世界史の中の近代日韓関係 長田彰文

前回の本(kingfish.hatenablog.com)と比較するために同じ範囲だけ。
こっちの方は作為がないと思う。

世界史の中の近代日韓関係

世界史の中の近代日韓関係

勝ったことで開国が遅れた朝鮮

1866年には米国の武装商船のジェネラル・シャーマン号が平壌を流れる大同江を遡行し、朝鮮側が退去を求めたものの砲撃や朝鮮人の拉致などを行なったため、民衆が攻撃をして沈没させ船員24人全員が死亡するという事件、フランス人カトリック宣教師が処刑されたことにともなって同年にフランス艦隊が江華島を侵攻したものの撃退された事件(韓国・朝鮮では「丙寅洋擾」という)、1868年にはドイツ系商人のオッペルトが大院君の父・南延君の墓を盗掘しようとしたものの未遂に終わった事件がおこった。また、1871年にはシャーマン号事件に対する報復として米アジア艦隊司令官ロジャーズ提督が率いる五隻からなる米艦隊が江華島を砲撃し、江華島の一部を占拠して朝鮮側に大きな被害を与えたものの朝鮮側の持久戦への引込みによって攻めきれないままで撤退に終わった事件(韓国・朝鮮では、「辛未洋擾」という)も発生した。これらの「洋攘(欧米諸国による襲撃)」において朝鮮が欧米の攻勢を退けたため、大院君政権は、「斥和碑」を全国各地に建立して、鎖国攘夷の不動の意思を内外に誇示した。しかし、まさにそのために、朝鮮は、とりわけ日本と比べて開国が遅れてしまった。
 日本は、もちろん開国は望まなかったが、それにもかかわらず開国させられたことで、単なる藩レベルをこえて、「黒船」にしてやられたという危機意識、被害者意識ももつにいたり、「国際政治=道理が通用せず、力がものをいう世界」、「日本の開国は、力が足りなかったせい」、「日本も、力をつけなければならない」などと認識するようになったが、これらの認識はその後、朝鮮をはじめとする近隣アジア諸国・地域に対する姿勢や政策の基盤となったといえよう。

明治政府と朝鮮

対馬藩家老の大島正朝は、対馬を中心とする「日韓提携案」をもって朝鮮に対して強硬であった木戸を説得した。そして、二人は、幕臣軍艦奉行並の勝海舟にそれを献策し、勝も日朝清の提携連合のため、朝鮮に赴こうとしたが免職されてしまい、実現しなかった。また、対馬藩は1867年、朝鮮と米仏間の調停にのり出そうとしたものの、幕府が崩壊してしまい、やはり実現はしなかった。(略)
[1868年]新政府は、王政復古を朝鮮に通告するための使節を朝鮮に派遣(略)
書契には「皇室」とか「奉勅」といった文字があった。朝鮮からすると、「皇=中国の皇帝のみ」であったことから、江戸期とは反対に自分たちのほうが日本の下に立たされることになるとして、反発し、また署名や印章も従来のものとは異なるとして、書契の受取りを拒否した。ただ、朝鮮側は、日本の使節を「洋夷」の尖兵と疑いつつも、伝統的に維持してきた日本との外交関係、すなわち日本への限定的な「開港」を再開する必要性を感じてはいた。

日朝修好条規締結

朝鮮側としては、旧来の限定的な対日開港を続けるつもりであった。(略)
 日本は、この頃において欧米とのあいだの不平等条約の改正が不調に終わっていた一方、その不平等条約を朝鮮には押し付けるという「抑圧の委譲」を行なったといえる。そして、日本は、これをもって朝鮮と近代的国際法関係に入ったと考えたが、朝鮮は、そのように考えてはいなかった。その象徴が、第一款の「自主」の解釈をめぐってであった。日本側がこれによって朝鮮の清国からの「独立」と考えた一方、朝鮮側は、従来の冊封体制内における「自主」と考えて、中国から独立する考えはなく、日本を牽制するためにも清国の力を借りようとした。朝鮮政府の重臣であった李裕元は、対日政策について清国の李鴻章に意見を求めたが、李鴻章は、最初はロシアの脅威を強調して、日朝修交自体には反対しなかった。しかし、日朝修好条規の文言、また1879年8月に日本が琉球沖縄県編入したことに対して、李鴻章の対日警戒心は強まった。そこで、李鴻章は1879年8月、李裕元への書簡で(1)軍備の強化、(2)欧米への開国を勧告した。しかし、朝鮮は、この時点では(2)は拒否した。

