- ブルース、エプソム、ベック
- セッションマン、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ
- ブラック・カントリー
- ジョン・ボーナム
- ロバート・プラント
- ヤードバーズ、ジェフ・ベック
- ピーター・グラント
- ミッキー・モスト
ブルース、エプソム、ベック
ロイ・ハーパー スキッフルはサザン・カントリー・ブルースとノーザン・アーバン・ブルースから派生した音楽だった。私たちは特にその二つを区別はしていなかったな。でも、より本格的なスタイルは、サザン・カントリー・ブルースの方だと自分では思っていた。50年代半ばには、耳ってものが付いてる11~14歳の自尊心があるガキなら、みんな同じことをやっていたよ。
キース・アルサム(60~70年代序盤の「NME」の記者) エルヴィスから派生したのがスキッフルで、その音楽の中心にあったのはフォークとレッドベリーとビッグ・ビル・ブルーンジーだった。だからあの頃、音楽に関連する情報はどれもブルースへと向かう道を指し示し始めていたんだ。
(略)
クリス・ウェルチ(1964年~80年代中盤の「メロディ・メイカー」の記者) ロニー・ドネガンの〈ロック・アイランド・ライン〉をラジオで聞いた時はかなりの衝撃だった。あんな風に土着的というか飾りのない本物の音楽を聞いたことなんて一度もなかったからね。あれがアメリカのフォークとブルースへの入り口になったんだ。
(略)
クリス・ドレヤ(ヤードバーズのリズム・ギタリスト、ベーシスト) ペイジがスキッフルに取り組んだのは、取っ付きやすかったからだ。安上がりだったからね。学校のコンサートでやれる類のものだったんだよ。
ジミー・ペイジ あれは一つの過程というかね、まずはスキッフルがやっていることに自分でも触れてみて、そこから更に深く知るようになると、少しずつ、自分の趣向が変わっていって成長していくっていう感じだった。ドネガンにはブルースとかレッドベリーが含まれていたけれど、でも当時のオレたちはそんなことはまったく意識していなかった。それでエルヴィスが大成功を続ける日々が到来したんだけれど、でも、彼はアーサー"ビッグ・ボーイ"クルーダップやスリーピー・ジョン・エステイスの曲を歌っていることを隠したりはしなかった。
(略)
キース・アルサム エプソムは郊外の静かな競馬の町だ。町中が本当に賑わうのは、ダービーの日だけだった。(略)
ジミー・ペイジ あの頃のエプソムはまだ戦後の陰気な配給の毎日だった。ところが11~12歳の時に、ラジオを通じてそういうのを吹き飛ばす事態が起こったんだ。テレビでも幾つかいい番組をやっていたな。クリフ・リチャードやトニー・シェリダンが出演する『オー・ボーイ!』とかね。でもロニー・ドネガンこそが、自分たちと共通する何か情熱みたいなものを感じられる最初の人物だった。
グリン・ジョンズ (略)ジミーはエプソムの端に住んでいて、私はその反対側に住んでいた。初めて彼に出会ったのは聖マーチン教区教会のユース・クラブでだったな。(略)彼が、アコースティック・ギターを弾いた光景は絶対に忘れないだろう。(略)
"あの地域の水に何か入っていたんじゃないのか?"とすら思うけど、分からないな。とにかく不可思議だった。イギリス最高のロック・ギタリストであるクラプトン、ベック、ペイジが全員あの狭い地域から登場したなんてね。
クリス・ドレヤ ホワイト・ブルースがこの上品なイングランド南部の地域で発展したなんて、本当におかしな話さ。サービトンに住んでいるのに、ハウリン・ウルフだなんて、それって一体なんなのかね。
(略)
ニック・ケント(70~80年代の『NME』記者) ジミーはとにかく、とことんミドル・クラスだった。彼以外の全員が「ファック!」と言う時でも、彼は「ゴッシュ!」だったしね。
(略)
ジェフ・ベック (略)[姉が言った。エプソム・アート・スクールに]お前と同じように変な形のギター持ってる子がいたよ」。それで私が「そいつはどこにいる?オレをそいつの所まで連れて行ってくれ!」(略)
ジミーがギターを弾いてくれたんだ。〈ノット・フェイド・アウェイ〉をね。あの時のことは決して忘れなかったよ。
ジミー・ペイジ むしろ「リッキー・ネルソンの〈マイ・ベイブ〉弾ける?」みたいな感じだったんだ。それでお互いがあの曲のソロをやってみたんだ。ジェイムズ・バートンのソロが重要な曲だったからね。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ 父は、レコード・プレーヤーを購入すると、私をお使いに行かせて、ジェリー・リー・ルイス、エヴァリー・ブラザーズ、リトル・リチャード、レイ・チャールズのレコードを買ってこさせた。オルガンを始めたのはレイ・チャールズの影響だ。あの頃はジミー・スミスを散々聞いたけど、でも父はジミー・スミスが好きじゃなかった。「何も面白いところがない。単に鍵盤を行ったり来たりしているだけじゃないか!」と言ってね。
(略)
キース・アルサム トラッド・ジャズがちょっと退屈になってきていて、ブリティッシュ・ブルースの"ゴッド・ファーザー"的存在のクリス・バーバーのような人たちが少し別のことをやり始めていた。じゃあ"ファーザー"は誰かというと、それは明らかにアレクシス・コーナーだった。
