ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化

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ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

ロサンゼルス

[1860年代]ロサンゼルスは当時かなりの僻地であり、「さまよえる悪魔の町」あるいは「行方不明者が行き着く港」という認識がなされていた。当時、西海岸において文化的かつ国際的な中心地としてすべての賞賛を独り占めしていたのはサンフランシスコ(略)「西のパリ」ともいうべき、都会的でかつ文明社会における近代的な自由経済の窓口といったイメージが似合う町だった。新聞社を幅広く経営するウィリアム・ランドルフ・ハーストは、大げさな見出しが売りの三文雑誌で大儲けした。また、この町の港には世界中から集められた、日持ちがして異国情緒あふれる商品が山のように積み上げられ、内陸部の州ではとうてい考えられないような賑わいを見せていた。
(略)
 それに比べると、ロサンゼルスは低い建物が立ち並ぶ人口もまばらなコミュニティで、舗装されていない道路には土ぼこりが舞い、文化的な生活など望むべくもない、犯罪率ばかりが着実に増加している町だった。政治家も地主も芸術家たちも全員一致で認めるセールスポイントといえば、せいぜいその気候だけだった。
(略)
 ロサンゼルスという町は殺人の引き金となる要素に事欠かなかった。米墨戦争時代から尾を引く本領安堵の精神は、アメリカ人の不法占拠やメキシコ人たちによる強奪行為を生み、この戦争によって自分たちの土地を奪われたカリフォルニア住民たちの自警団による攻撃が相次いでいた。この構図に新たに加わったのが、ゴールド・ラッシュの残存者たちであるギャンブラーや殺し屋、そしてロサンゼルスと北カリフォルニアを結ぶ主要幹線道路沿いをねぐらとする路上生活者たちによる内紛だった。
 家畜王たちの没落後、経済における起爆剤は何ひとつなかった。
(略)
[ようやく根付いたオレンジの]
 次にターゲットとなったのはリウマチ患者だった。甘ずっぱい果物と乾いた空気、冬も穏やかな天候に恵まれた南カリフォルニアは、病気の回復に最適な場所であるとパンフレットに謳われていた。おまけに保健機関も鉄道広報も不動産業界もこぞって、サウスランドに行けば間違いなく元気になれるかのようにふれまわったものだから、海辺の町にはリウマチ患者たちがいっせいに押しよせ、ロッキー山脈以東の保養所はすっかり空になってしまうほどだった。
(略)
憎らしいほど安定した、雲ひとつない広々とした青空こそ、南カリフォルニアの押しも押されもせぬ特長だった。
 実際は、総じて資源に乏しく鉱物や肥沃な土壌にも恵まれず、水量豊富な川や湖、あるいは避難場所となるような海岸線もない、まるで海に浮かんだ砂漠地帯だったが、南カリフォルニアは不思議なほどバランスのとれた気象システムに包まれており、さらには海洋の冷却効果によって、決して陰ることのない太陽からも身を守ることができた。
 そんな地帯にひとたび湿気が運ばれてきたとき……。それが潮風であっても朝露であっても、あるいはほんのたまにしか降らないにわか雨だったとしても、サウスランドの過酷なまでの太陽光線は劇的にその姿を変えるのだった。空中にしみわたっていく霧は、樹木が生えることのない丘のギザギザ尖った輪郭を柔らかくし、茶色とわずかな線からなる目の粗いキャンバスに、しなやかでたおやかな色調をもたらした。蚊を発生させることも、あるいはミストラルのように荒れることもなく絶えずそよぐ風は、日陰と灼熱がせめぎ合うザラザラした境目を、熱帯や地中海と並び称するにふさわしいほど穏やかなものへと変えていった。そしてつややかな空と荒涼たる大地が全面的に休戦したとき、その新鮮な空気の爽快さたるや、六月のエーゲ海でさえ太刀打ちできないほどだった。

