朝鮮開国と日清戦争 渡辺惣樹

『朝鮮開国と日清戦争: アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか』というタイトルで、「日本とアメリカは独立国家と認めた。/日本はそのために戦った。/それでも朝鮮は自らを改革できなかった。」という帯。内容は、優しいアメリカ兄さんの指導のもと、礼儀正しく対応したのに、朝鮮しょーもないから、併合するしかなかった、というもの。ドロドロしてない淡々とした文章で展開していくのでちょっと困るw
つまり、ある種の、マジック(まやかし)があると思うのですね。それは著者もわかっているだろうに(実際、この本の中で、日本が宥和的だったのは不平等条約改正のため、と書いているし、アメリカが朝鮮に撃退されたことや、フィリピンの安全保障のための日本の重要性云々とも書いている)、「アメリカが、武力を平気で使う英仏とは違う」「しかしアメリカだけは違った。朝鮮に領土的野心はなかった」「朝鮮を独立国として扱おうとしながらも、そのだらしなさに呆れていた二つの国。それが日本とアメリカであった。日本の考えを素直に理解できる唯一の国がアメリカであった」とすいすい書いちゃうので、ちょっと困るw。
それにしても、なぜこんなに、素敵なアメリカ兄さん推しなのだろう。

朝鮮開国と日清戦争: アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか
 

朝鮮は清国の属国か否か

[米シュフェルト提督]は日本との条約をベースに草案をまとめていた。清国側にも草案があった。両国の考え方の違いは第一条にあった。朝鮮は清国の属国であるか否かをめぐる問題であった。李鴻章は、米国と条約を結ぶのは朝鮮だが、あくまでも属国の立場での締結であると主張した。朝鮮との条約締結においては、朝鮮を清国の属国であると認めることが必須条件であり、朝鮮国王もそれを望んでいると説明したのである。
 日朝修好条規については、1876年にはすでに締結され、その第一条で朝鮮は独立国であると規定していた。日本との開国を了承したのも李鴻章であった。この時、李鴻章は日朝修好条規第一条に何の条件も付けていない。その理由は後述する。
 この李鴻章の要求をシュフェルトは真っ向からはねつけた。朝鮮は完全に独立した国であり、清国と朝鮮の間に宗主関係があるかのような条文の挿入はできない。そう主張した。シュフェルトの強硬な態度を前にして李鴻章は四日間の猶予を願い、交渉をいったん中断した。最終的に妥協案がまとまったのは四月十日のことであった。李鴻章は、条約調印のための朝鮮訪問には清国代表が同行する、朝鮮がそれを求めるのは、朝鮮がある意味で、清国に依存している現実があるからであると言い、ただし、清国代表の立会いは米国の要請であるとしたい、さらに条約調印後、朝鮮国王が大統領宛に親書を書き、この条約は清国の同意の下に結ばれたことを明らかにさせたい、と要求した。これが、米清両国の面子を保つための李鴻章からの提案であった。シュフェルトはこれらの条件を承諾した。
 こうしていったんは妥協がなされた。しかし、しばらくすると、李鴻章は再び、朝鮮は清国の属国であるという表現を挿入したいと言って話を蒸し返したのである。これにはさすがにシュフェルトも怒った。交渉打ち切りも辞さない覚悟だった。

