つかこうへい正伝・その3 つかブーム

前回の続き。

つかこうへい正伝 1968-1982

つかこうへい正伝 1968-1982

 

かけおち

[73年北吉洋一が京都へかけおち]
事情を伝え聞いたつかが彼らのもとを訪ねてきた。なんと住所だけを頼りに、突然アパートの部屋に現れたのだ。
 自分の周りで起きる男女間の擦った揉んだほど、つかの好物はない。それはこの先もずっと変わらなかった。揉めれば揉めるほど、ややこしくなればなるほど、当事者以上に高揚し、俺にまかせろとばかり喜色満面でその状況に入り込んでくるのが、つかこうへいだった。(略)
 結局、思い描いた自らの活躍は遂げられぬまま、一日で逃げ帰ってしまったつかだが、置いてきた一万円と往復の交通費を決して無駄にはしなかった。数年後、このときの北吉たちの姿をヒントに小説にするのだ。短編集『いつも心に太陽を』に収められ、直木賞候補作のひとつとなった『かけおち』である。のちにそれをもとにした『かけおち'83』がNHKでドラマ化され、さらに『青春かけおち篇』として松竹で映画にもなったのだから、つかにとっては充分価値ある京都行きだったわけである。
(略)
[かけおちが三ヶ月で終わった北吉の目に、VANヂャケットが春にオープンする「VAN99ホール」の「芸術職人求む」というスタッフ募集広告。同時期に採用されたのがのちにつかの番頭役になる菅野重郎。山口健は生意気な北吉を「つかと芝居をやっていた」からと採用。つかに99ホールでの公演を要請]
つかが要求した条件は二つ。まず、役者には少額であってもギャラを出すこと。そしてもうひとつが、ホールを稽古場として使わせること。
 つまりこのとき、つかの中ではもう、六号館、そして暫との別れを決めていたのだろう。自分は暫の座付き作家ではなく、あくまで「つかこうへい事務所」の主宰者であり、自ら育てた役者たちを率いて世に出て行く。つかの思いはずっと変わらなかった。そんな彼にとって、99ホールからの依頼はまさに渡りに船だったのだ。

加藤健一、中野幾夫

「新芸」という劇団で、中野幾夫が「熱海殺人事件」を演出する――。ほんの数日前、つかから向島のもとに観劇の指令が届いたのである。(略)
この新芸の芝居は、つかが稽古場に度々顔を出し、あれこれ口出しした上で出来あがったものだと、僕はずっと思っていた。しかし、つかは本番を一度観に来ただけで、演出はすべて中野の手によるものだったという。(略)
[加藤談]「(略)台詞を平気でバンバン変えるでしょ。あれには驚いた。たとえば開き直った大山が、伝兵衛に煙草の火をつけさせるシーンなんかを突然思いついて、伝兵衛が差し出したライターを見て、『カルチェじゃなきゃ吸えねえよ?』とか言わせたりね。それまでそんな風に芝居作ったことないから、最初は面喰らったなあ」
(略)
 新芸の『熱海殺人事件』で中野が作ったいくつかの台詞は、ライターの場面を例に出すまでもなく、形を変えながらも、のちのつか演出の中に残っている。
 また戯曲には、大山を“正しい”犯人とするべく、伝兵衛が音楽をかけてその自供をあおるという場面がいくつかあるのだが、それを単に音楽を流すだけではなく、どの曲も出演者たちが客席に向かい、乗りに乗って歌ってみせるという趣向にしたのは中野である。もちろんつかもそれを踏襲した。
 そして忘れてはならないのは、やはり「大山金太郎」というキャラクターだろう。結局、このとき中野と加藤で作り上げた大山が、『熱海殺人事件』という芝居を決定づけたと言ってもいいだろう。それは八年後の紀伊國屋ホールにおける劇団つかこうへい事務所としての最後の公演まで、衣装やサングラス、髪形も含めて、変わることはなかった。何より、胸にマル金と大きく書かれたオレンジ色のツナギは、加藤演ずる大山金太郎の代名詞だった。
 「工員はかっこ悪くなきゃいけないわけだよね。でもそのかっこ悪さが、どこかでかっこ良く見える方法はないかと思って考えたのが、あのツナギ。ああいうツナギなら工員にも見えるし、それがファッションにも見える。自分で染めて、自分でアップリケ切り抜いて……(略)
 派手に登場した大山がかけていたサングラスを外すと、中にもう一つ丸メガネをしていて、情けなくも貧相な工員が夢から覚めたようにそこにいるという仕掛けも、このとき生まれた加藤のアイデアである。

