オンチは楽器がうまくなる 向谷実

こういう「ゆるーい」タイトル&表紙にした方が購買層は広がるんだろうけど、実際に音楽やってる人はスルーしそうで、ちょっともったいない気が。

オンチは楽器がうまくなる

オンチは楽器がうまくなる

 

一流音楽家にオンチは多い、グールドもコルトレーン小澤征爾も自分もカシオペアメンバーもみんなオンチだよと著者・向谷実(うーん、確かに坂本龍一もオンチだ)。

「小指特訓スケール」

困ったことが起きやすい指は、ピアノもギターも共通している。それは、小指である。(略)
そこで、必要なのが、小指の特訓だ。(略)
ピアノの場合は、左手でファソドレを繰り返す。右手はドレファソ。(略)
 中指を抜く(使わない)ところが、このスケール練習のポイントだ。(略)
 ギターの場合は、ちょっと難易度が高くなるが、いい練習方法がある。
 1本の弦だけを使う。1本の弦の、どこでもいいからフレットを中指で押さえる。中指はそのままに、半音高い音(1フレット上)を薬指で押さえて弾く。次は薬指を上げて、そのとなりのフレットを小指で押さえて弾く。この2音を繰り返す。実際にやってみるとわかるが、かなりキツい。薬指と小指はなかなかうまく連携して動いてくれない。
 これは、ちがう指でやっても有効な練習方法だ。人さし指を固定して、中指と薬指でもいい。しかし、こちらのほうがまだスムーズに動きやすい。薬指と小指のほうが、だんぜんむずかしい。だが、この2本がスムーズに動きはじめると、ギター演奏テクニックは、一段上のステージに上がるということなのだ。
 これは弦を変えても練習するし、フレットを変えても練習する。弦が変われば、手首の角度もちがってくる。どの弦でも自由に動くようになれば、理想的だ。フレットが変われば、フレット間の幅がちがう(音が高いほど短い)。どの位置でもできるのが理想だ。しかし、最初は、いちばん自由のきく弦、フレットで練習するのがいいだろう。(略)
プロになっても、この「小指特訓スケール」をやる人は多い。実際、これは、カシオペアのギタリスト、野呂一生君から聞いた練習方法なのだ。

音を「つかむ」

[よく「鍵盤を叩く」というが著者の感覚を]言葉で表現するなら、音を「つかむ」感じだ。
 最高に気持ちのいいライブの最中には、鍵盤に触るだけで指がスボスボと入り込んでいく感覚さえある。ぐっと指が沈み込んで、音をつかまえてくる。それがこのうえなく心地よく感じられる瞬間がある。(略)
じつはこの「指が沈み込む」感覚に、鍵盤楽器の醍醐味、魅力みたいなものが凝縮されているような気がするのだ。(略)
[シンセサイザーのように鍵盤に触れた瞬間に音が出る感覚の]「軽い鍵盤」を弾いていると、どうしてもテンポが走りがちになる。リズムをとるのが、むずかしくなる。
 反対に「重い鍵盤」で弾くときには、鍵盤が落ち込むストロークの微妙な間を埋めようとして、コンマ何秒か、突っ込んで弾くことになる。(略)この感覚がないと「鍵盤で音をつかまえて」いるような恍惚の状態にはならない。(略)
 さらに音色によってもアタックの感じを変えている。ストリングス系の音の場合には、アタックを強くして、立ち上がりのよい音、つまり即座にジャンと鳴る感じに音が出るようにする。
 逆にブラス系の音の場合にはスローアタックにして、弾いて、一瞬間があって音のピークが来る感じにしている。一般的には、ストリングス系はスロー、ブラス系はファストっていうイメージかもしれないが、ボクの場合は逆だ。

