日米開戦の正体 孫崎享

原発、TPP、集団的自衛権etcはどれも、真珠湾攻撃という愚行と同じコースを辿っている、そこで当時の状況を分析という本。
なのだが、なぜだか表紙とか文章に対極にあるネトウヨのドロッとした気配が漂っているような。どっちも切迫感ということなのか。というより小室直樹っぽいのかな。

日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか

日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか

 

日本はかならず敗ける

[チャーチル真珠湾攻撃によって]「我々は勝ったのだ」と述べたように、英国は[米国参戦が決定となる]真珠湾攻撃を歓迎しました。ルーズベルト米国大統領も歓迎しました。
(略)
[開戦時国務次官補だったディーン・アチソン回顧録では]
東條大将政府にとって(略)より賢明であり、より安全な路線は、オランダ側に加える圧迫によってインドネシアの石油を獲得する動きであり、必要であれば、日本が使嗾して支持するインドネシア革命によってオランダ人を駆逐することであったろう。ワシントンにおいては、内閣と陸海軍はみな、予期される南方進出にいかに対処すべきかについて意見が分かれていた。(略)世論調査は、議会または一般大衆が、南大平洋における外国の植民領土を防守するための戦争を支持するかどうか疑わしいとし、そして、いかなる支持も一致したものではたしかにないだろうと報告した」
 そしてアチソンは、日本のパール・ハーバー攻撃を次のように結論づけます。
 「これ以上の愚策は想像もできなかった」
 この当時、「インドネシア石油確保のときには米国は苦しい」とする見解はどこまで日本の上層部にあったでしょうか。
(略)
1941年9月7日(「戦争を辞せざる決意の下におおむね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と決定した9月6日の御前会議の翌日)、東久邇宮稔彦殿下は東條陸相に米国の術策にはまるだけだと、辞職を求めています)
(略)
「私がフランス留学中、ペタン元帥とクレマンソー元首相から、こんなことを注意された。アメリカは、今回の大戦で(第一次大戦)で欧州において邪魔になるドイツをやっつけたから、次の戦争で、東洋で邪魔になる日本を叩きつけようとしている。アメリカは、日本が外交の下手なのをよく知っているから、日本をじりじりいじめて、日本の方から戦争を仕掛けるような手を打って来るにちがいない。そこで、日本が短気をおこして戦争をやったら、アメリカは大きな底力をもっているから、日本はかならず敗ける。だから、アメリカの手にのって戦争しないように我慢しなければならないと。現在の情勢は、まったくペタン元帥やクレマンソーの予言したようになっている。このさい我慢して、アメリカと戦争しないようにしなければダメだ。東條陸相は近衛内閣の一員である。軍では『命令に従う』という言菜があるが、いま天皇および総理大臣が日米会談を成立させたいというのだから、陸軍大臣としては、それに従うべきで、それでなければ辞職すべきではないか」
[東條はこれに対し、ABCD包囲網でジリ貧になり滅亡するより、勝算は五分、思い切って戦争と回答]

石原莞爾

「東條軍閥は石油がほしいので、南方諸島を取ろうとしている。石油のないことは初めからわかりきったことだ。何がない、かにがない、だから他国の領土に手をつける、これは泥棒ではないか。石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるがよろしい。(略)
ヤツらは今南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛作戦計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない、南だ北だ、支那海だといって諸方面の防衛に当れば、本土はガラ空だ。(略)日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ」
(略)
「負けますな。(略)アメリカは一万円の現金を以て一万円の買物をするわけですが、日本は百円しかないのに一万円の買物をしようとするんですから」

