイム〉。30分くらいかかったかな。翌朝スタジオに戻るとライ・クーダーがいて、さらにレコーディングは続いた。その時が僕にとっての大きなターニング・ポイントになったと思う。突然、それまで頭で考えていたことが、ようやくはっきりと見え始めたんだ。(略)ライと腹を割って話をしているうちに、僕の視界も開けた気がした。(略)
もう一つ大きかったのは(略)ケルトナーに助けてもらったことだ。ライが帰ってしまわないよう、僕のことをよく言ってくれたりしてね。そのライは、僕がその頃ハマっていた"時々、思い出したように1音を弾くだけのベース・スタイル"を気に入ってくれた。エレクトリック・ベースっていうのは、気を付けないと良い曲を台無しにしてしまうものだから」(略)
[ライ・クーダー談]
「ロックがベースをダメにしたんだ(略)でもニックは染まってなかったね。左手で上のコーナーを押さえるのがその証拠だ。僕はあいつの右手のテクニックもチェックしたが、とても面白かったよ。ニックは最近のベーシストには珍しくサム・ピックを使うんだ。そして右手が弦に降りてくる時、親指が弧を描くので、その分ディレイが生じるというわけさ。このディレイこそがエレクトリック・ベース(を弾く人間)には耳寄りな情報だ。ニックはさらにサム・ピックを使って、押し出すみたいにしてディレイのかかった音を出す。彼が好んで使ってたのはアンペグのSVTアンプに18インチのキャビネットだ。そんなのそれまで見たこともなかった。まるでLAのダウンタウンのサード・ストリート・トンネルみたいな音を鳴らすんで、言うまでもなく酔いそうだったよ」
カリフォルニアから戻ったニックは"完全に気持ちが大きくなっていた"。オーシャン・ウェイ・スタジオでのレコーディングという体験の衝撃はそれほどに大きかったのだ。ここ数年、頭の中に抱えてきたアイディアは実現可能だと確信しただけでなく、ライ・クーダーとの絆まで生まれたのだ。
「ニックの噂はその数年前から耳にしてたんだ」とクーダーは言う。「オーストラリアの劇場をめちゃめちゃにしたとか、マネージャーがプロモーターをぶちのめして、ユダヤ野郎呼ばわりしたとか。でもそんな噂は気にならなかったよ。『ブリング・ザ・ファミリー』のセッションで初めて会った時から、こいつは率直で正直なやつだ、頭ではしっかりと物事を見据えつつ、ちゃんと抜け目なくやれるやつだと判断したよ」
(略)
[87年『ピンカー・アンド・プラウダー・ザン・プレヴィアス』]の1曲をデイヴ・エドモンズがプロデュースしたのが9月のことだ。この時もそうだが、ニックとデイヴはロックパイルの解散以降、何十年にもわたって、仲違いしては和解するのを繰り返すことになる。この"海を越えた一時的な停戦"のために選ばれた「ラヴァーズ・ジャンボリー」(略)
その頃、デイヴ・エドモンズのキャリアは絶好調だった。ストレイ・キャッツ、エヴァリー・ブラザーズ、ファビュラス・サンダーバーズ、と手がけたプロデュース作は立て続けにヒット。おまえに頼まれたからしてやっているのだと言わんばかりの「上から目線を感じた」とニックは言う。
「こちらが提案することは全部却下されたんだ。それでも、デイヴは相変わらずイカしてたよ。ただし音がうるさくてね。その頃の僕は、うるさいことをやってても行き場がないような気がし始めていた時だった。それよりは静かさの中に生まれる、ちょっと素敵なグルーヴに興味があった。(略)うるさいのは聴いてて疲れるだけだ。(略)」
(略)
1988年2月、ようやく『ピンカー・アンド・プラウダー・ザン・プレヴィアス』がリリース(略)
表向きには、あえてプロデュースしすぎることを避けたサウンドに聞こえるが、そう聞こえさせるため、手の込んだ作業が施されたのだ。ドラム代わりのダンボールの箱といい、キム・ウィルソンの息を感じる泥臭いブルース・ハープといい、それはまさにニックの遠い祖先の出身地、ケイジャン・スワンプを思わせる。
(略)
リプリーズ・レコードに移籍。(略)
[プロデューサーの]エドモンズとリプリーズは『ピンカー~』の路線ではないものを作ることで合意する。そうして作られたアルバムだったが、セールスには結びつかなかった。しかしニックは諦める気はなかった。新曲は山ほど書けている。ポストモダンなスキッフルと呼べそうな曲も何曲かある。何よりも、ロサンゼルスのオーシャン・ウェイ・スタジオにまた戻りたかったのだ。ライ・クーダーとジム・ケルトナー、それにギタリストのビル・カーチェンと。
