サリンジャーと過ごした日々 ジョアンナ・ラコフ

サリンジャーと過ごした日々

サリンジャーと過ごした日々

訳者あとがきから、内容要約

著者がサリンジャーと過ごした一年間を綴ったメモワールだ。(略)本書に登場するエージェンシーもマンハッタンに実在する。21世紀を目前にした1996年に、コンピューターも留守番電話もなく、IBM製の古いタイプライターで手紙や文言を作成していた会社が実際にあったのだ。(略)当時23歳だった若者は、大学院を修士課程修了後に飛び出したあと、これからどうすればいいのかもわからないまま、職業紹介所で最初に紹介されたこのエージェンシーでアシスタントとして働きはじめる。(略)
大学院まで進んで文学を研究した著者は、サリンジャーの作品を一冊も読んだことがなかった。勤務開始早々ボスに「ジェリーと話せるかもしれないだなんて期待しないで」と釘を刺されても、それをことさら残念に思うこともなかった。(略)
サリンジャー宛のファンレターに返事を書くうちに、不思議なことが起こる。読んだことも興味もなかった作家への手紙であったにもかかわらず、著者はその内容に強く惹かれていく。それらはどれも極端に私的で、切実で、時には戸惑ってしまうほど親密な手紙だった。千通近くのファンレターを読んだ頃、とうとう著者はサリンジャー作品を手に取る。

依頼の断り

「『キャッチャー』をノートンアンソロジーに入れたいという問い合わせだったんですけど、許可を出してもいいですよね?」わたしはヒューにたずねた。
 「だめだよ!」ヒューは声をあげた。「それはだめだ。まさか承諾したわけじゃないだろうね?」ヒューの顔は焦りで赤くなっていた。
 「いいえ、もちろんそんなことしません。でも、サリンジャーに、作品を収めたいかどうか確認したほうがいいんじゃないんですか?」なんといっても、あのノートンアンソロジーだ。アメリカの大学という大学で読まれている。
 「いいや」ヒューは首を振り、上唇をぎゅっと噛んだ。「アンソロジーもだめ。引用もだめ。サリンジャーを読みたきゃ本を買えばいい」
(略)
[コミュニティ・カレッジの学生部長が講演の依頼]
 「ミスター・サリンジャーを候補にお選びいただきたいへんうれしく思います。ですが、ミスター・サリンジャーは、いまのところ講演のご依頼はお引き受けしないことにしているんです」
 「ええ、存じていますよ」学生部長の慇懃な口調には、たちまち怒りがにじんだ。「ですが、わたしどもの学校は特例とみなしてくださるのではないかと思います。というのも(略)わたしどもの学生には退役軍人が多くおります。湾岸戦争の経験者です。ですので、ミスター・サリンジャーご自身が退役軍人でいらっしゃることと、元軍人が市民生活に適応していく体験を書かれていたことに鑑みると……」話はさらに統く
(略)
「それは難しいかと思います。ミスター・サリンジャーからは、自分宛に届いた手紙は決して転送しないようにといわれておりますから」
 「それなら、もしわたしが招待状をそちらに送ったら、具体的にはどうなるんです?」男性の顔の血管が破裂する音がきこえるようだった。
(略)
 「しかし、ミスター・サリンジャーの本意なんてどうやってわかるんです?」この頃になると、学生部長は叫んでいた。わたしは脇の下にびっしょり汗をかいていた。「ほんとうの望みをどうやって窺い知るというんです? だいたい、あなたは誰なんです?」