VAN99ホール、三浦洋一

 山口健によると、当時VAN99ホールとしての年間総予算は一億あり、その割振りのすべてが山ロ一人に任されていた。演目の中でもつかの芝居は特別で、ひと公演で三百万ほどの金を一括でつか個人に渡し、その中からつかの裁量で役者たちの衣装代や出演料が支払われることになっていたという。劇場のキャパシティとステージ数からすれば、常識外れの上演料である。当時、演劇の世界に関わっている人間がこれを知ったら、たぶん腰を抜かしたろう。ましてや舞台美術もなく、音響・照明などの機材やスタッフもすべて99ホールが供出するのだから、実質的な芝居の制作費はほとんどかからない。ほぼすべてつかのギャラと言っていいのだ。
[つかは99ホールで萩谷京子のダンス公演を構成演出、翌年]ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートとして、つかの手による『ダウンタウン昭和を唄う』の第一弾『美空ひばりを唄う』が一月に五日間、五月には第二弾の『軍歌を唄う』が一日だけ行われ、すべて満員札止めとなった。この三公演とも、つかの演出料だけで二百万だったというから、これもまた破格である。(略)
[99ホールにはVAN上層部から]単なる社長の道楽だという批判も出たらしい。しかしそんな幹部たちを石津謙介は一喝したという。(略)
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートが意味を持つのは、つかではなく、三浦洋一にとってである。三浦は司会役として舞台に立ったのだが、演奏するバンドに合わせ、このとき初めてそのヘアスタイルをリーゼントにするのだ。
(略)
ここから一気に突っ走り、そのうち全く縁遠かったはずのバイクに跨り、「ロック」を歌うまでになるところがまた、三浦洋一らしかった。結局そんな三浦の“思い込み”や“自信”のようなものが、大きくなりすぎたことが、のちのつかこうへいとの別れに繋がったような気がしてならない。

『ストリッパー物語』

 たぶん“つかブーム”と言われる、かつてない熱気のようなものが客席に生まれたのは、この『ストリッパー物語』からだ。その雰囲気が、それまでのいわゆる演劇ファンによるものとは、どこか違っていることは明らかだった。ミュージカルでもないのに、一人の女の子のダンスを中心に据え、それを観せるために芝居部分があるという、当時の演劇とは一味違ったつかの試みが、観客の心をつかんだということもあるだろう。だがそれにも増して、根岸とし江というまだ21歳の女優の魅力に、満員の観客たちが惹き込まれていくのがわかった。

大津彰

 この『ストリッパー物語』で、僕は初めて大津彰がつかの芝居に生で音楽をつける場面に遭遇する。下手舞台の下に椅子が置かれ、セッティングされたマイクの前に座る大津が、ギターを弾きながら、あるときは歌、あるときはハミング、あるときはギターのアルペジオだけで、芝居に音をつけていくのだ。それはあたかも大津と舞台上の俳優たちの掛け合いのようだった。
 これ以降、紀伊國屋ホール、西武劇場、東芸劇場と、すべての舞台でその形がとられ、大津の作詞家としての仕事が忙しくなる前、80年暮れの『飛龍伝'80』まで続いたはずだ。(略)
稽古に、大津はすべて付き合い、つかが作っていく芝居に合わせ、自作の歌を入れていくのだ。稽古場で芝居が繰り返されるたびに、何度も何度も――。
 それだけではなく、二人は稽古の後、毎晩一緒に酒を飲み、つかは大津の意見を聞いて、翌日の芝居が変わるのである。いわばその頃のつかの芝居作りは、大津と二人三脚のようなところがあった。つかにとって大津は、慶應の仮面舞台の中で、ただ一人残った仲間であり、その絆は、大津が47歳の若さで亡くなるまで続いた。つかが唯一同志として、何かを演じることなく心許せた人間は、ある時期から大津だけだったように思う。大津の葬儀で今にも崩れ落ちそうに青ざめ、震える声で弔辞を読むつかの姿が、僕は忘れられない。

『ヒモのはなし』は出トチリから

[明美との別れを前にしたシゲが]ヒモとしての心構えを延々語るこの三浦の台詞は、初演の折はほんの短いものだったのだが、再演の稽古段階で足され[どんどん長くなった](略)理由は根岸にあった。
「まだ公演の早い時期に、私が出トチリしちゃったのよ。それで三浦君が勝手に台詞作って、一人でしゃべりながら、何とか舞台をもたせたんだけど、芝居がはねた後、つかさんが嫌味たっぷりに『まあ、根岸が楽屋で煙草一服する時間も作ってやらんとなあ』なんて言い出して、それからなのよ、毎日本番前にそこの稽古するようになったのは」
 このシゲの一人語りの部分が、のちに「三浦洋一ひとり会」で『ヒモのはなし』として一本の芝居になり、その語りを文字に起こして小説化したものは直木賞候補作となる。そしてさらにそれを原作として、当初の『ストリッパー物語』に近い形に戻した舞台『ヒモのはなし』が生まれるのだから、実に意味ある根岸の“出トチリ”だったわけである。