(略)
ビル・ワイマン まずスキッフルに、続いてブルースに対し、その土台となるものを提供したクリスは、事実上、その次に登場したもの、つまり英国ロック・シーンの創始者だった。
ジェフ・ベック 私にとって衝撃だったレコードは、マディ・ウォーターズのEPだ。そのうちの1曲が〈ユー・シュック・ミー〉で、レッド・ツェッペリンと私はそれぞれがファースト・アルバムでそれを拝借した。
ジミー・ペイジ アコースティック・ギターを本当に上手く弾けるギタリストは何人かいたが、でも彼らは(エレクトリックに)上手く移行できなかった。(略)でも、マディはあのスタイルを築き上げて、そして彼の存在そのものをきっちりと形にすることができた。(略)10代のガキだった私は、彼の曲に体の芯まで揺さぶられた。
(略)
ジェフ・ベック スチュ(イアン・スチュワート)が、あの当時サリーとリッチモンドで起こっていたことの要だったのは間違いない。彼こそミスター・ブルースだった。彼といると、それ以外の音楽が好きでいる自分に罪悪感を感じてしまうんだ。
グリン・ジョンズ ストーンズを聞いたとき、私はそれをどんちゃん騒ぎのように感じた。当時のポップスはかなり陳腐でダサかったから、みんなちょっとフラストレーションを感じていた。(略)あれはとにかく生々しくて粗野で野太い音だった。神経質な部分なんて一つもなかった。
ロング・ジョン・ボルドリー(ブルース・インコーポレイテッド(略)のシンガー) 私たちは、ブルースは絶対にアコースティックな音楽だと思っていた。そこへマディ・ウォーターズがエレキとでかいアンプを抱えてイギリスにやって来たんだ。ずいぶんたくさんの人が、「ああ冒涜だ。酷い、酷すぎる。彼はブルースを売り払うつもりだ」、なんて言っていたね。でもシリル・デイヴィスとアレクシス・コーナーと私は、それを目にして「ううむ、これは興味深い」と思っていた。それで自分たちでもやり始めたんだ。
(略)
キース・リチャーズ あの頃はオレたちがやっていることとトラッド・ジャズの間にかなりの緊張感があった。トラッドはいわばロンドンのクラブ・シーン全体の代表だったしな。(略)思うに、彼らは突如として寒々しい冬がやって来ると気付いたんだろう。
(略)
マリー・ディクソン(ウイリー・ディクソンの未亡人) ウイリーがヨーロッパへ行ったのは、アメリカではブルースが死に絶えつつあると彼が感じていたからだった。夫は私に言った。「自分の音楽がもう少しあれこれビジネスにならないか確かめるために、海外に行ってくる」と。夫はブルースをイングランドとヨーロッパにもっと広めたいと思っていた。痩せたイギリス人の若者たちが自分の音楽を学ぶことに何も反対はしていなかったわ。
(略)
ジミー・ペイジ シリル・デイヴィスはあの頃アレクシス・コーナーから離れたばかりだった。彼の影響でみんながエレクトリック・ハーモニカに注目するようになったんだ。彼から彼のバンドに加入しないかって誘われて、それで実際に少しの間、彼らと演奏したことがあった。あのバンドが、スクリーミング・ロード・サッチのバンドの核になったんだ。ニール・クリスチャンは私がシリル・デイヴィスと一緒にやっていきたいのだと感じていたと思う。でも、私は本当に正直に、続けるつもりはない、と彼に言ってあったんだ。なぜいつも自分の体調が悪くなるのか、理解できなかったな。
(略)
クリス・ウェルチ 1964年に『メロディ・メイカー』で仕事を始めた私が、最初にインタヴューをしてくるよう頼まれたバンドがヤードバーズだった。(略)
彼らは当時一番エキサイティングなロック・バンドのように見えた。ストーンズはもっとルーズで、それよりもヤードバーズには遥かに大きな興奮を感じたね。頭がおかしくなった学生みたいな、半狂乱的なエネルギーがあったんだ。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ 小規模なホワイトR&Bムーヴメントがあって、それがバラバラに成長していって、そうしてストーンズとヤードバーズという形になったんだ。彼らはみんなチャック・ベリーとチェスの面々がお気に入りだった。正に"ブルース馬鹿"だったんだ。音楽シーンとしては、彼らは別に珍しい存在でも何でもなかった。あの連中の誰ひとりとしてそんなんじゃなかったんだ。ヤードバーズは、「おやおや、これはまったく」という感じで、R&Bというよりはパンクだった。それはそれで良かったけれど、でも彼らの〈リトル・レッド・ルースター〉の演奏を聞いていると、「いやはや、頼むから止めてくれ」と言いたくなったよ。
セッションマン、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ
ジミー・ペイジ ある時点で演奏するのを少し止めて、2年くらいアート・カレッジに通ったんだ。自作曲よりもブルースの演奏に集中していた。それでそのアート・カレッジに続いて、マーキー・クラブとシリル・デイヴィスが登場して(略)色々な動きが起こり始めていて、それでまたやる気が戻ってきた。木曜日の夜になると出掛けていって、よくクラブの幕間のバンドとジャムっていた。
(略)
