- 放送収入の変遷
- フジパシフィック社長就任、おニャン子バブル
- レコード、映画が変えた出版ビジネス
- BMIによりロック誕生
- 大瀧詠一
- 日本の音楽出版黎明期、悪党プラーゲ
- シンコー・草野昌一さんは良き先輩
- 米国音楽界に信頼された永島達司さん
- 外圧でつくられた日本の音楽出版社
- 山下達郎、牧村憲一
前回の続き。
放送収入の変遷
[著作権の価値への音楽業界の認識の変化の]いい例が放送による演奏使用料だ。
71年以前は、ラジオやテレビでレコードを使って音楽を流しても著作権使用料が発生しない時代だった。(略)
出所さえ明示すれば著作権使用料を払わなくていいという日本独自のルールがあった。このルールが外れても最初の5年くらいはJASRAC全収入における放送等使用料は5%にも満たない金額で、当時はレコードの録音使用料が一番大きかった。だから音楽出版業界の人たちは、まずはレコードを一生懸命売ることに専念していた。ちなみに、当時の若者向け雑誌の『平凡』『明星』の付録・歌本に載せてもらうと歌詞だけで1曲1万5000円、譜面も載ると併せて3万円になった。一方、当時の録音印税は1曲7円20銭だから、レコードを1万枚売ってやっと7万2000円の収入になる。でも歌本に歌詞が5曲載ればレコード1万枚分の収入を上回るものだから、プロダクションにもレコード会社にも「著作権を持っていても大した金額にならない」という認識があったのは間違いないだろう。
(略)
JASRACの放送収入を見ると、その額の大きさに隔世の感で一杯になる。
フジパシフィック社長就任、おニャン子バブル
[84年]鹿内春雄さんから「フジサンケイグループの将来構想をどうすべきか、アイデアを出してほしい」と意見書の提出を求められた。僕は「グループ全体で協力して、音楽ヒットを生み出せるのではないか」など、音楽分野全般についていくつかの意見を書いて出したが、その一つが「ニッポン放送とフジテレビにあった二つの音楽出版社、PMPとフジ音楽出版の合併」である。
(略)
フジテレビの社長だった石田達郎さんもある時期、「おい朝妻、フジ音も見ることはできないか?」と言われたことがあった。しかし、僕は「文化が違いすぎますから、ちょっと無理だと思います」と答えて、その話はそれきりになっていた。
(略)
85年、フジサンケイグループの議長になられた鹿内春雄さんから呼び出されて、「君の言ったとおり、フジ音とPMPを合併させることにした。ついては君に社長をやってほしい」と言われた。その時、僕は42歳だった。
(略)
[ヒットをつくらねばと強く思う一方、それまで仕事をしたことのないフジテレビの人たちから]面白い会社だと評価してもらえる材料を作る必要があるとも思っていた。そのために手がけたのが(略)カルチャー・マガジン『SWITCH』の創刊である。(略)
幸い雑誌はすぐ評判となり、ヘラルドの原正人さんがこの雑誌にヒントを得て銀座にシネ・スイッチをオープンしてくださるというおまけまでついた。
その後98年に岩本晃市郎君が始めた音楽誌『ストレンジ・デイズ』を支援したのも、同じように「フジパシフィックは、こういうことにも取り組んでいるのか」と理解してもらいたくて始めたことだった。
なにより望んでいたヒットは、大変な勢いでフジパシフィックに訪れてくれた。
フジテレビの石田弘プロデューサーとは洋楽関係で知り合い、合併前のPMP時代に一緒に仕事をしたことがあった。83年に深夜番組『オールナイトフジ』がスタートしたときには、石田さんから「オールナイターズで原盤をつくりたいんだけど、フジ音がお金を出してくれないんだ」と相談を受け、「ではうちで出しますよ」と引き受けるなど、以前からつながりはあった。
ちょうどフジパシがスタートした96年に石田さんが(略)『夕やけニャンニャン』を始め、それがすぐに大人気番組になった。
(略)
石田さんからは「おニャン子クラブの著作権、原盤はもちろん、ファンクラブの管理も全部やってよ」と頼まれた。喜んで引き受けさせてもらったのだが、[入会申込で事務所はパニック](略)
手作業ではとても対応できないので開封用の機械を買って、担当者が1日中嬉しい悲鳴をあげながら封を切っていた
レコード、映画が変えた出版ビジネス
