ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化・その2

前回のつづき。

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

 

デニスとカール

 デニスは玄関のドアの横で、何を見るでもなしに、何時間もただブラブラ過ごすのが好きだった。(略)大人になってずいぶん経ってからも、デニスは、鼻先をドアに押しつけながら何か愉快で気が紛れるようなことはないかと外をじっと眺めていたときの、あのドアの網戸の不快な金属臭を思い出した。(略)家の玄関の前を通り過ぎる女の子には逐一注意深い視線を投げかけ、世の中にはなんにも新しいことなんてないじゃないかと悪態をつく少年だったのだ。
 だがたいてい場合、彼が何よりも待っていたのは、自分の心臓の高鳴りがおさまることだった。それを言葉にする術を持つずっと以前から、深刻な慢性の強迫症を抱えていたデニスは、事あるごとについ暴力を振いたくなる不安にかられていた。三歳のころから、追いかけられたり、高い場所から突き落とされたり、死んだりする夢を見て(略)ジットリした寝汗をかいていることがよくあった。
(略)
 一方、カールは暇さえあれば居間のテレビにかじりつき、笑いあり涙あり冒険ありのドラマに我を忘れる子供だった。デニスはそんな能天気な弟をなかば羨んでは、“デブ”とか“太っちょ”とか“甘えっ子”などとからかっていじめた。

母方の祖父カール

 ブライアンがティンカートイ[組み立て式知育おもちゃ]へのささやかな興味を漏らしたあとのクリスマスのこと。マリーは市販されている中で最も精巧なエレクター社のセット一式をブライアンに買い与えてそれに返答した。(略)
ブライアンは、祖父である力ール・アリー・コーソフが自家用機で飛び立ったロサンゼルス空港のような、新しい空港の模型を組み立てるよう促されていた。「夢を築け!」。マリーは吠えるのだった。「さあ やるんだ!」。
 六歳だった1948年、ブライアンはオードリーの父親が所有する小型プロペラ機に乗せてもらい、海岸線と内陸を巡る飛行の旅を四度経験した。ブライアンを特に可愛がっていたカールおじいさんは(略)少年に初めて自由の感触というもののを味わせてくれた人物だった。太陽に縁取られた雲間を巡るブライアンと祖父との幸せな空中散歩は、それまで味わったことのない信頼と興奮のひとときだった。この51歳のパイロットが、下界の陸標を指し示したり、風景について愉快な観察をしたり、近くで見るために急降下するときに見せる自信に、ブライアンは心の中で感嘆した。この人物は自分自身とその人生にしっかり責任を持ち、彼が飛行機を巧みに操縦するとき、その力強い両手は安定していて、その判断は慎重だった。(略)
[49年の祖父カールの急死は]ブライアンの人生におけるつかの間の心の拠り所とお手本とすべき者の喪失をも意味し、彼にとっては埋めることのできない、忘れようにも忘れられない出来事となった。ブライアンはエレクターの空港セットを、祖父に対する尊敬の気持ちをこめて組み立てた。

わんぱくデニスとして

近所でも有名だったデニスは、ぶっ壊し屋やいたずら者とのありがたい評判をいただいていた。(略)兄弟の中では一番光が当たっていたブライアン、無垢なカール。マリーがデニスに最大級のフラストレーションをぶちまけるのも無理はない。(略)
たいていはデニスのソバカスだらけの顔めがけてガツンと一発、それが普通だった。(略)ごつい革ベルトを使った折檻もあまりに日常化したため、少年は次第にその儀式にも動じないようになり、マリーはさらに荒っぽい手段に訴えた。学校をズル休みしたといっては、友人たちの前でデニスを分厚い板で殴り、マリーのガラスの義眼を学校でみんなに見せるために持ち出したといっては、復讐として彼を風呂場に押しこめて熱湯をぶっかけた。
 やがてデニスは肉体的な虐待に鈍感なだけでなく、他人の所有物や感情に対してもかなり無頓着になっていくように見えた。近所で大きなやぶ火事を起こしたり、他人の家の大木を切り倒して逮捕され(略)通行中の車の窓にデイジー空気銃でBB弾を撃ちこんで粉砕させたり、不法侵入や軽窃盗罪など数多くの少年犯罪で告訴された。
(略)
マリーにとってデニスはうってつけのパンチバッグであり、甘やかすなんてとうてい気が進まない。やがて、デニスの唯一の願いは「可能な限り自分の父親と違う人間になること」となったが、それは難しかった。マリーのキレやすい気質は、しっかりデニスにも伝染していたのだ。彼はほんのささいなことで誰とでもすぐケンカを始め、相手をボコボコ殴る前にはきまってマリーのような口調で「ハァ? なにィ?」と吠えるのだった。

