近代政治哲学入門 マルクスの人権批判

前日のつづき。

マルクスの人権批判

人間の権利、人権はブルジョア、所有市民、私的所有権者の権利である。市民の権利は「公民の権利」であって、人間はそれによって共同体に参与する。これに対して人権によっては、人間はブルジョアとしての自分自身にのみ専心する。「公民と区別される人間とは誰か。市民社会成員以外の誰でもない」と、マルクスはそっけなく答えている。
(略)
自由は人間を結びつけないで互いに引き離す。各人に、他人との摩擦を生じない最大限可能な自由を、ということである。「それは、こうした分離の権利、局限された、自己に局限された個人の権利である。」そして要約すれば、「自由という人権が実際に適用されたものは、私的所有という人権である。」
 こうした解釈からすれば、マルクスはそれ以外の人権すべてを、つまり、所有・平等・安全を個人の自由と結びつけることができる。所有という人権、あるいはマルクスが自から解明しているように、私的所有という人権は、「任意に、他の人間と関わりなく、社会とは独立に、自分の資産を享受し処分する権利、利己の権利」にあり
(略)
「安全は、市民社会の最高の社会的概念であり、社会全体はその成員の各々にその人格、その権利、その所有の保全を保証するためにのみ存在するという警察の概念である。……安全の概念によって市民社会がその利己主義を超え出ることはない。安全は、むしろその利己主義の保証である。」次いで、マルクスはこう要約している。「それゆえ、いわゆる人権のどれも、利己的な人間、市民社会の成員であるような人間、つまり、自己に、自己の私的利害と私的随意とに引き籠り、共同体から分離された個人であるような人間を超え出るものではない。」
 人権は市民権であり、市民権は私的権利である。それは、そもそも、徹底した自己本位を行う権利、各人間を他の人間に対立させて私的権利に導く権利でしかない。これは、実際、人間を抽象する権利であろう。ヘーゲルのタイトル[抽象法]は、ここにその最も極端な意味を見出したことであろう。この法は人倫からの抽象である、つまり、共同的な生活、つねにすでに結びついているが故に人倫的に結合する生活からの抽象である。
(略)
人間は人間的なるもの、類的なるものを目指して生きているのではなく、逆に類は、利己主義が発達し最高度の生産性へと発展できるようにのみ奉仕するのである。政治は利己主義に奉仕する。人間を結びつけているのは、政治的理性ではなく、権力利害である。
(略)
 1791年の人間と市民の権利宣言は、マルクスにとって二重にしかもいよいよ「不可解な」ものである。「自己を解放し、様々な国民層の間の障壁をすべて粉砕し、政治的共同体を建設することを始めたばかりの国民、そうした国民が、仲間や共同体から分離された利己的人間の権利承認を厳粛に宣言したことは、それだけでも不可解である。……公民資格、政治的共同体が、政治的解放から、これらのいわゆる人権の保全のための単なる手段へと貶められさえし、それゆえ、公民が利己的な人間の奉仕者と宣言され、人間が共同存在としてふるまう領域が、部分存在として振舞う領域以下に降格され
(略)
マルクスは自問する。「政治的解放者たちの意識においてはどうして関係が逆立ちするのか、また、目的が手段として、さらに手段が目的として現れるのか。
(略)
政治的解放は、同時に、市民社会の政治からの解放であった。……社会はその根拠、人間へと解消された。だがそれは、実際にその根拠であったような人間、利己的人間に、であった。市民社会の成員であるこうした人間が、今や、政治的国家の基礎、前提となる。このような人間が、そのようなものとして国家により人権の中で承認されている。」
(略)
人間は、宗教、財産、「営業の利己主義」から解放されるのではなく、むしろ、今や人権において、宗教、財産、営業の自由を宣言し、かくして、自らを私有財産権者と宣言する。
 人間は自らを市民と定義し、それ以外のことはすべてそこから説明しようとする。これが人権宣言の本来の内容である。人間が自らを根拠および前提と見なすが故に、人権は基本権であり、人間が市民的財産行為のうちに自らの自然的行為を見るがゆえに、人権は自然権でもある。マルクスはこうした点をすべて見ている。マルクスはそこに彼の批判を結びつけているのだが、それは、フランス革命は人間の解放の中途で立ち停まったというようにまとめることができる。

マルクスは、市民のうちに普遍的な法的人格を認めず、財産のうちに普遍的なるものを認めないのであれば、ヘーゲルよりも後退しているように思われる。次にまた、マルクスは類的労働を達成しようとして、過度に解放を進めようとしているようにも思われる。