レコードの登場によって、音楽出版社は(略)譜面以外の収入口がもう一つ増えると喜んだ。しかし、ことはそう簡単には進まなかった。(略)
「(略)印税を支払ってもらうのは当然だ」と裁判所に訴えても、自動ピアノやオルゴールを例に出されて「権利侵害には当たらない」という判決が出るなど、著作権への理解はまだまだ浸透していなかった。
そこで音楽出版社は、すでにレコード会社から録音印税を徴収していたヨーロッパの出版社の後押しを受けて改めて裁判を起こし、ようやく1909年、レコードから印税を得る権利を持つことができた。このとき決まった録音印税は1曲=2セントで、このレートは76年に2・75セントに引き上げられるまで60年も続くことになる。
(略)
音楽出版社は"ソングプラッギン"という新しい楽曲の売り込み方法を取り入れていた。(略)
ピアノを弾きながら自分のところの曲を相手の好みに合わせて歌う"ソングプラッガー"を雇い、ブロードウェイやレコード会社、その他の音楽を必要としている人間に、その楽曲をいかに魅力的に聴かせるかを競っていたのである。
ソングプラッガーの歌い方や演奏の仕方で曲の魅力が大きく変わり、ビジネスに大きな影響を与えていたので、各社とも優秀なソングプラッガーを争って探していた。また、優れたソングプラッガーは、その仕事をするうちに、人々にはどんな曲が好まれるか、どんなアレンジやリズムの受けがいいかなどを自然に会得して、そのまま作曲家として成功した人も多い。[ジョージ・ガーシュイン、ジェローム・カーンなど](略)
[映画時代到来]
無声映画の上映では、場面に合わせた音楽を会場で生で演奏して、弁士がセリフを語っていた。
そこで音楽出版社はプロモーションのために、劇場のピアニストに自分のところの楽曲の譜面を渡し、映像のバックで演奏してもらったり、その作品に合う歌声の歌手を映画館に潜り込ませ、ピアノの演奏のあと、まだメロディーの余韻が観客の頭に残っている間に客席から立ち上がり、もう一度その歌を歌わせて楽曲の印象を強めるなど、譜面を売ろうと懸命に努力をしていた。
BMIによりロック誕生
ASCAPは、ラジオ放送が始まるとすぐに全米放送事業者団体と交渉して放送使用料を取り決めていたが、毎年ラジオ局の数はどんどん増加していくし、営業収入も増えていたから、ラジオ局がASCAPに支払う使用料は毎年増えていった。この結果、39年にはASCAPが要求する包括使用料が前年の倍以上という状況にまで至り、放送業界団体としては「これではたまらない、今後どうなってしまうのだ!!」と危機を抱くに至った。(略)
[対抗策としてASCAP管理曲の放送を止めたが]放送局、聴収者の両方から反対が出た。その代わりに、全米放送事業者団体が中心となって39年9月、新たな演奏権団体としてBroadcast Music,Inc.(BMI)が設立(略)
ASCAPに所属していない音楽出版社に対して「どうぞBMIに所属してください。そうすればラジオ放送でのあなたの楽曲の使用手続きがいらなくなり、どんどん放送されますよ」と呼びかけていった。
(略)
設立されてから20年以上経ったASCAPには"ニューヨークやシカゴの由緒ある音楽出版社の集まり"というプライドがあり、新規参入のハードルは非常に高かった。(略)
[ラテン、ジャズ、ブルース、カントリー&ウエスタン専門の会社]、ロサンゼルスの会社などはASCAPに入れず困っていたので、門戸を大きく開いたBMIの誕生は歓迎され、多くの出版社が参加した。
(略)
この騒動は結局、ASCAPが折れて要求を引き下げたことで終息したが、ASCAPがもしラジオ業界に無体な要求をしなければBMIは生まれなかっただろうし、BMIができなければロックンロールの誕生ももっと違ったかたちになっていたかもしれない。
なぜなら、それまでラジオから流れるスタンダードやミュージカル・ナンバーしか知らなかったリスナーが、カントリー&ウエスタンやR&B、ラテンなどのそれまであまり聞いたことのない新しい音楽に頻繁にふれられるようになったのは、BMIの誕生があったからこそで(略)
マンボやチャチャチャを初めとする新しい音楽は若者に受け入れられ、ロックンロールにつながっていった。50年代になると、ビルボードのヒットチャートの6割以上をBMIの曲が占めるようになっていた。