ブライアンの宅録

[父マリーの音楽部屋の主は今や]ブライアンであり、フォー・フレッシュメンやエヴァリー・ブラザーズ、リッキー・ネルソン、フォア・プレップス、ハイローズなどのレコードをかけながら、ヴォーカルの混ざり具合を研究したり、対位するハーモニーを工夫してみたりする場所になっていた。16歳の誕生日にウォーレンサックの最新式二トラックのテープレコーダーを買ってもらったのを機に、ブライアンは壁紙の向こうに広がる、自分が創造しうる今よりも素敵な世界をじっと見据えながら、青春期の想いを歌った作品を作り始めた。
(略)
 ブライアンは、宅録ならではのギミックをウォーレンサックが誇るオーディオ機能と組み合わせる名人で、インストゥルメンタルとファルセットのヴォーカルラインをお互いかぶせ合うことによって、彼が作るデモはまるでポップ・カルテットが演奏しているようなサウンドになった。彼はまた、家族それぞれにヴォーカル・パートを割り当て、マリーにはいくつかの基本的なベース音を、カールには低いアルトを、オードリーには金銀線細工のような高音を手ほどきした。それらがプレイバックされたとき、ブライアンが入念にアレンジしたものは、得も言われぬ魅力を帯びているのだった。
(略)
[高校では脚光を浴びるためにアメフトをやり、イケメン体育会系のグループのメンバーであるために]
ブライアンが得意としたのは、生真面目でバカ正直といった彼に対する一般的な認識を逆手にとった悪ふざけだった。
(略)
 だがブライアンの糞尿ネタは、どれも良性とは限らなかった。あるときなどマリーにこっぴどく殴られた報復として、ブライアンは父親のディナー皿に排泄し、その上にスープ・ボウルをかぶせておいた。悪臭を放つアペタイザーを発見したマリーは、息子を家の外の通りまで追いかけたが、ブライアンはまったく反省の色を見せないまま父親の怒りが治まるまで友人の家に泊めてもらっていたという。

失意のマイク・ラヴ

[相手の親に中絶を阻まれ結婚することになり、父ミルトンは激怒、母グリーはさらに激怒、部屋からマイクの服を全て外に放り投げる]
マイクは外で呆然と立ちすくみ、小さな弟は泣きじゃくった。
 「あの夜がマイクの一生のトラウマとなった」とスティーヴンはのちに友人たちに語っている。「家も家族も失ったあの日から、一生立ち直れないんだ」。
 一年後、ラヴが経営者する板金店は倒産し、一家は(略)ベッドルームが三つの薄汚い家に引っ越すことを余儀なくされた。(略)ある晩のこと、やけ酒をあおりながらグリー・ウィルソンはやけになって叫んだ。「こんな生活もうまっぴらよ!」。
 ミルトン・ラヴはそれでも冷静さを保ちながら、借金の返済と裁判費用を捻出するために週六日せっせと小口契約の仕事に励んでいたが、とうとう(略)板金会社に就職。[ラヴ家の栄光は消滅]
今や一族の期待の星はウィルソン家だったそしてそれは明らかに(マリーでさえ知っていたように)、ブライアンだった。
 ブライアンはフォーマルな音楽作品でありながら家族でも楽しめるような曲づくりをアル・ジャーディンとめざそうとしている自分に、自身でも驚いていた。また、マイク・ラヴの声とカールのギターを高く評価していた彼だったが、デニスをメンバーに迎えようとは決して口にしなかった。なぜならデニーは大して歌もうまくないし、ピアノをたどたどしく弾く程度だったからだ。だがそんな弟でもブライアンにとって絶対はずせない存在だった。常々オードリーから諭されていたからではない。彼は最近のブライアンの曲作りにおける重要なテーマの源だったからだ。
(略)
[週末の朝、デニスとマイクは釣りをしにビーチに出かけ]
帰ってくると、デニスはその日あったエキサイティングな出来事や、マイクと語り合ったいろいろな事柄について、ブライアンに詳しく話して聞かせるのだった。女の子について、お互いやっかいな父親を持った苦労について、まだ見ぬ将来について、そして夜明け前からいつも防波堤のあたりで顔を合わせる、興味深い集団=サーファーたちについて……。

