「あの戦争」から「この戦争」へ 高橋源一郎

なぬぅ、インテリげんちゃんが、ホテトル嬢送迎!?の巻。

26章『冒頭陳述』

下記リンク先にある陳述文をうまく編集して小説になるように高橋源一郎が引用しているので、その違いがわかるよう、引用文を全文引用。
(「……」がカットした部分、「/」が原文では改行になっている)
 

黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の渡邊博史と申します。このたびは意見陳述の機会を与えて頂けましたことに心から謝意を表させて頂きます。起訴されてない事案も含めまして「黒子のバスケ」脅迫事件とされる一連の威力業務妨害事件は全て自分が一人でやりました。全ての責任は自分にあります。そして、どのような判決が下されようとも、それを受け入れて控訴しないことと、実刑判決を受けて服役する場合には、仮釈放を申請せずに刑期満了まで服役することをこの場で宣言を致します。……動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。……自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。/しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。……自分は昨年の12月15日に逮捕されて、生まれて初めて手錠をされました。しかし全くショックはありませんでした。自分と致しましては、「いじめっ子と両親によってはめられていた見えない手錠が具現化しただけだ」という印象でした。……しつこく申し上げますが、自分はこの事件を決してゲーム感覚などでは起こしておりません。どこかの臨床心理士が新聞紙上で「好きなキャラ云々」などと真相にかすりもしないプロファイリングを披露して悦に入ってましたが、そんなしょぼい話ではないのです。……自分が逮捕されて2日後の朝に勾留されている警視庁麹町署から東京地検に出発しようとした時には、署の前にたくさんの報道陣が押し寄せて来ました。この時に自分の顔は笑っていました。これについて「有名になれたことに喜んでいる」というのが、世間一般の説であると聞いていますが、そんなことがあるはずがありません。カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。……正直に申し上げますと、今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思います。自分は現在は留置所で寝泊まりしております。他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。食事も砂糖・塩・油脂が控えめなとてもヘルシーなものを三食きちんと頂いております。自分が三食まともに食べる生活をするのは20年ぶりくらいです。……逮捕の3ヶ月くらい前から自分は36歳にして、生まれて初めて芸能人が好きになりました。自分は同性愛者ですから、もちろん男性です。好きになったのは男性のグループです。逮捕前はそのグループについて書かれたブログに日参していましたし、情報を得るために新たに言語を習得しようかと思ったくらいでした。身柄を確保された瞬間も、スマートホンを使って、そのグループの曲を聞いていました。逮捕された直後は「俺の嫁の一重王子にもう会えないし、曲も聞けないし、活動の情報も追っかけられないのか」とか「あの人たちの惑星の住人になりたかった」などと思って悲しくなりましたが、心の中でお別れを済ましましたので、今はどうでもいいです。またここ10年くらい自分は重度のネット依存症状態でしたが、今は特にネットをやりたいとは思いません。事件についてのネット上の反応にももう興味はありません。つまり自分は娑婆の娯楽に未練がないのです。/そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。/また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。/さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。……ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。むしろ無用な人間関係がないことを清々しいとすら思っています。自分の帰りを待つ人も誰もいませんので、気楽で気楽で仕方がありません。/そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。/長々と申し上げましたが、結論は自分は厳罰に処されるべきの一言に尽きます。自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。……自分にはもうこれからはありません、自分に更生の可能性は全くありません。……ここまで書き上げて原稿を読み直しました。知性の欠片も感じられない実に酷い文章だと思いました。……繰り返し申し上げますが、自分のようなクズは何としても厳罰に処されなければなりません。/そして最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。/「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」/日本中の前途ある少年たちがいじけず、妬まず、僻まず、嫉まず、前向きで明るくてかっこいいイケメンに育つことを願って終わりにしたいと思います。/本日は意見陳述の機会を頂きまして、本当にありがとうございました。
「喪服の死神」「怪人801面相」「黒報隊」こと渡邊博史

ここから著者の分析。

 わたしは、この文章を繰り返し読み、いくつかの感慨を抱いた。書き手が、その個人的な体験を通して、その個人だけではなく、もっと広い、もっと多くの人びとの意思や感情を代弁しているとするなら、それは優れた書き手であり、これは、優れた書き手によって書かれた文章である、と思った。
 それから、この文の書き手は、わたしが、「文学」であると思っているものに、可能な限り近づいていたのに、どこかある決定的なところで、通りすぎてしまった、とも思った。
 いや、わたしは、この作者のことをよく知っている、とさえ思った。そのことについて書く。