米国を撃退し強気の朝鮮

対馬藩から新政府に管轄が移行したことを知らせ、対馬藩が朝鮮に対して持つ負債を清算すると同時に、対馬藩にいた朝鮮漂流民を帰還させることにした。しかし、東莱府の対応は相変わらず硬直的であった。貿易主体が対馬藩から新政府に替わること自体を許さなかった。(略)礼を失した対応に明治新政府高官は憤った。(略)
 これほど朝鮮王朝が強気であったのは、前述のロウ公使に率られたアメリカ艦隊を「撃退」したからであった。宗主国である清国でさえすでに「西夷」に侵食されているにもかかわらず朝鮮王朝は果敢にも西洋艦隊を「駆逐」した。もはや華夷秩序を守れるのは朝鮮王朝しかない。大院君は意気軒昂だった。それが日本からの使節に対する傲慢な態度になって現われていた。
 大久保、木戸そして岩倉使節本隊の帰る頃には、朝鮮王朝に対する憤りが明治新政府内に充満し一触即発の様相を呈していた。この頃、清国はすでに日本との国交を結んでいた(日清修好条規1871年締結)。副島種臣はその条約に基づいて同国に赴き、清国の朝鮮に対する扱いを確認した。清国は従来から朝鮮を属国扱いしていたことは周知の事実であっただけに、日本は清国の意向を事前に確認しておく必要があった。この時の副島の質問に対して、総理衙門は、「好い加減な答えをして若し難題でも吹きかけられては面倒と思ったものか、(朝鮮は)属国ではないと答え」ている。この態度を確認した明治政府は朝鮮に対して強気の交渉も止むなしとの意見が大勢を占めることになる。その中心にいたのが参議の西郷隆盛江藤新平後藤象二郎板垣退助などであった。

属国朝鮮の扱いに苦慮する清国

 西洋列強の東アジア進出で朝鮮との接触が始まると、清国は朝鮮の扱いに苦慮し始める。たしかに朝鮮は華夷秩序に組み込まれた属国には違いなかった。定間的にやってくる朝貢使節の存在はそのことを如実に示していた。しかし、ヨーロッパ諸国のアジア進出の現実を前にして、朝鮮は属国であると公式に主張することが危険なことに清国は気づくのである。
 その典型が、先に述べた朝鮮におけるフランス人カソリック宣教師と信徒虐殺事件(1866年)であった。
(略)
 フランスはもちろん黙ってはいない。(略)朝鮮に対してではなく清国に対して抗議した。(略)総理衙門に対して、フランスは武力行使も辞さない国であると脅した上で、フランスは朝鮮をキリスト教国家に変え保護国にすることもできる、必要なら併合もできる、とまで述べたのである」
 これは虚仮威しではなかった。フランスはすでに清国の朝貢国であったコーチシナ(安南)東部を占領していた。この占領の端緒となったのも同地におけるカソリック宣教師の殺害事件であった。
(略)
 貴政府は、これまで何度となく、朝鮮には何の権限も持っていないと述べています。さらに天津条約を朝鮮に適用することを拒否しました。また、わが国のフランス人宣教師は朝鮮渡航前にビザの発行を願っていましたが貴国はそれも拒否しています。こうした事実に鑑みて、わが国は、清国は朝鮮についての一切の権限がないと宣言するものであります。
 総理衙門はこのベローネ文書に反論していない。この文書に朝鮮は清国の属国ではないとみなす西洋の論理が明確に示されている。清国はそれが意味することを都合よく解釈した。「(清国側は)この事件で責任が追及されては困ると考えていた。その責任回避で頭が一杯であった。朝鮮のステータスがどのようなものであれ、朝鮮王朝自身が清国を宗主国と考えていれば問題ないと考えた(つまり国際法のロジックで考えていなかった)」のである。
 朝鮮は清国の属国でないことを総理衙門に認めさせると、ベローネ公使は報復の艦隊を江華島に派遣した。広州に展開していた七隻からなるローズ提督率いる艦隊である。
[しかし大院君は頑なに拒否、長期戦の備えのないローズ艦隊は退去。アメリカの江華島攻撃の5年前のことである]
(略)
 この朝鮮の「蛮行」に対して、フランスが黙ったままでいるはずがない。翌年にはより強力な艦隊を朝鮮に派遣するだろう。そう西洋列強は考えていた。イギリスもこの遠征に加わりたいと考えていた。フランスはアメリカも朝鮮に軍船を出すことを期待(略)しかしこの頃アメリカは南北戦争終結させたばかりの時期だった。英仏両国への悪感情が高かった。それだけに、アメリカはこの誘いに乗らなかった。軍船を出すことは考慮したものの、それは、むしろ英仏両国の対朝鮮軍事行動が行き過ぎないよう牽制するためだった。
 対朝鮮外交は、フランス、イギリス、アメリカ三カ国の思惑が交錯した複雑なものだった。フランスは結局、復讐の艦隊を出さなかった。先に述べたように、この頃フランスはメキシコの問題で手一杯だった[メキシコに傀儡政権樹立]。
(略)
[葵西政変で日朝交渉が再開]これまでの朝鮮側の非礼を森山が責め、朴はひたすら弁明に終始した。朝鮮側の態度の変更を肌で感じた森山は今後の展開を楽観視していた。
[ところが守旧派が復活、日本からの国書受け取りを再び拒否。それでも粘る森山]
とりあえずは森山歓迎の宴亨だけは実施を決めた。しかしここでも森山の服装にかかわる形式問題で揉めることになる。(略)森山は洋式の大礼服を着用して宴に出ることにしていた。朝鮮側はそれを拒否したのである。彼らにとって、洋式礼服は洋夷に屈した情けない国、日本の象徴であった。古来の形式に則った服制を頑なに遵守することは、朝鮮のレゾンデートルだった。ここに至って、森山は交渉の継続を諦めることになる。(略)
[そこに江華島事件]
 対朝鮮外交は多国間外交だと木戸らは理解していた。(略)朝鮮に利害関係を強く持つ国はどこなのか。それは宗主国の立場を崩さない清国であり、すでに朝鮮と交戦したフランスとアメリカであり、東アジアに勢力圏の拡張を狙うロシアであった。朝鮮開国交渉は、こうした国々の理解を得なくてはならない。それが仮に積極的支援でなくとも、少なくとも黙認だけはさせる必要があった。そのためには事前の外交的根回しが必要である。そう彼らは考えた。
 そこにはアメリカ人顧問の助言があった。