アドリブの極意は「絶妙の一音」

 はじめてアドリブに取り組むとき、まずは、いろいろ弾こうと思わずに、展開していくコード進行の中に共通するひとつの音を見つける。(略)
ずっと鳴らしていてもいい音は何か。それを見つけることだ。
 見つかったら、とにかく、その音を弾き続けてみる。もちろんここで大事なのが、「歌心」である。たとえば「ミー」と歌いはじめたあなたのソロがどこへ行き着くのか。それはあなたの「歌心」しだいなのだ。
 ボク自身、ソロを弾いているとき、16分音符や32分音符の細かいフレーズを4小節弾くよりも、むしろ、出だしの2、3小節をロングトーン一発で決められたときのほうが、圧倒的に満足度が高い。(略)
 そのタイミングで絶妙な音量、音色、音程の音がズバッと入った瞬間。(略)それができたときは、「もうほかになにも音を入れたくない」というほど気持ちのいいものだ。
 大事なのはたくさんの音を鳴らすことではない。ここでしか鳴らせない、絶妙の一音を探し当て、それを絶妙のタイミングで音にすることなのだ。

オルガン

 ボリュームペダルでしか音量を変化させられないオルガンで、どうやって、細かいアフタービートをこなすのか。興味があって、オルガン・プレイヤーに聞いてみた。すると、「そんなの簡単」という答えが返ってきた。
「音を弱くしたいところは短めに、強く聴かせたいところは長めに弾けばいい」(略)
 物理的には同じ音程の音、同じ音量の音でも、長さがちがうだけで、音量がちがって聴こえるのだ。結果として、ちゃんと裏のリズム、ンパ・ンパ・ンパというリズムを刻んでいるように聴こえるのだ。

メロディ

[カッコいいコード進行に合うメロディを作って]曲の全体を聴いてみると、「なんかどこかで聴いたことがあるような……」という結果になることが多い。(略)
 コード進行に制約されるから、メロディラインが自由に羽ばたいていかないのかもしれない。ともかく、コード進行先行型の作曲手順からは、新鮮なメロディが生まれにくい。
 まず、さっきも言ったように、1小節か2小節の、ほんの短いフレーズでいいから、和音なしの「裸のメロディ」をつくってみるのがいい。
 「裸のメロディ」は、和音という“飾り”がないから、既製の曲に似ていれば、すぐにわかる。(略)
 フックを発展させる方法としては、「音の長さを変える」という方法もかなり有効だ。
(略)
[さらに煮詰まったら]拍子を変えてみるのだ。
 4分の4拍子で考えていたメロディなら、4分の3拍子にしてみる。不思議なことにそれだけで、メロディはぜんぜんちがったものになる。(略)
[他には]たとえば、小節との関係。小節の中にきちんと行儀よくおさまりすぎると、メロディが退屈になってしまうことがよくある。
 そんなときは、できあがったメロディを、1拍、前の小節にずらしてみる。

「リズムオンチ」対策

まずは、「まるく円を描くように」リズムをとること。(略)
フラフープをゆっくりまわす感じで腰を回転させる。すると、自然にリズムに乗れるはずだ
(略)
こんどは、もっと細かいリズムを意識する。[口でリズムを歌う](略)
 この場合のポイントは、弱拍や休符も、きちんとカウントするということだ。
 よく、弱拍はカウントしても、休符をカウントしないという人がいる。(略)
 だが、鳴らすところだけカウントしても、タイミングが合うはずがない。また、乗り(グルーヴ)も生まれない。(略)
[ギターでは「空ピック」という技術を使うが]
 キーボードでは、そういうわけにいかない。(略)「空ピック」ならぬ「空弾き」などできるはずはないので、どうしても、リズムは悪くなる。
 だからこそ、キーボード奏者は特に、さっき説明した「からだ全体で円を描くように大きく乗ること」、そして「ツとタで、休符込みの細かいリズムを歌う練習」、この二つが欠かせない。

