近代政治哲学入門 所有が自由にするのは…

「所有が自由にするのは……所有が個人を他の個人に対立させるのではなく、むしろ人間を結び合わせてそれぞれの所有に共同して目を向ける場合だけである」てなことをヘーゲルは言ってるよという話など。

実体から主体への革命は

近代になってヘーゲルとともに完成する。しかしその際、実体の役割すべてが主体の内で共に担われねばならないという困難が、依然としてあり続け、また強まりさえするのである。自然を越えた、すなわち形而上学的であったものが、今や自然それ自体の内へ取り入れられる。自然はそれと共に生きていかねばならない。このような形而上学的負荷によって、人間は哲学的重要性だけでなく政治的重要性も獲得する。ヘーゲルによれば主体が勝ち誇り、ライプニッツでは能動的力の構造の下にわれわれは生き、マキャヴェリにおいては力量が人間の重要な事柄となる。そのときこのような人間の解釈が意味しているのは、各人が主体としての実体の役割を引き受けたということである。この引き受けは個から全体への乗り越えであり、人間から世界への乗り越えである。そしてこの経過が世界政策という意味での政治である。この要求は大きすぎて、人間が応じることは難しい。しかし、こちらにはポリスあちらには野蛮人というような逃げ口上はきかない。
 部分は全体より大きいのである。各人は世界を単に表出しているのではなくて、世界を提出するのである。このように歴史が様々な出来事から編み出される。この様々な出来事が本来の歴史である。それゆえまた歴史を物語ることは、たとえ不可能でなくとも、難しくなったのである。

ヘーゲルが指し示しているのは、

自由をめぐる分岐点・新時代をもたらす歴史的切れ目である。人間は人間として自由である、これがキリスト教的経験である。しかしこの自由はさて何に基づくのか。へーゲルはまず第一に「人間は最高の自由へと規定されている」と言う。テクストの内で彼が種々言い換えをしている最高の自由とは、人間が神に対する自分の絶対的関係を見出し、神という「この精神を自らの内に住まわせることができる」ということと考えられる。しかしヘーゲルにとって、キリスト教的根本経験が問題になるのではさらさらなく、むしろそれを経験の世界[現世]へと移動させることが最終的に問題となるのは一目瞭然のことである。へーゲルはキリスト教的な自由の経験から現世的な自由の経験へと飛び移る。キリスト教信仰において生じることは、まさに「現世的現実存在の領域」すなわち国家、家族において出現しうるのである。
 われわれの見るところ、ヘーゲルは世界および歴史をキリスト教的信仰経験から考えるのではなく、本来その逆でキリスト教をも自由の原理から考えようとする。明らかにこの自由の原理は、キリスト教においてのみはっきりと現れる包括的原理、である。キリスト教は、一方で自由の現実性を指し示すのであり、他方で世界全体へと広げられねばならない新時代の痕跡にすぎない。「歴史は自由の意識における進歩である。」この点においてキリスト教は根本的な新時代である。しかし、ヘーゲルが可能と考えたように、これまで哲学の内に隠されていたが今やとりわけ意識においてしっかりと捉えることによって、現世における今、ここで実現されうるような自由の根本経験が人間にはあるのである。人間は自由の理念をもつだけでなく、自由なのである。キリスト教はこのことを明確にした。人間が自由であるのは、人間が自由についての「精神的意識」をもっているからである。
(略)
ポリスは理性の概念をもたらした、そしてキリスト教は自由の概念をもたらした。重要なのはこの自由をさらに一層実現することであり、これこそ歴史の歩みなのである。自由の概念の実現が歴史の最初の出来事であり、そして以後の歩みはすべてそこに含まれている。
(略)
人間と見なされることによって、人間はすべてである。ここにすでに最高の自由がある。人間が自らを人間と知ること、これが肝要である。
(略)
したがって、歴史とは自己知の歴史に他ならない。
(略)
歴史は、キリスト教で考えられているように、自らを越えていくのではなく、むしろ自らの内へと入っていくのである。歴史によって人間の自己知が与えられる。人間に到達可能な知の水準において、歴史は終わることになろう。

カントの理性批判の眼目

われわれは、ロックからマルクスまで近代の思考の歩みを辿ることで、所有の意志が破棄されなかったことを見た。マルクスは、使用価値の交換価値への転化を批判し、一種の反革命を望んでいる場合でも、所有を捉えて離さないのである。彼は労働と所有の関連を見ているが、その際に、世界は私的所有として領有され、社会は個人的な私的所有者へと解消されている。彼は、私的所有から共産主義的所有への移行を望んでいる。人間は、徹頭徹尾、所有活動という尺度の下で見られる。こうした点で、マルクスは、徹底化された仕方ではあるが、近代初頭以来根づいている根源に照応しているのである。
 マキャヴェリとともに、人間は、自己と世界とを人間に可能な最高限度で所有せんと尽力する。力量には、私か何を世界事象のうちの私の取り分として私のために完全に受け取ることができるかが示されているのであり、あるいは一見したところ全く別の思想を持ち出すならば、カントの理性批判の眼目は、理性の広範で外部から与えられた空間から人間の領域を区別画定し、人間をそこから際立たせることにあるのである。