[清国が]朝鮮はあくまで属国であるとの立場をとれば、フランスからもアメリカからも以前に起きた事件の賠償問題が提起される可能性を残してしまう。したがって(略)「(実質は)属国であるが(国際法上は)属国ではない」という曖昧な態度をとらざるを得なかった。
(略)
 ここで重要なのは、李鴻章との会談が英語を介してなされていることである。右記報告書では李鴻章がそれを提起したことになっているが、森有礼がそうするように仕掛けたのではなかろうか。森は清国へ出発前に英語を使った交渉にするよう米人顧問から指導を受け、政権要路とも会談内容を英語に落とし込むことが打ち合わされていたのではなかったか。
 英語にすることで二つのメリットがある。一つは、米人顧問から指導を受けるのに都合がよいことである。日本語から、あるいは漢文からの翻訳の手間もかからないし、誤訳の可能性もない。もう一つの利点は、日清間に後日理解の相異があった場合、英文議事録だけでその確認作業が可能になるからである。ここにも森が若い外交官であるにもかかわらず抜擢された理由が隠されている。
(略)
「和気藹々とした雰囲気の中に会談は進んだ」。マリア・ルス号事件で清国に苦力を送り返した日本側の配慮もこの和やかな空気の一つの要因であったろう。また李鴻章の言葉の端々に、西洋文明を取り入れた日本から何らかのヒントを得たいという本音が垣間見える。(略)
[そのあとは]当然のことながら朝鮮の帰属にかかわる厳しい論戦であった。(略)
[森に随伴した鄭永寧代理公使は国外逃亡した明朝高官の末裔で英語と漢語に堪能]
 日本が出兵を匂わせたことで、李鴻章は清国も軍派遣の可能性があることを述べた。一瞬険悪な空気になったが、「日本が戦いを開くと云ふ事は暫く抑えつけますが、どうか大臣も総理衙門に交渉の上、何とか朝鮮を説得する法を講じて戴きたいものです」と森がとりなした。この森の要請を受け、李鴻章は次のように語り前向きに検討することを約束している。(略)
 森の、李鴻章とのやりとりは見事なものだった。日本の願いは、朝鮮に対して国際法上の礼にかなった態度の要求であり、開国だけを望んでいるとした。軍事行動の可能性は仄めかしはしたが、それをしたのは森本人ではなく代理公使であった。森は強硬策を抑制する役割を演じた。振り付けが出来ていたのである。森は、日本を発つ前の政府内協議で、武力を絶対に行使しない、江華島事件の補償を求めないと主張し、その方向で政府の意見をまとめていた。したがって、鄭代理公使を使って武力行使の可能性を匂わせた上で森が穏健派を演じたのは、明らかに外交交渉上のテクニックであった。
 また森は通商関係を求めないこともはっきり伝えている。29歳の若き外交官の見事な手腕ではあるが、日本出立前に木戸ら政府高官および米人顧問らと十分な打ち合わせがあった。