53年にASCAPの作家30人が(略)[放送局やレコード会社が]「自分たち(ASCAPメンバー)の曲を不当に差別して、くだらない音楽をかけているのは陰謀だ」[独占禁止法違反だ]と裁判を起こしたのだが、BMIの楽曲の勢いは止まらず、57年~58年にはチャートに登場する楽曲の7割から8割がBMIの管理するものになっていた。つまり、それだけラジオの力が強かったし、ラジオで紹介される新しい音楽が人々の求めていたものだったということなのである。
(略)
[56年プレスリー登場]
ティン・パン・アレイの音楽出版社や作家の多くは、「これは、はしかのようなものだから、少し時間が経てばまもなく消えてなくなる」と、あえてロックンロールから目を背け(略)無視という対応を取っていた。
そんな中にあって、「(略)ロックンロールの作品を専門に作り出す音楽出版社をつくれば成功できる」と考えたのが、歌手のボビー・ダーリンのマネージャーなどをやっていた当時24歳のドン・カーシュナーだった。(略)
[スリー・サンズのギタリスト、アル・ネヴィンスに出資してもらい、58年、アルドン・ミュージック設立]
19歳だったニール・セダカの「Stupid Cupid」をコニー・フランシスの歌でヒットさせるという素晴らしいスタートを切った。そしてニール・セダカの紹介で当時16歳だったキャロル・キングと、彼女とコンビを組んでいた作詞家のジェリー・ゴフィン(19歳)、バリー・マン(19歳)、そのパートナーのシンシア・ウェイル(18歳)といった若い作家たちと次々に契約していったのである。初期の契約作家の中で20歳を超えていたのはニール・セダカと[22歳のハワード・グリーンフィールドだけ]
大瀧詠一
[『ニューミュージック・マガジン』のレコード評で『はっぴいえんど』に10点満点をつけた朝妻]
三浦光紀君がそのレコード評をみていて(略)「『はっぴいえんど』に満点をつける人なら、大瀧詠一のソロも理解して応援してくれるだろう」と(略)「朝妻さんのところで著作権を預かってくれませんか」(略)
[大瀧とは]ともにラジオ育ちでポール・アンカやニール・セダカなど好きな音楽ジャンルも一致していた上に、アルドン・ミュージックのこともよく知っていて、すぐに意気投合した。(略)
[大瀧に頼まれてシュガー・ベイブ]のデモテープをニッポン放送のスタジオで録ることになった。(略)
スタジオで大瀧君と話をしているとき、「朝妻さん、自分のレーベルを持ちたいのですが、協力してもらえませんか?」と相談された。(略)
話を聞いて僕はとても興奮した。なぜなら、それって僕も大瀧君も大好きなプロデューサー、フィル・スペクターが立ち上げて大成功を収めていたフィレス・レコードの日本版そのものだったからだ。これはなんとか実現させようと、羽佐間社長のOKをもらってすぐに会社設立の作業に入った。
(略)
大瀧君はナイアガラから発売するレコードの原盤の権利はナイアガラ・エンタープライズで所有して、レコード会社には契約期間中の発売権だけを渡す、というアメリカ的な原盤供給方式を望んでいたのだ。(略)
メジャーでは難しいと思った僕は、比較的フレキシブルに対応してくれると思われたエレックレコードにアプローチして、交渉をまとめることができた。
(略)
「朝妻さんは、僕にとってのレスター・シルだね。ありがとう、僕の夢がかなったよ」
エレックからレコードが発売されると決まった時、大瀧君はこう言って喜んでくれた。
[だがエレックが経営危機に]
数社をあたった結果、本人も大瀧君のファンだというコロムビアの谷川さんがようやく「引き受けてもいいよ」と受け入れてくれ(略)
エレックから出したシュガー・ベイブと大瀧君のアルバムもコロムビアから再発された。原盤を供給契約にしたことがここで大きく役に立った。
(略)
77年12月リリースの『NIAGARA CALENDER』を聴いて、改めて「これだ!」と感じたので、彼にこう言った。
「大瀧君さぁ、この2月と5月みたいな曲ばかりのアルバムをつくろうよ」
(略)
すると大瀧君からは、「朝妻さんは、いつもそんなことばかり言ってる。ほかのタイプの曲があるから2月と5月が活きるんですから、そればっかりじゃあダメでしょう」という返事が返ってきた。だけど僕はこの2曲を聴いて、「大瀧詠一は絶対にヒットを出す」という確信を強くしていた。