サーフィンの歴史

 ハワイでは15世紀以前から神事としてサーフィンがおこなわれており、カフナ(祈祷師)は吉兆の波浪を祈願して、浜辺のポーフエヌエ(グンバエヒルガオ)や朝の輝きを歌った歌を精霊に捧げた。(略)
すべてのサーフボードはこの神への捧げものとして作られた。
 一枚の板を切断したり削ったりするこの儀式において、いかなる課程をもおろそかにすることは神への冒涜とみなされた。(略)
[1779年キャプテン・クックがハワイに到着]
一行が目にしたのが、島民たちが乗っているこれらの美しい刃形の浮遊物だった。だが19世紀に入り、伝道師やプロテスタント使節団が次々とハワイに上陸するようになると、もともと泳ぐ習慣を持たない彼らは波乗りを快楽的で野蛮な慣習とみなし、病と邪悪の根源だとして公然と非難した。そんな中にあって作家マーク・トウェイン使節団の嘲りの声に断固立ち向かい、ハワイのコナ・コーストで体験したことを1872年に出版した『西部放浪記』の中でこう記した。
(略)
[クック上陸時30万だった人口は持ち込まれた伝染病で1893年には4万人に減少]
聖職者による弾圧的な風潮も手伝って、ハワイの波乗りはほぼ絶滅しようとしていた。(略)
ところがちょうどそのころヨーロッパやアメリカでファッショナブルな“肉体カルチャー”ムーヴメントが起き、とある著名な紳士アスリートたちのグループが(略)[1908年ホノルルで]目にしたのが、壁にかけられた三台の大きなアンティークのオロボードで、そこにわずかな痕跡を残すのみのこのハワイのスポーツを復活させようと誓った彼らは、さっそく行動に移した。
(略)
 この健全なる推奨活動に興味を抱いたのがジャック・ロンドンだった。(略)
1907年、ジョージ・フリーチという23歳のアイリッシュ・ハワイアンの青年を主人公としたエッセイ『ア・ロイヤル・スポーツ』を発表。(略)
ワイキキの波を次々と制覇するフリーチの勇姿に、人々はたちまち魅了された。(略)
[1907年レドンド〜ロサンゼルス間鉄道のキャンペーン・キャラクターに抜擢され]
彼は一躍カリフォルニア・サーフィンの父となった。

Brontosaurus Stomp

Brontosaurus Stomp

  • Piltdown Men
  • ヴォーカル
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes
Shake 'n' Stomp

Shake 'n' Stomp

  • ディック・デイル&ヒズ・デル・トーンズ
  • ロック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