マーキーで誰かが近寄ってきて、こう言ったんだ。「レコードで演奏してみないか?」。それで私は、「もちろん」と答えた。それが私にとっての初めての正式なセッションだった。カーター=ルイス&ザ・サザナーズのセッションだった。それは〈ユア・ママズ・アウト・オブ・タウン〉というレコードで、チャート入りもした。
グリン・ジョンズ (略)
私は可能な限り常にジミーを起用した。彼は至って普通のもの静かな、好感の持てる若者だったし、もちろん、とてつもなく才能豊かだった。(略)
フレンドリーになって、やがて私のコンヴァーチブルEタイプでセッションから彼の家まで送るようになった。(略)クルマの後ろにはストーンズが最初に使ったヴォックスPAを半分にした奴と4トラックのカセット・デッキを積んでいた。(略)彼が演奏する何かのコード進行に合わせて、エンジンの音を変えるっていう遊びをやったものさ。とても楽しかったな。
(略)
ビッグ・ジム・サリヴァン(60~70年代のセッション・ギタリスト) (略)彼は私を"ビッグ・ジム"と呼び、私は彼を"リトル・ジム"と呼んでいた。実際に、ジムに(楽譜の)読み方を教えたのは私だ。もし曲がカントリーだったら私がやり、ロックだったら彼がやる――それが大雑把なルールだった。
(略)
アンドリュー・ルーグ・オールダム ジョン・ボルドウィンという名の若手アレンジャーのことは知っていた。でも私としては、自分のアレンジャーには、ボルドウィンよりももっとアーティスティックな名字を名乗ってもらいたくてね。(略)その頃、ロバート・スタックの新作映画が公開され(略)彼の役名がジョン・ポール・ジョーンズだったんだ。(略)その名前には何か良い響きがあってずっと気に入っていた。それでジョンに電話をして(略)「今後はボルドウィンという名前で返事をするな。今からお前はジョン・ポール・ジョーンズだ」とね。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ 誰だったかがやって来て、こう頼まれたんだ。「アレンジはできる?」。(略)私はすぐさま外に出て、フォーサイズが出しているオーケストレーションの本を買って、各楽器のパートの書き方が説明してあるページを探した。ああ、あれは酷い出来だった。音域が低すぎて、ごちゃごちゃした感じになってしまってね。
エディ・クレイマー (略)
あれは60人編成のオーケストラで、彼がすべての楽譜とアレンジを手がけた。しかも素晴らしいアレンジだった。(略)
大人数のオーケストラをベースを振り回しながら指揮したんだ。彼は本当にクールだった。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ メンバーはいつも(略)ビッグ・ジム・サリヴァンとリトル・ジムと私、それにドラマーはボビー・グレアムかクレム・カッティーニのどちらかだった。グループ・セッションではソロも弾いたけれど、それ以外の場合、ジミーはいつもリズム・ギター担当だった。というのも、彼は楽譜がそれほど読めなかったからね。
(略)
ジミーはいつも録音作業に関心を持っていた。当時の私たちは、ある意味、その点でオタクだったね。セッションの最後になると大半のミュージシャンはくつろぎながらゴルフ雑誌を読んでいたけれど、私たちはいつもコントロール・ルームに入っていった。プレイバックを聞いたり、エンジニアやプロデューサーの仕事ぶりを観察するためにね。
エディ・クレイマー 1963年、ロンドンのパイで仕事をしていた私は、キンクスを録音していた。(略)ペイジがやって来て、オーヴァーダブをしたんだ。シェル・タルミーのためのセッションだった。(略)
その次のペイジの記憶は、1967年のオリンピックでのことだ。(略)ミッキー・モストがドノヴァンのためにセッションを予約して、私がそのエンジニアを務めた。ジミーがスタジオ内でオーヴァーダブをする一方で、スタジオに入るセッション・ミュージシャンの中ではジョン・ポール・ジョーンズの存在がとにかく大きかった。彼は常に出たり入ったりしていた。
ジミー・ペイジ スタジオ付きのプロデューサーとのセッションはかなり無味乾燥なものだった。要するに経費が大事になるからね。シェル・タルミーのような人は、とにかくグループのプロデュースに専念していて、たとえばドラムがちょっと締まりのない個所やギターが今一なせいで弱い部分を補強するのが彼らの仕事だった。
(略)
キム・フォウリー ジミーは、誰もが探し求めていたセッションの天才だった。(略)"1テイクで決めるとんでもない神童”だった。彼がミュージシャンとして素晴らしかったのは、彼には"(他人の音を)聴く"能力あったからだ。多くのミュージシャンは人の音なんか聞いていなかった。
(略)
ハーヴェイ・リスバーグ(ハーマンズ・ハーミッツのマネージャー) ジョン・ポールは事実上、ミッキー・モストの右腕だった。初期のハーマンズ・ハーミッツの曲はすべて彼がアレンジした。(略)他にルルとドノヴァンもいた。彼は本当にもの静かで、かなり内向的で、真面目だった。彼の存在にほとんど気付かないくらいにね。
(略)
アンディ・ジョンズ (略)