フランス人宣教師殺害の報を受けた時点で、朝鮮の危うさを感じ(略)
 李鴻章は、将来朝鮮を直轄地にすべきだと思っていたに違いない。しかしそのためには、いったん西洋の常識に則った形で朝鮮は独立国であるという事実を周知させる必要があった。そうすることで、カソリック宣教師虐殺事件はあくまでも独立国朝鮮によって行なわれたものであるという清国の主張を既成事実化できる。朝鮮の「楽浪郡化」は、その後じっくり実行すればよい。それが李鴻章の狙いだったのではなかろうか。条約上、独立国とうたっても、実質は清国の属国であることには変わらない。日本もそのことを知っているからこそ、清国に事前の「仁義」を切った。その六年後、アメリカも同様に清国との交渉を通じて、米朝修好通商条約を結んでいる。朝鮮は独立国であると規定する日朝修好条規の第一条は、李鴻章清朝幹部にとっては、フランスの恐怖からの免罪符であったのだ。

なぜ宗主国が西洋に屈したのに朝鮮は強気だったか

[円明園を焼かれ降伏した後の清国を訪れた朴珪寿朝鮮使節]
(略)
 三、清国が存在することで西洋列強の朝鮮進出を遅らせることができた。列強が朝鮮に到達する前に列強の長所と弱点を学んでおく必要がある。
 四、清国は難題を抱えてはいるか、将来必ずやそれを克服する。困ったときにこそ忠誠心を見せるべきである。将来、清国が強国に変貌すれば、軍事力を持って朝鮮を支援するだろうことが期待できる。
 五、清国の外交の失敗に学び、その過ちを繰り返さない。
 このような思惑を持った朴珪寿は北京で五十日を過ごした。この間、清朝高官との交流を続け、破壊された円明園を訪れた。朴の目には、清国は思いのほか落ち着いているようにも見えた。首都北京は英仏連合軍に攻撃され、地方では大平天国軍が跋扈している。それでも首都北京では何の暴動も起きていない。通りも、店も、宿屋も何もかも変わってはいなかった。清国は昔どおり大国の風を見せていたのである。
 北京を観察する朴珪寿の心中は複雑であった。宗主国と仰ぐ清国はいまだ大国の風を見せてはいるか、その権威の象徴円明園は焼け崩れたまま惨めな姿を晒している。その光景は、彼の心に強い葛藤を生んだはずである。朝鮮の将来を清国に託したままでよいのか、それとも、新たに儒教的秩序の中心となり得る国を探さなければならないのか。簡単には答えの出ない難題であった。このとき、彼は朝鮮の歴史と、祖父朴趾源のことを考えたに違いない。
 朝鮮は清国が漢人の国でないことにわだかまりを持ち続けていた。清国を支配する満洲族漢民族ではない。(略)朝鮮族と同じ地位にあるはずの満州族の国を宗主国と認めることには抵抗があった。(略)
[清国に攻められ仕方なく宗主国と仰ぐことにしたが]
しかし真の儒教思想に基づく中華思想を受け継いでいるのは(蛮族の)清国ではなく朝鮮王朝自身であると考えた。清をむしろ指導する立場にあるとさえ考えたのである」(略)
 朝鮮王朝こそが中華思想の正統を歩んでいるという根強い感情、それが小中華思想である。その思いも時代が下がるにつれて希薄になった。清国はその国勢が増すに従い、真の中華帝国の伝統を引き継ぐにふさわしい大帝国に変貌を遂げたからである。