『ハプワース』

『ハプワース』よ。ある出版社がジェリーに連絡してきて、あの小説を一冊の本として出さないかと提案してきたんですって。その企画を実現させたいといってるのよ」
 「『ハプワース』ですって?」ヒューは、驚きのあまり声を震わせていた。「『ハプワース』を本にしたい?」
 「あれはかなり長い話だもの」ボスはいった。「正確には中編小説だわ。本にすることは可能でしょう」
 「中編は最低でも90ページです」ヒューは堅い声でいい、特別大きなため息をひとつついた。「『ハプワース』は60ページくらいでしょう。行間をたっぷり取れば本にできないこともありません」ぎゅっと口を引き結ぶ。「本にできるというだけの理由で本を出すべきではないと思いますよ」
 「でも」ボスもため息をついた。「ずいぶんこの案にご執心のようだわ」
 「ほんとうですか?」ヒューはいった。「ほんとうに気まぐれじゃないんですか? 明日になったら気が変わってるんじゃないですか?」
「それはどうかしら」ボスは笑っていった。「八年前から考えてたんですって」
 ヒューとわたしは顔をみあわせた。「八年前?」ヒューは声をあげた。
「イエス。その出版社が最初に連絡を寄越したのが八年前なのよ。1988年」
「出版社が直接サリンジャーに連絡を?」ヒューは呆れたように首を振った。
(略)
その出版社は個人がやってるみたいなのよね――ジェリーに手紙を書いたのよ」ボスは指を一本立てて、にっと笑った。「タイプライターで!ジェリーはそれに参ってしまったんですって」
 この瞬間まで、会社のタイプライター至上主義がサリンジャーに関係しているとは思いもしなかった。そんなことがあり得るだろうか。サリンジャーが、なんらかの形で、この会社が最新機器を使わないよう義務付けたのだろうか?
(略)
「その出版社はどうやってサリンジャーの住所を知ったんですか?」わたしはたずねた。
(略)
 「ニューハンプシャーコーニッシュ、J・D・サリンジャー様とだけ書いて送ったのよ」ボスは舌打ちした。「それで配達人は届けたの。信じられる?」
(略)
「あれはサリンジャー作品の中では一番の駄作だといわれている。なぜあれを本にしたいのかわからないよ」ヒューは首を振り、壁に並んだサリンジャーの本を指した。「本人が注目を浴びたくないといっているんじゃないか。この本が出れば注目の的になるに決まっているよ。理解できないね」
 「そうですね」わたしはうなずいたが、なんとなく、ほんとうになんとなく、サリンジャーの気持ちが理解できるような気がした。もしかしたら、彼は死を予感しているのかもしれない。もしかしたら、孤独なのかもしれない。注目を浴びたくなったのかもしれない。もしかしたら、自分が望んでいると思っていたものが、じつはまったく望んだものではなかったことに気付いたのかもしれない。

読者からの手紙

 ホールデンのことをよく考えます。ホールデンはいきなりぼくの心の目に飛びこんでくるんです。そうするとぼくは、彼が年を取ったフィービーとダンスをしたり、ペンシー高校のバスルームの鏡の前で大騒ぎしたりしているところを考えはじめます。いつも、最初はばかみたいににやにやしてしまいます。ホールデンはなんておもしろいやつなんだろうって思うんです。だけど、しばらくすると、いつも死ぬほど落ちこみます。それは、ホールデンのことを考えるのは、すごく感情的になってるときだからだと思います。ぼくには静かな感情があるんです……人はふつう、誰がなにを考えてるのかも、どんなふうに感じてるのかも、どうでもいいって思ってます。そして、相手の弱さに気付くと――感情をおもてに出すことを弱さだと思うなんて意味がわからないけど――その人のことを叱りつけるんです!
   **********
 わたしはタイプライターに紙をはさみ、定型文を打ちはじめた。「先日はJ・D・サリンジャー氏宛のお手紙をありがとうございました。ご存知のとおり、氏は読者の方からのお手紙はお受け取りにならないことになっています。そのため、あなたがお送りくださった温かいお手紙を氏にお渡しすることはできません――」温かいお手紙ですって? わたしは手を止めてふと考えこんだ。なんにせよ、いまの時代にこんなしゃちほこばった手紙を送ったりしていいものだろうか。「静かな感情がある」ですって?わたしは、びりっと音を立てて書きかけの手紙をタイプライターから引き抜き、ゴミ箱に放った。

