「反おもしろくない」でいけ、春樹批評 吉本隆明

吉本隆明未収録講演集第二巻。94年の「物語について」という講演だけ、あまり聴いたことのない話が多かったので引用。
前半が、当時出たばかりの『ねじまき鳥〜』についての話、ここらへんで読むのをやめられそうな可能性があるので、後半の、現代は大衆も高等遊民化し、漱石の時代のように、純文学作家がオレはお前たちとは違うと孤立できず、大衆におもねり通俗化しがちで、これから純文学が成立するには「反おもしろくない」でいかないと駄目かもという話が面白いよと前置き。
この講演だけ読むと吉本が春樹を評価してなかったようにとられそうなので、純文学界で評価されてなかった初期から評価していた、と念の為に書いておくw

村上春樹ねじまき鳥クロニクル

 それから[村上が]もうひとつ云っていることは、物語というのは起承転結といいましょうか、初めにイントロダクション、入り口があって、展開していって、A、B、C、Dと行って、Dのところにクライマックスがきて、それから終末がくるというのが昔話からの物語の定型ですが、じぶんはその定型の順序を変えている。初めにBがきたり、次にDがきたりという変え方をしたらどうかと考えて書いていると云っています。(略)
「流れがそういかないように筋道を抜いて物語を書いたらどうなるかということをじぶんはやってきた。断片的な告白、あるいは断片的な感想をつなぎ合わせて、それをひとつの長編に持っていってしまうという形に近いことをやろうとしてきた」と云っています。(略)
「日本の近代文学をたとえば漱石に象徴させて読んでみると、Aから始まってB、C、Dというところで、ギリギリに登場人物なり物語の筋道を追い詰めていってクライマックス、終局へいくというように、定型的で、しかも自我と外界の出来事のあいだの葛藤をギリギリ追い詰めていく、そういう小説が日本の近代小説の主流だ。じぶんはそれが主流だと思うと小説を書く気がしないし、書けなかった。順序を崩すことをじぶんができるようになり、それから中を抜いてしまって物語にすることをやれるようになって、じぶんの小説が初めて成り立った」という言い方をしています。
(略)
「自分は自我意識のレベル、つまり日常意識のレベルでの葛藤とか蔑視とかドラマとか、そういう処で作品を書いていない。それよりも、もっと無意識のほうに下がった処に主眼を置いて小説を書いている。そうするとじぶんの書いているような作品になるんだ」と云っています。
 村上さん自身はそう思って書いていますが、僕らがはたから野次馬として読むと、そうじゃなくて、やっぱり漱石流の、つまり近代文学あるいは西欧近代が培ってきた自我意識の葛藤と現在の風俗を非常にうまく取り混ぜてというか、折衷しながら作品を書いていると見えてしまうのです。
 だから意地悪く云えば、「漱石の作品は風俗小説と云えないけど、村上さんの作品は風俗小説と云えば風俗小説だよな。おもしろい風俗、奇妙な風俗が村上さんの小説を非常に引き立てているな」というように見えます。
(略)
[中条省平が『ねじまき鳥〜』を登場人物や事件のつづまりがひとつもついてない、曖昧なままで、小説の倫理に反すると全否定したことへの、村上の弁明が「漱石流の日常生活の意識的な自我と外界との葛藤とか事件を書こうとしていない」なのだろうと吉本]
 僕は、なぜ村上さんの作品がおもしろいのか、いいのかといった場合、意味論的にと云いますか、「こういう筋書きで、こうなって、この自我とこの自我がこういうふうに葛藤してこうなったんだ」という意味合いでの良さは、あったとしても半分で、あとの半分は、文体を流れている一種のリズムの気持ち良さです。それは何の意味もないというか、意味とはかかわりない一種のリズムがあって、それが停滞せずに流れていく。だから、いったんそこに入り込むと、終わりまでずっと流れに沿って、読み終わって気持ちがいいというか、心地良い感じで読み終わる。そういう要素が村上さんの作品にはあって、「半分はその良さだろう」と読めるのではないかと思います。
(略)
これで読めば、登場人物のつづまりがついていないじゃないかとか、こんなばかなことがあるかということはあまり気にならずに、リズムの流れとして気持ち良く読んでいけるところがありますから、それでいいんじゃないかと僕は思います。
 物語で云えば、半分無意識の領域のところで書いているから、そんなに因果関係が明瞭にならなくても、そんなことは夢と同じで無意識の領域ではいっぱいありうるから、つづまりがついていなかったり矛盾があっても気にならないんじゃないかということを、村上さんはあらかじめ弁明していると思います。
(略)
村上さんが漱石の小説とかじぶんの小説について触れている問題は、僕の物語についての考え方からすると「形態論」という概念の問題になると思います。
 形態論から云えば、「村上さんは形態を意識下にというか、無意識のほうに沈めて考えようとしたんだ」と云えば、非常にいい弁護の仕方になると思います。物語の形態とは何なのかということを少し説明します。
[以下「形態論」の説明省略]