[兄のグリンが]イアン・スチュワートと一緒に暮らしていてね。すると突然、ドアをノックする音が聞こえてきたので見てみたら、口が血まみれになったジミーがそこにいたんだ。グリンが、「おい、一体何があった?」と訊くと、ジミーは、「電車から降りようとしていた時にさ、あの3人が襲いかかってきたんだ」と答えた。グリンが、「ドン・アーデンか?」と訊くと、「まあな。先週オレは誰かにドンのことを散々に言ってやったんだ。奴らはそれがあんまり気に入らなかったんだろうな」。その後、ジミーがピーター・グラントと一緒になったのはそれが理由だ。ジミーは本当にこてんぱにやられたからね。
(略)
ジミー・ペイジ イミディエイトと関わるようになって、色々なものをプロデュースした。ジョン・メイオールの〈ウィッチドクター〉と〈テレフォン・ブルース〉は65年の終わり頃にやった。エリック(・クラプトン)と仲良くなって(略)自宅でちょっとばかり録音もした。イミディエイトは私がテープを持っていることを嗅ぎ付けて(略)所有権は彼らにあると言ってきた。というのも、私は彼らに雇われていたからね。私は、どれも単なるブルースのパターンのヴァリエーションだから発売はできない、と反論した。でも最終的にそれは、別の楽器を幾つかかぶせて世に出ることになった。ライナーノーツには私のクレジットが載っていたけれど、でも、作曲作業には私はまったく関わっていない。スチュがピアノで、ミック・ジャガーが少しハープを吹いて、ビル・ワイマンがベース、そしてチャーリー・ワッツがドラムだった。
アラン・カラン 偉大なギタリストのほとんどは、エレクトリックで凄いか、アコースティックで凄いかのどちらかだ。でもジムはその両方で同じくらい凄かった。(略)
あるセッションでプロデューサーから、「それをエレキじゃなくて、アコースティックでできないかな?」と言われたことがあって(略)「どうも上手くできなかった」と感じた彼は、家に戻ってから2ヵ月間、アコースティックを練習したというんだ。
ジャッキー・デシャノン アビイ・ロードにあるEMIスタジオで録音した(略)1日で4曲よ。(略)〈ドント・ターン・ユア・バック・オン・ミー・ベイブ〉なんかをね。(略)曲はアコースティック・ギターで書いていたから、あのリフは私のレコードの屋台骨のようなものだった。それでスタジオで誰がアコースティックが一番上手いか訊いてみたら、みんながジミー・ペイジの名を挙げた。(略)
私のセッションは彼がアート・スクールに行く日と重なっていると分かって(略)彼の学校が終わるのを待たなければならなかった。「彼は相当上手くないと困ることになるわねえ」と言ったりしてね。私がジミーに曲を演奏してみせたところ、じっと聞いていた彼は、それを完璧に演奏してみせたの。本当に感情のこもった、技術的にも素晴らしい演奏で、その瞬間に彼がどんなに素晴らしいアーティストかは私にも分かったわ。(略)
マリアンヌ・フェイスフル ホテルの私の隣の部屋でジミーとジャッキーが熱々の関係になっていたわ。彼は60年代の私のセッションのほぼすべてで弾いているけれど、当時の彼はかなり退屈だった。これは彼が一時どこかに姿を消して、その後、面白いことになる前の話だけど。あのホテルの部屋でやっていたことがどんどん面白くなっていってたんじゃないかしらね。トニー・カルダーが二人に言ったわ。「あの部屋でお互いの脳みそを吸い出す行為が終わったらすぐに、マリアンヌにも1曲書いてくれよな」ってね。
ジミー・ペイジ 二人で何曲か書いたな。それはマリアンヌとP・J・プロビーとエスザー・フィリップスがやることになって、あとは有色人のアーティストの誰かにも……。(略)
キム・フォウリー 1965年初頭のある日、私がハリウッドのコンチネンタル・ハイアット・ホテルで一人で朝食をとっていたら、そこにジミーがよろよろ現れた。「どうしたんだ?」と訊くと彼は、「ジャッキーからちょっと一緒に過ごそうと誘われたんだ。そうしたら彼女から拘束された」と言ってね。私が「具体的に彼女は何をしたんだ?」と訊いても、彼は答えなかった。まあそれが何であれ、彼は自分の意志に反して拘束されていたみたいだった。
(略)
それはトラウマになるような類のものだったと思っているように、私には見えたな。もしかしたらジミーはナイーヴだったのかもしれない。あるいは、史上最高の役者だった可能性もあるけどね。
(略)
キース・アルサム (略)他の人間――たとえばエリック・クラプトンとか――がずっと先を行っていたことに彼が苛立っていたのは明白だった。グループの一員でいるという状況がかなり羨ましかったんだと思う。
(略)
クリス・ドレヤ あの頃のジミーがどのくらいもらっていたのかは知らない。たぶんかなりの金額だったと思う。でも彼がスタジオを窮屈に感じるまでになっていたのは間違いない。(略)
彼はたぶん、「自分が死んでも、誰もオレが何者だったのか分からないままだろうな。オレもステージに立ちたい」と思っていたと思う。
(略)
ジミー・ペイジ スタックス・レコードの影響で、音楽に管楽器やオーケストラを使う機会が多くなったんだ。それでギターは流行遅れになって、時折ちょっとリフが入るだけになった。フランスでのロックンロールのセッションに行くまで、自分がどれほど錆び付いていたのか気付かなかった。その時は上手く弾けなくてね。これは足を洗う潮時だなと思って、それで実際にそうしたんだ。
クレム・カッティーニ チャーリー・カッツがジムにこう言ったのを覚えている――「愚かな少年よ、君は上々のキャリアを諦めようとしているんだぞ」。
ブラック・カントリー
