目の見えない人は世界をどう見ているのか

盲人には「視点」がないので、俯瞰的に空間を捉え、月を球体として思い浮かべ、表/裏の区別なく太陽の塔を観る

「見える人」と「見えない人」の空間のとらえ方の違い

[大岡山駅から]緩やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」
 私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。(略)[毎日行き来していたが]私にとってはそれはただの「坂道」でしかありませんでした。(略)
[駅から目的地への道順の一部でしかなく]空間的にも意味的にも他の空間や道から分節化された「部分」でしかなかった。それに対して木下さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で空間全体をとらえるイメージでした。
 確かに言われてみれば、木下さんの言う通り(略)[駅のある大岡山の]頂上からふもとに向かう斜面を、私たちは下っていました。
(略)
 そう、[目が見える]私たちはまさに「通行人」なのだとそのとき思いました。「通るべき場所」として定められ、方向性を持つ「道」に、いわばベルトコンベアのように運ばれている存在。それに比べて、まるでスキーヤーのように広い平面の上に自分で線を引く木下さんのイメージは、より開放的なものに思えます。(略)
 全盲の木下さんがそのとき手にしていた「情報」は(略)「大岡山という地名」と「足で感じる傾き」の二つです。しかし情報が少ないからこそ、それを解釈することによって、見える人では持ち得ないような空間が、頭の中に作り出されました。

見えない人の部屋はエントロピーが低い

つまり乱雑さの度合いが低い(略)きちんと整理されていて、片付いているのです。
 理由は簡単です。物がなくなると探すのが大変だからです。(略)使ったものは必ずもとの場所に戻されているということ。つまり、あらゆるものに「置き場所」があるということです。
(略)
[外とは違い]「物理的な空間」に「頭の中のイメージ」を合わせるよりも、頭が把握しやすいようなやり方で、物理的な空間を作るほうがはるかに効率がいい。物の数を減らし、単純なルールで物を配置するようになります。こうしてエントロピーの低い、幾何学的で抽象的なインテリアのできあがりです。
(略)
 中途失明の難波さんは、見えなくなった直後、「抱えられないほどの荷物を全部抱えて歩かなくてはいけない気分になった」と話しています。メモという形で情報をアウトソーシングできないため、情報を効率よく蓄積しておく方法を身につけなければならなかったのです。

見える人は平面的に見ている

見えない人にとって富士山は、「上がちょっと欠けた円すい形」をしています。(略)
 見える人にとって、富土山とはまずもって「八の字の末広がり」です。(略)平面的なのです。月のような天体についても同様です。見えない人にとって月とはボールのような球体です。では、見える人はどうでしょう。「まんまる」で「盆のような」月、つまり厚みのない円形をイメージするのではないでしょうか。
 三次元を二次元化することは、視覚の大きな特微のひとつです。「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。とくに、富士山や月のようにあまりに遠くにあるものや、あまりに巨大なものを見るときには、どうしても立体感が失われてしまいます。(略)[さらに]重要なのは、こうした平面性が、絵画やイラストが提供する文化的なイメージによってさらに補強されていくことです。
(略)
見えない人は、見える人よりも、物が実際にそうであるように理解していることになります。模型を使って理解していることも大きいでしょう。その理解は、概念的、と言ってもいいかもしれません。直接触ることのできないものについては、辞書に書いてある記述を覚えるように、対象を理解しているのです。
 定義通りに理解している、という点で興味深いのは、見えない人の色彩の理解です。
 個人差がありますが、物を見た経験を持たない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがあります。「私の好きな色は青」なんて言われるとかなりびっくりしてしまうのですが、聞いてみると、その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。たとえば赤は「りんご」「いちご」「トマト」「くちびる」が属していて「あたたかい気持ちになる色」、黄色は「バナナ」「踏切」「卵」が属していて「黒と組み合わせると警告を意味する色」といった具合です。
(略)
[面白いのは「混色」が理解できないこと]
全盲の人にとっては、色を混ぜるのは、机と椅子を混ぜるような感じで、どうも納得がいかないそうです。赤+黄色=オレンジという法則は分かっても、感覚的にはどうも理解できないのだそうです。