20代の終わりの頃のことだった。わたしは20歳から続けてきた肉体労働の現場にはほとんど行かなくなっていた。一つは、腰を痛めたせいだった。それまで感じたことがなかったのに、肉体労働を「きつい」と感じるようになった。また、その頃、わたしは妻と別居し、子どもを妻のところに置いて一人暮らしを始めていた。理由は「小説が書きたいから」だったが、それはロからでまかせでいっただけだった。そんなことができるとは自分でもまったく信じてはいなかった。肉体労働をしなくても、なにかをする必要があった。妻と子どもに仕送りをしなければならなかったし、金はどこかから降ってくるわけではなかった。生活費はかさむ一方だった。ギャンブル依存がもっともひどい時期でもあった。わたしは、複数のサラ金から借りた金で馬券を買って、なにもかも失くすと、それから、また別のサラ金で借りた。妻への送金ができなかった時はないが、内情は火の車だった。すぐにできて、高額な仕事はそんなになかった。目を瞑って「ヤバい」仕事もやらなければならなかった。それは苦ではなかった。要するに、どうでもよかったのだ。
 その頃やっていた仕事の一つが、「女衒」だ。簡単にいうなら、非合法の売春の斡旋である。もちろん、わたしは、末端の末端に過ぎなかったが。わたしは、当時「ホテトル」という名で流通しはじめた業態で働き始めた。マンションの小さな一室で女の子と待機し、別の場所からかかって来た電話の命じるホテルヘ女の子を連れてゆき、ホテルの部屋のドアのところで料金を受け取り、いったんマンションに戻った。そして、定められた時間が終わる頃に、またホテルヘ行って、女の子を連れて戻るのである。
(略)
彼女たちの多くは、立ち直ることが不可能なほど、外的にも内的にも壊れているようだったが、わたしは、そのことには、ほぼ無関心だったように思う。それどころではなかった。明日、サラ金に返す金が必要だったのだ。
 ある時、高校生の女の子がやって来た。
(略)
 わたしは、その女の子をホテルヘ連れてゆき、それから、しばらくして、ホテルヘ行き、彼女を連れて戻った。マンションヘ戻ると、女の子は、ポーチからカミソリを出して(なんのために持っていたのだろう)、左手に持ち、右手の頚部を切った。血が溢れ出た。わたしは、すぐに左手のカミソリを取り上げて(少し怖かったが)、ごみ箱に棄て、それから、女の子の右手を持ち上げ、そのまま、トイレに連れていって、そこにあったタオルで、縛った。ほんとうは救急車を呼ぶべきなのだが、それはできなかった。事務所に電話をして、車を呼んでもらった。いざという時に治療をしてくれる、特別な医者のところに連れていってもらうことになった。
(略)
 わたしは、その時、初めてきちんと女の子の顔を見た。可愛い子だった。
「…………」
 女の子がなにかをいったが、わたしには聞えなかった。
「なに?」とわたしはいった。今度は、女の子は、わたしにも聞えるようにはっきりいった。
「あたし、魂を殺しちゃった」
 わたしは、このことばを一度、小説の中に使ったことがある。それは、この時、聞いたことばだった。
 わたしは、「ふーん」とかなんとか曖昧な返事をして誤魔化したと思う。もしかしたら、聞こえないふりをしたかもしれない。はっきりとは覚えていない。そのうち、事務所の人間が来て、わたしを、管理不行き届きだと叱り、女の子を連れていった。その仕事は、その日で辞めた……といいたいところだが、それから、なお2週間ほど続けて辞めた。それから、その女の子には会っていない。わたしは、その他にも、似たような仕事をした。そのことについては、いつか書くことがあるかもしれない。
 女の子のことばを聞いて、わたしはなにかを感じたのだろう。震撼させられたのか。ちがう、と思う。
 わたしは、女の子のことばを聞いて、憎しみを抱いたような気がする。うるせえんだよ、そんなこというんじゃねえよ、と思ったような気がする。それぐらいじゃ死なねえんだよ、見え透いてんだよ、と思ったような気がする。
 わたしは、その頃、久しぶりに小説のことを考えるようになっていた。小説など書いていないから、書きたい小説、書こうと思っている小説のことをだ。それは、ひどく空しいことだった。だから、考えるたびに、苦しい思いがした。けれども、その空しいこと以外に考えてみたいことはなかった。
 わたしは、自分がこのまま、誰にも知られずに死ぬのではないかと思うと、毎晩、恐ろしさのあまり、震えた。なぜ、世界が自分のことを知ろうとしないのか、わたしには理解できなかった。
(略)
 わたしは、車を待っている間、手を握って支えているその女の子を肋けるのではなかったと思っていた。絶望して死ぬ人間をこの目で見たいと思った。その協力なら、してやったのに。
 わたしは、「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の冒頭陳述を読みながら、ずっと、彼には、なにかを「書く」ための条件が、たとえば、作家になるための条件がほとんど揃っていたのだ、と思った。絶望は充分なほどあった。自らを冷徹に客観視する力もあった。それから、溢れるほどの明晰さも、社会を俯瞰視する能力も持っていた。さらにいうなら、「責任」というものの限界を、彼はよく知っていた。
 彼は、20代後半のわたしより、ずっと優秀であるように、わたしには思えた。
 だが、彼は書かなかった。いや、書いたのは、「冒頭陳述書」だったのだ。
 それは、結局、「名文」にすぎない、といえるのかもしれない。わたしは、そのことを惜しむ。もっと別のことが、できたかもしれなかったのだ。

酒鬼薔薇

次に酒鬼薔薇の「透明な存在であるボク……」という例の文章を引用して

 わたしは、この文章を、ほぼ15年ぶりで読み返したが、最初に読んだ時と同じように、美しいと思った。とても美しい。こんな文章が14歳に書けるのだろうか。いや、14歳だから書けるのだと思う。
(略)
 この少年には、長期にわたり、治療がほどこされた。精神面においてである。この社会に「復帰」できるように、つまり、この社会と「価値観」を共有できるように。
 彼は、いま、どこにいるのだろう。彼は、この「文章」を書いたことを覚えているだろうか。もう覚えてはいないかもしれない。彼は「矯正」されたはずだ。社会は、見事に、彼を「処刑」したのである。
 「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人もまた罰せられるだろう。彼は、死刑を望んでいる。彼のような存在が、社会を揺るがしかねないことを、よく知っているからだ。
 「冒頭陳述書」も「犯行声明」も、「文学」ではない。けれども、わたしは、それらを読むたび、正直にいうなら、あるいは、繰り返していうなら、多くの小説を読むより、心が揺れ動くのを感じる。(略)

[↑これは文學界2014年6月号に掲載された回]