満州鉄道

満州の処理をめぐり、伊藤博文(元首相)と児玉源太郎(陸軍参謀総長)が対立します。とりあえず、伊藤氏の意見が通りますが、それが、後に覆ります。(略)
[伊藤の主張]
満州方面に於ける日本の権利は、講和条約に依って露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外は何物も無いのである(略)。
商人なども仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属国では無い。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い場所に、我が主権の行はるゝ道理はない」
「恒久的平和からえらるべき唯一の方法は、満州鉄道を清国領土にはいったところから国際化せしめることにある。(略)もしイギリスとアメリカがこの管理にあたるならば十分であろう」
「もし、今日のままに放任せば、北清のみならず、二一省の人心は終に日本に反抗するに至るべし。清人中には国権恢復の意見を抱くもの多く、その勢力決して悔るべからず」
(略)
[伊藤が暗殺されず]10年生き延び、穏健派の勢力を伸ばしていれば、歴史は変わったかもしれません。
 伊藤博文は再びロシアが南下してくることを懸念しています。しかし、米英を満州鉄道の経営に当たらせれば、ロシアに対する牽制になると判断しています。
 しかし日本国民はこれと逆の方向へと動いていきます。
(略)
日本は日露戦争によって、巨額の財政負担を強いられます。
満州については、(1)清国の独立を認め、欧米諸国と中国の市場を共有するという政策と、(2)できるだけ日本の権益を拡大するという二つの大きな選択があります。
 そのどちらの道を選ぶかが問われたのは、アメリカの鉄道王ハリマンによる南満州鉄道を共同経営(買収)しようとする動きです。
(略)
 これに反対したのが、外相小村寿太郎です。(略)
 「すでに講和条約にすら大不満のわが国にして、もしそのわずかにえた南満州鉄道をも(略)売渡し、みずから今次の計画を知ったならば民心がいやが上にも激昂し、さらにいかなる大騒擾をも惹起するやも測りがたい。(略)」
 結局この問題は小村寿太郎の意見が通って白紙に戻されました。
(略)
[しかし鉄道経営には資金不足でアメリカから借金した場合、「レール・機関車および車両はアメリカ工場より買いいれる」という条件がついた]
財政的に日本独自で管理する能力はなかったのです。
ここで「IF」を考えてみたいと思います。
満州鉄道の日米共同管理という構想が実現したとしましょう。この利点は次のものになります。
(1)満州支配下に置いた日本軍は、常にソ連が復讐戦を挑んでいることに備えなければなりませんでしたが、米国の権益が絡みますから、日本単独で守るという状況は変化します
(2)中国をめぐり、米国と対立を続けていきますが、これもそう鋭い対立にならなかったでしょう
(3)日本は満州の支配に進み中国との戦闘に入っていきますが、たぶんこれもなかったでしょう
(4)満州経営、軍の強化という財政負担もそう大きくならなかったでしょう。

錦州攻撃

フーバー大統領は、「満州はしょうがない。しかし、中国本土の錦州攻撃は困る」という立場だったようです。(略)
[米赴任中の佐藤賢了が鷲津武官から聞いた話]
「出淵大使がフーバー大統領に呼ばれて、『もうしばらくすると議会が始まるので、うるさい連中(国会議員)がぞくぞくワシントンヘ集まってくる。日本の軍事行動がいつまでもやまないと、このうるさい連中がやかましい。特に国際都市錦州の攻撃でも起こると、ことが面倒だ。日本軍はわずかの間にほとんど全満州を席巻したのだから、錦州ぐらいは取らんでもよいだろう。どうか日本政府にこのことを伝えて欲しい』といわれたので、大使はすぐ外務大臣にそのむね電報したらしい。その返事がいま来たんだがね。その要旨は『幣原外務大臣が南陸軍大臣および金谷参謀総長に確かめたところ、錦州は攻撃しないとのことであった。(略)』というのだ。これはどうかね」(略)
 中西補佐官がいった。
 「満州からほとんど追い出されてしまった張学良は、錦州に臨時遼寧政府を設けてゲリラを指揮し、抗日の策源地となっておるのだから、錦州を攻略しなければ、満州の治安は回復するはずはありません。これはやるにきまっておりますよ(略)」
 大使はもう電報通り、国務省へ伝えてしまったとのことであった。やがて関東軍は錦州を攻撃し、またもやウソをついたことになった。