(略)
[だがセールスは上がらず]
PMP社長、羽佐間重彰さんが、原盤制作費ばかりかさんで一向に回収ができていない状況を見かねて、「おい朝妻、大瀧詠一君は大丈夫なのか?」と心配してくださった。
僕は「彼の才能は必ずどこかで花開きます。絶対大丈夫です」と答えるしかなかった。
(略)
[80年初頭J.D.サウザーで行きたいと大瀧から言われ]
「もう、カレンダーの時に2月と5月の曲でアルバムをつくろう、って言ったじゃない!?」と内心では思いながらも、ようやくやる気になってくれた大瀧君にホッとしていた。
(略)
[76年]「スターズ・オン」が大ヒットして、その日本版を、CBSソニーの白川隆三さんが作って僕のところへ意見を聞きに来た。(略)
[僕ならこうすると、PMP原盤で作った「ソウルこれっきりですか」が大ヒット]
このときCBS・ソニーの宣伝力、営業力、それに社内をまとめる白川さんの力の素晴らしさに感動していたので、大瀧君の新しいレーベルにはCBS・ソニー、ディレクターには白川隆三さんが適任だと思っていたのだ。(略)
[大瀧もソニーのスタジオを気に入っており、ポニー/キャニオン社長羽佐間重彰には色々と説明をして]
ようやく最後に不承不承ながらも了解してくださった。
(略)
[ロンバケ100万枚突破]
PMPとしても10年投資したものを全部回収してあまりある大ヒットとなった。
しかし、それ以上にうれしかったのは(略)羽佐間さんから「朝妻、あのCBSソニーのやっている宣伝はうちではできないよ。ソニーで良かったな!」と言われたことだ。
(略)
[大瀧は]90年代になるとソニーの関連会社Ooレコードの取締役プロデューサーに就き、渡辺満里奈さんのプロデュースなどをしたものの、表舞台からは遠ざかったままだった。(略)
[そんなとき、フジからのオファーで食事会をセッティングし、『ラブジェネレーション』主題歌「幸せな結末」大ヒット]
「おめでとう。すぐにアルバムもつくろうよ」大瀧君はそれを聞いて、「朝妻さんは、いつも商売しか考えてないんだから」と立ち上がり、怒って店を出ていこうとした。僕も負けじと「いやいや、ファンは12年も待ってくれたんだから、次はアルバムが出ることを当然願ってるよ。ファンのためにつくろうよ」と説得したものの、「うん」と言わせることはできなかった。むしろ、「アルバムって簡単に言うけど、つくる方の身にもなってくださいよ!」と彼の怒りは収まらなかった。
(略)
2000年代以降の彼は(略)
『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』のために(略)往年のアーティストやレーベルのことなどを調べていた。僕のところにも「朝妻さん、この人知ってますか?」「トニー・ハッチは今どこに住んでいるんですか?」「ビル・マーティンと連絡が取れますか?」といった問い合わせがちょくちょくあった。
(略)
そのいっぽうでは、成瀬巳喜男監督や小津安二郎監督などの古い日本映画のロケ地を探し出すことをライフワークの一つにしていて、朝からお弁当を持って出かけては、調べた結果をブログに書いていたらしい。そのブログを見るためのキーは数人にしか教えていなかったそうで、「僕にも教えてよ」と頼んでも、「朝妻さんは(ブログの)入り口にもたどり着いていないんだから、そんな人に鍵は渡せないよ」と断られていた。(略)
日本の音楽出版黎明期、悪党プラーゲ
[プラーゲは]ドイツの外交官として1912年に来日し、のちに[ドイツ語教師に](略)弁護士の資格も持っていたことから、31年に(略)ヨーロッパの著作権管理団体から委託を受け、日本での著作権使用料を徴収する代理人となった。ちょうどその年に日本の著作権法が改正され、それまで支払わずにすんでいた外国曲の著作権使用料を払うことが決められたからだ。
(略)
まず最初にNHKや劇場、コンサート会場に出向いて、「私が代理人をしているこれらの曲を使いたいのであれば、使用料をこれだけ支払ってほしい」という要求をして回った。NHKも当初は要求に応じ、32年には日本人作家に支払った著作権使用料の年間総額が1500円だったのに対し、プラーゲには月額600円ほどの支払いをした。ところが翌38年には(略)月額1500円もの請求をされたので、NHKもびっくりして、「それなら洋楽を使わない」という結論に至った。(略)