「しかし、それは難しい話だった。というのも、ライとジムがまるでエドモンズを気に入らなくてね。僕は完璧に彼らの側にいたから、あれにはほとほと参った。ライは素晴らしい人間だよ。でも古臭い言い方をするなら、バカは容赦しないタイプなんだ。(略)本当はとても親切で、優しくて、おかしいやつなんだ。親しくなるには、ちょっと時間がかかるタイプだがね」
『ボディガード』サントラ大ヒット
1992年11月、全米で公開された『ボディガード』は年間興行成績2位の大ヒットを記録。そして劇中ではほとんど聞こえないのだが(略)「ピース・ラヴ・アンド・アンダースタンディング」が起用されたのだ。歌ったのはカーティス・スタイガース。サントラ(略)のセールスは4500万枚。(略)
これほどメインストリームの映画に、世間的には知られていないニックのこの曲が使われることになったのはなぜか?(略)
真相はカーティス・スタイガース本人が語っている。
「80年代初め、僕はアイダホの高校のスクール・バンドでドラマーだった。(略)エルヴィス・コステロ、グレアム・パーカー、スクイーズ、そして個人的に好きだったレコードを何枚もプロデュースしていたニック・ロウ。(略)
僕はアリスタと契約し、ファースト・アルバムを出した。(略)ライヴのラスト曲としてサム&デイヴ風にアレンジした〈ピース・ラヴ・アンド・アンダースタンディング〉をやっていたんだが、これが受けてね(略)
アリスタ社長のクライヴ・デイヴィスから(略)サントラ用のアップテンポな曲はないかと言われた。それで、何曲か提出したんだがクライヴは全部却下しやがった!
(略)[前座での]出番が終わると、楽屋にクライヴがやって来て言ったんだ。「あの最後にやった曲、あれはなんていう曲?あれだよ、映画にぴったりなのは!』」
「こんなチャンスはないと思ったよ。憧れのエルヴィス・コステロが歌い、あのニック・ロウが書いた大好きな曲をレコーディング出来るんだから。まさか、あそこまでバカ売れするとは思っても見なかったがね!ニックにも相当の金が入り、それは僕としてもとても嬉しかった。印税がじゃんじゃん入り始めたあと、ニックからは電話をもらったよ。今後、ロンドンでの食事代はすべて僕のおごりだと。以来、彼とはずっと親しくさせてもらってる。それが僕にとっては何よりもうれしいことだよ」
約25年間、こつこつと最高の音楽を作り続けてきたにもかかわらず、ソングライターとしての十分な評価を得られなかったニックにとって『ボディガード』は時宜にかなったご褒美のようなものだった。(略)
[インタビューで]ポロリと明かされた数字はおよそ100万ドル。しかもそれはほんの"前菜"に過ぎなかったのだ。その後何年間にもわたり、定期的な使用著作権料は入り続けた。
まさにこれ以上はないタイミングで舞い降りた幸運だった。メジャー・レーベルでのポップな路線、リトル・ヴィレッジを経て、プロデュース業にもツアーにも乗り気ではなくなっていたニックは、ずっと頭の中を巡っていた捉えどころのないサウンドを追うことを、あと少しで諦めるところだった。(略)そのままフェイド・アウトし、小さなクラブ・サーキットで一生を終える可能性だってあったのだ。しかし、今なら自分でレコーディング費用を工面し、しかも余裕あるペースで作業を進められるのだ。
まずは協力者が必要だ。ニックが選んだのは、ボビー・アーウィンだった。7年間、サンアントニオに暮らし、いくつものカントリー・バンドでドラムを叩いたボビー
(略)
「イギリスを離れた頃はソウル・ミュージックが好きな男だったんだ。カントリーの良さをあいつに教えたのは僕なんだよ。当然、テキサスに住み始めてからのボビーはカントリーどっぷりになり、ジョージ・ストレイトやレイ・プライスなんていう大御所とやるようになった。すっかり追い抜かれちゃったんだよ、カントリーに関する知識では」「そのボビーがイギリスに戻って来た。待ちに待っていた男だ。こちらの言わんとしていることは一発で分かってくれる。僕の家に来てもらい、本格的に作業を始めた。(略)」
この話をニックが僕にしてくれたのは、2015年5月、ボビー・アーウィンの死のわずか数日後だ。感極まり涙を流しながら、ニックはボビーの思い出を語ってくれた。
(略)
[93年『ジ・インポッシブル・バード』録音開始。近所のパブ『タークス・ヘッド』の宴会場を借り]
小さなアンプにギターをつなぎ歌ってみたところ、その部屋の音響がすこぶる良いことに気付いたのた。