1885年元駐日英国公使ハリー・パークス、北京で死去

[死の前、日清撤兵案を知り]急ぎ厳寒北風の中を馬を駆って日本公使館を訪れ、並々ならぬ熱意で」朝鮮からの撤兵の愚を説いた。
 パークスは、日清両国が撤兵し、朝鮮に軍事力の真空地帯ができれば、ロシアが触手を伸ばすこと必定であると考えた。極東アジア外交に熟知した老練外交官にはわかり切った外交ドミノであった。彼はロシアの朝鮮半島への南下を予言し、そしてそれを憂いながら世を去ったのである。
 パークスの勘は鋭かった。彼が危惧したとおりに朝鮮の政治は進んでいった。(略)朝鮮から日本の影響力を排除したのは確かに李鴻章の外交的勝利には違いなかった。しかし、清国は日本を排除したことで、こんどはロシアの脅威に一国で対峙せざるを得なくなった。ロシアを呼び込んだのは意外な人物であった。李鴻章自らが朝鮮外交政策と海関を牛耳るために送り込んだドイツ人顧問、メレンドルフであった。メレンドルフが李鴻章を「裏切った」のである。(略)
ロシアは朝鮮と密約を結んだのである。朝鮮軍と朝鮮の警察をロシアの指揮下に置き、[不凍港ポート・ラザレフ(元山津)を貸与された]

 アメリカは朝鮮に失望した。米朝修好通商条約では、清国の横槍がありながらも、朝鮮は独立国であるとの主張を貫いた。遣米使節団に対しても丁寧に扱った。フォーク少尉をヨーロッパにまで同行させ、彼らが帰国するまで面倒をみた。しかし朝鮮は一向に独立国として自立する気概を見せなかった。日本をお手本にして、近代化を目指した開化派に期待したが、清国の介入でクーデターは失敗し、朝鮮の将来を担うであろう前途ある若者は虐殺されるか、日本に亡命した。アメリカはこの国を独立国として扱うことを躊躇うようになっていた。
[フート公使辞任後、一年半公使不在に](略)
 李鴻章は、チャールズ・デンビー駐北京公使に圧力をかけた。「対朝鮮外交は北京で行なえばよい」。(略)
一年半の公使不在はアメリカの失望の表れでもあった。「アメリカの外交は、(少なくともこの期間は)清国の狙いどおりに変更された」のである。つまり朝鮮外交は李鴻章を通じて行うことに決めたのである。

