つかこうへい正伝・その4 『蒲田行進曲』

前回の続き。

つかこうへい正伝 1968-1982

つかこうへい正伝 1968-1982

 

“口立て”ゴーストライター

[以前平田満のアパートで目撃した下請け執筆スタイル。映画で忙しくなった平田の代わりに著者がやることに]
桝目いっぱいの角張った文字が、平田のものだということはすぐわかった。僕は黙って読み始める。小説の冒頭部分らしかった。一行目に『ロマンス』とタイトルがあり(略)主人公の名は「平田ミツル」。どうやらその少年が、ホモセクシュアルな感情を心に秘めているという設定のようだ。(略)
[著者らが書いた原稿をつかが推敲。芝居では無視できるが小説では必要となるリアルな風景描写や舞台設定のために取材に行かされる著者]
 僕が高野と共に、つかのもとで原稿を手伝った何年かの間、小説にしてもエッセイにしても、つかがゼロから筆を執ることはなかった。書こうとするものは、すべて僕らに口頭で伝えられるのだ。そこではメモ程度のものも渡されない。つまり、つかの原稿執筆は、役者たちを前にして芝居を作っていくときの“口立て”と、ある意味、似た作業だということだ。
 ならばいわゆる口述筆記かというと、それはちょっと違う。原稿に関しては、俳優として稽古場で受ける“口立て”より、僕らに託される部分がかなり大きい。(略)最初にこんな場面だという説明がある。そしてそこでどういったことが起きるかが大まかに伝えられる。キーとなる台詞もいくつか飛び出すが、芝居の稽古ほど細かく与えられるわけではない。第一稿目は、それ以外の台詞も含め、人物の動きや心情、情景の描写などは、ほぼこちらに任される。(略)
[『ロマンス』の場合]
 「選手宿舎の大食堂でミツルとシゲルを会わせてくれないか。(略)二人が選んだ料理が違うってのがいいな。(略)ミツルは自分の盆の上のメニューが気まずいんだけど、内心はときめいてる。で、シゲルはそんなミツルに気づいているのか、いないのか、いろんな手で甘えてみせる。ま、弄ぶわけよ。『ちょっと二人で外に出ませんか』とか誘って、ミツルが困ってると、テーブルの下の靴の先で、ふくらはぎのあたりをチョンチョンとつついてくるとかな。そうするとミツルは真っ赤になるわけだ。で、二人が夜のグラウンドに出て語りあう場面まで、作ってくれ」
(略)
つかはいったんざっと目を通してから、赤文字のペンを取る。シャーッと僕の文章が音を立てて次々と消され、細かくつかの筆が入って行く。ひっきりなしに新しい煙草に火をつけ、途中ときおり、クックックッと、喉の奥から笑い声を漏らしたりしながら、作業は続く。その笑いが、僕の書いた文章に対するものだとわかると、僕はホッとする。
(略)
そこからがまた僕の作業だ。つかの手が入った原稿を、また新しい原稿用紙に書き直していくのである。(略)
[再度つかの手が入り]僕が直す。そんな行って来いが、小説なら最低でも四、五回、場合によってはそれ以上、繰り返されることになる。

いつも心に太陽を

 「とにかく、立ち止まって考えたりしなくていい芝居だからね……若い女の子たちは、男同士の惚れた腫れたの世界にキャッキャ言って喜んでるんだけど、その実、どこか平田を自分に置き換えて観てる。普遍的なラブストーリーとしてね。つかさんがうまいのは、『愛することを恐れてはなりません。人をいとおしく思う気持ちに怯えてはなりません。いつも心に太陽を持って生きていきなさい』なんてキャッチコピーみたいな台詞が、芝居の中にふんだんにちりばめられてあるんだよ。(略)
 と、風間が語るそのどちらの台詞も、これまでのつかの芝居では決してお目にかかれなかったものだ。たとえ近い台詞があったとしても、必ずそれ自体に自嘲や揶揄が込められていた。『いつも心に太陽を』で、躊躇なく正面切って発せられたのは、それが“オカマ”によるものだからだ。この芝居における「男同士」というつかの仕掛けは、その一点で成功したのである。(略)
 楽屋口の前には連日、大勢の女の子たちが屯し、ファンレターを手に風間や平田を待ちわびた。そんな光景は、『いつも心に太陽を』が最初だった。二人が「モリリン」や「ミッチー」と、仲間うちで呼ばれているという女子高生からのアンケートを、つかが嬉しげに見せて回ったのは、中日を過ぎた頃だったろうか。とくに風間杜夫人気は沸騰した。風間に対する、それまでの一般的な演劇とは質の違う、ファンの“熱狂”ぶりはここから始まったのである。
 ただし、『いつも心に太陽を』という芝居自体は、評論家などからは、見事に無視された。“演劇”として評価するに値しない作品ということだったのだろう。だがそれはまさに、つかの狙い通りだったはずだ。
 そして再演時の千穐楽には、そんなつかによる観客サービスの極め付きともいうべき趣向が、終演後に登場する。八月に上演されることになった、西武劇場での新作第二弾の予告編である。