ヘーゲルの法=権利批判

ヘーゲルは、彼以前の哲学者の誰も行わなかったこと、つまり、自由を法=権利において実現し、そのために法=権利概念を、市民と財産権者の抽象的な法=権利から国家および国家の人倫の具体的な法=権利へと拡張することを企てる。
(略)
国家を単に市民的国家と把握するのではなく、人倫的な法治国家と把握し、かくして、新たな水準の法=権利を展開しようと企てているのである。だが、ヘーゲルにはためらいがある。
 法的に捉えられるのは、究極的には外的なるものだけである。法=権利においては、形式化されることで外化が行われる。それゆえ、新たな法=権利概念への出発にあたってヘーゲルは動揺することになり、人倫的なるものをおそらく捉えることができない法=権利に対して、究極的には批判的な態度を保持する。
(略)
 ヘーゲル法哲学は、世界史への一瞥で終わっている。ヘーゲルが法=権利について語ろうとしているのは、単に「単なる市民法」ではなくて「道徳、人倫、世界史」としての法=権利なのだ、ということを想起しよう。世界史をもって終わることは、ヘーゲルが自分自身の哲学を転がしていった挙げ句に法哲学の最後に取り残された原石といったものではない。もちろん見通しは混乱してはいるが、同時に重要な意味をもっている。法=権利の歩みは国家において終わるのではなく、むしろ世界史において終わるのである。法=権利の総体は世界史のうちに存している。それゆえ、間接的ながら、ヘーゲルは、法=権利が歴史のうちに、それゆえ、「自由の意識の進歩」のうちにあることを示唆しているのである。自然法=権利と実定的法=権利とのヘーゲルによる媒介は、ここで比類のない形で証明される。自然法=権利は歴史において止揚される。今や、精神、活動、あるいは、主体性といった原理が、全面的な、それゆえ、開かれた生産性であることが判明する。歴史はつねにかつ依然として生起する。自然は終わり、歴史が始まる。

国家を現実的な個人として樹立

近い目標として国家を樹立し、次いで遠い目標としてこうした国家のうちでの人間の公共の福祉を期待する、というマキアヴェリの国家理論が今日もなお妥当することは明らかである。マキアヴェリおよびホッブズにとっては、当時の政治的危機から、さしあたり、また、ともかく、拠りどころのない状態の真只中での固定点としての国家が必要とされるのである。(略)
 こうした「国家一般の樹立」に関連して、ヘーゲルはまずフランス革命について、次いで直ちにマキアヴェリの君主について、そこでは権力が「純粋な恐るべき支配」であると考えた。「しかし、それは、国家をこうした現実的な個人として樹立しかつ維持する限り、必要かつ正当なものである。……こうした重要な意味でマキアヴェリ君主論には次のように書かれている、つまり、国家一般の樹立においては、暗殺、陰謀、残虐、等々と呼ばれるものが悪という意味をもたず、自己自身と和解せしものという意味をもつのである。」難解なのは、国家が現実的な個人と表現される際の現実的な個人という概念である。だが、ヘーゲルがそうした妙な表現で語っていることは、マキアヴェリの君主の国家から今日の全体主義的国家に至るまで、国家形成につきまとう根本問題なのである。個別性の誤った要求が多様で混乱しており、それどころかそれが不当なものであることに直面すれば、何よりもまず、現実的な個別性が措定されねばならない。(略)
イタリアは、「外国によって国土を踏みにじられ……独立を失っており、それぞれの貴族、指導者、都市が、各々主権を主張していた。」そして、ヘーゲルにとってはここで国家形成が始まるのであって、それは、こうした外国のまたそれゆえ誤った個別性、あるいはヘーゲルの言い方では主権が、すべて排除される行為なのである。「国家を創設する、つまり、これらの主権を根絶する唯一の手段。」ある一定の状態の除去、それどころか、ある一定の人間の抹殺は、単に否定的な行為だったのではなく、むしろ国家の実定化の一部だったのである。すべての施策は、ただ、国家の形成に、そしてまた、将来の人間の個別性すべての基礎にのみ奉仕するのである。