ブルース・ジョンストン、「The Nearest Faraway Place」

 この本のタイトルは、ビーチ・ボーイズの1960年代最後のアルバム《20/20》に収録されたインストゥルメンタル曲から拝借したものである。(略)収録曲のほとんどが既発シングルやメンバーのソロ・プロジェクト、あるいは1966年にまでさかのぼるナンバーのアウトテイクだった。同時にそれはジャケット写真にブライアン・ウィルソンの姿が見られない初めてのビーチ・ボーイズのアルバムでもあった〔中面には視力検査表の陰に隠れたブライアンの写真がある]。このとき彼に代わって正式メンバーとして写真に収まったのが、1965年以降ツアーに参加しなくなったブライアンの代役を務め、スタジオにおいては補佐的な役割を担っていた23歳のロサンゼルス・サーフ・ホップのベテラン・ミュージシャン、ブルース・アーサー・ジョンストンだった。(略)
ビーチ・ボーイズの中でカール・ウィルソンについでよくブライアンと間違えられる存在でもある。「確かに言えてるね」。(略)「ブライアンはあのころほとんど活動していなかったから、彼のスタイルを真似して曲を書いたり、ヴォーカル・アレンジをやったりしていた」。(略)
このせつない二分半の曲を作り、演奏し、プロデュースしたのはジョンストンなのだ。彼はこのインストゥルメンタル・ナンバーのタイトルを、ライフ誌に掲載されたシャナ・アレクサンダーの記事から取ったと語っているが、そのメロディーやアレンジは、自身も関わった1966年のビーチ・ボーイズのアルバム《ペット・サウンズ》にかなり影響を受けている

祖父バディ・ウィルソン

1930年代が近づくにつれ、バディ・ウィルソンは、そこそこだった両親を、自分は結局超えることはできないのだという事実を受け入れざるをえなくなっていった。どちらかといえば、バディはウィルソン家代々の根無し草の伝統を受け継いでおり、配管業の才能はあっても――たとえ彼がひとりでそう思っていたにしても――時代遅れの三流職人にしか見えなかった。彼はだんだん恨みがましく何をしでかすかわからない人間になっていった。
(略)
 西99ストリートに引っ越したバディは、しばらくするとハッチンソンにいる弟のチャーリーに「手紙をよこさないようなことがあったら殺してやる」と脅した。弟は誓った。「ちゃんと手紙を出すよ」。だが便せん三枚にもおよぶ愛情に満ちた手紙を送ってくるチャーリーに対し、バディは何ケ月たっても返事の手紙を書くことはなかった。「また手紙をよこせ」と殴り書きしたハガキ以外は……。(略)
[細かく旅程を知らせチャーリーがわざわざ訪ねてきたのに]
バディは、急に仕事が欲しくなってつい今しがたテキサスに旅立ったばかりだった。チャーリーはがっかりし、仕方なく家に戻っていったが、その後もバディが弟に連絡をとることはなかった。
 自分のバックグラウンドを憎み、あてもなく威厳を求めてのたうちまわるバディ・ウィルソンには、自分が望まないこと、そして我慢できないことがはっきりわかっていた。その筆頭が、他人と心から打ち解け合うことで、それはときに自分自身が評価されることでもあった。彼の身体の毛穴という毛穴にしみこんでいる黄土色をした配管脂と同じで、こういった恐怖や嫌悪感の残留物は、一日の終わりに洗い落とせるものではないということを、彼は知っていた。

オーキーズ

これらの最下層民と呼ばれる人々は、1930年代に起こった巨大な砂嵐によって家を失い、カンザスアーカンソー、テキサスから流れてきた犠牲者たちだ。ロサンゼルス・タイムズの記者ベン・レディックは、“オーキーズ”という、今も広く知られる蔑称を生み出したが、これは土壌の消耗や干ばつ、農業の機械化、あるいはニューディール政策下での作物育種命令によって居場所を失った移動農民たちを指すものだった。
 カリフォルニアが打ち出した気前のいい福祉政策をあてにして、オーキーたちは家財道具をポンコツ車に詰めこむと彼の地をめざした。(略)
[だが](オーキーズは農地が休閑期となる二月しか政府の救済を受けることができない)(略)
労働運動に加わったオーキーズの農業労働者も対象から除外されていた。だが彼らのほとんどはあまりの貧困のために生きるだけで精一杯で、高尚なコンセプトなど気にしちゃいられなかったのだ。
 経済苦と偏見の中で、自分たちの起源はいったい何かを考え直してみたくなったのは、なにもウィルソン一家だけではなかった。
(略)
 50万人もの公民権のない小作農と職にあぶれた農業労働者(略)のうち、35万人以上がカリフォルニアに住みついた。これに対し、カリフォルニア州商工会議所は、ロサンゼルス市の一部関係者と結託して、オーキーズに対する中高階級の敵意をかきたてるような対策に打って出た。カリフォルニア市民連合のような団体が、オーキーズは不信心で性的にも倒錯しており、近親相姦や違法行為によって生まれた「下位人種」だと位置づけるような噂やデマを流布したのだ。州境線を越えてやってきた人々を待ち受けていた侮辱はこれだけでなかった。ロサンゼルス警察署長ジェームズ・E・デイヴィスは、不法侵入を防ぐ目的でバム・ブロッケード(浮浪者封鎖措置)まで発令した。
 法規を拡大解釈しまくって地区保安官から代理任命されたロサンゼルスの巡回員たちは、それこそ網の目のように張られたチェックポイントに立っては、預金通帳や雇用証明を持っていない者や「州に入る明確な目的」をちゃんと説明できない短期滞在者をつかまえては尋問し、違反者は浮浪罪でそのまま刑務所に送られた。しかしこの措置もアメリカ自由人権協会の猛烈な抗議によりまもなく廃止された。