[しかしリスナーから洋楽かけろと苦情]
しぶしぶ(略)月額1000円で折り合うこととなった。(略)
[海外の著作権の]常識に従って要求していたのだが(略)日本の関係者からすれば、プラーゲは法外な金額を請求してくる非常にやっかいな人物であった。
(略)
著作権やNHK、警察を管轄していた内務省にとっては、自分たちの領域に土足で踏み込んできた悪人であり、なにかにつけては警察がマークし、プラーゲがいかに悪党であるかという論調が国策として新聞、雑誌で形成されていった。
(略)
"悪党"プラーゲへの対抗策として、内務省はまず34年に著作権法を改正し、「放送局がレコードを流す時は、出所を明示すれば演奏使用料を支払わなくてもよい」という(略)日本独自のルールを作ってしまった。(略)数の多くない生演奏の使用料は仕方なく払うが、数量が多く金額の大きくなるレコードを使用する分に関しては一銭も支払わなくてよい、という法律を決めてしまったのである。
(略)
プラーゲは、37年に「大日本音楽作家出版者協会」という団体を設立し、日本人作家の著作権管理に乗り出した。(略)
影響力があり、しかもベルリン音楽学校を出ていて、ドイツなどでも演奏実績のあった作曲家の山田耕筰に会い、「あなたの作った楽曲がドイツで放送されたり、演奏されています。その使用料を集めさせてもらえませんか?」と声をかけた。(略)[承諾すると]本人もびっくりするほどの著作権使用料がドイツから振り込まれた。ヨーロッパの基準からすれば当然の金額だが、当時の日本では破格の著作権使用料だったのである。
あの大御所の山田耕筰が仲間の作家に「いやぁ、プラーゲってとても悪い奴だと喧伝されているけれど、お金はちゃんと集めてくれるよ」と話したことによって、何人かの作家がプラーゲのところに著作権を預けようかと考える動きが見えてきた。
[プラーゲ排斥のため]「日本人作家の著作権は日本人が管理すべきだ」という方針を打ち出すことになった。(略)
[山田耕筰を説得し]
関係者に「日本人の作家が主導して、日本人による著作権管理団体を立ち上げるのなら、内務省は応援しますよ」と話して回った。その結果、39年にJASRACの前身である「大日本音楽著作権協会」が発足することになった(略)
[さらに仲介業務法を作り、著作権管理団体を管理下に]
内務省の認可したものだけがその業務をおこなうことができる、と決めた。そして、その中に「それまでにこの業務をおこなっていた者が新たに認可を受けられなかった時は、3ヵ月の猶予をもって解散しなければならない」と書かれていた。明らかにプラーゲを意識した文言である。(略)
[申請を却下された]プラーゲの日本での活動は40年3月をもって終了せざるをえなくなった。[満州に活路を見出そうとしたが、太平洋戦争開始でドイツへ帰国]
(略)
仲介業務法ができたあと、プラーゲが新しく設立されたJASRACで仕事をする、というプランが話し合われたそうだが、その話は双方の相手に対する不信感から一歩も先に進まなかったという。
シンコー・草野昌一さんは良き先輩
新興は楽譜出版というベーシックな業務の長い経験に加えて、『ミュージック・ライフ』というメディアも持っていたから、海外の権利元の目にも、自分たちの音楽を日本でプロモートできる魅力的なサブ・パブリッシャーと映ったのだろう。着々とアメリカ、イギリス、ヨーロッパのカタログや楽曲の契約を伸ばし、音楽出版ビジネスをどんどん拡大していった。
おそらく日本の音楽出版社では初めてだと思われるが、当時アメリカの音楽著作権を手がける弁護士の中でもトップ級、五本の指に入ると言われていたアレン・アロウ弁護士と顧問契約を交わすといった、草野さんの先を見通す力と、かなりの投資があったことも見逃すことはできない。
(略)