日独伊三国同盟

[1937年駐英大使リッペントロップがチャーチルと会談]
チャーチル 中部、東部ヨーロッパの支配権をドイツに握らせても平気だというほど、イギリスはヨーロッパ大陸の運命に無関心ではいられない。
リッペントロップ そうなると戦争は避けられない。それ以外に解決の道はない。総統は決意している。
(略)
リッペントロップは英独の対立の中で、日本を活用することを考えます。(略)
日独伊軍事同盟の構想がリッペントロップによって打ち出されました,それは英国を敵とするものです。英国の後ろには米国がいます。
 英国や米国は当然リッペントロップの動きを察知しています。日本国内では松岡外相らが「対米戦争を避けるために日独伊三国同盟を締結する」という論を展開しますが、「三国の連合せる力が、電光石火のごとく発動することを英仏両国は疑ってはならぬ」というリッペントロッブの構想の下に日本は動かされているのです。
(略)
[日本に提示された]リッペントロップ試案は「締約国が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合においては、他の締約国は之に対し、武力援助を行なう義務あるものとす」などを含んでいます。
 ここではもう「ソ連の脅威」という見せかけのものではなくて、第三国、つまり英米が対象になります。英米を対象とした軍事同盟と言えます。
さらには皇居守備部隊が海軍省を襲撃する噂も出て、海軍は陸戦隊を横須賀の警備に回す事態も出てきます。(略)
板垣陸相と米内海相が五時間半にわたって会談しますが、米内海相は、英国を対象にする可能性のある条約は「絶対に不可との立場」を貫きます。
外務省もまた、井上欧亜局長が「本件はソ連のみを対象とすべきこと(英米を敵に回さぬ為)」という見解を陸相に伝えます。
(略)
右翼のグループが日独同盟の即時締結を要求します。彼らは海軍省に押しかけ、米内海相山本五十六海軍次官への攻撃を行います。
平沼騏一郎首相、湯浅倉平内大臣山本五十六海軍次官への暗殺計画も発覚します。
 海軍は陸軍の部隊が出てくることを警戒して、軍の配備まで行なう状況です。(略)
皇居守備部隊が海軍省を襲撃するという噂で、横須賀鎮守府に陸戦隊一個大隊が待機します。大阪にいた連合艦隊も東京に回します。海軍省内でも籠城の準備をします。
(略)
[ジョセフ・グルー駐日米大使はこの状況を本国へ打電]
4月19日米内海相はグルー大使に「日本においてファシズムを望み、独伊との連帯を求める分子は鎮圧した」と述べます。
 そしてこの時期、グルー大使は日本の指導層に次を説いて回っています。
・ヨーロッパに全面戦争が起これば、アメリカはその圈外にとどまることはできない。
・開戦当初の数週間に独伊がヨーロッパを席巻したとしても、米国の決意と資源で米英仏側が勝利する。第一次大戦と同じである。
・日本が英米を対象とする軍事同盟によってドイツに縛られているとすると、アメリカが日本と平和的な関係を続けることは不可能に近い。
・日米戦争はいかなる観点から観ても愚の骨頂である。
今から見ると、グルー大使は、本当に日本のために動いてくれる大使であったと思います。

