スピノザと政治

スピノザと政治 (叢書言語の政治)

スピノザと政治 (叢書言語の政治)

『神学・政治論』にたえず誤解がつきまとうのは、ある特定の時代に帰属することなしに、自由という概念にそもそもの初めから重くのしかかっている曖昧さや二律背反のせいだけではない。『神学・政治論』には歴史的な重層状況の刻印がいたるところに認められるのであって、単一の領域に書きこまれた「純理論的」著作としてこれを読むことなどとうてい不可能なのだ。神学をめぐって白熱した論争が戦わされている。われわれはスピノザがこのアクチュアルな現場に介入してゆくのを目撃する。君主主義派と、カルヴァン派牧師たちによる「保守十全主義的」プロパガンダとが結託しつつある。われわれは彼がこの結託を萌芽のうちに断ちきってしまう措置を提案するのを目撃する。スピノザのこうした目標は、彼が当時そのなかにあり、また最接近したいと望んでもいた社会的諸集団――とりわけオランダ共和国の指導的エリート層――のそれと直結している。じじつ、このエリート層は、「自由党派」を自任するまでに勢力を拡張していたのである。彼らは、[スペインによる支配からの]国民解放闘争を継承し、「絶対主義」ヨーロッパでそのころ権勢を誇っていたものと類似した君主主義派の国家構想に対抗すべく市民的自由を擁護するとともに、個々人の良心の自由と科学者や学者の自律性を護り、さらには諸観念の自由な流通をもある程度まで保護してきたのだった。それにしても、「自由党派」とは何と驚くべき宣言だろう!しかし後に見るように、スピノザは「自由な共和国」の熱心な擁護者としてそれに深くコミットしていたにもかかわらず、その宣言を額面どおりに受け取ったりはしなかった。解答が自明なものとして含まれているような問題を見つけておきながら――つまり自由を、ある集団の政治、彼らの「普遍的な」利害関心と同一視できるという考えから出発して――、スピノザは、本来友であるはずの人々が標榜していたのとは真っ向から対立する言葉で自由を定義するまでにいたってしまったのである。いいかえればスピノザは、大義のために闘っているという、エリートたちのまさにその確信が浸っている幻想、これを暗に批判するまでにいたってしまったのだ。してみれば、『神学・政治論』――後に見るように、「革命の」書でありたいという願望などもってはいないのだが――が、一方にはただちに転覆的なものに映り、他方には有益である以上に厄介なものに映ったに違いないということに、ことさら驚く必要があるだろうか。

ここで主軸になっている考えは、『神学・政治論』全体をとおして主張される目標と合致するもの、すなわち、哲学と神学の二領域を根底的に分離することなのである。
(略)
さらにこれに哲学者にとってより気がかりな疑問が付け加わる。すなわち、哲学と神学とを分かつ境界線は正確にはどこをとおっているのか、という疑問である。
(略)
どうすれば認識が形而上学にのみならず、顕在的ないしは潜在的な神学にも依存しているということを認めずにすむのか。科学者――哲学者は、伝統的な神学的障害を遠ざけることで自足した結果、より巧妙なもうひとつの神学に再び囚われてしまったのだろう……。これこそデカルトに、そして後にはニュートンに訪れた事態ではなかったか。
 ここまでくれば、もうわれわれは、『神学・政治論』がその読者に残しておいた逆説にあまり驚くことはないだろう。それはこうである――神学的前提からこうして解放された哲学が適用される主要な対象とは、まさしく聖書的伝統の妥当性と、信仰の真の内容を問うことであろう! 哲学的合理主義の歩みは、極限にまで推し進められると、初めに定式化されていたこととは矛盾するかにみえる帰結を産み出すのだ。つまり、その目標が、「神学」というタームに含まれており、またそれによって覆い隠されている混乱を解消するとともに、「真の宗教」とは無縁の哲学的「思弁」として告発された神学から、信仰そのものを解放することになってしまうのである。
(略)
 聖書の教義は、高遠な思弁や哲学的思想をその内容としているのではなくて、どんなに鈍い精神の持ち主でも容易に把握しうる、きわめて単純な事柄のみをその内容としているのだ。だから私は……聖書のなかに人間のいかなる言語をもってしても説明することのできない深遠な秘義を見出したり、宗教のなかにあれほど多くの哲学的思弁を導入して、まるで教会が大学ででもあり、宗教が科学あるいはむしろ論争ででもあるかのような観を呈せしめた人々……の精神形態にはほとほと感心するほかない。聖書の目的は学問を教えることではなかったのである……聖書は服従以外の何物をも人びとに要求しておらず、聖書がとがめるのは不従順のみであって無知ではない。ところで、神に対する服従は隣人愛のなかにのみ存する……のであるから、これからして、聖書が薦めうる唯一の学問とは、この掟にしたがって神に服従しうるために何びとにも必要な学問……のみであるということになる。こうした目的を直接的に目指さないその他の思弁は、それが神の認識に関するものであろうと、自然的諸事物の認識に関するものであろうとも、聖書とは何ら関係をもたず、したがってそれは啓示宗教から分離されねばならない。……これはあらゆる宗教にとって決定的に重要な事柄である。(『神学・政治論』)