ハービー・メイスンに怒られた

[80年カシオペア5thアルバムのLA録音]
 プロデューサーは、ドラマーのハービー・メイスン。(略)
[24歳の著者は]吸収したぶんを、全部、自分の音楽表現としてアピールしないと気がすまないといった時代だった。
 当時、意識していた音楽理論のひとつが、アッパー・ストラクチャー・トライアドというハーモニーだった。
(略)
 レコーディングでも、右手の高音域でガンガン、テンションコードを押さえて「どうだどうだ!」という感じで演奏していた。
 するといきなり、ボクの右手がピシャッと誰かに叩かれた。振り向くと、プロデューサーのハービー・メイスンだった。
 「うるさい!おまえ。いまギターソロを邪魔してるのが、わかんないのか!」(略)
冷静になって自分の演奏を振り返ってみると、たしかにそのときのボクの右手が弾くテンションの音は、ギターソロの音域とかぶってしまっていた。
 しかもそのかぶったコードが、16分音符で刻まれる。要するにベースもドラムもギターもすでにいる場所に、ボクがガチャガチャと割り込んだ格好なのである。
 ハービーに叱られたことはショックだったけれど、それからボクは、バンド全体のアンサンブルというものを強く意識するようになった。
 リズムも、みんなに合わせて細かく刻むのではなく全音符を多用して、他の楽器がリズムを細かく刻んでいる間は、「ジャーン」と、一音を長く鳴らしておくような弾き方が多くなった。すると不思議なことに、演奏全体の中でのハーモニーがものすごく明確になったし、バンド全体が生み出すグルーヴもがぜんきわだってきた。
(略)
[よくソロの時が一番楽しいだろうと言われるが]
じつは、ちがう、
 ソロの演奏を後ろでもり立てるバッキングの演奏。これがじつに楽しいのだ。(略)
 よくサッカー選手で、「自分でゴールを決めるよりも、それをアシストする決定的なパスを出せたときのほうが気持ちいい」という発言をしている人がいるが、バッキングをしているときの気分は、そうしたサッカープレイヤーの気分に近いような気がする。
 とくにキーボードという楽器は、メロディと同時にハーモニーを奏でるのに適した楽器だから、周囲のプレイヤーに「パス」が出しやすい。ミッドフィルダー的な楽器だろう。 よくサッカー選手で、「自分でゴールを決めるよりも、それをアシストする決定的なパスを出せたときのほうが気持ちいい」という発言をしている人がいるが、バッキングをしているときの気分は、そうしたサッカープレイヤーの気分に近いような気がする。
 とくにキーボードという楽器は、メロディと同時にハーモニーを奏でるのに適した楽器だから、周囲のプレイヤーに「パス」が出しやすい。ミッドフィルダー的な楽器だろう。

メンバーの「よい部分」を引き出す

 バンドを結成して練習をはじめたばかりの頃、とかくほかのメンバーの「ダメな部分」にばかり目がいきがちになる。(略)
[だが欠点を指摘するより、よい部分を引き出すようにしたほうがいい]
 たとえばドラマーが、ハイハットを使ったフィルはとてもうまいのに、タムを使うとどうしてもモタるとしたら「ハイハット中心にやってよ」、指弾きよりもチョッパーが得意なベーシストがいたら、「チョッパーでちょっと盛り上げてよ」といってあげる。
 これは、「おだててのせる」ということとはちょっとちがう。(略)アマチュアのうちは自分の欠点ばかりが気になって、「よい部分」には気がつかないことが多い。
 もうひとつ。他のミュージシャンからよい部分を引き出そうと思うことで、相手の音をよく聴くようになるという効果もある。相手の音を聴いて、じゃあそこに自分はどのような演奏を合わせていくのか。
 「あいつのチョッパーを引き立てるためには、オレのピアノはどうバッキングしたらいいのか」と考えることが、アンサンブルの第一歩になる。相手の苦手な部分を、「なんとかしろよ!」と否定するだけでは、アンサンブルは完成しない。
 他のメンバーのよい部分、得意な演奏を見極める、いい音を引き出してあげる。そうした意識をもつことで、バンド演奏が楽しくなる。

ミュージシャンになる

 ところで、うちの子どもにはまったく「その気」がなかった。
 ボクには社会人の娘と、大学生の息子がいる。どちらも音楽を聴くことはたいへん好きなようだが、こと演奏となると無縁の人生のようだ。それでも息子はドラムを叩いたりして趣味として音楽は好きだけど、娘は演奏することにほとんど興味がない。
 幼い頃にはピアノも習わせていたが、ボクの生活を見ていて、ミュージシャンにはなりたくないと思ってしまったのだそうだ。
 自分では気づかなかったが、音楽のことで悩んだり緊張していたりすると、子どもにもその雰囲気が伝わっていたらしい。子どもたちは「とてもじゃないけど、あのせっぱつまった緊張感には耐えられない」と思ったそうだ。