英国の思惑

この時期のアメリカ外交にはロシアに対する警戒感がない。対朝鮮外交においては、朝鮮を独立国として扱うことには真剣さを見せているが、その結果として招来されるロシアの南下とそれに反発するだろう清国、英国、日本の態度をほとんど考慮していない。その理由は簡単である。既述のように、クリミア戦争ではアメリカがロシアを、南北戦争ではロシアがアメリカを支援した。シベリア開発に専念するためにロシアはアラスカをアメリカに売却した。こうした歴史的経緯を念頭に置けば、極東におけるロシアの行状に、アメリカが鈍感であった理由がよくわかるのである。
 イギリスは朝鮮の安定を清国を通じて実現したいと考えた。(略)
[英国駐日公使フランシス・プランケット卿の考えは]日本政府内の対外的穏健派の力に期待して朝鮮半島における静謐を保とうとするものであった。プランケットはその役割を長州派であった首相の伊藤博文と外相の井上馨の中に見出し
(略)
 朝鮮の安定を清国に委ねると同時に、その方針について日本の理解を得ることがイギリス外交の万針だったが、これには一つの条件があった。清国は朝鮮半島において、日本の安全保障を脅かすほどの軍事的プレゼンスを見せてはならないことである。清国が朝鮮の支配を確実にするためには朝鮮内に軍を駐留させ、海軍も朝鮮の港を自由に使えるようになることが理想である。しかしそれでは日本は警戒する。伊藤ら穏健派が清国の「楽浪郡」化を暗黙のうちに了解していたのは、朝鮮半島に日本の安全を脅かす勢力(軍事力)がないことが条件であった。したがって、この半島に、軍事カバランスを崩す何らかの事件が起きれば、日本は穏健な外交は取れなくなる。そのことをイギリスはわかっていた。巨文島をイギリスが占領した事件が日本を刺激していたことも知っていた。
(略)
 伊藤や井上が、清国とイギリスに過度に宥和的であったのは、単なる事なかれ主義の弱腰ではなかった。この頃、明治政府は、幕末期に締結された、いわゆる不平等条約の改正を全力で成し遂げようとしていた。そのためにはヨーロッパ勢力の中心であるイギリスとは揉め事を起こしたくないという強い動機があった。

長崎事件

[長崎に寄港した清国水平が遊郭で乱暴狼藉、そこから市街戦に]
この事件で日本全国に義憤の嵐が吹き荒れた。死亡した巡査や負傷者への民間の義捐金も殺到した。
 先に日本に亡命した金玉均支援者の一人が玄洋社頭山満だと書いた。玄洋社1880年に設立された団体で、国会の早期開設を目標に掲げていた。自由民権運動の中心的存在として、むしろ政府と対峙して民権の拡張を訴える組織であった。しかし、長崎事件が玄洋社の性格を変えた。清国の横暴とその軍事力の強力なることを長崎事件で痛感し、民権よりも国権に重きを置く団体へと変貌した。
(略)
 福沢論吉も水兵の傍若無人に憤り、日本政府の弱腰を嘆いた一人だった。しかし、福沢は不満足ながらも日清両国の間でまがりなりにも落としどころを見つけたことに安堵した。この時期に清国と戦火を交えてはならない、時期尚早であると考えた。日本の軍備が整うまでは慌ててはいけない。それが福沢の思いであった。

アメリカへの売り込み

朝鮮国王高宗は徹底して清国への阿諛追従の姿勢を見せる一方で、ときにその支配から逃れたいという本音を見せた。1887年のワシントンヘの公使派遣とそれに続く公使館開設は、そうした動きの典型であった。清国の朝鮮支配に口出しできる国はもはやどこにもなかった。ロシアはすでにイギリスが清国の背後にいることを悟り、朝鮮への非介入を約束し、日本は清国北洋艦隊に怯え、開化派の金玉均まで小笠原へ流した。ただアメリカとの関係には望みがあった。朝鮮の態度に呆れてはいたが、少なくとも米朝修好通商条約では朝鮮の独立が謳われ、周旋条項も存在した。朝鮮王朝の独立国としての振る舞いをかろうじて許しているのはアメリカ一国だった。
 アメリカの朝鮮に対する関心をいかにして高めるか。それが高宗の悩みであった。宣教師外交官アレンに助言を求め
(略)
 「アメリカの会社に金鉱山採掘権を与えることです」(アレン)
(略)
駐ワシントン公使館付の外交顧問となったアレンは(略)朝鮮は「宝の国」キャンペーンを開始する。アレンは、朝鮮は労賃が安く、ビジネスの機会に溢れているとするレポートを作成し、全米の有力新聞に寄稿した。(略)
朝鮮では灯油が飛ぶように売れ、時計も人気である。ビールもストーブも、そしてガトリング銃までアメリカ製品である。そして朝鮮には未開発の鉱物資源が豊富である。そう大風呂敷を広げた。
 アメリカの投資家は清国による朝鮮併合の可能性が高いことを心配した。先の見えないリスクを懸念した。そうした懸念に対しては、ロシアと日本がその防波堤になるから心配ない、とアレンは反論した。朝鮮の広報担当外交官の面目躍如であった。