日米交渉のワナ

[強硬なハルノートや太平洋艦隊というオトリの前に]
佐藤賢了は「もっとさかのぼれば日米交渉全体がわれわれの疑ったとおり、ワナであったともみられる」と書いています。
(略)
 まず井川忠雄が訪米し、次いで1941年3月6日、陸軍の岩畔豪雄軍事課長(陸軍軍備その他一般軍政と予算管理を担当)も訪米します。
 ここで、日米非公式会議が持たれ、米国側がコーデル・ハル国務長官、日本側から野村吉三郎大使が出席します。ここで「日米了解案」ができます。ここでは「米国は八紘一宇の建国精神を認め、満州国承認・支那事変の和平仲介・〔米国の〕欧州戦争不介入すら約しようとの意図を示すばかりか、日本に加えてきた経済圧迫も解除しようとするもので(略)話がうますぎて気味が悪かった」(『大東亜戦争回顧録』)ほどでした。
(略)
佐藤賢了は「(略)[野村大使はハルが「いっさいの国家の領土保全及び主権の尊重」を始めとする四原則を前提としたことを]ひたかくしにして、さわりのよい諒解案だけを本国に打電した。(略)四原則を同時に打電してくれば、陸軍のごときはこんな日米交渉に乗りはしなかったろう。(略)いまにいたるも、この口惜しさは忘れられない」と書いています。
(略)
 戦後、佐藤賢了A級戦犯になりますが、岩畔豪雄は別の扱いを受けました。岩畔豪雄については、ハル国務長官が「今後、日米関係がどんなことになっても君たちの真剣な努力は忘れないし、君たちの安全は私が保証する」と述べたといわれています。そして、戦後はGHQの情報部門「G2」と深く関わりました。また、自衛隊創設に際して吉田茂から参加を求められ(参加は固辞)、京都産業大学の開学に関わり、水野成夫フジサンケイグループ創始者)らを始めとした財界人のアドバイザーや自民党右派のブレーンとして活躍しました。
 ではもう一人の関係者、野村吉三郎の戦後はどうなっているでしょうか。
 野村は公職追放となりました。しかし、ACJ(アメリカ対日協議会)は、定期的に経済的に苦しい野村の便宜を図り、追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査に当たり、海上警備隊創設に深く関わります。1953年、松下幸之助に請われ、日本ビクターの社長に就任。創生期の親会社であるアメリカRCAと技術支援契約を結び、日本ビクター再建の道筋をつけました。

外務省の責任

戦前の外交官なら、なぜ我々は日米開戦という愚策に突っ込んでいったかを徹底的に検証すべきと思いますが、その類の著述はほとんどありません。その中にあって、荻原徹の『大戦の解剖』は群を抜いています。

[日米の相違]
日本の当局ははじめから、「この戦争は、或る地域を占領してがんばつていれば、向うが嫌になって結局妥協で戦争を終り得る」と考えていたのに対してアメリカ側は、はじめから、あくまで東京を占領して、再び日本が侵略をおかし得ないようにしなければならないと考えていたのである。

まとめ

 確かに軍部は独走しました。この軍部の独走を許したのは、外交分野にいる外務省が自己責任を果たしていなかったことにもよります。アメリカの力、ドイツの力、中国の力、それを見極める責任は外務省にあるはずです。
 芦田均は「政党の有力者、または有能な官僚の一部は、あるいは故意に、あるいは心ならず、軍部に協力を示し、よって権勢の地位につくことに心がけた」と記述しましたが、その責任を負わなければならないのは外務省です。
 吉田茂内田康哉広田弘毅有田八郎佐藤尚武、松岡洋右らの外務官僚で外相、次官経験者は、自らが軍部に取り入りに行ったか、軍部に圧力を加えられ屈服した人々です。そしてその発端は、田中義一首相に自ら猟官運動をして次官についた吉田茂です。他方、毅然としてあるべき姿を説いた幣原喜重郎を、外務省は満州事変以降全く遠ざけています。
(略)
満州事変や二・二六事件は軍部に歴然とした勢力があり、これを覆すことはまず不可能だったと思います。しかし三国同盟は違います。日独伊と米英を中心とする連合国側の相対的力関係を理解する力があれば、三国同盟に進まない道は十分にありました。
 しかし当時の軍部は米国についてはほとんど学んでいません。外務省も、残念ながら吉田茂を筆頭に軍部に隷属する勢力が主流になっていました。時代の流れに迎合する空気が日本を覆っていて、巨視的な情勢判断ができないことが、三国同盟推進の力でした。しかし、こうした失敗を作る雰囲気は、今も同じです。

現在の日本

 さらに、米国国務省のサイトで領事部の「国外旅行」という項目で、外国での緊急時避難に関するサイトで次を掲載しています。
問:「米国市民でない私の家族や友人はどうなるのか。国務省は脱出を助けるのか」
答:「危機において我々が優先するのは米国市民を助けることである。あなたがたは米国政府のチャーターもしくは非商業輸送手段に、米国市民でない友人や家族を搭乗させることを期待すべきではない」
問:「避難時にどうして米軍軍用手段を使わないのか」
答:「ヘリコプターや米軍の運搬手段、および米政府が用意する軍事エスコートつきの輸送手段(による救出)は現実というよりハリウッドの脚本である」