人倫

ヘーゲル法哲学市民社会とその法との批判である。彼はこうした法概念との対決の中ではるかに進んだ自分の法概念を発見しようと試みている。
(略)
 市民法[市民的権利]は抽象法[抽象的権利]である。抽象的というのは、自由の外的形式しか与えないからである。自由はたしかに実現されているが、単に外的な自由としてである。これに対して道徳は内的自由の形式を示す。私は私を、一方では外的財において実現し、他方では善なるものそれ自体において実現するのである。この点に、自由の意識が外的財から私自身のうちの善なるものへと移行するという進歩を見ることができる。
(略)
 だが、善なるものはどのようにして、また、どこで実現されうるのか。ヘーゲルにとっては、人倫においてである。この人倫は、ヘーゲルが近代の政治理論に持ち込んだ新しい概念である。道徳はカントの根本概念であり、これはへーゲルも、法の第二段階として際立たせ批判する際に念頭においている。
(略)
市民は所有のために自らに合法性を措定する。道徳から見ると合法性は外的なるもの、作られたもの、目的に対する手段である。だが、人倫から見れば道徳も同じく外面性である。道徳もまた人間によって作られたものだからである。道徳はなんらかの外的な財の生産ではないが、善そのものの生産ではある。善なるものを意志し、善なるものを善なる意志の中でくるんでしまおうと意志するのは、自由である。善なるものは意志それ自体のうちにあり、それゆえ、世界のうちへと実現されるに至ることは全くない。ヘーゲルにとっては、道徳は合法性と同じく、「その真理がまず人倫である二つの抽象」である。
(略)
自由が法において実現されるのだから、今や財産に対する権利は法の一水準、一段階に過ぎないように思われる。法治国家が財産所有権にのみ配慮するのであれば、それはある特定の法段階に停留することになろう。だが、ヘーゲルにとって国家はさらに先へと進まなければならない。
(略)
人倫という概念においては、それが作られた領域ではないということ、法あるいはまた道徳のように人間が作ることのできる領域ではないということが強調されている。
(略)
人倫は法概念総体を規定している。ヘーゲルは、占有と所有との区別を行うことでそれを詳しく述べている。
 法が占有を所有にする。これは何を言おうとしているのか。

占有と所有

ヘーゲルから見れば、近代になって挙げられている所有(自由・生命・所有)は占有に過ぎないのであって、この占有は、たしかに権利に格づけされてはいても、究極的には法の自由のうちで実現されておらず、保障されてはなおさらいないものだったのである。それは自然権ではあってもまだ自由権ではない。
(略)
占有から所有への移行は、相互承認として生じる。それゆえ、法は承認に、法を宣言し実現している結びつきに依拠している。法は人間的結びつきのさらに深い根拠を、つまり人倫を、法のやり方で産み出すのである。
 ヘーゲル市民社会の所有関係を批判しているが、重要なのは十分に区別された批判である。彼は私的所有を、後に彼に倣ってマルクスが行ったように、解消し止揚すべき問題と考えているのではない。それでいて彼は批判の点ではマルクスよりも進んでいるのである。人間は「自分の所有、物を絶対的なものにする」傾向をもっている。所有は自由の一つの水準ではあっても、全面的なそれではない。所有が絶対化されると、再び占有の水準に舞い戻ることになる。というのも、そうした場合には、たとえばホッブズの自然状態の理論に記されているように、誰もが実際に人間的なるものの絆から切り離された生き物とふるまうからである。ヘーゲルは占有絶対主義を批判しているが、この占有絶対主義は、単にフィクションとしての自然状態やそこでの万物に対する自然権のうちにのみ存在するのではなく、市民的に近代化された状態のことであって、そこでは、物が自由の地位を横領する場合には、現にある物からそれ以上のものを作ることができるのである。所有は自由にするが、しかし、所有は自由そのものではない。自由の枠組み総体との関係では、所有は人倫という高次の段階によって満たされなければならない低次の段階なのである。所有が自由にするのは、所有が結びつける場合、いずれにせよ所有が個人を他の個人に対立させるのではなく、むしろ人間を結び合わせてそれぞれの所有に共同して目を向ける場合だけである。所有が自由にするのは、所有が必要なものとして経験される場合である。

次回につづく。