マック・プール(ミドランズのドラマー、ジョン・ボーナムの友人) ブラック・カントリーというのはあらゆる類のクソみたいなものが集まった場所さ。もし特定の時間に夕食を始めなかったなら、テーブルの上のあちこちで皿が飛び跳ねることになる――プレス機がそれほど遠くない場所で稼動しているからね。(略)
炎の上に巨大なオーヴンがあって、変な奴が巨大な鉄の塊をハンマーで打ち付けているんだ。しかもそれが1日24時間ずっと続く。溶鉱炉があちこちにあって、どれの口も開いていて、溶けた鉄が白くなっている。そして皮のエプロンをした歯が1本もない男たちがそこにいる。彼らは35歳なのに60歳に見えるんだよ。
(略)
グレン・ヒューズ ミッドランズにはツェッペリンの半分とパープルの二人に、ジューダス・プリースト、ロイ・ウッド、ジェフ・リンがいる。私としては、間違いなくブラック・カントリーやブラミー・ミッドランズ・サウンドと呼べるものがあると思っている。シンガーならウィンウッドであれ、プラントであれ、私であれ、ロブ・ハルフォードであれね。あるいはレンガ職人のオーラが漂う、巨大なサウンドの代名詞的ドラマーだったボーナムにしてもさ。
(略)
ニック・ケント 60年代のマンチェスターにはハーマンズハーミッツとホリーズがいた。バーミンガムにはスティーヴ・ウィンウッド、デニー・レイン、ムーディー・ブルース、その他たくさんいた。1967年にムーヴを見たことがある人なら、彼らが史上最高のグループの一つだったと知っているはずだ。
(略)
ジム・シンプソン(ビッグ・ベア・レコーズの創設者、バーミンガムの音楽シーンの生き字引) この土地から何が登場したのか、人々は覚えていないんだ。それはたぶん彼らがあまりにも早い時期にロンドンに行ってしまったからかもしれない。(略)
かなりの数のバンドがロンドンへと下り、本当に陳腐なレコードを作った。(略)ここで成功したミュージシャンはかなり短期間のうちに町を出て行ったものさ。
(略)
私たちが抱えたいたバンドはタフで粗野で(略)つまらないリヴァプールの連中みたいに、身だしなみを整えてヒット・チャートを狙うことなんてなかった。(略)一種の間違った謙虚さがあるんだ。「さあステージに上がって、もう少しゴミみたいな演奏をしようぜ」というね。
(略)
ロビー・ブラント (略)あれはモッズが始まった頃だったけれど――あれ自体が音楽の革命だった――私たちは全員がブルースにハマっていた。
デイヴ・ペグ(フェアポート・コンヴェンションのベーシスト) シャドウズが神で、私たちはみんな彼らのレコードを聞いて演奏の仕方を学んだんだ。ただし、シャドウズから、たとえばバディ・ホリーへの移行もかなり短期間で起こった。突如として、私たちはあのつまらないのを二度と演奏しなくなったんだ。突然15歳になり、そしてR&Bとブルースにハマり、それで決まりだった。あれは本当に短期間の出来事だった。
ロバート・プラント ブルースの場合、コピーするだけじゃなく、実際に自分を表現することができた。自分なりのものを、曲に込めることができたんだ。ブルースを歌い始めるようになって初めて私は音楽を自分の内面にあるもの、たとえば希望とか恐れなどを表現する媒介として使えるようになったんだ。
エド・ビックネル(ダイアー・ストレイツの元マネージャー) ロバートは私が出会った白人の中で黒人ブルースの知識が一番豊富な人間だ。一度、彼と一緒にブルースのクイズに参加したことがあったんだけれど、最後にブルースの元祖と言えるシンガーの名前を答える競争になったんだ。そうしたら彼が"ブラインド・ペグ-レッグ・ルーザー”と答えてね。その時点で私たちは全員ギヴアップすることになった。
ロバート・プラント 私は常々、例の"悪魔がオレの女をさらっていった"みたいなのが大好きだったんだ。たまたまブルースのヒーローになった連中のこともね。私にとって最高の1日の始め方っていうのは、説明とかとにかく何もない状態で、サン・ハウスを聞くことなんだ。
(略)
ポール・ロッキー(バンド・オブ・ジョイのベーシスト) ロバートはね、当時はまだ18とか19だったけれど、その存在感はみんなを圧倒していた。彼がパーティーに入ってくると、女の子全員が突っ立ったまま、「まあ……」となるんだ。みんないつもロバートの虜になってしまうんだ。私の妻でさえそうだったんだ!女の子はみんなうっとりして、おまけに男たちもそうだった。別の意味でだけどね。
ジョン・ボーナム
ロバート・プラント 16歳の頃は、オールドヒルにあるプラザ・ボールルームで歌っていた。そうしたらそこにかなり傲慢な感じの奴がいて、お高くとまった態度で立ったまま私をじっと見ていたんだ。そうしたら彼はこう言った。「君はかなりいい線行っている。だけど、私のようなドラマーがいれば、もっともっと良くなる」とね。(略)
それがジョン・ボーナムと言葉を交わした最初の瞬間だった。
(略)
デビー・ボーナム(ジョン・ボーナムの妹) ジョンはジーン・クルーパとバディ・リッチに影響されていた。それっていうのは、母と父はいつも彼らのバンド(のレコード)を家の中でかけていたからなの。父と母はトミー・ドーシー・バンドとグレン・ミラーとハリー・ジェイムズとフランク・シナトラがお気に入りだった。ジョンがいつも車庫でかけていたのもそれだった。
(略)