『広島に原爆を落とす日』予告

つかの中に、『戦争で死ねなかったお父さんのために』から生まれた「ディープ山崎」を主人公に据え、広島の原爆はその山崎の手で落とされることになるという構想があったのは間違いなく、そういった予告はされたはずだ。(略)
 「(略)『戦争で死ねなかったお父さんのために』より、構想10年の歳月をかけて戦争秘話に挑む男のための男の演劇!!可能なかぎりのドラマツルギーを駆使し79年夏、戦後史を震撼させるハードボイルド演劇!!非情の男ディープ山崎少佐を風間杜夫が、熱血漢吉田茂平田満が、そして悲運の宰相近衛文麿加藤健一を迎え、三大スター競演でお贈りするサスペンスロマン!!この夏あなたは確実に戦後の終焉を見る!!」
 当然ながら、平田満吉田茂も、加藤健一の近衛文麿も単なる思い付きで、実際の舞台に登場することはない。予告編も同じようなもので、こういった語りの中に芝居場面が差し込まれ、役者たちが次々と姿を見せるのだ。例えば、
 「ひたひたと迫る暗殺の魔手。帝都に降りしきる黒い雨を朱に染め、テロリストの白刃が舞う!」
 という高野の声で、音楽が変わり、サラシに禅姿、手には日本刀の平田が現れる。
 「山崎!俺が介錯をしてやる!顔を上げろ。北関東血盟団の平田に不足はなかろうが!」
と、台詞を発すると、高野がすぐにそれにかぶせ、
 「『いつも心に太陽を』で新境地を開拓した平田満が、孤高のテロリストに挑む!」
 などと紹介するのである。
 何も知らずやってきて、思いがけずそんなものを観せられた客席の盛り上がりは大変なものだった。これ以降、千穐楽にこういった催しは恒例となり、予告編だけではなく、劇中で風間が乗った自転車や、北海道直送の新巻鮭が当たる抽選会だったり、役者たち全員が裃をつけての餅撒きであったりが行われ、公演最終日のチケットは毎回争奪戦となった。Tシャツ販売といい、こういったイベントといい、どれもが芝居作りとはまた別の、客商売という意味での劇団経営者としてのつかの才覚であり、実は作品の中身より、そんなスタイルのようなものの方が、このあと登場してくる下の世代の劇団に、与えた影響は大きかったと言えるかもしれない。

訣別

どんな芝居でも、いつもなら必ず何か大きな手直しをするつかだが、このときの『熱海殺人事件』に限っては、ほぼ前年のままだった。気持ちは八月の新作に向いていたのだろう。
 そしてそれを微妙に感じ、少々面白くなかったのが三浦洋一ではなかったか。いや、三浦自身もテレビドラマのレギュラーが入るなど、すっかり売れっ子となり、稽古の時間が取れなくなっていた。
 「ったく、三浦のヤツがよ、楽屋の姿見の前でゴルフの素振りやってんだよ……偉くなったもんだよ」
 つかがそんなふうに皆の前で皮肉ったりするのはいつものことで、今までなら「見られちゃいました?」などと、逆に悪ぶって笑顔を見せたはずの三浦が少し顔を強張らせるのが、僕は気になった。舞台上の三浦は明らかに疲れていた。「ゴミ捨て場のババアでも、犯してしまいそうなゲスな色気」と、つかが評した狂気じみたエネルギーもどこか薄れているように思えた。つかもそれに気づいていないわけはなかった。
 つかと三浦の間で何か起こったかは、僕の知るところではない。しかし、この1979年4月の『熱海殺人事件』を最後に三浦洋一がつかこうへいの舞台に立つことはなくなる。
 公演中、三浦と一緒に飲みに行ったときのことが、僕は忘れられない。紀伊國屋のビルを出て、新宿通りを伊勢丹方向に歩きながら、三浦がポツリとこう漏らしたのだ。
 「……長谷川……こんな所にいたって、いいことないぞ」

