横尾忠則の呟き開始から一年分をまとめた本。
ツイッターという形式に対して横尾忠則がどう変化していったかというのが一番のポイントのような気がしないでも。開始三ヶ月くらいまではアフォリズムが多く、だんだん日常業務報告主体の通常のツイッターに。
- 作者: 横尾忠則
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2011/08/31
- メディア: 単行本
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土日・祝日ぐらい「つぶやき」を止めて、寡黙でいたい。
六日目で
つぶやきには限界がない。呼吸と同じだ。死ぬまで続く。大抵つぶやき過ぎた結果、つぶやきがなくなって死ぬ。
と、なってたりしてチョトワロタ。
匿名になることは最高に自由だ。そして究極の芸術は匿名だ。その点デュシャンは上手くやったね。
いい作品を作るぞという意識は持ったことがない。それよりもどんな作品になるのかなということを楽しむようにしている。
15、6才の頃、ケロリンコーワがカエルのキャラクターを募集した。応募したら佳作だった。この時の優秀作は和田誠と宇野亜喜良だった。彼らも10代だった。その二人とまさか10年後に親しくなるとはね。
ツイッタッターは人のウワサ話が好きなようだ。これってアンディ・ウォーホルの精神だよ。彼ってぼくみたいに自分に興味を持たない。他人に関心を持つ人なんだ。ウォーホルは「皆んな同じになればいい」と言ったが今、正にツイッターの出現で、誰もがウォーホルになった。
自分を他人のように生きる生き方って素晴らしいんじゃないかな。
人に好かれたいと思う人は最初からアーティストに向いていない。
無理に嫌われたいと思う人もアーティストに向いていない。
他人の評価を期待する人間も向いていない。
最も向いていないのは勇気のない人間だ。
われこそ本物だと思っている人間は最もアートに遠い所にいる人間だ。
俺はニセモノだ。この精神が本物に近づく。
ぼくは過去の作品を何度も繰り返す。これしか前に進む方法を知らないからだ。
同じことを繰り返すくせに、同じことを繰り返すことが耐えられない。生きている証拠だろう。
わからないから描くのだ。わかったら描く必要がない。だけど必要のないことばかり繰り返している。無意味って素晴らしい。芸術みたいだね。
新しいものを目指して作ったものは必ず次の新しいものに凌駕されて古くなるのにきまっているからぼくは目指さない。
でも時には流行のつまみ食いをする。それとわかるように。またはそれとわからないように。
色彩感覚は先天的なものだとばかり長い間思い続けて、ぼくは色彩音痴だと決めつけていた。だからデザイナー時代はほとんど原色以外の色は怖くて使わなかった。それが絵の道に進むようになって色感は後天的なものだと理解し始めたが、その途端何が何だか解らないほど難しくなった。
テレビの「お宝鑑定団」で鑑定士が、谷文晁の絵を見て、線がためらっているからニセ物だと判定する。本物は一気呵成に描くと言うのだ。これは反対でむしろニセ物は本物に見せるために一気呵成に描く。本当の本物はむしろためらいながら描くものだ。
描く前からモチーフを探すことはない。繰り返して描いているうちに最もらしいモチーフになるものだ。