ロイ・カー 彼はああいったパワフルなジャズ・ドラマーが好きだった。(略)
ボンゾはドラムを単に力任せに叩くのではなく、そこからちゃんとした音を引き出そうとしていた。
ジョン・ボーナム 『ベニー・グッドマン物語』の中で、クルーパが一番前に出てくるんだ。彼はそれまでの誰よりもドラムを大きな音で叩いた――しかも遥かに上手くね。クルーパが登場するまでは、誰もドラムのことはそんなに気にかけたりしなかった。
ビル・ハーヴェイ(ブルー・スター・トリオの元ドラマー。1962年暮れにボーナムにその座を奪われた) ジョンは適応力が抜群だった。その上、彼は独学だったんだけれど、そのこと自体が大きな違いを生んでいた。というのも、彼は音を拾えるんだよね。だから大してリハーサルをする必要がないんだ。あの段階で彼が一つ飛び抜けていたのが、キック・ドラムの技術だった。あれにはみんな本当に唖然としたね。彼のあのバスドラを使った三連打には。一度彼にそのやり方を訊いたんだ。(略)
「(略)オレはね、バスドラのペダルから革製のストラップを外して、その代わりに自転車のチェーンを取り付けたんだ」。(略)あれを最初にやったのは彼だったんだ。
ロバート・プラント
ロバート・プラント 17歳の時、その後に私の子どもたちの母親になる女性と付き合い始めた。彼女はイースト・インディアン地区に住んでいたから、私は常時インドの映画音楽に囲まれていた。保守的な耳にとってインド楽器のぐるぐる回る旋律や、複数のヴォーカルがインストのセクションから飛び出してくる音楽はまったく魅力的じゃなかった。私にとってあれは、どれもかなり官能的で、そうした類の誘惑を感じるものだった。それとそこから5ブロック先がジャマイカ人のコミュニティになっていて、仕事がない時はよくそこをぶらぶらして、ヤギのシチューを食べながらスカのレコードを聞いていたよ。
ケヴィン・ガモンド モウリーンはインド人のかなりの大家族の中で育った(略)
綺麗な娘で、早い段階からロバートにカレーやスパイスの趣向を植え付けていた。あの家族とのああした繋がりは彼にとってとても重要なことで、今でも彼の生活の一部になっている。
(略)
ロバート・プラント 初期のバンド・オブ・ジョイはオーティス・クレイへのトリビュート・バンドとして、ヴァーノン・ギャレットなんかの曲を演奏していたんだ。あのバンドの何人かはストリングビーツと演奏したことがあったな。(略)西インド諸島のバンドで、最終的にはあれがスティール・パルスになったはずだ。
(略)
私はとにかくサンフランシスコに行って、あそこの連中に加わりたかった。ジャック・キャサディやジャニス・ジョプリンと一緒にいたかったんだ。(略)
あそこではある種の神話が作られつつあり、社会の変革が進みつつあった。そして音楽がそれらすべての触媒になっていた。ニール・ヤングに関して言うと、〈オン・ザ・ウェイ・ホーム〉や〈エクスペクティング・トゥ・フライ〉はとにかくスペーシーなのに、とても曖昧でもあった。私はブラック・カントリー出身で、苦悩するカナダ人の蠍座ではなかったから、ああした曲はどれもピンと来なかったけどね。でも、とにかく私はあの場所に自分も加わろうとしていたんだ。
(略)
長い間、バンドのやる気を削ぐような役立たずなプロモーターとエージェントしかいなくて(略)キンクスの曲かヒット・チャートの曲を一晩中演奏させるのが常だった。
(略)
ハリー・シャピロ(アレクシス・コーナーの自伝の著者) 1968年序盤にアレクシス・コーナーがロバートをデュオの一人に据えたのは、自分のキャリアがもうどうにもならなくなったプラントがずっと落ち込んでいたからだった。彼はアレクシスに、「20歳までに成功できなかったら、辞める」と言っていた。彼のその誕生日は8月に迫っていた。
(略)
ジョン・オグデン ロバートは野心的で、少しばかりけんかもしていた。成功するためにあらゆることを試みていたな。オブス・トゥイードル在籍時の彼は、ジミー・ペイジに救済されるまで、ずっと足踏み状態だったと思う。
ヤードバーズ、ジェフ・ベック
サイモン・ネピア=ベル (略)ポール・サミュエル=スミスが脱退したらジェフが言ったんだ。「このグループにジミー・ペイジを入れたい」とね。(略)
ジェフにこう言った。「君はこのグループの天才ギタリストだ。同じくらい腕の良い奴を連れてくるなんて、君は頭がおかしい」と。でもベックはあくまでその案を主張した。それに、ペイジはベースを弾く前提だったからね。
ビッグ・ジム・サリヴァン ジムがヤードバーズを試していた頃、私は彼とかなり話し込んだ。彼はセッションの世界から抜け出せることをかなり喜んでいたと思う。(略)「クルマを2台持っていて、庭師もいる。これ以上のものを必要な奴なんているのか?」と思っていた。バンドを始めるのはリスクが伴うと思ったんだ。
ジミー・ペイジ ギタリストとしての自分は干涸びてしまったんだ。リズム・ギターを散々やったけれど、本当に退屈で、しかもそのせいで練習時間がほとんどなくなってしまった。(略)ヤードバーズでは、後ろに突っ立ってむっつりした顔をするだけじゃなく、もっと大きな貢献をしたいと思う。ベースを演奏しているからといって、存在感がない、というわけじゃないからね。
