スピノザと政治・その2

前回のつづき。

政治体は、内戦(「反乱」)(略)の潜在的脅威のもとでしか存在することができない(略)
政治体はつねに、外部の敵よりもそれ自身の国民によって、より大きな脅威にさらされている

支配するものも支配される者も、主権者[=最高権力]も国民も、等しく群集=多数者[マルチチュード]の一部をなしているのだ。

スピノザ

スピノザの哲学が今日有名なのは(また、かつて悪名高かったのは)、それが、「神」と「自然」を同一のものとみなし、すべての現実性をこの唯一の実体の「様態」として特徴づけたからである。すると、スピノザの哲学は、汎神論の一形態なのだろうか。それともそれは、徹底した機械論なのか。
(略)
すでにピエール・ベールは、スピノザの哲学をこう皮肉っていたのだった、「スピノザの体系では、〈ドイツ兵がトルコ兵を一万人殺した〉と言う人も、〈ドイツ兵に変様した神が、一万人のトルコ兵に変様した神を殺した〉という意味で語るのでない限り、まずい言い方、間違った言い方をしていることになる」、と。
(略)
権利に間する問い。スピノザは、その明白に政治的な著作のなかで、権利とは力能(集団の力能の場合もあれば、個人の力能の場合もある)のことにほかならない、と措定している。彼は端的にこう述べている、「たとえば、魚は泳ぐように、また大きな魚は小さな魚を食うように、自然から決定されている。しにがって魚は最高の自然権によって水を我が物顔に泳ぎ回り、また大なるものが小なるものを食うのである」と。
(略)
『神学・政治論』がその結論として国家権力の制限を唱えているのに対して、『政治論』の方はその結論として国家権力の絶対的性格を擁護しているのである。だとすれば、両著作が、それぞれ異なる理論的後継者をもつことになったとしても、驚くにはあたらないだろう。のちに、『神学・政治論』が「法治国家」の理論家たちによって重視されるようになったのに対し、『政治論』は「権力国家」の理論家たちによって重視されるようになったのである。結局ところ、スピノザの先の定義において逆説的な仕方で統一されていた二つのターム[「権利」と「力能」]が、また再び、切り離されてしまったということなのだろうか。あるいはそこまでいかなくとも、少なくとそれら二つのタームに関する解釈の方向性が、正反対のものになってしまったということなのか。

ホッブズ

ホッブズの考えによれば、「法と権利は、義務と自由が異なるように」正反対のものであり、対立する利害を有する人びとのあいだに安全性を行き渡らせるためには、自然権[=自然状態における権利]が市民権[=国家状態における権利]に――換言すれば、自然が「人工的な」法的秩序に――取って代わられねばならない、ということになる。スピノザは、ある決定的な書簡のなかで、自分とホッブズとの差異について、こう書いている。「国家理論に関して私とホッブズとのあいだにどんな相違があるかとお尋ねでしたが、その相違は次の点にあります。すなわち私の方は、自然権をつねにそっくりそのまま保持させています。したがって私は、いかなる都市国家の政府も力能において臣民ひとりにまさっている度合いに相当するだけの権利しか、臣民たちに対して有することはないと考えているのです。自然状態においてはこれがふつうなのですから」。ここで思い出しておきたいのは、スピノザにとって「政府」の形態は――それが君主にもとづくものであれ、市民の集合体にもとづくものであれ(後者の場合、市民たち自身が自らの「臣民」である、ということになるのだが)――、いかなるものでも構わない、という点だ。[諸個人間の]抗争から、力能の合成による協調へと向かおうと、生まれついての不平等から、市民的な平等へと向かおうと、その逆に、内戦や外敵による支配が進行することになろうと、いかなる状況にあっても、国家状態をつねに実効的なかたちで支配しているのは、さまざまな度合を有する自然権なのである。かくして、実定的権利と自然的権利とのあいだには、矛盾が存在しない、ということが明らかとなる。じっさい、実定的権利は自然的権利を廃棄するものではない。それどころか、実定的権利は、それが実効性を有する限りにおいて、自然的権利と同一のものなのである。
(略)
2 古典的な理論家たちが、歴史的または理念的な原初状態として考え出した、「自然状態」という概念――またこれは、ルソーの「高貴な野蛮人」のように、無垢の状態を意味することもあれば、ホッブズの「根性のわるい子ども」のように、よこしまな状態を意味することもあるのだが――は、スピノザの概念構成においては、徐々にその対象を失ってゆく。そして極限的には、スピノザ省察は、自然状態なき自然権という逆説に到達することになるだろう。
3 「群集=多数者」は、(ホッブズや他の多くの者たちの場合のように)「人民」の反対物ではない。野蛮状態と文明社会の対立といったものが、そこに重ね合わされているわけではないのだ。もっとも、スピノザが生きていたのは、動乱の時代である。そうした状況のなかで彼は、大衆の(公然的ないし潜在的な)暴力が突きつける問題を、公共空間の外部へと締め出すことによって処理することなどできないということを、はっきりと見抜いていたのだった。スピノザにとって大衆の暴力という問題は、政治の対象そのものを形づくるものだったのである。