漱石の形態論

 日本の明治以降の近代小説は、それこそ漱石なんか典型的に、最も遠くまで形態認識を展開させた人です。それをどれだけ近代化するかというと、近代的に独立した一個の自我の日常意識があって、自分以外のものを全部外界あるいは他者と考え、それとの葛藤が物語になっていく。実際にある形態、日常生活で当面する形態よりも物語の形態認識をもっと鋭く際立たせる。あるいは自我意識をもっと鋭く際立たせることを、漱石はとことんまでやったのです。
 つまり、漱石の小説の中における想像力は、そういうところにあると云っていいと思います。それがいちばん分かりやすい漱石の作品は『道草』です。『道草』はじぶんたちの夫婦の自伝小説だと読めば読めるような、あるいは私小説と読めば読めるようなもので
(略)
 川崎長太郎でも安岡章太郎でもだれでもいいのですけど、典型的な私小説作家がじぶんの家庭内外のいろいろな出来事を書いたりすると、ちょっと読んじゃいられないよというように、ゴチャゴチャしたことをグダグダ書いてちっともおもしろくないというふうに読めば読める。つまりルソーの『告白』みたいに、「告白なんだけど哲学書として読める」というものは、日本の私小説にはないのです。
 日常あった出来事をグダグダまんべんなく書いて、初めも尻尾も分からないみたいに書いているのが日本の私小説で、それなりの良さや特徴もありますけど、激石がそういう私小説的な素材、つまり家庭の内と外で起こった出来事を書くと、日常意識の形態認識にならないのです。
(略)
 存在論的なと云ったらおかしいですが、実存的な領域まで、主人公もひとりでにそうなってしまうし、奥さんもそうなってしまうという形です。人間の存在感というのはかかるものかという、存在感との間の葛藤みたいに読めるぐらい、『道草』は立体的です。
 漱石が書くと立体的だ。しかし日本のほかの私小説作家がこういう素材を扱っても、平面的な描写がダラダラ続くことになってしまう。これはどうしてかというと、形態認識が違うからです。要するに、現実の日常認識がまるで違う。あるいはそれを近代と云うなら、近代に対する身の置き方がまるで違うということになります。
(略)
同時代のほかの人、たとえば田山花袋みたいな当時の自然主義作家と比べるとお話にならないぐらい違います。田山花袋の小説は、いいものもたくさんありますが、どういうふうにできているかというと自然描写と、そんなに際立った自我ではなくて、日常ありふれて発揮される自我の日常的な葛藤を描いています。
(略)
 そういう意味合いで云えば、田山花袋の小説は自然描写と同じです。(略)
「そこに咲いていてきれいだった」という次元で出てきますけど、それと同じ次元で、日常の主人公たちの自我の表われ方が出てくるという形で小説が書かれていますから、平面的な小説だということになります。
(略)
 つまり、村上さんの小説は、現在の日本の文学の上等ないい作品なんだというふうに見た場合、村上さん自身、「漱石的自我、あるいは存在論的自我の葛藤ということを小説の本筋だとはじぶんは考えたくない。そうじゃなくて、人間の無意識がどんな事件を引き起こし、どんなことを考えるかということを描く。いまの時代なら、なおさらそういうものを掘り起こすことがじぶんの文学のモチーフだ」と云って、そう位置づけていますが、僕が客観的に見たら、そういうふうにはできていないよ、できているといっても半分ぐらいだよというふうにしか云えないと思います。
 要するに、漱石的な自我を近代小説の本筋とすれば、とことんやってしまっているから、「じぶんが小説を書くとすれば、こういう書き方をしたらそれ以上には出られないことは分かりきっている。形態的にちょっと違うようにしよう」と考えたことは確かだけど、それがうまくいっているとは、僕には思えません。
(略)
[村上龍他の作品にも軽く触れてから]
 つまり漱石流の自我認識に比べたらはるかに通俗的な自我意識のところで、ただ素材だけは現在だから違う風俗の素材だとか違う宗教の素材を持ってくるけど、そういう素材の新奇さというか珍らしさと、割合に通俗的な自我認識が合体してできあがっている作品が、いまいい作品だと云われているものの正直なあり方じゃないかと、僕には思えます。 