表と裏、内と外は等価

 先天的に見えない人の場合、こうした表/裏にヒエラルキーをつける感覚がありません。すべての面を対等に「見て」いるので、表は裏だし裏は表なのです。太陽の塔でいえば、三つの顔はすべて等価。模型を触って理解するかぎり、どれが表の正しい顔でどれが裏の隠れた面か、区別はありえません。(略)
見えない人にとっては、顔は身体の部位の中で特別なものではありませんから。顔よりもむしろ声の方が、その人の性格や感情や体調が分かるところという意味では重要なのです。
(略)
授業で、粘土で立体物を作る課題を出しました。すると、ある全盲の子どもが壷のようなものを作り、その壷の内側に細かい細工を施し始めたのだそうです。見える人からすると、細工を付け加えるならば、外側の表面に施すのが「自然」です。しかしその子は壷の内側に手を入れ始めた。つまりその子にとっては、壷の「内」と「外」は等価だったということです。決して「隠した」わけではなく、ただ壷の「表面」に細工を施しただけなのです。

足からの触感はサーチライト

 進むべき方向が分からないということは、そこにあるはずの物理的な空間と、自分の体の結びつきが不確かになるということです。(略)
存在はしているけど、体がなくなったような気分です。透明人間になるってこんな感じなのか?(略)
自分が透明人間でないということをかろうじて証明してくれるのは、周りにいる人や物に触れる触覚、そして何より足の裏の感覚です。暗闇に入ると、足の裏からこれほど多くの情報が得られるのかと、その豊かさに驚きます。見えない世界では、サーチライトの役割を果たすのは、目ではなく、足なのです。自分が立っているそこが土なのか、絨毯の上なのか。傾いているのか、平らなのか。体重をかけていいのか、まずいのか。
(略)
暗闇の経験は、「さぐる」「支える」「進む」といったマルチな役割を足が果たしていることに気づかせてくれます。

「見えない人のシュートを止めるのは難しい」

[表情が読めないので、その意思が読みにくい]
[見えないので]ボールを囲いこむようにしてゴールに近づいていく(略)両足で細かくドリブルする。ボールをずっと足元に置いておくのです。(略)[そして]ドリブルの状態からいきなりシュートします。(略)いつシュートが出るか分からない。(略)
[細かいドリブルといえばメッシ]
葭原さん曰く、メッシはいわば「ブラインドサッカーの状態になっている」のです。(略)
つまり、ハイレベルになればサッカーの個人技はおのずとブラインド化するのです。(略)
 逆に視力を使わないことが、プレイの幅を広げることもあります。(略)見えない世界には死角がありません。つまり、自分の体が向いている前方と同じように、背中方向にいる後ろの選手の動きもよく分かるのです。だからこそ、後ろへのヒールパスが増えたりする。

イメージの柔軟さ

 難波さんは最初、そのコップをガラス製だと思っていました。確かにガラスと陶器は質感が似ています(略)
[話の途中でそれが陶器だと知り]
難波さん曰く「陶器だと言われた瞬間に陶器になる」のだそうです。難波さんの頭の中で、目の前にあるものが魔法のように瞬時に変わるわけです。
 しかも難波さんの場合は中途失明ですから、頭の中のイメージもかなり視覚的です。今回の例でいえば、透明/不透明の区別を知っている。だから、「陶器になった瞬間、コップの中身も見えなくなる」のだそうです。
(略)
断片を積み重ねることに慣れている見えない人は、そのつど得られる情報によってイメージを修正したり、解像度をあげたりすることに慣れっこなのでしょう。中には、「間違っていたらそのつど更新すればいいや」くらいの感じで世界にのぞんでいる人もいるように感じます。こうしたイメージの柔軟さは、見える人が頭の中のイメージに固執しがちなのとは対照的です。