「PAシステムなどなくても、ただ歌えば、すごく良い音が返ってくるって分かったんだ。驚いたよ。家で書いた曲をそこで歌うと、まるでレコーディングしているみたいなんだ。一人で歌ってる僕を、店の厨房スタッフはイカレたやつだと思ってたんだろうね。(略)
『自分で書いた曲を一人で歌うためにここを借りるって……どんな負け犬なんだ、こいつ?ライヴをやっても客がいないに違いない』という顔で立って見てるんだ。そのうち店のオーナーが代わり、そこに行く時間をずらした。そしたら今度は歌ってる脇で床にワックスがけが始まったんだ」
(略)
「トレイシー・マクラウドのことは心から愛していた。彼女みたいに僕は頭は良くないけど、お互いが本当に大事な存在だった。今でもそれは変わってない。(略)
別れはとてもつらかったよ。でもそのおかげというのも変だけど、一つはっきりと分かったことがあった。それは『なんだかとてもソウルフルな曲が書けるようになったぞ』ということ。僕にはそれが必要だった。ツアーのことも、"バーで今夜もひとりぼっち"みたいな曲も歌いたくなかった。もっと成熟した大人の戯言を歌いたかった。どんだけ今、自分が頭にきてるかってことを。だって実際、そうだったからさ。それをちゃんとストーリーにして、まともな大人の男らしく語りたかった、僕が尊敬するアーティストのようにね。家で自分のレコード・コレクションを聴いて、だらだらしてても意味がない。つらい時期を過ごしているなら、そこからおまえに出来ることはなんだ?ひらめいたんだ。自分にはこれが出来るとね」
30分Q&A
[2011年、グラミー博物館での30分Q&Aセッション]
「最高のソングライター二人を挙げるとしたら?」(略)
「ボブ・ディラン、文句なしに。もう一人はランディ・ニューマン。ディランほど多産ではないけど」(略)
エルヴィス・コステロの曲を初めて聴いた時の感想は?「言葉が多すぎ。コードも多すぎ」
ロックパイルは?「自分が今ここにいるのはロックパイルがあったから。僕はデイヴ・エドモンズのファンだった。彼と友達になりたくて、本来の自分と違うこともやった。今、彼に会うことは難しいな。寂しい男だよ」
歳を取ることに関しては?「歳を取ると、ブルースを歌うのが楽しくなる。ブルースは元気をくれるね」(略)
ソングライティングのセオリー
今、ニックにはソングライティングに関する二つのセオリーがあるという。一つはインスピレーションを待っている時、誰かが突然やって来るというものだ。その訪問者の性別も生い立ちも分からない。ただ、その者はすごく良い曲を書くのだ、自分よりもずっと良い曲を。そして書いた曲を自分に演奏して欲しいと言い何曲かを聴かせる。なんて良い曲なんだ。そう思っているとその人間は消えてしまう。どこに行ったか分からない。いつまた戻るのか、果たして戻るかどうかも分からない。1ヶ月、2ヶ月が過ぎ、その頃にはそのソングライターのスタイルにかなり近い曲が書けるようになっている。ただ、消えたあのソングライターほどはうまくない。いずれにせよ、そんなだから、自分の最高の曲というのはすべて"自分ではない誰か"が書いた曲なのだというのが最初のセオリー。
二つ目は最近になってからのセオリーで、隣のフラットから昼夜問わず、壁越しにラジオがかすかに聞こえてくるというものだ。ダイアルは常にクールな音楽をかける局に合わせられている。ある日、その局からそれは素敵な新曲が流れてきた。はっきりと聞こえるのだが、自分が覚える前に曲は終わってしまう。またすぐに流れるだろうと思い、ノートを用意して待っている。次に聴いた時にはまた少し、さらに少し、最終的に全曲ノートに写し取れるまで。
「つまりは、耳を澄ますプロセスだということさ」とニックは言う。「その曲が自分にはなんの関わりもない曲だと感じられたなら、そこで曲作りは終わるんだ」
(略)
アーティストやミュージシャン、ソングライターにとって、ドラッグや酒が持つ魅力について聞いてみた。
「当時は、そういった刺激物の力を借りれば、自分のシャイさを追い払い、汲んでも汲んでも水が尽きない"クリエイティヴの泉"を手に入れられたからだよ。(略)
十分なウォッカとコカインを摂取すれば、大きな存在になった気がして、部屋という部屋の明かりが灯り、言葉という言葉は意味を持ち、ウィットと魅力に誰もが魅了されると思い込む。でも実際は大汗をかき、黙ってろと言われても黙れない、どうしようもなくくだらない人間なんだ」