米朝修好通商条約締結

 おりしも、米国海軍提督のシュフェルトが1880年4月、朝鮮と修交する目的で長崎に来航した。しかし、外務卿の井上馨は、日本の介入が朝鮮の対日感情を害する恐れがあるとして、影響力の行使は拒絶して、紹介状のみを渡した。(略)
[シュフェルトを朝鮮が拒否]
そのような経過を見て不快に感じた李鴻章は、自らの力で朝鮮と米国とを結びつけようとして、八月に天津においてシュフェルトと会談した。その際、李鴻章は、米朝条約に「朝鮮は、清帝国の付属国」との文言を挿入しようとしたが、これは、日朝修好条規における「朝鮮=自主の邦」によって傷つけられた清国の宗主権の回復を図ったものであった。しかし、シュフェルトがこれを拒絶したため、妥協案として条約には入れずに、シュフェルトが別の公簡において中朝は宗属関係であることを認定し、朝鮮国王も米国大統領に朝鮮が清国に付属するという書簡を送ることで両者間で合意にいたった。
(略)
[米朝修好通商条約締結]
朝鮮にとって不利な内容の不平等条約であったが、すでにあった清国や日本の欧米との同様の条約と比べると、その不平等性は希薄であった。そして、この米朝条約が呼び水となって(略)[英独露伊仏が]相次いで朝鮮とのあいだで修好通商条約を締結したが、それらは、米朝条約よりも不平等性が強く、朝鮮、特に高宗の米国に対する期待はこれ以降、強まることになった。清国は、朝鮮問題をめぐって日本を牽制するために朝鮮と欧米間の修交を促したが、それは、清国からの朝鮮の独立と、列国間の国際的角逐に朝鮮を引き込むこと、言い換えれば「陰謀の大海に朝鮮を浮遊させる」結果となったのである。

「桂・タフト協定」

日本がフィリピンに対して野心をもっているというのは事実ではなく、日本は友好国である米国がフィリピンを手にし続けることを望む、米国は国内政治上、公式の同盟関係には加われないもの、極東における平和の維持のために実質的に日英同盟に加わっているのと同様である、韓国問題は以前から戦争勃発の原因となってきたので、これによる戦争の再発防止のためには日本が韓国の宗主権を握るべきであり、米国もそのことを認めるという三つの点において合意した。
(略)
日露戦争の状況をうけて、セオドア・ルーズベルトと懇意であった上院議員ロッジが(略)[渡英、英首脳と会談]
極東において英米の利害が一致すること、英米は日本の韓国支配を完全に承認することなどで合意した。これらによって、韓国問題についての日英米のいわば「トライアングル封じ込め体制」が確立した。

高宗の試み

高宗、日露開戦前から自国に対する野心がもっとも少なく、かつ日本をもっとも抑えられると思われた米国に対して(略)援助をしてくれるよう働きかけていた。しかし(略)[ルーズベルトも駐韓公使アレンも]韓国はもはや自立不能であると判断し、日本のもとに入るのがよいとした。

伊藤博文暗殺

伊藤の暗殺は、日本人の中にある韓国(人)に対する蔑視とその一方での脅威を増幅させる一方、それまでの日本の宣伝もあって欧米諸国には「日本の偉大な政治家の死」「韓国のために働いた恩人を韓国人自らが屠った」などと映り、日本は、韓国の併合に着手するにあたって欧米の同情心を利用したともいえる。

日米関係

1904年から翌年にかけてもっとも良好になっていた日米関係が日露戦争後、満州における日本の軍政継続問題、海軍増強問題、米国西海岸における日本人移民の排斥問題などで摩擦の度を増していた。それでも、ルーズベルトが大統領の座にあるあいだは日米双方の自制もあって、日米関係はふみとどまっていた