話し上手になるわけ

関わりが深くなるにつれて、視覚障害者で話し上手な人や話し好きな人が意外と多いことを知りました。ある人は、「ぼくたちにとって表現のツールは限られている。だから言葉で相手の心をつかめるように努力している」と語っていました。確かに、そのように心がけているうちに自然と話し上手になった人が多いのかもしれません。
 たとえば木下路徳さんも、小学生で見えにくくなったときに、友達の輪に入りたい、こっちを向いてほしいという気持ちから、話術で人を笑わせられるようになろうと思ったといいます。そこで木下さんがとった行動は、ラジオを聞くことでした。ラジオの語りはまさに視覚像なしでリスナーを魅了できるかどうかが勝負です。
 「ラジオショッピングなんかでも、指輪がどんなにすごいかとか、カニがどういうふうに美味しいかをルポしたりするわけですね。それを聞いて、ラジオのパーソナリティみたいにしゃべれたら、楽しく過ごせるんじゃないかと、漠然と思っていました」

善意がもたらす壁

 推測するに、弱視学級の教室に迎えに来てくれた親友は、悪意からよそよそしくしたのではないと思います。むしろ、その反対に善意があったのではないでしょうか。木下くんは目の手術をしたのだ、つまずいたり転んだりしないように気をつけなければいけない、危ないものがあったら教えなければいけない、と緊張していたのではないでしょうか。
 私も同じ立場に立たされたら、きっとそのように接していたと思います。でも、このような意味で「大事にする」のは、友達と友達の関係ではありません。からかったり、けしかけたり、ときには突き飛ばしたり、小学生の男子同士なら自然にやりあうようなことが、善意が壁になって成立しなくなってしまった。「だんだん見えなくなってくると、みんながぼくのことを大事に扱うようになって、よそよそしい感じになって、とてもショックでした」。

よくわからないからこそ、先回りして過剰な配慮や心配をしてしまう。「何かしてあげなければいけない」という緊張で、障害のある人とない人の関係ががちがちに硬いものになってしまうのです。障害者に対する悪意ある差別はもってのほかですが、実は過剰な善意も困りものなのです。
(略)
 象徴的な話があります。それは、「障害者」という言葉の表記についてです。(略)「害」の字がよろしくないということで、最近は「障碍者」「障がい者」など別の表記が好まれるようになってきました。
 ところが、見えない人がテキストを読むときは、たいていは音声読み上げソフトを使います。すると、音声読み上げソフトの種類によっては、「障がい者」という表記が認識できないらしい。「さわるがいしゃ」という読みになってしまうそうです。つまり、誤った単語になってしまう。
(略)
差別のない中立的な表現という意昧での「ポリティカル・コレクトネス」に抵触しないがための単なる「武装」であるのだとしたら、むしろそれは逆効果でしょう。障害の定義を考慮に入れるなら、むしろ「障害者」という表記の方が正しい可能性もある。

障害を笑うことによって、「善意のバリア」がほぐれる。

 だから、障害を笑うユーモアは、決して個人的な強がりなどではありません。(略)健常者の心の中にあるバリアに気づかせてくれるのです。
(略)
障害者のお笑い芸人は少なからずいて(略)個人的に大好きなのは脊髄性筋萎縮症の芸人あそどっぐ。第五回大会で破れたときの敗者の弁「寝たきり障害者がキャラ負けした……」には感服しました。
 他にも、障害者によるプロレスもあります。こちらはMCによる障害いじりが炸裂します。「介護したくない障害者ナンバーワン!」など、かなり「どぎつい」内容もあり、MCとレスラーの強い信頼関係の中で、「健常者の心の中にあるバリア」がきついパンチを浴びせられることになります。