そうした宗教上の狂信こそが、君主制派と結託し、迫り来る危機と戦争を前にした大衆の不安に付け入りながら、共和国の存立を脅かしていたものにほかならなかったからである。だが、スピノザがその経験をとおして――悲劇的なかたちで――自覚したのは、自分の恐れが空疎なものではなかったということ、しかしまた同時に、自分の呈示した解決策が幻想でしかなかったということであったに相違ない。スピノザは、デ・ウィット兄弟の虐殺について熟考しながら、以下の二重の結論に達したようにみえる。第一の結論は、1650年から1672年にかけてのオランダの共和政体が真の意昧での「民主制」ではなかったということである。じっさいにはそれは寡頭制にすぎなかったのであり、その不平等な形態じたいが社会的抗争の一つの原因であったのだ。第二の結論は(略)
大衆自身にその行為を理性的に規制する能力があるとみなし、彼らの自己統治能力を過大評価していたのだ。たしかに、これら二つの結論には互いに補い合う面がある。なぜなら、大衆の放縦がつづくのは、民主制の欠如のせいでもあるからだ。
(略)
 こうした状況を踏まえつつ(略)スピノザは、統治権が――君主制、貴族制、民主制の――いずれの形態をとろうとも、それぞれ異なる政治体制のなかで、いかにして自由が保証されうるのかを自問するようになるのである。しかし、そのさい、もはや自由は国家の「目的」として掲げられることはない。それに代わって、重大な関心事として前面に押し出されるのが、世俗的平和ないしは安全性なのである。(略)
いかにして政治体制の安定性を保証するのか――もっとはっきりいえば、いかにして諸革命を予防するのか――というものになるわけだ。
(略)
独特のひねりを加えてみせる。スピノザにとって「絶対的」と呼ぶことのできる国家とは、安定した個体性としてうまく自己を形成することのできる国家のことなのである。(略)
政治体にとっての最大の脅威は、外敵よりもむしろ内的な抗争(ゆえに自国民)にほかならない、というものだ。したがって、自国民の安全性を保証し、またその結果として、イデオロギー的闘争と階級闘争とを予防することのできるようなかたちで自己を組織化する国家のみが、唯一、安定した国家である、ということになる。
(略)
 こういうわけだから、『政治論』(略)には、自由の哲学から社会体の哲学へ、法権利にもとづく国家から力能にもとづく国家への移行が見てとれるのではないだろうか。だが、スピノザ哲学の観点からすると、まさにそうした区別こそが、不条理で愚かしいものなのである。
(略)
『政治論』は、[『神学・政治論』のなかに書き込まれていた矛盾]を乗り越えるための(目覚ましい)試みであると考えられるのだ。(略)概念的に思考することのできなかった他者を理論のなかに組み込むことによって成し遂げようとする。その他者とは、政治と歴史のなかで大衆と大衆の諸運動が果たす固有の役割のことにほかならない。『政治論』におけるスピノザにとって重要なのは、自由を安全性によって置き換えることであるよりもむしろ、自由を実現するための現実的な諸手段を探究することなのである。
(略)
諸個人の権利=力能が合成されなければ、政治社会は解体してしまうだろう(略)
諸意見の抑圧がイデオロギー的な争いに帰着し、さらにそれが革命と対抗革命の悪循環に帰着する(略)
それぞれの力能を合成させるための諸規則は(略)さまざまの意見のあいだのコミュニケーションを促進しつつ、諸個人の力能が公的な力能へと絶えず「譲渡=転送」されるプロセスを実現するものだ。
(略)
このようにして国家と諸個人は、絶対的な自律性を失うことになるわけだが、しかしそれは、虚構の自由、換言すれば、無力さを失うということでしかなく、その代わりに両者は、解放のプロジェクトに積極的に取り組むことになるわけだ。