バナナフィッシュ

差出人の女性はイリノイ州在住で、娘を――作家志望の女の子で、好きな作家はサリンジャーだった――22歳のときに白血病で亡くしていた。女性はいま、娘を追悼して文芸誌を創刊しようと考えており、雑誌の名前を“バナナフィッシュ”にしようとしていた。娘が一番好きだった話から取ったのだ。サリンジャーは、この女性が自作のタイトルを使うことを許可するだろうか。
 これはそう単純な問題ではなかった。わたしは手紙を持ってヒューの部屋へゆっくり歩いていき、事情を説明した。「この女性が自分の雑誌を“バナナフィッシュ”と名付けてもだいじょうぶですか? 変な人ではないと思うんです」わたしは手紙を掲げてみせた。白い紙に、タイムズ・ニューローマンの書体で印字されている。「サリンジャーは……その、許可してくれると思います?」
 「なんともいえないね」ヒューはため息をついていった。「ジェリーに確かめることはできない。もし、きみの質問がそういう意味なら」わたしはがっかりしてうなずいた。「だから、タイトルを使うことを許可してあげることはできないんだ」
 「じゃあ、定型文を送るだけにしたほうがいいんですね?」そう考えると胸が締めつけられるような気がした。
 「ああ」ヒューはうなずいた。
 わたしが背を向けると、ヒューがうしろから声をかけてきた。「タイトルに著作権がないのは知っているだろう?」
 わたしはぴたりと足を止めた。「どういう意味ですか?」
 「タイトルには著作権がないんだ。だから、たとえば僕が本を書いて、それに『グレート・ギャツビー』というタイトルを付けたければ付けられる。『グレート・ギャツビー』の本文を盗用していなければ問題ない」ヒューにそう説明されても、わたしはいまいち理解できなかった。「だから、その女性が自分の雑誌に“バナナフィッシュ”というタイトルを付けることはできるんだ。完全に合法だよ。タイトルを著作権で保護することはできないし、ひとつの単語を著作権で保護することもできないんだ」
 「あ!」わたしは声をあげた。「ありがとうございます」
 「でも、その女性には定型文を送るんだぞ」ヒューはわざとらしく声を張りあげていった。顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
 「もちろん!」そう返事をしながら、体はすでにデスクに向かっていた。「ご存知のとおり」わたしはタイプした。「サリンジャー氏はご自分宛の手紙を転送しないよう、わたしどもに指示しております。ですから、お送りくださった温かいお手紙をお渡しすることはできません。バナナフィッシュという題名の雑誌に関するお問い合わせにつきましては、わたしどものほうで許可をお出しすることはできません。氏はその件に関してなにも言及されていないからです。タイトルには著作権が付与されません。単語を著作権で保護することはできません。ですから」わたしはタイプを続けた。「お望みのとおりにしてくださっても構いません」
 ここでやめておくべきだったが、わかしはさらに打った。「お嬢さまのことは心からお悔やみ申し上げます。新しいご計画が慰めとなりますよう願っております。文芸誌の創刊は、お嬢様を偲ぶためには素晴らしく役に立つことと思います。幸運をお祈りいたします」
 迷いが生まれる前に、わたしはその手紙に署名して発送した。女性からの手紙はゴミ箱に捨てるべきだとわかっていたが、どうしても捨てられなかった。

耳が遠いサリンジャー

「ヴァージニアの彼が送ってきた本はみただろう?」サリンジャーはたずねた。声は通切な音量よりほんの少し大きいだけだったが、話し方はどことなく明瞭さに欠けていた。耳がきこえなくなって久しい人の特徴だ。
 「はい」わたしは答えた。
 「きみはどう思った?」サリンジャーがたずねた。
 「いい本だと思いました」いい本? わたしったら、どうしてそんなことを? 「何冊かは特に気に入りました。装丁のことをおっしゃってるんですよね?」
 「本のことだよ」サリンジャーは穏やかな声でいった。
 「ええ」わたしは考えをまとめようとしたが、頭の中がぐちゃぐちゃだった。「何冊かは特に気に入りました」わたしはさっきと同じことをいった。「でも、前にもここの本はみたことがあったんです。詩集をたくさん出している出版社なんです。わたしが読んだ中にはすばらしい作品もありました」
 「きみは詩を読むのかい?」サリンジャーはたずねた。声が明晰さと鋭さを増している。
 胸の鼓動がさらに速くなった。もしいまボスが通りかかったら、著しく気分を害するだろう。「はい」わたしは答えた。
 「詩を書くのかい?」
 「はい」(略)
 「それはいい」サリンジャーはいった。「詩が好きだときいてほんとうにうれしいよ」その時のわたしは知らなかった。そして、数カ月後にようやく「シーモア―序章―」を読むまで知らずにいた。サリンジャーは詩を霊的に崇高なものととらえていた。(略)
 「ボスとお話しになりますか?」わたしはたずねた。「ちょうどデスクにもどってきました」
 「ああ、ありがとう。スザンヌサリンジャーの声は、静かだといってもいいくらいだった。「いい一日を。話せてよかったよ」

小説風なので前半からの引用で終了。