ジェフ・ベック ジミーは、みんな知っての通り、ベース奏者じゃなかった。でも、私が彼をバンドに連れてこれる唯一の方法が、ベースを担当すること(略)だった。そしてだんだんと――1週間以内だったと思うけどリード・ギター同士でバトルさせることを話し合うようになった。それでジミーをギターに据えるため、クリス・ドレヤをベースに移したんだ。
ジミー・ペイジ サンフランシスコでギグをやらなくちゃいけなかったんだ。(略)でもジェフが参加できなくてね。それでその晩は私がリード・ギターを担当し、クリスがベースを演奏した。(略)結果は上々で、その後もそのままの担当になった。それでジェフが戻って来た時もそのままで、それ以降はリード・ギタリストが二人になった。
(略)
私たちが一緒にデュアル・リードをやっていた時、そこには何か本当に特別なものを手にできる可能性があった。
(略)
ジェフ・ベック サイモン・ネピア=ベルが映画『欲望』の話を持って来たんだ。あれは彼の素晴らしい手柄だった。「ようし、それでお前が新マネージャーなわけだけど、何かあるのかな?」と訊くと、「3000ポンドでアントニオーニの映画に出るっているのはどうだ?」と言うんだ。ホフナーのギターを3日間ぶちかまして、最高の体験ができた。
BP・ファロン 私は『欲望』のエキストラの一人だったんだ。ドラッグをきめてヤードバーズを見てる仕事で、1日10ポンドだった。当時のジミーを目の前にすると、マイルス・デイヴィスやセルジュ・ゲンズブールと同じようなクールな感覚を彼に感じずにはいられなかった。撮影中の彼はずっともの静かに座っていたね。一方のジェフ・ベックはミック・ジャガーがどれほど酷いシンガーなのかと、ずっと悪態をつきまくっていた。(略)
ジミー・ペイジ 私がヤードバーズに加入した頃には、ジェフが仕事を放棄するとか、そういうことはもうなかったな。まあ、2回くらいはあったけどね。調子が悪い日の彼は、観客に八つ当たりしていた。あれはちょっと変な感じだった。
ジューン・ハリス・バルサロナ(略) ショーのためにデトロイトにいた。(略)突然、彼が「行かない」と言い出したの。(略)あれはヒステリックな感じだった。ジェフは成功を受け止めることができなかったのよ。
ジェフ・ベック 私はLAに戻り、しばらくプールのそばでぶらぶらして、その後、ヤードバーズも終わりかなと思いながら家に帰ったんだ。でも、ペイジが好調で、みんなが彼について騒ぎ始めていた。だからバンドの方は問題なかったんだ。
クリス・ドレヤ ジミーはあのままバンドで成功したいと思っていた。私たちがディック・クラークのツアーから撤退した時、「4ピースで続けよう」と言ったのも彼だ。あの形態で続けたいと思っていたのは彼ただ一人だった。
(略)
ジミー・ペイジ サイモン・ネピア=ベルが電話で伝えて来たんだ。「ミッキー・モストにヤードバーズの所有権を売るつもりだ」とね。私は、彼ら3人、つまりネピア=ベルとモストとベックで話をでっち上げたに違いないと思った。そうやってベックがソロ・キャリアを築けるようにしたんだ。ある意味、〈ベックス・ボレロ〉のレコーディングで彼は既にその一歩を踏み出していたんだけどね。
ミッキー・モスト ジェフはツアーの半分くらいの時に、「もうヤードバーズに居たくない」と決めたんだ。ほんの15分ほど、彼はポップ・スターになりたいと思った。そしてロサンゼルスから戻って来た彼の身なりはまるでポップ・スターだった。私はニューヨークから戻ったばかりで、手元に〈ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング〉という曲があった。それを彼に聞かせたんだ。そして次に気付いてみると、私たちはスタジオの中にいて、そしてそれがヒットになった。あの見事なチェロのアレンジを手がけたのはジョン・ポール・ジョーンズだ。
アンディ・ジョンズ ジョン・ポールはしっかりと練習と研鑽を重ねたミュージシャンで、初見で演奏ができた。彼は信じられないくらい(楽譜の理解が)速かった。
(略)
彼はストーンズの『サタニック・マジェスティーズ』のアレンジを手がけた。彼は言ったよ。「オレはこれから2~3年でがっぽり稼いで、お前にはオレだと分からないくらいになってやる」と。私は、「ああ、そうかい」と答えた。そして確かに彼は2年のうちに100万ポンド稼いでいた。
ピーター・グラント
マルコム・マクラーレン ピーター・グラントはありえなくらい下の階層の出身だった。ロンドンの裏通りから這い上がった彼は、人生を変える術を求めていた。ロックンロールの世界に入ることが、その最善の選択肢だったんだ。
(略)
ピーター・グラント 私は自分を誇りに思っている。(略)非嫡出子として生まれたわけだが、30年代後半という時代においてそれはむちゃくちゃなことだった。父が誰なのかは知らなかった。(略)
グロリア・グラント(ピーター・グラントの元妻) ピーターはいつだって自分の子ども時代については口を閉ざしていた。「ああ、オレは非嫡出子だ。それでこの話は終わりだ」と言ってね。
(略)
ロイ・カー ドン・アーデンは最悪な人間だった。彼は自分のことをアル・カポネだと思っていた。(略)
エド・ビックネル 時折、ドンは面倒な問題を片付けるためにピーターを相手の所へ行かせていた。たとえば、ロバート・スティグウッドが彼のバンドを引き抜こうとしたときとかね。昔、一度ピーターに訊いたことがある。「スティグウッドの足首を掴んで窓の外に彼を逆さまにぶらぶらさせたのは本当かい?」とね。彼は、「いや、オレは単に彼に外の景色を見せてやっただけだ」と言っていた。