草野さんは新興で契約するカタログに(略)ジョニー・ティロットソンの曲を管理する音楽出版社があると、その会社に働きかけて、ジョニーに「涙くんさよなら」「ユー・アンド・ミー」「バラが咲いた」といった日本語の曲を歌わせた。そのヒットによって彼のアルバムの売上げが伸びれば、新興で管理しているティロットソンのオリジナル曲の売上げもグンと伸びる。オリジナル・パブリッシャーから「シュー(草野さんは海外では「シュー・クサノ」と呼ばれていた)はとても素晴らしい仕事をする!!」と高く評価されていた。
(略)
音楽出版社として初めて(略)[チューリップ、甲斐バンド、プリプリなどのマネージメントを手がけた](略)
音楽出版社がプロダクションを持つというのは新興が最初だった。
最近でこそ(略)"360度ビジネス"が話題になっているが、50年前にプロダクションを作りアーティストを自社で抱えた草野さんの(略)先見性にも感服させられる。(略)
僕にとって一番大きな影響を与えてくれた草野さんの行動は、80年代中ごろにアバの著作権などを管理していたスウェーデン・ミュージックという音楽出版社のスティグ・アンダーソン社長と組んで、ザ・ビートルズの著作権を買おうとしたことだ。
(略)
[草野から「うまくいかなかった」と聞き]
(略)
のちにウインドスェプトを立ち上げる話が起こった時にもすぐ賛成してくださったのだと思う。(略)
草野さんにはいくら感謝してもしきれない思いを持っている。
(略)
88年、知り合いのニューヨークの弁護士が「チェス・ブラザーズが、日本のアーク・ミュージック・ジャパンを売りたがっているぞ」と教えてくれた。(略)
交渉をしようと相手にコンタクトしていたら、草野さんから電話がかかってきた。
(略)
「君のところが100万ドルと言ったら、俺は101万ドルを出すし、君が102万ドルなら俺は103万ドルって言うよ」と、本気で取りにいこうとしているのがわかった。(略)アーク・ミュージック・ジャパンは当時新興が管理していたから、他社に渡すわけにはいかないのである。(略)
「ここは一つ、一緒に組んで買わないか?」
当然驚いたが、悪い話ではない。(略)フジパシフィックにとって、初めての共同購入になった。
[URCの秦政明が作った]アート音楽出版(略)92年にはウルトラ・ヴァイヴの高護君が所有していた。高君はこの頃、音楽ビジネスに興味を失っていたらしく、「朝妻さん、アート音楽出版を買いませんか?」と訊かれた。アート音楽出版のカタログにはフォーク・クルセダーズや加藤和彦君、北山修君の曲、それにURCレコードの多くの作品の著作権が含まれていたから、「もちろん、買わせてほしい」と即答した。
すると、また草野さんから電話がかかってきて
「ねぇ、高君から連絡来たでしょ?アートも一緒に買おうよ」(略)
こちらも即答で共同購入を決めた。
(略)
[訳詞家・漣健児でもあった]草野さんは新興音楽出版社が権利を持っていなくても、いい楽曲をレコード会社に勧めて歩いていた。(略)「ルイジアナ・ママ」の著作権はヤマハが持っていたが、コロムビア・レコードに売り込んだのは草野さんだった。
そして漣健児さんの絶妙な訳詞があったからこそ日本の音楽シーンで洋楽カバーのブームが起こり、それが洋楽のエッセンスを取り入れたフォーク、ニューミュージックの時代につながった(略)
米国音楽界に信頼された永島達司さん
海外で"タツ"といえば永島達司さんのことである。外国人に引けを取らない背の高いジェントルマンで、海外の知名度ではたぶん永島さんを超える日本人はいなかった。
(略)
のちにCBSソングス社長になるマイケル・スチュアートが「日本から有力な音楽出版社が来てるぞ。あなた達の会社の日本地域のことは、タツに任せれば大丈夫だ」と話すと、みんなが契約書を持って集まって来た。そのとき永島さんは、アルドン・ミュージックを筆頭に50社以上の契約を一挙にまとめてきたという武勇伝が残っている。
(略)
永島さんの助言の中でもとりわけ肝に銘じていることがある。(略)ある弁護士が音源を持ってきて「ワーナーがプッシュしている新人なんだけど、日本でやらないか?」と声をかけてくれた。その新人というのは、デビューしたばかりのプリンスだった。僕は「音楽は面白いけど今の日本じゃ難しいかな」と思うのと同時に、値段もけっこう高かったから見送る決断をした。そうしたらしばらくして、「イチがパスしたあの新人、タツがOKしてくれたよ」とその弁護士が教えてくれた。