ダストボウル、地震

 行きすぎた開拓は慎むべきことをカンザスの農民たちは知っていたはずだった。乾燥した大地には常に時速15マイルの微風が南から西に向かってジグザグに吹いており、それが地域上空の不安定な停滞前線を刺激したことが原因だったが、一面草に覆われていた昔はまったく状況が違っていた。
(略)
 1935年の春は平原地帯に目も当てられぬ被害をもたらした。故郷をあますところなく汚す“カンザスの泥”の知らせは、遠く南カリフォルニアのサウス・フィゲロアの家にも届いた。土埃の突風は登校中の子供達を飲みこみ、泥の吹きだまりの中で彼らを窒息させた。降り注ぐ乾土は列車を脱線させ、几帳面に目張りをした室内でさえ、隙間から入りこんだ灰褐色の滑石が積もった。昼間の太陽が灰色がかった白い縁取りのある茶色い円になってしまう日が何日も続いたかと思えば、空からはススのように黒っぽいヤニが降り注ぎ、夜でもないのに真っ暗になった。
 キメの粗い泥が降り注ぐときに起こる静電気で、自動車のイグニッションはショートし、砂まじりの突風はコンクリートのビルや家々の木製の外壁に塗られたペンキをこそげ落とした。疲労しきった人々に睡眠が訪れるのは、鼻にかぶせた湿った布の助けがあればこそで、呼吸疾患の患者が収容される病院では、看護婦たちが良質のケイ素を蓄積させるために濡れたタオルをあおいで対処にあたったが、埃を大量に吸いこんだ患者の多くが、最期は泥を吐き出しながら命尽きた。
(略)
1938年にロサンゼルス商工会議所が発行した『ロサンゼルス郡を知る』の最新版には、[120名の死者を出した33年の]ロング・ビーチの地震など一切触れられず、すべての記事がロサンゼルス消防署の意向どおりに展開していた。商工会議所が被害の真相を述べることができなかった理由。それはロサンゼルス盆地の安定性について、以前からウソをついていたからだった。「地質学者によれば、ロサンゼルス市の地盤を形成している岩盤層は、国内のどこよりも地震に強く安全である」と。