ローレンス・マイヤーズ ドン・アーデンの「オレがそのドンだ。私は悪党だぜ」という態度がピーターに強い影響を与えて、それでピーターは自分の体躯をそれと同じような形で利用するようになったのだと思う。「オレは図体はデカイぞ。お前さんはオレとは面倒を起こしたいとは思わないはずだ」というね。ただし、彼が誰かに暴力を振るったという話は私自身は一度も聞いたことがない。
ミッキー・モスト 私たちが相手を威嚇する昔ながらの手法を少しばかり使ったことは認める。でも、ピストルを使った奴は一人もいなかった。ピーターがギャングと関わっていたとは思わない。実際のところ、彼は心優しい男だった。(略)どちらかといえば、彼がやっていたのは空威張りだったね。
(略)
クリス・ドレヤ ミッキー・モストは本当に礼儀正しい男だったが、その反対側に座っていた男は相手を握りこぶし一つでぺしゃんこにできそうな感じだった。
(略)
エド・ビックネル 60年代中盤まで、音楽ビジネス界の人間というのは、娯楽産業の末端の連中だったんだ。連中はゲイか、あるいはイースト・エンドの強情な変わり者のどちらかだった。その後、クリサリスのクリス・ライトやテリー・エリスといった大卒の人間の第一波が登場した。(略)
そして芸能に関する人々の考え方に変化が訪れた。一番大きかったのは、ポップ・ミュージックは2年で終わりになる、という人々の考え方が変わったことだった。ピーターは学問的な面の教養はなかったものの、彼はドン・アーデンのやり方から次第に離れ、アーティストがすべてであり、すべてはそこから生み出されるのだという考え方に変わっていった。これについて彼はかなり熱心だった。
(略)
アニ・イヴィル ピーターは、何が何でもアメリカをツアーしなくちゃいけないということに気付いていた。プレミア・タレント(プロモーター)のフランク・バルサロナは、それがバンドをプレイクさせる手法だと知っていた。
(略)
スティーヴ・ヴァン・ザント (略)フランクは史上初のロックンロール・エージェンシーを開業したんだ。名称は"プレミア・タレント"だった。彼はアメリカを幾つかの区域に分割した。なんか聞いたことがある話だよな……。そしてそれを飢えている新顔たちに分担させたんだ。ラリー・マギッドはフィラデルフィア、ジャック・ボラーはワシントン、ドン・ロウはボストン、それとビル・グレアムがサンフランシスコ
(略)
つまり、彼は古い盗人たちを全員追放して、代わりに新顔の若い盗人たちを配置したってことさ。
アニ・イヴィル そのプロモーターたちはその仕組みから金を得ていた。全員がそれで稼いだのよ。フランクがよく言っていたわ。「鍋は一つだけで、全員にそこから支払わなければならない」とね。
ミッキー・モスト
ヘンリー・スミス ジェフがバンドを去った時(略)みんな、これがヤードバーズ最後のツアーだということは当初から知っていたんだけれども、それは同時に(略)
ジミー・ペイジにとってはお披露目パーティーだったんだ。60年代にはほとんどの人が知りもしなかったセッション・ミュージシャンの彼のためのね。
同時に、ヤードバーズ内には二つの派閥ができていた。片方は、ジム・マッカーティとキース・レルフとクリス・ドレヤで、もう一派はジミー・ペイジとリチャード・コールとピーター・グラントだった。(略)
[ツアー・バスの中で]レルフとマッカーティが近寄って来て、「オレたちはヤードバーズが終わったら新しいバンドを始める。オレたちと一緒にやらないか?」と言ったんだ。そうしたら次にペイジーが近寄って来て、言った。「これの後、オレは新しいバンドを始める。で、君にはオレと一緒に働いてもらいたいんだ」とね。
その時点でジミーは、"ベース奏者は確保済み"だと分かっていた。つまり、ジョン・ポール・ジョーンズだ。私が思うに、恐らく彼はジョンジー本人に話をする前に(略)奥さんのモーに既に話をしていたんだね。彼女の方が本人より先に、「ええ、彼はやるわ」と言っていたと思う。
(略)
ジェフ・ベック (ミッキーは)プログレッシヴ・ロックに関して起こっていることを理解していなかった。(略)関心があったのはいつだってぶつ切りの曲で、ルルとかドノヴァンとか、簡単なやつだった。(略)「それは音が大きすぎる。もっとアコースティック・ギターが欲しいな。ドノヴァンはもっと大きな音、君はもっとソフトな音だ」とか言うんだよ。
クリス・ドレヤ (略)ミッキーとやったあのセッションから生まれた唯一まともなものは、実質的にジミーがプロデュースを手がけたやつだけだ。そうなったのはミッキーがアルバム作りにまったく興味がなくて、それで『リトル・ゲームス』の制作を私たちだけに任せたからだった。
(略)
クリス・ドレヤ ミッキーは最後まで分かっていなかった。でも、彼にはその必要がなかったんだ。なぜなら、彼は諸々のシングルで素晴らしく成功していたからね。彼はとにかくキャッチーなものを見抜く眼力に優れていた。(略)彼はミュージシャンという人間と仲良くなれなかったんだ。彼が共鳴できたのはセッション・ミュージシャンたちと、それに音楽をパッケージにする方法だけだった。
次回に続く。