 きわめて居心地の悪い立場である。スピノザは、反哲学としてのみならず、反宗教として神学を攻撃しているのだから! 神学に対抗して思考する自由を擁護することから出発したわれわれは、哲学者たちをもその標的とする、真の宗教(依然として、啓示と結びついたものとして捉えられている)の弁護論にたどり着く! 真理を探求する人びとと、服従を実践する人びとの両方が向き合うべき唯一の敵対者とは、ある種の支配的な〈形而上学的−神学的〉言説であるといわんばかりに。こうしてスピノザは、神学者たちばかりか、大多数の哲学者たちにも逆らうという危険を冒す。それというのも、神学者たちは、宗教の諸対象を理論的対象に変形しておいてから、それらを理性的に思弁することによって生きながらえているからであり、また哲学者たちは、哲学を反宗教的言説に仕立て上げようとしているからである。
 しかしながら、いくつかの難問が残る。スピノザ自身にしても、それらを回避することはできないはずだ。信仰と、これを「迷信」に堕落させてしまう思弁との差異は、正確にはどこをとおっているのだろうか。
(略)
神学の形成をどのように説明するのか。宗教のなかに自らを堕落させてしまう傾向を前提するべきなのか。大勢の人びと(「俗衆」)のなかに神学者たちを権成づける理論的思弁への「欲求」を前提するべきなのか。神学者のような抜け目のない人間たちによって、大衆が操作されているにすぎないのだろうか。それともむしろ、迷信のなかに、「俗衆」の信仰と「学問的」宗教との相互依存――両者がともにその罠に捕らえられてしまっているような――の様相を認めるべきなのか。
(略)
 周知のように、恩寵の問題は、長いあいだ神学論争の主題でありつづけていた。人間が罪人であるとするならば(略)人間は神の慈悲によってしか救われない。(略)
だがそれにしても、「キリストのなかに生きる」とは何のことか。救済へと通じる「道」とは何か。(略)
こうしたきわめて古くからの問い(略)を、一段と切迫した問いにしたのは、宗教改革である。(略)
[カルヴァンにより]人びとの「行い」による救済という考えは(略)人間の思いあがりとして非難される。(略)
救済はつねにすでに神によって決定されている、いうならば、人間はあらかじめ「選ばれた者」と「捨てられた者」に分かたれているということらしい。
(略)
 『神学・政治論』のなかで、スピノザはこの論争[予定説と自由意志説]に彼なりの仕方で参加しなかったのだろうか。おそらくは参加したのである。けれども、彼が述べる諸命題はだれを満足させることもできなかった。(略)
「信仰が救いをもたらすのは、信仰それ自体によってではなくて、ただ服従を理由としてのみである。(略)……その結果、真に服従する者は救いをもたらす真の信仰を必然的に有するということになる。……このことからして、われわれは何びとをもその行為にしたがってでなくては信仰者あるいは不信仰者と判断しえない、ということが再び引き出されてくる」(『神学・政治論』)
真の宗教が伝える教義とは、じつに、神への愛と隣人愛とはじっさいには唯一同一の事柄であるということなのである。これは、自由意志の神学の方向を、あるいは少なくとも予定説批判の方向を目指すものであるかに見える。(略)
しかもスピノザは、懺悔とか、原罪の「贖い」といった考えには、いかなる場もあたえていない。じじつ、原罪はスピノザの図式からは根底的に排除されている。それは、人びとの行動が彼ら自身にとって悪いものであるときに付随して生じる想像的表象にほかならないのだ(つまりそれは、「不幸な意識」なのである。(略)
スピノザは、自由意志の信奉者たちに取り憑いた宿命論の残滓を払いのけながら、彼らのテーゼを極限にまで推し進め、彼らがキリスト教徒として容認できる一線をも越えてしまうのである。行いの宗教的価値をめぐるいっさいの問いは、現在の行動の内的な質へと連れ戻されることになるのだ。
(略)
[ヘブライ人たちの]「選び」(キリスト教徒には、神の恩寵によって個別に選ばれることの原型と映る)について論じながら、スピノザはこう断言するのである。「何びとも、予め定められた自然の秩序、換言すれば神の永遠なる指導と決定にしたがってでなくては、何事もなすことができないのだから、この帰結として、何びともある生き方を選んだり何かをなしとげたりすることは、他の人間たちのなかからその人間をその仕事あるいはその生き方のために選ぶ神の特別な召命によらずにはできない、ということになる」(『神学・政治論』)。するとスピノザは、今度は、予定説に同意しているということになるのだろうか。
(略)
[予定説とスピノザの説との]違いは一目瞭然である。スピノザは「神の永遠の決定」を、人間本性[=人間的自然」と対立させながら、恩寵と同一視したりはしない。真に強力な決定的一撃を加え、スピノザは「神の永遠の決定」を、その全体性と必然性における自然そのものと同一化させるのだ。(略)すなわち、神がいっさいを予定したと言えるとすれば、それはつまり、神は「永遠なる自然の諸法則」として理解されねばならないということなのである。「もし自然のなかに自然の諸法則の結果でないような何事かが生じるとすれば、それは必然的に、神が自然の普遍的諸法則によって自然のなかに永遠的に設定した秩序に矛盾するであろう。だからそうしたものは自然と自然の諸法則とに反するのであり、したがってそうしたものを信じることは、われわれをしていっさいを疑わしめ、そしてわれわれを無神論へ導くであろう」(『神学・政治論』)。神の力能についてのこれとは異なった考えは、神が自己矛盾したことを言い、人間のためにその固有の「諸法則」に背いたりもする、といった想像に再び陥ってしまう以上、すべて不条理であろう。したがって、そうした想像を共有する以上、カルヴァン派の神学もまた、その宗教上の「神中心主義」にもかかわらず、人間主義との妥協の産物にほかならないわけだ……。
 じつのところ、「寛大な[=人間の自由意志を容認する]」神学者も、予定説を唱える神学者も、それぞれ贖罪のなかに一つの奇跡を見出しているのである。前者は、自然の必然性(ないしは肉)に逆らって人間の意志がもたらす奇跡、後者は、堕落した人間の自由を「打ち負かす」べく、神の恩寵によってもたらされる奇跡を。敵対しあう神学者たちは、自然的世界と対立する、道徳的または霊的な世界というフィクションを共有しているのである。こうしたフィクションを取り除いてみよう。そうすれば、人間の自由と世界の秩序との関係をめぐる問いは、不安を煽り立てる謎であることをやめ、実践的な問題、容易に解決はできないとしても理性的に把握できる問題となることができるだろう。まさにスピノザはこれを証明し、実演しようとする
(略)
[神学者は]「神を指導者、立法者、王として、また慈悲者、正義者、等々として表象するにいたったのである。こうした属性はすべて、人間本性[=人間的自然」にしかあてはまらないものであるのに」
(略)
ある種の神学者たちは、神を、人間が愛の証を立てれば許しをあたえてくれるような融通のきく審判者とみなそうとした。
(略)
一方、あまり楽観的でない他の神学者たちは、神を、融通のきかない審判者と想像したのだった。誰が従順で誰が反抗的かを一度にきまぐれに決定し、人間からいっさいの現実的自由を奪い取り、それをそっくり掌中に収めてしまうような。
(略)
いずれにせよ神に帰されるのは、人間たち自身の相互関係における経験から借り出されてきた擬人化された振る舞いでしかない。(略)
そうやって彼らは、「神の心理学」という幻想画を描いているのだ。
(略)
このように人間の無力を自然全体に投影し、擬人的な神という逆立した像を結ばせることによって、神学者たちは最初の曖昧さをさらなる曖昧さで補ったのである。彼らは「無知の避難所」をこしらえたのであり(略)
神についての観念を完全に不可知なものにしてしまい、そうした曖昧さを神の本質を表す教義に仕立てあげるまでにいたってしまったのである。
(略)
すなわちそれは、神と人間とを媒介する不可欠の者、神の意思を唯一解釈できる者として立ち現れることができるという利益のことである。