 ボクをオルガン教室に通わせたのは、父親だった。
 父親自身は、楽器をやるわけでもなかったし、何か音楽に関わることをやってきたわけでもない。(略)
 ボクのオヤジは、北海道の厚岸という小さな町に生まれ、中学で上京してきて商業高校を出て明治大学の夜学に進んだ。役所でアルバイトをしながら、大学で勉強したのだ。そうとう努力したのだと思う。ボクなんかにはとうてい真似のできない芸当だ。
 戦争が始まって、オヤジは学徒動員で徴兵された。最終的には関東軍に従軍して終戦を迎え、その後約三年、ハバロフスクで抑留生活を送って、日本に帰ってきた。(略)
 オヤジが抑留されたハバロフスクは、幸運にもそれほど悲惨な状況ではなかった。
(略)
終戦後、公務員になったオヤジは組合運動に熱心になった。(略)
 もう一つ、オヤジの中に確実に芽生えたのが、音楽への思いだった。(略)
 「音楽ができるっていうことが、最も平和なことなんだよ」
 オヤジが実際にそう言うのを聞いたのは、ほんの一度か二度だったけれど、ようやく物心がつくようになった頃のボクにとって、強烈に印象に残る言葉だった。
(略)
 いったいなぜ、そんなに貧乏していたかというと、公務員だった父親が、組合運動に熱心になるあまり、「六ヵ月の停職処分」なんていうのをしょっちゅう食らっていたからだ。(略)
 そんななか、オヤジは、ボクに音楽を習わせることをやめなかった。その熱心さたるや、いまにして思えばちょっと異様とも思えるほどだ。
(略)
オヤジは、半年ほどオルガン教室に通わせたあと、強引にピアノに転向させた。ボクが五歳のときだ。(略)
オヤジは一念発起して、どこからか中古のピアノを買ってきてしまったのだからすごい。
 いまでも鮮明に覚えているが、そのピアノは、なんと脚が一本足りなかった。それで、棒のようなもので支えて使っていたのだけれど、音はなかなかのものだったと思う。
 そうして今度はピアノの先生のところへ通いはじめたわけだが、オヤジはいつもレッスンに付き添っていた。お金もない、しかも忙しかっただろうに、五歳のボクが先生の家でピアノを弾く横に、いつもオヤジが座っていたわけだ。
(略)
 オヤジにとって、ボクの隣でピアノを聴くことほど幸せを感じられる瞬間はなかったのだろう。
 はじめてオルガンで音を出したときの楽しさ、大きなピアノの鍵盤を押さえたときの驚き――。この時代の出来事の一つひとつが、ボクの音楽の原点だ。
(略)
はじめて大勢の人の前でピアノを演奏したのは六歳のときだ。[1962年](略)
 組合運動に日々忙しい父親は、こともあろうかストライキの決起集会に、幼いボクを駆り出したのである。
 場所は品川公会堂。場内は鉢巻をして赤旗を振り回すオトナたちが盛んにシュプレヒコールを繰り返している。オジさんたちの頭髪にべったりついたポマードの匂い、タバコの匂いが充満するなか、唐突にアナウンスが流れる。
 「さてそれでは皆さん、ここで向谷さんのご子息のピアノ演奏をお聴きください」
 そもそもそんな集会がおこなわれているステージの上に、ピアノがあること自体が場ちがいな話である。そのうえ、労働者たちの気勢が最も盛り上がっているさなか、七五三のような格好をした子どもが出てきて、ソナチネかなんかのピアノの練習曲を弾くのである。
 いまになってみれば笑い話だが、当時のボクにとって、それは「恐ろしい体験」以外の何ものでもなかった。
 まるで生贄にでもなったような気分でステージに出ていったボクがピアノの前に座ると、いつの間にかオヤジも隣に座っている。
 ボクの演奏に合わせて譜めくりをするオヤジが、これまた場ちがいな感じで、やけにうれしそうだったことも、やたらと鮮明に覚えているのである。
 人前で演奏することは、怖い――。
 これが幼いボクに刷り込まれた初ステージのイメージだ。