日本暗殺総覧 この国を動かしたテロルの系譜

なぜ東山天皇赤穂浪士討入を知りいたく喜んだか

[1661年京都大火のおり、浅野内匠頭(長直=長矩の祖父)は御所再建に尽力。大石内蔵助の祖父も浅野家家老として現場に赴き奮闘。四万八千両をつぎ込んだため]
赤穂城の隅櫓の一部や天守台まで築いていたのに、ついにその石垣の上に天守閣を建てることができなかったのである。
 このように、朝廷に全財産を傾けて誠意をつくす浅野家に対する天皇家と公家たちの感情は悪かろうはずがなかった。
(略)
[御所完成前年、吉良義冬・上野介父子は上洛し、将軍家からの二百両をバラ撒き親・吉良派の公家集団をつくり、後西天皇退位を工作。かくして弟の識仁親王が十歳で霊元天皇に]
霊元天皇が即位するにあたって、幕府は朝廷に対してあらためて「禁裏御所御定八ヵ条」を定めた。
 すでに「禁中并公家中諸法度」の枠があるうえに更に二重の枠をはめようという露骨な朝廷抑圧策であった。(略)
 吉良家は幕府の意を体して天皇の首に鈴をつけるという貧乏クジをひきつづけ、そのため天皇以下朝廷の憎悪や鬱憤を一身に引き受けなければならなかったのである。
(略)
[後水尾天皇の秘蔵っ子として朝廷の宰領に成長した近衛基熙。黄門様から娘をくれと言われて断り、甲府・綱豊が次期将軍と見て嫁がせ、公武協調派の領袖となる]
 端的にいってしまえば基熙は天皇の意を体して内蔵助の上野介襲撃をかなり積極的に容認し、支持後援していたと考えるべきである。(略)
[上野介は]朝廷の有職故実を知りつくし、上杉家を代表とする武家社会の名門を背景にしながら幕府に対する分厚い忠誠心を発揮しようとする強敵である。
(略)
 内蔵助は賢い男だったから大きな力をもつ上野介と一人で戦おうとは考えなかった。自分がたかだか赤穂の田舎大名の家老にすぎないという分際も心得ていた。(略)
ではどうすればよいかと考えた内蔵助は、基熙を巻き込み、天皇を巻き込むしかないと考えた。
(略)
基熙はそれを公家らしくやんわりと示唆したか、そそのかしたか、それとなく督促したか暗示したのではなかったか。ただ黙ってうなずいたり口もとに薄い笑みをにじませて、それを消極的ながら肯定したのではないか。
 朝廷が抱きつづけてきた長年の宿意、鬱憤をはらせるのだから、いやでも肯定せざるを得ない。

坂下門外の変安藤信正暗殺未遂

 尊王攘夷の高まりの原因はこれ[井伊直弼暗殺で重しが取れた]だけでなく経済的な理由もあった。物価が四倍にハネ上がっていたのである。国際為替相場をながめるとヨーロッパと日本では金銀交換のレートが三倍以上も安く、日本にだけ「銀あまり現象」がふりむけられた。外国人は日本の品物を安く買い、そのために品薄になって物価がハネあがるという悪循環であった。
 さらに、孝明天皇は外国人をきらっていた。彼らは穢れたケダモノだと信じこんでいる。
 となると、尊王と攘夷と倒幕はまったく一つのコンセプトだということになってしまう。
 これでは幕府は失血状態である。[そこで和宮降嫁を画策]
(略)
 公武合体はそれほど幕府にとって政局を乗りきる魅力的な方策であったということだが、なんといっても最大の難問は孝明天皇であった。攘夷はどうするのかと天皇はいった。幕府への勅にいう。(略)
 和宮を毛唐がウロつくような江戸へはやれない。せめてペリー来航前のような状態にしてもらいたい。そうすれば縁組の話も可及的すみやかに進めようという内容である。
 岩倉具視などは腹のなかで倒幕と天皇親政を考えながら、幕府を利用して朝廷の権力伸長をはかればよいと虫のいいことを孝明天皇に進言している。
 しかし、信正はこの時期の日本の外交問題に関してはもっとも有能な幕僚であった。部下には堀織部正などというすぐれた外務官僚もついていた。
 具体的にいえば樺太の日露の国境は北緯度をゆずることはできないということもアメリカの触手を封じるための小笠原諸島経営にも綿密に目くばりをしていた。ヨーロッパ諸国やアメリカの動きにも信正は通暁していた。
 つまり孝明天皇のいうように、すでに締結した条約を破棄して攘夷を行うことなど現実にできるわけがなかった。勅答は他愛もない絵空事だ、と信正が考えたとしても不思議はない。
 信正はヌケヌケと嘘をついた。
  「当節より七、八か年ないし十か年もたち候うちには、ぜひぜひ応接(外交)をもって引き戻し候か、または干戈(武力)をふるい征伐を加え候」
 鎖国攘夷など不可能だと考えながら信正はここでも大真面目にフィクションを演じたのである。
(略)
[暗殺未遂、二ヶ月静養して政務復帰]
みずから包帯姿でイギリス公使・オールコックを引見した。
 これに感動したオールコックは開市開港の期日延期に力を貨した。
 信正の外交能力はのちに福地桜痴に「狂瀾怒濤の中に於て、外交の困難を維持したり」と高く評価された。
 また、信正はこれより以前から経済・軍制問題にも手をつけていたが傷が回復してふたたび出仕しようとすると大目付、目付衆の一斉反対にあった。
 強硬論者は信正が背中にキズを受けたことをあげつらって士風がすたると主張したが、その根は経済問題、幕府官僚の主導権争いにあり(略)[老中を罷免され]永蟄居を命じられて政治生命は断たれた。