 たいていの人間は、自分が真であると信じる意見を罪とみなされたり、自分たちを神や人間に対する敬虔へと駆り立てるものを悪と認められたりすることを、何よりも耐えがたく思うようにできている。だから、このようなことが起これば、彼らは法律を嫌悪し、政府に向かって種々のことを敢えてするようになり、またこうした理由にもとづいて反逆を企てたり、色々の非行を為したりすることを恥ずべきこととは思わず、むしろ立派なことと思うようになる。人間の本性がこのようにできていることが判明したのであるからには、意見に関して設けられる法律は、悪人ではなく自由な精神の持ち主たちを脅かすことになり、また、悪意ある者を拘束するためによりは正しき者を刺激するために設けられることになり、また、国家権力に対する大きな危険を伴わずには維持されえないことになる。(『神学・政治論』)
 このように、個人の自由に対して課される規制が暴力的になるほど、それに対する反発もまた、「自然の法則」に則って、どんどん暴力的かつ破壊的になってゆく。個々人が、いわば自分が他人であるかのごとく思考するように命じられるとき、彼の思考の生産的な力は破壊的なものになってしまうのだ。極限的には、諸個人の一種の(猛り狂った)狂乱状態と、社会関係の全面的転覆とがもたらされることになろう。こうした矛盾が深刻なかたちで表面化する場合がある。すなわち、世俗権力が宗教権力に吸収されたり、その逆に、世俗権力が宗教と競合する「世界観」を諸個人に押しつけることにより、否応なく宗教と同じ本性を有するようになったり、いずれにせよ、国家と宗教が一体化してしまう場合である。

次回につづく。
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