生駒直子

[四年ぶりの劇団員募集で酒井敏也と生駒直子が加入。高校の帰りに応募書類等を自分で届けに来たセーラー服の生駒。江美から「かわいい子」だったと聞き、早速呼び戻すつか]
 生駒の父は、松竹の映画監督だった生駒千里である。(略)
[父に連れられ中学で『熱海殺人事件』を観て以来]自分でチケットを買って、ほとんどの作品を観ていたという。環境のなせるわざか、かなり早熟な少女だったことは間違いない。そんな彼女もまた『ぴあ』の告知を見て、思い切って応募を決めたのだという。
 事務所に呼び戻された生駒に、つかはまず「俺の芝居が好きか」と確かめてから、学校や家族のことなどをあれこれ訊ね、「あとで連絡するから」と言って放免した。生駒は緊張しているのか、その年齢の女の子とは思えないほど静かに受け答えし、必要以上のことは一切口にしなかった。彼女のそんな印象は、それからもずっと変わらなかった。

直木賞落選、傷心でパーマ

普通なら真っ先に自分で落選を話題にし、減らず口を叩いてみせるはずのつかが、絵に描いたような元気のなさで、楽屋の隅に座っているだけだった。(略)
 「もう!直木賞落ちたぐらいで、芝居ほっぽり出して、やっと現れたと思ったら、パーマなんてかけちゃって、ジトッと暗がりに座ってさ。あっという間に消えるんだから、情けないったらありゃしない!」
 受付の岩間がそう捲し立てるを、僕らは笑いながら聞いていた。
(略)
 熊谷真実によると、つかとの付き合いは、『サロメ』のあとから始まっていた。彼女がNHKの朝の連続ドラマで主役を務めている間は、そのことが世間に漏れぬよう隠し続けたという。もちろん僕らは知っていたし、同じように気を遣ってきた。そして放送も終了し、晴れて二人は自由が丘で同居を始めたというわけだ。

蒲田行進曲

 まず稽古が始まった時点で、僕らが持っていた共通認識は、今度の新作は根岸季衣のための芝居であるということだった。『サロメ』以降、何作も続いたつかの舞台に、彼女は一切関わっていない。
 「皆が芝居をやってるのを外から観てて、ずっとうらやましかった。結局、私は『ストリッパー物語』だけなのかなあって」
 そんな根岸のために、つかがいよいよ新作に挑み(略)
つかの中にあったのは、やはり「ヴィヴィアン・リー」をモチーフとする「スターの座を追われた老女優」の物語だった。(略)
 その場面の稽古は根岸と僕で、かなり長く続いたはずだ。[来年入社予定の監督志望の]学生は、かつてその女優が主演した『二十四の瞳』を観たことで、映画の仕事を志したと、勢い込んで告げ、女優はそれを揶揄するように受け流すというような芝居だった。
(略)
[だがテレビで観た汐路章の言葉に触発され、つかは京都太秦へ取材に。帰ってきた時には芝居は「階段落ち」へと激変。「銀ちゃん」は中村錦之助、小夏は根岸の以前の芸名「嵯峨小夏」から]
(略)
[つかは平田ではなくあえて著者をヤスに]
 「とにかく長谷川君、稽古場では、自分で作った台詞をしゃべりまくってたからね、そんな中で、突然出て来たのが、『オレ、何でも飲み込んじゃうよ。飲み込みのヤスよ』ってやつ。つかさん、それ聞いて、喜んじゃってさ、そこからあのキャラクターの名は『ヤス』以外考えられなくなって……すごいよね。あの『飲み込みのヤス』のおかげで、『ヤス』っていう歴史的な名前が世に残ったんだからね」
 と、茶化すように根岸は笑う。

いたぶられてるのは銀ちゃんの方

 「銀ちゃん」の方は、はっきりしている。つか自身だ。言い方を変えれば、「金原峰雄」が目指す「つかこうへい」――。それが「銀ちゃん」なのだ。(略)
 かなりあとになって、つかは僕にこう漏らした。
 「バカはわかってないんだよな。『蒲田』ってのは、ほんとは銀ちゃんがヤスにいたぶられる話なんだけどなあ」
(略)
ヤスの方が圧倒的にインテリで育ちもよく、銀ちゃんはどこの馬の骨ともわからない、怪しい生まれなのだ。(略)
 そして銀ちゃんの方は、ヤスが秘めた思いに本能的に気づいている。銀ちゃんの、ヤスヘの振る舞いを含めたすべての言動は、彼の中にある特殊なコンプレックスの裏返しである。(略)
 ヤスは銀ちゃんのそんな思いまで了解しているがゆえに、自分をいたぶられ役として差し出すことで、なんとか銀ちゃんを癒そうとする。銀ちゃんは銀ちゃんで、ヤスの中に自分への哀れみを感じたとき、激高し、異常なまでの昂ぶりで、彼を足蹴にしてしまう。
 ところがヤスはそうされることにさえ、マゾヒスティックな快感を覚えるのだ。
 こんなふうに二重三重にひっくり返る、二人の屈折した関係こそが、つかこうへいが本当にやりたかった『蒲田行進曲』ではないだろうか。
 僕の中には、ずっとひとつの思いがある。もしあのとき、稽古場に三浦洋一がいて、最初から、彼を銀ちゃんに、平田をヤスとして作っていたら、つかが本来、目指そうとした芝居になったのではないかと……。