高等遊民

かつてだったら、これだけ作品を見事に描けたら、ひとりでに物語の形態認識としてもはるかに近代小説の認識を超えているというふうになるはずです。だけど、作家に対してそうはさせないよと足を引っ張っているのが現在の大部分の読み手というか、読者を想定するとかつての漱石時代だったらそういう読者はほんの小部分しかいなかったのです。
(略)
漱石自身はそれを高等遊民と名づけていますが、要するにこれは日本近代が初めて生んだ知識人なんです。フラフラして「考えることをしている」のですが、外から見たら何もやっていないでぼんやりしているのとちっとも変わらない。(略)
ただ遊んでいるだけにしか見えないけど、西欧の近代社会も、ロシアの近代社会も、日本の明治以降の近代社会も、必然的にそういう男たちを生み出してしまった。知識人というのはそういうものだ。
(略)
 その時代の形態認識では、漱石的作品は非常に意味を持ちます。(略)
 ところが現在は、考えることをしているというのは珍らしくも何ともないのです。極端なことを云うと、日本の国民の九割は考えることをしているというふうになっています。
(略)
 だから、「考えることをしている人間だ」ということだけに根拠を与えることはできないので、もしかすると非常に巧みにというか、非常にうまく、そういう意味合いでできあがった物語や近代小説の形態を壊すということが、本当は現行の小説あるいは文学作品の課題かもしれないのですが、なかなかそうはいきません。
(略)
九割のじぶんは考えることをしているんだという人が無意識に足を引っ張っているのです。
(略)
考えることをしているという多数派の九割の人に対して、小説家が「俺はお前らと同じように考えることをしているだけではないぞ」と示す孤独さと云ったらいいんでしょうか、それを保つのはものすごく難しくなっていると思います。
(略)
 作家といえども九割の中の一人であって、九割がお前は頭がおかしくなっていると云っているんだよと、じぶんで孤独になりそうなじぶんの足を引っ張ることになって、孤独になりきれないで、どこかで九割の人とじぶんがつながっているという意識を持ちたいのです。そうしたら、表現した物語の形態ははるかに通俗的になります。それは免れないと思います。つまり九割の人と同じ基盤でおもしろおかしくというのを持たざるをえないというのはものすごく当然なことですし、そういう意味では漱石時代の文学者より、本格的な文学というのははるかに難しくなっていると思います。
(略)
だけど俺は、本当は自我を考えるのは当然なんだというところで安んじている九割の人とは違う。俺はそこから元へ戻って、根柢的にそうなっているものをもう一回壊したいという課題をいつでも持っているんだ」というところで小説を書くのがいかに難しいかと云えば、また云えてしまうというのが現在の状態だと思います。
 村上さんは鋭敏な人だし村上龍という人も鋭敏だから、言葉で云えるかどうかは別として、たぶんそういうことに感覚的に気がついていると思います。自分はそれをやったんだよと云いたいし、そう思っているかもしれませんが、主観的にそう思っていることが客観的にそうかというと違ってて、僕はそれはうまくできていないと思います。
 ですから折衷になってしまっています。九割九分の人と根柢が同じところで孤独になろうと思ってもなりようがないんだよというところで、ちょっと気を許してしまっているみたいなところがあって、それは何かというと、近代的自我の確立で考えることをしているという一種の協業になってしまう。その二つがミックスしているというのが、骨組みだけ、形態論だけ云えば村上龍さんなり春樹さんの小説の本筋だと思います。
(略)
それはものすごく難しいから、知識で云えば一種の知識主義になってしまうし、どこかで九割九分の、あるいは九割の人と同じなんだということがじぶんの安心感になってしまいます。
 無意識のうちにそれが安心感になったら、作品の中でどんなふうに深刻めかしても、必ずそれは表われてきます。そうなってしまっているのが事実じゃないでしょうか。