中河内介父子殺害

[寺田屋騒動後、決起に参加した河内介一派は]
島津久光と近侍の中山忠左衛門の決定によってすでに殺されることになっていた。大久保利通もその決定に加わっていたといわれている。(略)
 薩摩へ送ると称して船中で殺害して海に投棄するとはなんともやりきれない陰湿でむごい事件であり、いかにも久光とその近侍の人間性をあらわす事件である。薩摩勤王史の最大の汚点だといわれるのも当然であろう。
(略)
[田中河内介は]権大納言中山忠能に仕えた。(略)祐宮(のちの明治天皇)が中山邸で生まれた。
 中山忠能は[明治天皇の母]慶子の実父であり、祐宮は安政三年に宮中に移されたが、それまでの四年間を中山家ですごし、このとき河内介は祐宮の養育にたずさわった。
 この当時、中山家は窮迫していた。(略)河内介は金策に駆けまわらなければならなかった。
 慶子が祐宮を産むための産殿用借地の交渉、新築、安産祈願などのために奔走して朝廷から十年年賦で百両を借り出したりしている。河内介みずからも郷里から都合したと思われる十両を出したのである。
(略)
 時が流れ明治新政府が成立してまもない時期、成長した祐宮は明治天皇となって、ある夜、宴会の席上、河内介のことを尋ねたことがあった。
 なつかしいが、いまどうしているのか、あるいは、いま田中河内介がここにおればよいのに、殺したのは誰であろう、というような問いかけてあったらしい。
 すると、小河一敏が同席していた大久保利通を指さして「田中河内介を殺した者は、この大久保でございます」と答えた。(略)
 小河の言葉に座は静まり返ってシラケてしまい大久保は一言もこたえなかったという。
 天皇も河内介のことについては影響の大きさを考えて公の席では二度とふれようとしなかった。
 明治四年長州の広沢真臣が暗殺されたとき、宮内大丞であった小河は容疑者として捕縛されて鳥取藩に幽閉されたが、大久保の報復ではなかったかといわれている。
(略)
 「河内介は、先帝陛下(明治天皇)を、恐れ多くも背負い申しあげ、常に口ずから、孝経の素読をお教え申し上げたということである。されば先帝陛下にも、常に余らにこの河内介の御事を、折りに触れて御物語になり、御回顧に耽られる御事があった」(大正九年「大陽」所載「某老侍従謹話」)
 生まれてから四歳まで養育した人物についてこのような記憶が残るとはにわかには信じられないが、明治天皇は生母・慶子から聞いた河内介のことを語したと思われる。

相楽総三処刑

 総三のもとに集まった不穏分子が江戸城に乱入する計画をもっているという風説が流れたため幕府は薩摩屋敷を焼き打ちにしたのである。
 総三は命からがら脱出して京都へ逃げたが、幕府を挑発して発砲させて朝敵(薩摩は朝廷を擁していた)に仕立てあげる目的は十分に果たしたといえる。
 慶応四年一月、総三は新政府の太政官にあてて建白書と嘆願書を送り、東征軍の先鋒として関東におもむくことを願い出た。(略)
 よろしい、東征軍の先発隊になりなさい、戦争で万民が苦しんでいるから幕府領の租税は半分に減らそうという勅定がくだされたのである。
[鳥羽・伏見の戦いに大勝したものの、新政府に金はなく商人から借金することになり、その条件は年貢米半減令の撤回]
総三たちは年貢半減を旗印に進撃をつづけていた。新政府としてはこれを京都に呼びかえして話をウヤムヤにする必要があった。(略)
 二番隊、三番隊は呼びもどしに応じて帰洛した。だが、総三がひきいる一番隊だけはひきかえさないで尚も年貢半減を標榜しながらまだ攻撃許可をあたえられていない東山道にまで進撃していった。
(略)
[新政府は赤報隊を「偽官軍」と布告、総三らは捕縛され処刑。「中外新聞」は次のように報じた]
「(略)総三巨魁にて、無頼の悪徒を集め、官軍先鋒嚮導隊と唱え、総督府の命と偽り信州の村々を乱妨し、良民を劫し金銀を貪り、その悪事露顕せし故なり(略)」