祖父・バディと父・マリー

マリーの右目はいかにも神経質そうな斜視で(略)すきあらば一撃喰らわしてやろうという臆病な雄鶏の目つきだった。また、彼のわざとらしさは父親から受けた暴君的ないじめが原因だった。(略)
 バディ・ウィルソンはマリーが一番憎む、無分別な暴君になっていた。そして家庭内の衝突を回避するために、彼は父親と殴り合わなければならなくなっていった。バディの次男であり、父親を無条件に愛していたマリーにとって、それは恐ろしい任務であり、気の滅入る結末の苦い思いは、あとあとまで消えることはなかった。そうこうしているうちに、いつのまにかマリーは自分自身で道を切り開くチャンスを遅らせてしまっていた。
(略)
[ブライアン誕生後、マリーはグッドイヤー社で主任補佐に。新米にタイヤの仕上げ作業を教えていたある日、もたつく]
 新入りに悪態をつきながら、マリーはぐるぐる回るタイヤの台座の電源を急いで切った。その時だった、棒が機械に巻きこまれ、見習いのあやふやな手元から離れたかと思うと、台座からはね飛ばされたそれはマリーの目にまるで銛のように突き刺さった。(略)刺さった棒が抜け落ちるとともに、砕かれた目からは大量の血が吹き出した。(略)
まぶたはかろうじて無事だったが、医師は破壊された眼球を摘出することを決断、それは殼からクルミを取り出すように、すっかり膜から取り出された。
(略)
 バディと違って、マリーは自分の夢や野望に家族を巻きこみたがった。最初は自前の観客として、次に発信源として。だが彼のやり方はいささか変わっていた。赤ちゃんの息子たちが発する喃語〔意味不明の言葉〕や喉を鳴らす音を、片っぱしから歌にしてしまうのだ。ベビーサークルの中のブライアンの横に何時間も張りつき、ハモンド・ピアノを叩きながらあやしているのか檄を飛ばしているのかよくわからないその姿は、良く言ったところでかけ出しタレントのステージ・ファーザーだった。「これが父さんの新曲だよ。気に入ったかい? もちろん? そうか! じゃあ今度は歌詞を教えてあげよう。今に父さんの作った歌をお前が歌ってふたりで有名になるんだ! オーケー、いくよ」。

ブライアンの耳の障害

オードリーとマリーはそれほど熱心な信者ではなかったが、自分たちも幼いころはそうだったように、教会の雰囲気の中で息子たちを育てたいと思ったのだった。
 ブライアンの鈴を転がすようなソプラノが最初に見い出され、育まれたのは、このような場所であり、やがて彼はいくつかの教会の聖歌隊に招かれるようになった。
(略)
 ブライアンの正確な音程感は、右耳がほとんど聞こえないことを考えれば実に驚くべきことだった。この障害がわかったのは、クリスマスの聖歌隊教室で、人の話を聞くときに、やたらと左耳をそちらの方に向ける癖があることに気づいたときだった。ファミリー・ドクターは、突起した部分が神経を圧迫しているのが原因で、扁桃腺を切除してしまえば治ると診察したが、それは間違っていた。これについては諸説あり(そのほとんどがオードリーによるものだが)、先天性の耳の神経障害や、ブライアンが幼児のころに住んでいた119番通りの路上で、他の子供と取っ組み合いのけんかをしたことによるという説もあった。
 ブライアン本人は、彼が三歳の誕生日を迎える直前、マリーに反抗して右耳をひどく殴られたせいだと信じていた。彼の最も初期の記億のひとつが、この事件後いつも耳鳴りがして、疲れがたまると突き刺すような痛みに襲われることだった。

ラヴ家

[マリーの妹、エミリー・グリー・ウィルソンと結婚したミルトン・ラヴの父親の会社「ラヴ・シート・メタル」は軍を得意先としていたが、ホテルやカフェなどのキッチン・ハードウェアに進出、大成功]
地中海ふうの三階建ての大豪邸を建ててしまった。14部屋もあるラヴ家のヒルサイドハウスに、一列になっておっかなびっくり入場したウィルソン一家(略)
しかしそのときすでにラヴ・シート・メタルはトラブルを抱えていた。あまりの急成長が原因で、会社とクライアントの間で訴訟が絶えず、トントン拍子の成長が数年続いたあとは、業績も横ばい状態だったのだ。
(略)
ラヴ家は、ウィルソン家の間抜けな遺伝子を何ひとつ受け継いでいなかった。グリーは美人だが小粋で親しみやすい顔立ち(略)夫のミルトン・ラブは品のある顔立ちで(略)
 息子のマイケル、スタンリー、スティーヴン・ラヴはみな痩せて手足が長く、赤みがかったフサフサのブロンドは、カリフォルニアWASPそのものだった。
(略)
 両家の子供たちはそれぞれにお気に入りのホップ・ミュージック歌手がいたが、ブライアンとマイクが一番年長ということもあり、たいていは彼らの好みが幅をきかせていた。
[ブライアンがフォー・フレッシュメン、マイクはドリフターズなどの黒人グループ。](略)
ブライアンがマイクの家に行き、彼のベッドルームの壁に取りつけられた小綺麗な装飾が施されたパイン材のエクストラ・ベッドに泊まるとき、マイクは必ず自分のトランジスターラジオをベッドカバーの下に隠しては、ふたりでKGFJやKDAYなど、深夜のR&Bの放送局に耳を澄ますのだった。

次回につづく。