下関講和交渉

 フォスターは、日米両国上層部に「仁義」を切って清国顧問に就任した。とはいえ、対日講和交渉は極めて厳しいものになることは覚悟していた。「清国陸軍は連戦連敗であり、海軍は壊滅した。最強と言われた要塞(訳注―旅順のことか)は占領された。勝利の連続に沸く日本の前に完全に打ちひしがれている。講和交渉は『交渉』にはならないだろう。日本がどういう条件を出してくるか。それを受けるか否かだけの交渉になろう」
(略)
[デンビー駐北京公使の私信]
 「この国の状況は絶望的です。兵士も不足し、武器もなく、兵姑もまったく機能せず、今後どうするかについて何の見通しもありません。総理衙門高官を含めた官僚や民間人の話を聞きましたが、とにかく和平に持ち込みたい、その代償がどれはどのものになっても構わないというものでした。(その焦りからか)わが国大統領の仲介を求めたかと思うと、こんどはヨーロッパ諸国の干渉を工作したりするドタバタぶりです」
 「支那帝国はわが国を頼ってきました。(アメリカはヨーロッパ諸国とは違うことを)本能的に知っているからかもしれません。総理衙門の官僚は、先生にすがる生徒のようなものです。(ヨーロッパ諸国に干渉を求めながらも)彼らはヨーロッパ諸国をひどく恐れています。一方で、わが国は、清国から何かを得ようといった考えのないことを知っています。偉大な帝国が日本の軍隊にいとも筒単に崩れるのを見るのは哀れなことです」
 「官僚たちは私に、日本人は皇帝を殺すだろうか、われわれを逮捕するだろうか、それに備えて家族を北京から遠ざけるべきだろうか、日本は支那全土を領土化するのだろうかと私に聞いてきますが、こうした話を耳にするのは悲しいことです。彼らは、(戦う気力がなく)完全に腐敗しています。そして絶望しているのです。これほどの絶望を私は見たことかありません」
 この手紙を読んだフォスターの心に、溺れる者は助けたいと思う気持ちが生じただろうことは想像に難くない。歴代のアメリカ共和党政権、とくにグラント政権が日本の近代化に理解を示し、多くの優秀な人材を日本に送り込んだことはすでに書いた。日本は、アメリカの指導の下に近代国家に脱皮した。その経緯については拙著『日米衝突の根源』の中でも詳述した。アメリカのアジア外交の根幹部分には、自らがイギリスの圧政から独立した歴史をアジア諸国に投影し、凶暴なヨーロッパ諸国の外交から守ってやりたいという意識がつねにあった。その思いを実現した優等生が日本であった。
 しかし、フォスターはアメリカが育てた日本の前に手も足も出ずに怯える支那帝国を見た。デンビー公使が言うように、この帝国の支配者は腐敗しているが、それでも弱り切った国を助けたくなるのは人情だったろう。これがアメリカの支那に対するパターナリズム(家父長的温情主義)の原点ではなかったか。

 下関条約は、清国の一方的な負けっぷりから、どうしても日本の賠償金や領土割譲要求に関心が注がれてしまう。しかし、日清の戦いの本質は朝鮮の独立と内政改革をめぐる戦いであった。日朝修好条規、そして米朝修好通商条約で謳われた朝鮮の独立がこの日ようやく実質的な実現を見たのである。
 下関条約第一条は次のように朝鮮の独立を規定した。(略)
この条文はまさに朝鮮独立宣言でもあった。朝鮮の独立と近代化を願ったたった二つの国、日本とアメリカの共同作業によって成し得た真の「朝鮮開国」であった。
(略)
朝鮮の近代化にまったく関心のなかった清国の影響は、この条約で完全に排除された。アメリカは日本主導の朝鮮内政改革に期待した。