ディック・デイル

サーフ・ロックの権化といえば、ディック・デイルをおいて他にいないだろう。
(略)
 やがてランデブー・ボールルームの向かいにレコード・ショップをオープンすると、そこでレコードプレイヤーを修理したり、たまにギターを教えたりするようになったが(略)
[ピルトダウン・メンの]〈恐竜ストンプ〉を求めて、サーフボードをかついだ十代の若者たちが大勢やってくるようになった。ギターを教える代わりに波乗りを伝授してもらうようになったデイルは、いつのまにか彼らにそそのかされるように毎日午後三時には店のシャッターを閉め、ハンティントン・ビーチやデイナ・ポイント、あるいはニューポートのウェッジまで朝のうねりをキャッチしに出かけていくのだった。
 金曜や土曜になると、午後のショップはそのままデイルと彼のデルトーンズが演奏するランデブー・ボールルームへと移動し、彼のファンは、チューン・ロッカーズの〈ザ・グリーン・モスキート〉や、ロサンゼルスのバンド、チャンプスの〈テキーラ〉といった、より激しく、より大音量のインストゥルメンタル・ナンバーをリクエストした。そこでデイルが考案したのが、「チューブ・ライドしているとき、頭の周りに白い波の洞窟ができる感じ」をイメージした、ストラトでヴィブラートを演奏する際にヘヴィなスタッカートのピッキングを加える奏法で、ここから〈サーフ・ビート〉や〈サーフィン・ドラムス〉、〈シェイクン・ストンプ〉といった、観客に大受けのナンバーが生まれていった。そんなデイルの荒々しいギグを参考にしようと、ブライアンと高校時代の友人たちは遠くランデブー・ボールルームまで繰り出していったが、そこに集まった観客のあまりの激しさに、愕然とするのだった。さらにそこで聞いたデイルのヘヴィで大音量のナンバーを通じて知ったのが(略)クラレンス・レオ・フェンダーの名だった。
(略)
中でも新製品のショーマンなどはまさに、〈シェイクン・ストンプ〉でデイルがファンに慈悲深く与える“大音量ロックンロールのおしおき”のために作られたようなアンプだった。このヘヴィ・デューティーな新製品の発表に先立ち、フェンダーはデイルに約40台のアンプを使ってスピーカーで音を出すという実験を依頼したが、このときデイルが受け取った未使用のクリーム色のキャビネタリーは、すぐさまコレクターズ・アイテムとなった。またフェンダーはデイルに、持ち運びができるアウトボード・リヴァーブユニットの試作品をコンサートで試用させたが、ほんの電気屋の道具入れほどの大きさしかないこのずんぐりした小怪獣は、これぞサーフ・ロックの真髄とも言える、突き刺すようなダブルピックのソロ・ギター・ラインによる狂乱の渦を見事に演出してみせた。(略)
[サーフ・ミュージックをやるようになり、ランデブーの観客は10倍に]
彼が着ているマドラス・チェックのブレザーの端に触ろうと、女性客がステージの前に備えつけられたクッション入りの防護柵から我れ先にと身を乗り出すほどの盛り上がりを見せるコンサートには、それから数週間もしないうちに週末の木、金、土曜日に四千人もの観客がつめかけるようになり、ステイト・シアターでは四千人以上を動員した。

61年ステレオ・マスターズに売り込み

 うまくアレンジされたレパートリーを彼らがざっと歌ってみせると、ひとつもオリジナル曲がないことにモーガン夫人は失望の色を見せた。自分たちで何か新しい曲は作らなかったの?
 そのときデニスが突然、「今どきの若者はみんなラジオでサーフィン情報をチェックしているんですよ!」と言い出した。(略)
デニスはスタジオのオーナーと仲間たちの顔を見比べながら言った。「あなたが想像している以上の人気です!」。
 モーガン夫妻の顔に好奇心をそそられた表情を見てとると、デニスはさらに大胆になった。「実際」彼はでまかせを言った。「ブライアンはすでに〈サーフィン〉という曲を書いています。今日のために練習しておけば良かったな!」
 当のブライアンはこの発言に唖然とするあまり、それを肯定することも否定することもできなかった。そのときマイクが機転をきかせ、デニスに向かってレドンド・ビーチのサーファー用語で何やら話しかけ、歌詞のキーに使えそうなスラングがあるのではと提案した。マイクが紙の上にすばやくメモ書きした二、三の単語を見ると、デニスはとっさに「ザ・ストンプ」と口にした。海仲間の間で話題のヒップな新しいダンスだ。そして、今多くのバンドがサーフィンのシングルを出して有名になっていると注釈した。