「そのことに気付くのにあまりに多くの時間と金を費やし、落ちるところまで落ちた。80年代半ば、ようやく目が覚め、2~3年間は煙草以外をきっぱりやめたよ。そのあとは意識的に酒との関係を復縁した。たまには"熱く"飲むこともあるが、大抵はビジネスライクでプラトニックな関係さ。今日なんかもその例だが、昔だったらこのあとに煙草を吸っている。でもロイが生まれてやめたんだ」
「あの頃は自分自身の創作力と対峙し、驚かされていた。自分でも知っているとは思わなかったことや、それまで誰も知らなかったようなアイディアが浮かぶんだ。そりゃあ驚くし気分は高まる。突然、デッキはきれいに片付けられ、カーテンは開かれる。準備いいか?ライトOK、カメラ回った、アクション!観客が待つ中、僕の創作力はステージの上だ。自分にもはっきりと見える。その大本のソースから引っ張ってくるだけだ。でもしばらくすると、そんなのは幻想だって気付くんだ。1回はうまくいく。だから2回目もやれるだろうと期待しやり続ける。追い続けるんだ。やってる最中は案外楽しいものだが、運良く命がそこまで持ったとして、しまいにはこれは妄想だった、イカサマだったと気付かされる。人生っていうのはそんなに簡単じゃないんだなってね」
「コカインについて言われることはすべて正しいよ。初めてハイになって曲を作ろうとする時っていうのは、本当に最高なんだ。何もかもがうまくいく。魔法のドラッグだ。もう一度やろう。そしてまた素晴らしい曲を作ろう。ところが次は絶対起きないんだ。自分の尻尾を追って、近付くことは出来るが、決して曲を終わらせられない。ドラッグでポール・マッカートニーになれるなら、同時にジョン・レノンにもなれるなら、そりゃあみんなやるべきだよ。そしたら誰も〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー〉を大した曲だと思わなくなる」(略)
ロス・ストレイトジャケッツ
1977年のスティッフ・レコード・ツアーで、実はひそかに「見た目が変」なバンドを率いてステージに立ちたいという野心をニックが抱いていたのだとしたら(略)ロス・ストレイトジャケッツとタッグを組めたのは(略)金を掘り当てたようなものだ。(略)
ニックは当然ながらのポーカー・フェイスだ。ステージに立つのが、メキシコのレスリング用の覆面をかぶった4人のミュージシャンであることの何を大騒ぎしているんだ?と言わんばかりに。
(略)
[2014年12月『クォリティ・ホリデイ・レヴュー』ツアー初日、イアン・マクレガンが]心臓発作を起こし亡くなった。69歳だった。(略)
ツアーは敢行。ニックは毎晩、逝ってしまった友人へのトリビュートをしたのだった。(略)
「マックは素晴らしい男だった。典型的なモッズ。かつてはgroover(イカしたやつ)という呼び方をしてたね、今じゃ死語だけど。あいつの善意が周りにも広がるっていうか、みんなを明るくしてしまう才能の持ち主だった。本人はいなくなってしまったけど、僕らはベストを尽くして彼の精神と一緒にプレイしたいと思う」
「その時、ニックのリーダー的な一面を初めて見た気がした」と言うのは、ストレイトジャケッツのギタリスト、グレッグ・タウンソンだ。「全員が感じていた喪失感をすくいあげ、僕らを一つにしてくれた。そこから生まれた僕らの音楽の絆は、あれ以上ないほどにドラマティックな形でスタートしたんだ」
「最初のリハーサルでまず彼が言ったのは、昔のレコードは聴くなということだった。過去を再現することに興味はない、君らのバンドのサウンドで新しいことをやってくれ。つまり、曲に対して自分たちのままでいてくれということだった。ニックがすごいのは、ライヴを終えてステージから降りるとすぐ、次のライヴではこんな風に変えてやってみたらどうか?と意見してくれることさ。同時に、ここはすごく良かったと大激励もしてくれる。ニックから言われたたんだ。『自分がバンドの一員になれた気がした時、これでいいんだと思った』とね」(略)
ピーター・シルヴァートンによる分析
[キッピントン・ロッジ時代にインタビューして以来のファンである作家のピーター・シルヴァートンの分析]
ニックは70年代なかば、ポップ・ミュージックということを語っていた。ポップという言葉が一種、恥ずかしい言葉だったからこそ、ニックの中のヘそ曲がりがあえてそうさせたのだ。そうだったにも関わらず、真のポップ・レコードを一貫して書くにはどうすればいいか、分からなかったのではないか(略)