小夏

 「稽古場ではずいぶん戦った気がする。つかさんはどうしても、小夏の気持ちを、銀ちゃんのほうに行かせたいのよね。『私はそれでも銀ちゃんのことが好きなの』みたいな台詞を入れようとするのよ。つかさんにとって銀ちゃんは自分だからさ、女の気持ちとして銀ちゃんからは離れられないというふうに持っていきたいわけ。でも私はどうしてもそれが嫌だった。つかさんに『俺のこと好きだろう』って言われて、『あんたなんか嫌いだよ』って感じ」
 根岸季衣は笑いながら、あの日の稽古を懐かしむ。
 「だからそんな台詞つけられても、絶対に口にしない。銀ちゃんとの会話の中で、『そばにいる人が一番大切なの』 って、勝手に言い続けて……結局それが台詞になった。それでもつかさん、ひとり台詞の中とかに、『でもやっぱり、銀ちゃんのことは忘れられなかった……』とか、しつこく入れてくるのよ。そういうときは、“口立て”されたらとりあえず返しておいて、次に短く通すときには、いっつも忘れたふり。そうすりゃそのうちなくなるから」
 これは僕らにはとても出来ない芸当だ。
(略)
 舞台の方の『銀ちゃんのこと』(略)で初めて、風間銀ちゃんが生まれたわけである。根岸はそれを、加藤健一の銀ちゃんと比較してみせる。
 「加藤さんの場合は理詰めで役作りしてくるからね。全部がきちんと計算された芝居。だからかえって、その奥にある温かさのようなものに懸命に抗おうとする小夏というのは出しやすい。それが風間さんの方は、その瞬間、瞬間の情のようなもので押してくるじゃない。台詞吐きながら自分で感極まって、ブワッと目に涙、溜めたりするのよ。そうすると小夏はやっぱり揺らいでしまうところがあって、最終的にヤスのもとに行くという部分が、見えづらくなってくる。まあ、つかさんとしては、そっちのほうをやってもらいたいんだろうけどね」

ついに直木賞

[受賞会見を終え、祝賀会場に現れたつかは]集まった人間たちに向かい「オウ!」と声を発し、両手でVサインを突き上げてみせる。そして拍手の中、僕が平田や風間と座るテーブルにドカッと腰を下ろした。
 「よし!おまえらもう心配するな。お前らのガキが大学出るまで、全部俺が面倒見てやる。これから金がガンガン入ってくるからよ!」
 その異様なテンションに、僕らは笑顔を浮かべながらも、相変わらず「はあ」と答えるしかない。とにかくそれから三時間、つかの高揚はとどまるところを知らず、まわりに煽られるままに、ひとり気炎を上げ続けた。
(略)
そんな狂騒がしばらく続く中、つかは熊谷真実との離婚を公表する。

深作欣二

 「おまえひとり残されて、なんだか寂しそうだからよ。『蒲田』、出してもらうことにしたぞ」[と突然つかに言われれ、京都へ]
 監督の深作欣二に挨拶したのもそのときだ。
 「おう、来たか。長谷川君、やったな」
 「はせがわくん」という、独特の茨城なまりのイントネーションと、やさしげな笑顔は今でも忘れられない。深作欣二という人の俳優を見る目は、とにかく温かかった。撮影現場でも、どんな小さな役であっても、指示を与えるとき「OOくん」と必ずその名前を呼んだ。
(略)
前日に突然、助監督がやってきて、「監督がこれを長谷川君にやってもらえということだから」と、「差し込み」と呼ばれる、ワンシーンだけの手書き台本のコピーを渡されたのだ。(略)
[舞台版『蒲田』で]自分ごときが演じた部分を憶えていてくれたのだと知り、僕は感激した。(略)
[公開後新宿で飲んだ時]
深作がしみじみと言った。
「カツドウっていいよなぁ……」