ブライアンはサーフ・ミュージックを正直言って見下していた。ヴェンチャーズの個性に比べたら、中途半端でなまぬるいコピーにすぎないと。ディック・デイルは素晴らしいライヴ・アクトだ。ブライアンはそう感じていたが、彼が個人的にめざしているのは、フォー・フレッシュメンの最高傑作とガーシュインの間に高くそびえ立つような、彼自身の音楽の新しい大地だった。
(略)
マイクとサーフィン・ソングの構想を練っていくうちに、ブライアンはかつてフレッド・モーガンのためにあつらえた曲の歌詞を新たに組み直し、朝のラジオの波情報や、ザ・ストンプ、サーフ・ノッツ(サーフィンをしているうちに、膝や足の甲に自然とこすれてできるタコ)といった単語で装飾することで、ストレートでノリのいいアンセムに仕立てることにした。さらにヴォーカル・アレンジでは、わざと古くさいバップを用いたり、ジャン&ディーンの初期のシングルでフィーチャーされていたような“ディ・ディ・ディッ”というリズミカルなかけ声を取り入れた。
(略)
[〈サーフィン〉がレコード化]
 サーフィンなどしたこともなければ、しようとも考えたことのないブライアンが、彼の1957年型フォードのラジオから流れてくる自分の歌を聞いたのは、弟たちやデイヴ・マークスを乗せたフォスターズ・フリーズからの帰り道だった。(略)
 空いた片方の手にチェリー・スラッシュを持ったブライアンは突然、三年前のダッシュボードの白昼夢が実現したことに気づくのだった。

ゲイリー・アッシャー

[〈サーフィン〉がビルボード118位]でくすぶっていたちょうどそのころ、ビバリーヒルズにあるシティ・ナショナル銀行で出納係をしている24歳のゲイリー・アッシャーが[叔父宅を訪問](略)
ウィルソン兄弟たちが道路を隔てた向こうの自宅ガレージで練習していることを聞きつけると、叔父にせがんで家に押しかけることにした。自己紹介したアッシャーにブライアンは無造作にギターを手渡すと、自分のオルガンに合わせて演奏するように言った。
 お互いフィル・スペクターの大ファンであることがわかったふたりは、アッシャーが“テディ・ベアーズっぽいコード・パターン”と呼ぶコード・パターンで遊び始め、アッシャーが以前から書き留めていた歌詞の断片をそれに乗せた。(略)
そして、わずか20分足らずで、ふたりは思い描いても決して手に入れられない世界を歌ったナンバー〈ロンリー・シー〉を書き上げたのだった。それは銀行の出納係とサウス・ベイのサーフ・シーンにいる内気な十代のウォルター・ミティー[ジェームズ・サーバーの作品に登場する、気が弱く妄想にかられて奇行に走る中年男のキャラクター]が共同で作り上げた作品だった。
(略)
ベトナムから休暇で戻ったGIたちによって、南ベトナム沿岸はサーフィンに最高だという噂が広まり、雑誌「サーファー」でも取り上げられ話題となっていたが、聴力障害と慢性のおねしょのために徴兵が延期になっていたブライアンにとっては、アメリカに影を落としつつある東南アジアでの戦争など、まるで関係のない世界だった。

Lonely Sea

Lonely Sea

  • provided courtesy of iTunes

みにくいアヒルの子

[「サーフィン・サファリ」「サーファー・ガール」などを録音した]
 セッションが終了し、メンバーたちが三々五々解散する中、モーガン夫妻はデニスを家まで送ることにした。彼を元気づけようと、夫妻が立ち寄ったのは(略)[タイニー・ネイラー]未来的なダイアモンド・モザイクが見事なこのドライヴインは(略)1957年の創業以来、ホットロッド族のたまり場となっていた。デニスは窓ガラスと石柱と宇宙をイメージした照明器具に囲まれた客席に滑りこむように着席すると、心の内を語り始めた。彼によれば、バンド内での自分の役割はハシにも棒にもかからない惨めなもので、家にいるときと何も変わらないというのだ。「僕は二羽のひよこと一緒に生まれたみにくいアヒルの子さ」デニスは泣きながら訴えた。そして自分が本当になりたいのは物書きで、小説家とか、あるいはジェームズ・ディーンのような映画や舞台の俳優をやってみたいと言うのだった。とにかくミュージシャン以外ならなんでも……。

Tiny Naylor’s
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次回につづく。