ルーズベルトの狙い

[アレンは]セオドア・ルーズベルトに直談判を求めワシントンに戻った。一介の公使が上司の国務長官を飛び越えて大統領に直接対峙を求めたのである。(略)
[その前の]ウィリアム・ロックヒルとの会談で、アレンは完全に打ちのめされた。アメリカの東アジア政策立案の中心にいるこの人物は、ロシアに対抗するためには日本の力を利用すべきだとはっきりと口にしたのである。
 「アレンは、アメリカはロシアを援助すべきだと確信していた。しかしロックヒルはまったく逆で、日本を支持するべきであり、かつ日本の朝鮮併合は許されるべきだとの考えだった。そうすることでロシア帝国主義者の満洲への南下を牽制できる。ロックヒルはそう分析した」
(略)
 ロシアを警戒するルーズベルトの前でアレンはロシアを支援すべき理由をこう語った。
 「大統領は間違っている。ロシアは、満洲を占拠し治安を安定化させて以来、同地での商業的機会を十分に関放している。彼らは道路や鉄道インフラを整備している。これから増大する貿易の75%は対米貿易になる。大統領は目の前にある商業的利益をみすみす諦めるのですか」
 「満洲における現在の優位な状況をロシアはけっして諦めないでしょう。わが国がテキサスあるいはハワイから撤退せよと言われてもけっして撤退しないのと同じことです。このままいけばわが国は、イギリスと日本の対ロシア外交に便利に使われてしまいます。結局は日英同盟のパートナーと成り果てるのです」
(略)
同席していたロックヒルはアレンの議論に逐一反駁した。
 「ロシアの管理下で、より大きな商業的利益が見込めるというのは時間稼ぎの議論である」
漢城の一介の日本公使の発言など参考にはならない」
 最後に大統領からアレンに厳しい質問が浴びせられた。
「もし日露両国が戦うことになったら、きみはどちらが勝つと思うかね」
 ロシア贔屓のアレンも、「海では日本が勝つでしょう、多分、陸でもそうなるかもしれません」と答えざるを得なかった。ルーズベルトは「それではなぜ、敗者の側をわが国は支援する必要があるのかね」と畳みかけた。
 大統領との会談はアレンの完全な敗北であった。アレンはルーズベルト大統領が朝鮮を軽蔑し、この国は日本に指導された方がよい(The chief executive was most contemptuous of Chosen and was perfectly willing to have the region ruled from Tokyo)と考えていたことまではわかっていた。しかし、彼にはルーズベルトの喫緊の課題が、米西戦争により領土化したフィリピンの安全保障にあることまでは想像できなかった。外交の専門教育を受けていない宣教師外交官の限界であった。当時のアメリカにとって新領土フィリピンを防衛するためには日本との友好が重要だった。日本の目は北を向いていてもらわなくてはならなかった。それがリアリストの権化のような政治家セオドア・ルーズベルトの束アジア外交の根幹であった。それをアレンは理解できなかった。
(略)
 日本が桂・タフト協定を背景に、韓国の外交権を剥奪したのは1905年11月のことであった。(略)五年後に朝鮮は日本に併合されたのである。ワシントンでの論争後、アレンは朝鮮の友人に宛てた手紙に次のように書いた。
 「日本に併合されることはもう決まったようなものだろう。そう思うと私は胸が痛む。あれだけの腐敗と愚かな行動。そしてうぬぼれ。それが今の朝鮮を生んだ。自ら招いた結果である。(略)朝鮮王室には責任あるルールが必要だ。(日本による併合で)庶民の生活が改善されることは疑いの余地はない。私有財産も尊重され、役人の給料も職務に応じてしっかりと支給されることになるだろう。そうであったとしても、わがアメリカが日本の朝鮮における支配的立場を容認するのは返す返すも残念だ」
 これが、朝鮮王朝を最後まで愛した宣教師外交官ホーレス・アレンの朝鮮への惜別の言葉であった。

この本だけ紹介すると、お前はチェリーチャンネルかと言われそうなので、次回はもう少しフラットな本を。