すでに見たように、政治の「実質」を構成するものは、孤立した諸個人ではなくて、大衆なのである。しかも、大衆がもっとも頻繁に襲われる受動情動[=情念]は恐れであり、そうした恐れの体制に統治者も被統治者も等しく属しているのだ。この意味で、大衆はたんに統治者にとって恐ろしい存在であるばかりか、大衆自身にとっても恐ろしい存在なのである(「大衆は恐れをもたないときに恐ろしい」)。
(略)
ここでもスピノザは、諸個人を動かしているのは、結局のところ、自己保存の欲望であり、ゆえにまた自己利益の追求である、という考えを放棄してはいない。しかし、その一方で彼は、国家は諸々の「自立した」力能にもとづいて構築される、という考えを完全に放棄している。別の言い方をするならば、スピノザは、互いに並置された諸個人のあいだで取り結ばれる社会契約というアイディアにまだ残っている、自然状態というフィクションの残滓を一掃しようとしているのだ。
(略)
諸個人がその利害関心を自己表象するとき――いいかえれば、彼らが思考し、行動するとき、まさにそれは、つねにすでに集団的なかたちをとる、想像的認識の諸形態(希望と恐れで満たされた物語)のなかでなされているのである。
(略)
 大衆が十分に能動的である(つまりは、完全に制度化されている)とき、スピノザが権力の絶対と呼ぶもの、換言すれば、内的な安定性(略)が、国家に授けられることになる。しかし、この「権力の絶対という」概念は、静止状態よりもむしろ、「努力」(傾向)に対応するものである。
(略)
[民主化のための基本的原動力]は情報の流通である。まさに情報の流通こそが、統治体が行う活動とそれが決定を下すさいの動機に関して、最大限の公開性を保証するものなのである(ゆえにこれは、国家の秘密を唱える、あらゆる伝統に対立するものにほかならない)。しかも同時に情報の流通は、公的な事柄に関して国民自身が判断を下すように彼らを教育するものでもある。スピノザが明示しているように、権力を取り巻く秘密は、統治される考たちの無能力や暴力の結果などではなくて、まさにそうした秘密こそが、統治される者たちの無能力や暴力を産み出す原因なのである。

国家の安定性の欠如は、諸個人の無知と密接に結びついているからである。自分自身が何者であるのか、そしてまた他人との相互的な依存関係から自分がどのような作用を受けているのか、それらに関する諸個人の無知と、国家の不安定性は、不可分の関係にあるわけだ。
(略)
賢者の運営する自給自足国家とか哲人王といった考え方が、ともに馬鹿げたものでしかないことは明らかである。

マルクス:政治の他律性

ルソーからマルクスへ移行するさいに、ある逆転が生じたということである。さきに述べたように、マルクスがルソーの民主主義的なアンガージュマン[=政治参加]を、完全に意識的な仕方で(略)急進化したということが事実だとしても、あくまでもそれは、政治という概念の意味と方向そのものを逆転させるという条件の下でなされたのである。じっさい、まずルソーに関していえば、彼は、政治的なるものの自律性という構想を典型的なかたちで代表している。まさに彼こそが、「主権」と「政体」を分離し、「統治者」の第一位性を「被統治者」へと移動させることによって、この構想が古典主義時代の終わりのあとも生き延びることを可能にしたのであった。(略)
究極的には、政治は、人民とそれを構成する諸個人の能動性ないしは「構成的[=立憲的]」権力としてのそれ自身に合理的な仕方でもとづいている、ということになる。ゆえに、ここには、一種の「悪循環」が存在するわけである。すなわち、政治は諸々の政治的な概念と決定の自律性をその前提としているが、しかし、その自律性のための諸条件を創りだすのは政治自身である、というように。
(略)
だが、マルクスにおいて衝撃的なのは、このような伝統の深い影響を受けていた彼こそが、まさにその理論的表現を完全に逆転させてしまったということである。彼は、政治の他律性という構想を開陳するのだ。マルクスにとって、政治の「真理」と「現実」は、それ固有の内部に、つまり、それ固有の自己意識や活動性のなかに存するのではなくて、それ自身の外部に、いいかえれば、それにとって「外的な」諸条件と諸対象のなかに存するのである。このような政治の外部性こそが、政治を内的に構成しているのだ。
 マルクス唯物論の根本的側面はそこに存する。
(略)
社会的生産関係に内包された敵対性が、社会における社会的生活の全域にまで、その結果を及ぼしているのが実情であるとするなら、政治的実践の進むべき道はそれ以外にはありえないだろう。このようにして、われわれがマルクスから受け継いでいる、あからさまな逆説を次のように理解することができる。すなわち、その逆説とは、人民の自律性――その自己決定と解放――を政治の中心に実効的な仕方で組み込むためには、ラディカルな民主主義は、政治的なるものの自律性を支持することを断念しなければならない、ということである。マルクスは、人民の人民を革命的労働者階級として定義し、そのような同一化を中心に据えながら、政治の他律性の理論を構築するのだ。政治とその他者である経済との挑発的な唯物論的同一化にもとづく、この理論は、おそらく近代哲学におけるもっとも強力かつ完璧な理論である。
(略)
[マルクス主義が問い直される際]
スピノザの思想との対決が決定的に重要である(略)
スピノザは、すでに17世紀において、「政治的主体」を、民族=国民や人民と同一化するのではなく、より本源的=独自的な存在体である、大衆もしくは「群集=多数者」と同一化していたのであった。そのようにして彼は、その円熟期の三大傑作(『エティカ』、『神学・政治論』、未完の『政治論』)のなかで、政治(学)と存在論が交差する地点において、自律性と他律性のあいだのディレンマが引き起こすあらゆる問題に、彼なりの仕方ですでに遭遇していたのである。