つくられる無意識

そういうふうにできあがっている無意識を、何と呼んでいいか分からないのですが、一種のつくられる無意識といいましょうか。河合さんのユング心理学とかフロイト心理学は、「意識の下に無意識がある」ということですが、そうじゃなくて意識の上に無意識がある。つまりつくられる無意識というか、無意識のうちに無意識をつくらなくてはならない。その無意識は、意識の下に引っ込めてあってときどきそれが出てきて爆発するという無意識じゃなくて、じぶんが意識の極限まで行く。つまり「考えることをしている」ということを意味づけるとすれば、意味づけたもののもっと先のところに無意識みたいなものがあって、それがどうつくられたかは半分ぐらい分かってもあとは分からない。そういう無意識をつくるのが、たぶんいまの課題だと僕は思います。それはどういうものなのかとなると、手がかりがあるように思えると、またそれが遠ざかってしまうという形で、社会的にも個人の内面でも、考えることをしているということでも、なかなかうまくそれを捕まえることができない。

反復

親たちは捨てたつもりなのに[兄妹は石やパン屑を辿って]また帰ってきてしまう。そういうふうに同じ形の物語が反復するのが童話とか昔物語みたいなものの典型です。
 反復というのは物語の大きな柱です。それは目に見える反復もあるし、目に見えない反復があるものもあります。たとえば物語の筋道を、自分の自我意識のフィルターを通すわけですが、そのフィルターが非常に細かくて震えるように動いていると、そこを通過してくる反復というのは、ほとんど反復と気づかれない反復の仕方をします。(略)
反復がそこを通るときに通俗的な反復はそこの網の目を通れなくて、セレクトされてしまうということがあります。そういう小説は、反復なんかちっともないように見えますが、よく分析するともちろん反復があるわけです。つまり反復というのは昔物語とか童話に典型的なように、おもしろさということと対応します。物語をおもしろくするという形をもっと通俗的にすると、反復になってしまう。通俗的にして、子どもにも分かりやすくすると、童話みたいな形での反復や昔話みたいな反復になってしまいます。これを高度にしてやろうと、反復する物語性を高度に震える自我意識というか、繊細な自我意識のフィルターを通そうとすると、分かりやすい反復だけフィルターから除外されて、それを通りうる反復、目に見えない反復に近いものしか通れない。ですから、これは高度な小説と云われるものになってしまうのです。
 それは云ってみれば、通俗的な言葉で云うと、物語をおもしろくなくさせる要素になります。つまり村上さんの小説は、まだおもしろい要素がある。だけど漱石の小説はおもしろいというわけにはいかない。こういうのは深刻すぎて嫌だ、小説はおもしろおかしくなくちゃ嫌だという人はちょっと飛びつけない。うまいから飛びつけるということはありますが、飛びつけないということになりますし、まして近代的自我というか「自我の震えは繊細にして、かつ非常に存在論的に確立しているものだから、俺が書いた小説はものすごく高度なんだ」とじぶんで思っている人の小説も、やっぱりおもしろくないというだけのものです。僕が云いたいことは、そうじゃなくて、現在の小説は「おもしろくないの反対」ということが可能であるかどうかです。どう云ったらいいでしょうか。「反対のおもしろい」というのか、知りませんけれども、そういうことが可能であるかどうかが物語としての課題になると僕は思っています。
 近代的自我の延長線上で高度なものはいろいろありますが、たとえばカフカの小説は高度な震えの中を通過していきます。ですから反復なんて見当たらない。欠如しか見当たらないということになりますが、この高度さは、僕はおもしろくないという高度さだと思います。
 「おもしろくないの反対だ」という高度さではないと思います。「おもしろいの反対」は、子どもにはわからないというふうになるかもしれませんが、これは子どもがわからない高度な文学鑑賞だよとか、これを書くのは高度な人なんだよと思っているようなおもしろくなさというのは、僕は終わりだと思いますし、終わっていると思います。
 「反おもしろくない」というのはどういうことだ。ちょっと云いようがないなということになるのですが、それが現代の物語の課題であると思います。

反おもしろくないことというのは何なのか。形態というのは何なのか。形態の最も現代的課題は何なのか。パラ・イメージというか上からの視点を導入する、想像力に上からの視線を入れるということはどういう意味を持つか。つまり「反」というものに対してどういう役割をするか。そういうことにとにかくいろいろなところから手をつけて、そこに取り掛かりたいわけです。それが完全にできているとか、うまくできているとは必ずしも云えないんですが、僕自身が批評的課題として持っていることを云えば、そういうところです。