だから水島さんに「あのプリンスって新人、ちょっと高すぎやしませんか?」と聞いてみた。
永島さんは、こう諭してくれた。
「あの弁護士にだって、クライアント(この件ではプリンス)がいるんだ。(略)
[クライアントが指定した]条件より下で契約してしまったら、クライアントの彼に対する評価を落としてしまう。弁護士にはクライアントに対する責任があるということを理解しないといけないよ」
自分がその人間(弁護士)と信頼関係を築きたいのであれば、相応のリスクを冒さないといけないわけで、金額の多寡や音楽性がどうこうではなく、その人間と将来にわたって付き合うかどうかを考えて金額を決めるべきだ、ということである。僕が高いと思って見送ったプリンスは予想の何倍もの成功を収めたから、永島さんは簡単にリクープできたはずだ。
これ以降の僕は、信頼しうる、長く一緒に仕事をしたいと思える優秀な弁護士だと思ったら、最初のディールは多少高値であっても言い値で受け入れるようにした。(略)
外圧でつくられた日本の音楽出版社
[1960年、ルー・リーヴィー、ハーマン・スターという]ASCAPの中でも発言力のある大物社長が相次いで日本を訪れ(略)内務省が作った「出所を明示すれば、放送でレコードを使っても使用料を払わなくてもよい」というおかしな法律をなんとか撤廃するよう、JASRACに詰め寄ったのだが、その時ルー・リーヴィーもハーマン・スターもびっくりさせられたのは、JASRACは作家の理事だけにより作家サロンのように運営されていて、音楽出版社がまったく関与していないどころか、信託契約を結んでいる会員出版社も音楽之友社と水星社の二つしかないことだった。しかも当の水星社にしても、その少し前の58年にフランスの演奏権協会SACEM[が](略)プレッシャーをかけた結果、ようやく契約を結んだばかりという状態だった。
(略)
[ASCAPは国際部長]ジェラルド・ド・ラ・シャペルをJASRACに送り込み(略)「音楽出版社とはどういうもので、その存在が著作権ビジネスの発展と協会の運営にいかに重要な役割を持つのか」を2ヵ月にわたってレクチャーさせた
(略)
JASRACが徴収した著作権料の総額は、水星社が信託を受け付けてもらえた59年は2億5200万円だったが、サブ・パブリッシャーを中心とするこうした音楽出版社が顔をそろえた63年には、それまでほとんど演奏使用料しかなかったところに音楽出版社経由の録音使用料が加わり、約4倍の9億2000万円と飛躍的に伸びている。
(略)
作家の理事だけで運営されていたJASRAC(略)1959年から64年までの間に1億円以上の不正流用が判明する「黒い霧事件」(略)
刷新委員会が組織され(略)金川常務が強く主張したのが(略)音楽出版社を正会員とし、理事にも就けるようにすることだった。
(略)
[作詞家作曲家5名に対して]
音楽之友社の浅香淳さんと新興楽譜の草野昌一さんが初めてJASRACのボードに参画できるようになったのである。「黒い霧事件」という不測の事態が後押ししたとはいえ、ASCAPの強い進言がなければ、音楽出版社理事の誕生にはもっと時間がかかっていたことが容易に想像できる(略)
ルー・リーヴィーとハーマン・スターは、IMPの北川陽吉社長に「日本の音楽出版社の地位向上のために出版社の団体を作るべきだ」と強く助言(略)
10社をメンバーとする日本音楽出版社協会(NOSK)が、62年6月に発足した。
(略)
僕がPMPに入って実際にJASRACとやり取りをし始めた[68年](略)
JASRACはNOSKメンバーの出版社には認めていた出版使用料の指値(使用料を出版社サイドで自由に決められる制度)を「これはNOSKとの協定なので、メンバーではないPMPには当てはまりません。JASRACの規定料金でやってください」とけんもほろろな対応を受けたことを、覚えている。
(略)
[不公平じゃないか!」と憤慨していたのだが、じつは新人音楽出版社員の僕には知る由もない動きが頭の上で起こっていたのだ。(略)
JASRACの放送局に対する扱いに民放連の一部で不満が高まり(略)"日本版BMI"を設立しようという動きがあったのである。JASRACとしては放送局系出版社のPMPに対して警戒心のようなものがあったのではないかと、今になれば想像がつく。