権力と代表

 なぜ自由かつ平等な人間として支配されなければならないのかという有名な問いに対する解答は、自由と平等は本質的に権力に基づいているという点にある。ホッブズでは、このことはとりわけはっきりとしている。したがって、ホッブズの説は民主制のその後の発展においても全く古臭くはなっていない。民主制問題に関しては、ホッブズにはすでに一種の代表民主制があることに注目すべきである。代表とは、権力が代表されること、つまり、ホッブズではリヴァイアサン、すなわち、自然的人間のために権力を組織する人為的人間において、代表されることに本質があるのである。
 人間は代表されるべきである。だが、代表という中途半端な問題にいつまでも引っかかっていないためには、人間は自分の権力を代理させることを意志するのだと、付け加えなければならない。その場合には、まさに代表においては人間の現前に成功していないと見るフランス革命の憤激も考量すべきであり、それについてヘーゲルは、次のような命題を打ち出したのである。「というのも、自己は、代表され表象されているに過ぎない場合には現実的でなく、代理される場合には存在しない。」
 ロックでは、多数派は単に権力を代表するのではなく権力なのであって、それは、まさに多数派が単に全体を代表するのではなく全体であるといった意味においてなのであり、われわれは、こうした権力の代表が問題なのだと主張する。

ルソーは、市民として書いている

ルソーは、すでにその最初の有名な文化批判の書を、それ以外の肩書をつけずに公刊している。市民として、また、市民のために書かれるのである。この市民という称号は新たな人間を表す全体概念であって、それは旧来の人間を市民にしようとするのであり、それと同時に人間は初めて現実に人間となるのである。私人の市民への止揚が起こる。私人の生命と所有の安全にとっては、結社の樹立で十分であるが、市民にとってはそれ以上のものが、つまり、社交性が必要なのである。
 万人と一体化するのは、自由になるためである。社会化は、人間の自由に奉仕する。この社会化は、人間の人間化の最終段階となるべき社会化なのか。いずれにせよ、ルソーによれば、人は自己を万人に譲渡することで、それによって失った以上のものを受け取るのである。

人は、自らを身体においてさえ改造する。生命のある単独の身体から、新たな政治的、集合的、道徳的な身体が成立する。
 ここで、ルソーは、身体概念を次のような近代的で複雑な意味で使用している。つまり、人間が自己を身体データヘと縮減するのは、そうすることで、世界関係すべてに入り込むための出発点、明確簡潔で人間が把握し所有できる出発点を得るためである、と。これは、すでにロックにおいて述べたことであり、ルソーは、ホッブズからロックに連なるこうした系列の上に完全に乗っていると見ることができる。だが他方で、ルソーは、人為的に組織されたという側面に対して、自然的で有機的な側面を強調している。

ルソーは、人間に人間国家を与えようとする。

その理論をルソーは、市民宗教を導入することで結んでいる。自分に可能であるがままにあろうとして、自己自身の上に立とうとする人間が、宗教、つまり、神的な契機を必要とするのは明らかである。その著作の中頃の立法者についての章で、ルソーは、立法者であるというこうした超人間的な任務にすでに目を向け、立法者を一種の神的人間の位へと高めている。いずれにせよ、宗教が利用されるのであり、ルソーは、立法者についての章の結びで宗教に政治の「道具」を見ている。社会契約は宗教を利用するのであり、社会契約は宗教との協約となる。すでにホッブズは、宗教と国家とを「一体化して、国家も政府もこの先善き状態であるために欠くことのできない政治的一体性へと、すべてを連れ戻」そうとしていた。ルソーは、この点では例外的にホッブズに完全に同意している。だが、この善き状態が達成されるのは、ただ、国家自らが宗教へと高められ、国家が「純粋に市民的な信仰告白を[与え]、その信仰箇条を定めるのは主権者に属し、しかも、それは宗教の教義としてではなく、それなくしては善き市民たることも忠実な臣下たることも不可能である共同体感情としてである」、そうした場合だけである。
 国家は宗教の荘厳さを身にまとう。実際に共同生活をするには、宗教が必要である。生存の感情は、今や道徳的状態においては、信仰の感情となった。私は社会を信仰し、社会は私に私の市民的信仰を与えてくれるのである。これが社会の主権である。
(略)
 ルソーは、人間を全体意志としての意志の上に立てることで、近代以降の国家の人為理論すべてから離れようとしたが、しかし、おそらく先例を見ない形で作るということの葛藤に巻き込まれたのである。何もないところでは、すべてをこれから作らなければならない。人間は自然により生まれながらに善である、これがルソーでは、人間はさしあたり無であるが、しかしその後はすべてになることができる、という意味である。かつて善であったよりもさらに善となることができる。人間はさらに人間となることができる。すべてがなお可能であるが故に、人間は全体的人間なのである。だが、人間はそれを契約によってなさねばならない。ここから、人間は全体主義的人間となる。社会契約は、同時に自然および宗教との契約である。それは全体的にして全体主義的な契約である。