あざといプロダクションと「ブロックバスターへの行き方を知ってるかい?」といった若者に受けそうな歌詞で、ティーン市場を巧妙に操作したチン&チャップマンに比べ、ニックには元々シニカルさはない(略)
しかし1行目で「その子が右腕を切り落とした夜」を思い出すと歌われるニックのストーリー(「ソー・イット・ゴーズ」)の方が、粋で洒落ている。それはソングライティング形成期のニックが手本にしていた(略)ロビー・ロバートソンにも通じる正当性だ。だが、正当性はヒット作りにおいては何の役目も果たさない。皮肉に関しても一緒だ。
(略)
ニックのアイロニーが最も顕著なのは、ブリンズリー・シュウォーツの〈ピース・ラヴ・アンド・アンダースタンディング〉だ。(略)彼は本気でそう言ってるのか?本気ではないのか?これは笑えることなのか?笑えないのか?"新世代の子供たちのためにもっと平和と愛を"と歌ってる部分、あれは間違いなくジョークだ。あれはヒットしてもおかしくない曲だったが、そうならなかったのはあの部分が邪魔したからだ。人はああいった冗談をレコードの中で聞きたくないんだよ。(略)
ブリンズリーズがパブでやってた頃、観に行くだろ?すると彼らはシャドウズ風にダンスをするんだよ。自己言及的で、アイロニーに満ちていて、200名くらいのファンの前でなら大受けだった。でも一般大衆の頭上は通り抜けていくだけだった。アイロニーの問題点は、より広いオーディエンスに、お前らはジョークを理解してないと言ってしまってる点だ。客もジョークには金を払うだろうが、ポップスのレコードでアイロニーを言われると『これは君が思ってるものとは違うんだ。ポップスのレコードを買ったつもりかもしれないが、実際に君が買ったのはポップスを皮肉ってるレコードなんだ』と言われたと感じ、それまで彼らが買ってきた、他のポップスのレコードすべての価値まで下げられてしまうんだ。(略)それでニックの"ポップスのレコード"は"ポップス・レコードのふりをしたレコード"になってしまったんだよ」
「じゃあ、エルヴィス・コステロが歌った〈ピース・ラヴ・アンド・アンダースタンディング〉は何が違ったかというと、彼は本気だった。怒りで遊ぶようなことをせず、本気で怒って本気で歌っていた。だから彼のヴァージョンは、全然違う方向に行ったのさ。ニックはその時はそこまで本気じゃなかった。今は本気さを感じる。エルヴィスによって新しくなった自分の曲を取り戻すのに、一巡りしてこなきゃならなかったんだ」
ではデイヴ・エドモンズを加え、ヒットした「恋するふたり」はどうだろう。
「エドモンズにはアイロニーもシニシズムもない。少なくとも彼の音楽には」とシルヴァートンは続ける。「でも彼はヒット・レコードを作れる。プロダクション・テクニックは巧妙だった。でも巧妙すぎることはなかった。ニックは利口だった。エドモンズはその意味では利口じゃなかった。(略)」
「ニックの得意芸は[とは本人の皮肉交じりの言い方だが]、本質的にはうそだ。うそと分かった上でのうそだ。何も大したことないさという態度で人生をすり抜けて行くんだ。誰も全然大したことないと思ってないのにね。同じトリックを使ったのがデヴィッド・ニーヴンだった。自分は何もしないのに人生が降りかかってきたのだと言わんばかりに。『いや、降ってきたものを、うまくまとめただけさ』と彼なら言ったかもしれない。アマチュアゆえの強み。ダムドをプロデュースしていた頃のニックも言ってたはずさ。『気付いたら、こうなっちゃってたんだよ』と。でもそうなるには、やる気はいっぱい必要だが、小ずるくてはだめだった。当時のニックには、本人は認めたがらないにせよ小ずるさはあったと思うよ。本人が知らないだけで。誰だって、ポップ・スターになろうと思って音楽ビジネスに入ってくるわけで、そんなのどうでも良いと口では言ったとしても、本当はどうでも良くないのさ。そのふりをしてるだけで、言葉通りに受け取る人間もいるかもしれないが実際は違う。音楽ビジネスから距離を保つことで、もしポップ・スターになれなくても、隠れられる場所があるということさ。レコードがこけても『最初からそんなに真剣にやってたわけじゃないんだ』と言い逃れられる。だからヒットしようとしなかろうと関係ない。ニックにはそういう面がある。本当は自分のやっていることをすごく気にしているのに、気にしてないふりをしてるのさ」