紀伊國屋ホール

どうして、ほとんど飛び込みのように「つかこうへい事務所」がその舞台に登場することが出来かのか。そしてなぜ、年間6本、81ステージもの公演が打てたのか。(略)
[一年、スプリンクラー設置工事のため予定を空けていたが、延期できることになり急遽予定を]埋めなければならなくなったというのだ。つかの芝居の噂を耳にして、99ホールに向かったのも、そのためだった。
 「結局その年、空いていた部分につかさんを全部入れて、それでデビュー初年にもかかわらず、あれだけの数の公演が打てたわけです。だからあれはスプリンクラーのおかげなんです」
 ここにも僕はつかの持つ“運”を感じる。
(略)
 日生や帝劇などの大劇場ならともかく、東京ひと公演で一万人を突破する芝居が、この新宿の中ホールから生まれたのだ。
 ホールのスタッフたちにとっても、これはまさしく事件だった。そして何より、つかとの出会いそのものが、それまでの仕事とは別物の、芝居に関わる高揚感を与えてくれたという。
[鈴木由美子談]
 「初めて会ったときから、強烈な押しの強さで、あれこれ無理難題を言う人だった。でも、とにかく面白いものをお客さんに見せたいというのがすべてで、お客が喜んでくれればOK。さらに彼らをどうやって劇場に引き寄せるかを絶えず考えていて、こっちはその熱にいつの間にか巻き込まれてる……自分たちも一緒にこの舞台を作ってるんだという感覚にさせられるんです。そんなことは他の劇団ではなかったから……ほんとに楽しかった」(略)
普通、演出家は初日が開けば劇場にはとんと顔をみせなくなるものだ。しかしつかの場合は、劇場入りしてから千穐楽まで連日現われる。(略)劇場スタッフたちは、つかのいつもの語り口に毎日圧倒されたようだ。(略)
[安部邦彦談]
 「つかさんの芝居が来るというのは、舞台事務室にとってもどこかお祭りだった。観客たちが芝居を待っているのと同じように、ホールのスタッフたちも、つかさんを迎えるのがうれしくて仕方がなかった。通路にギューギュー詰めに座ってもらう当日券のお客たちも、案内する僕らも同じような年齢で、一緒になってそのお祭りに参加しているような感じだった。詰められれば詰められるほど、お客もそれを喜ぶというような……だから文句を言う人間は一人もいない。そういう時代だった……
(略)
入場料が安いので、何度でも来られる。おまけにつかさんの芝居は観るたびにディテールに込められた狙いが新たに発見出来て、またそれを同行者に解説出来る……ずっとこの連鎖で、お客が増えていったような気がする」
(略)
上司であった金子和一郎が何度も口にした言葉を、二人とも同じように僕に伝えた。
「つかさんは紀伊國屋ホールにとって恩人だった」

『出発』

[「東京12チャンネル」のために収録し、初日一週間前に先行放映]
テレビ用の演出は、さらに芝居のあらゆるところに仕掛けられている。中でも、嫁の井上加奈子が妊娠を告げたところで、絶句する風間杜夫がカメラに向かい「コマーシャル行ってみよう!」と叫んでCMが入ったり、出番を終えて袖にはけてきた加藤健一を移動カメラが追い、サントリーホワイトのビンで埋め尽くされた楽屋で待っていた高野が「お疲れさま」と酒を注いで、「うまい!」と二人で盛り上がるなど、スポンサーに対する如才ない気づかいは、いかにもつからしい。
 テレビ用演出のラストは、最後の長い一人語りで芝居を終えた田中邦衛が、舞台から奈落に降りてきて、煙草を一服吸い、「祖母」の衣装やメイクをすでにはずした平田と二人で、今日の芝居の出来を淡々と振り返るといったものだ。そして最後に田中自身の言葉として、「父親ってのは、寂しく、哀しいもんだ」と芝居のテーマまで語らせ、本編は終わる。
(略)
 これ以降、つかこうへい事務所と[ディレクター]不破敏之の付き合いは長く続くことになる。82年の『蒲田行進曲』が解散公演となったあと、劇団としての最後の仕事が、「テレビ東京」での大晦日特番『つか版・忠臣蔵』だったのも、不破の存在があったからである。

サロメ

 そこにいたのは、見事に個性の違う、三人の若い女の子たちだった。主役の「サロメ」を演じることになっている水野さつ子(のちの蜷川有紀)は、特徴的な強い視線を持つ高校二年生。長身で手足が長く、どこか飄々としたかとうかずこ(当時は加藤かず子)が名古屋の女子大生。愛嬌のあるくりくりした目で、人懐っこい熊谷真実は、女子高を卒業間近。(略)
 驚いたことに、三人ともつかの芝居など観たことはなかった。彼女たちにとって、何より大事だったのは、パルコが制作する舞台ということだったのだ。水野がその募集を見たのは、少女向け雑誌『セブンティーン』だったし、かとうの場合はファッション雑誌『モア』だった。
 「『モア』は当時の女子大生のアイテムだったから……告知も洒落ていたし、中に[脚本の]阿木耀子さんの名前があったのに惹かれた。(略)恥ずかしいけど、つかさんの名前は知らなかった。演劇なんて関心なかったし……(略)」
 熊谷真実もまた、同級生から雑誌の切り抜きを見せられたことで、応募したという。
 「まわりはみんな、つかさんのことを知ってて、平田さんや風間さんなんか、かなりの人気だった。だから受かったときは大騒ぎになった」

次回に続く。