(略)
"第二JASRAC"構想を音楽出版社サイドから推進していたのが(略)TBS傘下の日音の社長だった秋本茂さんだった。(略)
秋本さんはNOSKを脱退して放送局系音楽出版社を中心に全日本音楽出版社連盟(略)を68年に設立(略)
ASCAPのジェラルド・ド・ラ・シャペル[が](略)とくに強調したのが、当時日本のレコード会社が採っていた専属制度が音楽産業の成長を大きく妨げているということだった。(略)
[当時JASRAC外国課・間野光二談]
「一つの曲を一人のアーティストだけでなく、できるだけ多くのアーティストにレコーディングさせる方が、その曲の市場性を拡大する可能性が高くなる。それには、非専属作家を支援し育成することができる、欧米並みの音楽出版社の存在が不可欠である。(略)」
たしかに、それからまもなく、サブ・パブリッシャー時代の漣健児さんを筆頭とするフリーライターの訳詞による洋楽カバーの流行から、渡辺音楽出版、東京音楽出版、新興楽譜、日音などの努力によるオリジナル・ヒットの誕生へという、新しい流れが育っていくことになった。(略)彼の指摘は非常に的確だったと言える。
ド・ラ・シャペルはJASRAC職員の教育と並行して、もう一つ日本で重要な仕事をしている。「日本の音楽出版社の発言力を強め、放送でレコードをかけても著作権使用料が支払われない現状を解決するために必要なのは、社会的にも信用があり役所に対しても力を持っている放送局に音楽出版社を始めさせることだ」というミッションを達成すべく(略)TBS社長の今道潤三さんに会い、音楽出版社の重要性とビジネスとしての将来性を詳しく説明したのだ。
(略)
ルー・リーヴィーとハーマン・スターは、自分たちのカタログを渡したIMPの北川社長に、IMPの業績を伸ばすためにも、日本の音楽出版社の地位を上げるためにも、TBSの音楽出版ビジネスへの参画は非常に重要であり、TBSの設立する音楽出版社とIMPが業務提携をすることがいかに大きな意味を持つか、を説いた(略)
[北川は自分の持っている権利を黙って半分差し出すことには抵抗を示したが]
63年の夏にTBSが100%出資する日本音楽出版を設立した。
(略)
NOSKの誕生した62年には7億2千万円だったJASRACの徴収額は、浅香淳さんと草野昌一さんが理事に選ばれた65年には16億4千万円余になり、同じ二人が再選されてJAMPが設立された68年には31億2千万円と、急カーブを描いて伸びていった。その大きな原動力となっていたのが、音楽出版社の参加によって、洋楽とレコード会社の専属作家ではないフリーライターの書いた邦楽のオリジナル楽曲の録音使用料も演奏使用料も、JASRACが徴収できるようになっていたことである。なにしろ音楽出版社の誕生する前は、大部分のレコードの録音使用料はレコード会社から直接作家に支払われていて、JASRACの主な収入は演奏使用料であり
(略)
渡邊美佐さんのご尽力により1973年9月7日、NOSKとJAMPが合併し、新たに音楽出版社協会(MPA)が設立された。(略)
山下達郎、牧村憲一
[牧村憲一と小杉理宇造から、ソロになった]山下君の原盤権と著作権に興味があるかどうかを訊かれた僕は、一も二もなくOKの返事をしてチームに参加させてもらった。(略)『MOONGLOW』まで原盤を、著作権は(略)シングルの「RIDE ON TIME」まで、PMPが関わらせてもらった。
(略)
山下君のソロになってからの著作権も竹内まりやさんの初期の著作権も、うちに話を持ってきてくれたのは牧村憲一さんだったことに改めて気付かされ、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。彼とは(略)ユイ音楽工房の社員として初めて会ったが、その後、(略)大森昭男さんが始められたON・アソシエイツ、アワ・ハウス、細野晴臣さんの主宰するノン・スタンダード、フリッパーズ・ギターやL⇔Rを送り出したポリスター・レコードと、彼は時代の流れの半歩先を行く音楽をずっと手がけている、素晴らしいセンスの持ち主である。
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