共和主義の思想空間

共和主義の思想空間―シヴィック・ヒューマニズムの可能性

共和主義の思想空間―シヴィック・ヒューマニズムの可能性

 

序章 甦る近代共和主義

マキャヴェッリ、グィッチャルディーニを先駆とするフィレンツェの共和主義は、絶対君主政に対立する思想としてヨーロッパ各地に影響を与えたが、18世紀に成長した自由主義思想と民主主義思想に次第に取って代わられた。(略)
20世紀の後半になって共和主義研究が始まったのは、自由民主主義のなかから全体主義と独裁を生んだ20世紀前半の政治的、社会的経験の反省に端を発すると理解してよいであろう。
(略)
とりわけ1980年代以降、公共性と公共圈の概念に注目が集まるとともに、共和主義が再検討され(略)
それは統治エリートの腐敗という現象とも無関係ではないが、より本質的には自由主義の勝利に伴う全般的な頽廃に対する批判理論が必要となったこと、自由主義と民主主義を媒介するものとして能動的な市民参加の思想が従来にもまして注目されるようになったことによるであろう。歴史の経験に照らして、民主主義は共和主義的な公共精神に媒介されないとき、たんなる数の支配に堕する。それはトクヴィルやミルが恐れた「多数者の専制」である。
(略)
ここでは18世紀の啓蒙の共和主義が議論の中心となる。とはいえ、共和主義は自明の概念ではない。それは元はといえば共和国という言葉の曖昧さに起因する。
 共和国の概念は歴史的にも曖昧であるが、現代ではいっそう曖昧となっている。北朝鮮を含め現代の多くの国は共和国を名乗っている。独裁国家も民主国家も「共和国」なのである。(略)
しかしながら、かつて共和国は専制国家に対立する概念であって、ルネサンスにおいても17世紀のイングランドにおいても共和主義は革新的な思想として登場した。

MM(『マキャヴェリアン・モーメント』)の刊行以来、ポーコックの研究は近代ヨーロッパ社会思想史研究に決定的な影響を与えた。(略)
[近代初期]ヴァーチュー(徳)があれば社会は活力をもって栄え、ヴァーチューが失われるとき社会は腐敗し崩壊するとしばしば理解されたのである。市民個人が自律して生きるには、経済的な自律・所有と武器が必要なだけでなく、自己完成が不可欠だとされたが、自己完成は個人的な精神修業ではなく、政治的共同体、公共世界への自発的参加によってはじめて可能になるとされ(略)
 このような思想は、その起源を辿ればアリストテレスにまで遡るが、ルネサンスの共和政都市国家フィレンツェにおいて、マキャヴェッリ、グィッチャルディーニのようなヒューマニスト(人文学者)によって古典的遺産のなかから再興され、それが近代国家形成期のヨーロッパ各地の知識人をとらえた。(略)
それが政治的自律の概念を不可欠とするシヴィックな思想になるのは、『ローマ史論』のマキャヴェッリからだとポーコックは主張する。(略)
 法制度でもなければ経済的な富でもなく徳が重視された理由は、戦乱に明け暮れたヨーロッパにおいて、強い公共心によって自己規律した能動的人間像が待望されたからである。
シヴィックヒューマニズムは、自然法や社会契約説の圧倒的な潮流に隠され、後世の思想家や研究者には明確には見えないものであった。ポーコックはマキャヴェッリに発する共和主義思想の契機と時機の変動の歴史、シヴィックヒューマニズムの伝承、影響と変異の言説史を、17世紀イングランドから18世紀大ブリテン、そして18世紀末から19世紀初頭のアメリカヘと緻密かつダイナミックに彫琢した。

第1章「平等なコモンウェルス」としてのオシアナ共和国

ジェイムズ・ハリントンの理想共和国論である主著『オシアナ共和国』(略)
[ブリテンの共和国体制は]国王チャールズ一世の処刑と同時に始まるのではなく、君主政の廃止は三月末、共和国の設立宣言に至っては五月を待つ必要があった。(略)[つまり事実上]始まった共和国体制は、明確な理念の下に組織設計を施されず、また、一気に設立されなかったので(略)
王党派の数次にわたる蜂起や、議会の支持基盤である軍隊の分裂などによる体制の動揺を乗り切るために、1653年にクロムウェルを護国卿(事実上の国王化)に就任させて、その性格をさらに大きく変える。このような事態に直面し、もともと明確な思想的統一性を持たなかった共和主義的政論家たちは、共和政に関する自らのヴィジョンを厳しく問われるに至り、偽の共和政と真の共和政――クロムウェル支持か批判か、議会と軍隊の関係、旧三王国間の関係、議会の構成(一院制かニ院制か、選挙制か任命制か、任期制か終身制か)など――を巡っての路線対立を起こす。(略)
クロムウェルの護国卿就任に際して、共和政の原理に反すると側近たちが不平を漏らしたところ、その原理とは何かを示さなければ自分は納得できないとクロムウェルに反論され、困った彼らは、ハリントンに対して、「真なる共和政とはどのようなものか」を示すよう求めた。こうして提示されたのが、現存する共和国の問題点を指摘・克服した『オシアナ共和国』である。
(略)
クロムウェルは、議会立法という通常手段ではなく、非常時の例外として、完全な共和国の設計・設立を一挙に行う(モーセやリュクルゴス以降の)最初の立法者となったとされる。
(略)
第一に、統治機構には設計という始まり=人為的かつ完全な制度設計が不可欠、第二に、立法者は統治機構の設立時にのみ無制限な権限行使が可能であり、その役目が終われば任を解かれ政治の舞台から退場するという立法者論が内包する理論的な帰結である。
(略)
コモンウェルスの設計者たる立法者が複数の場合は、各々が異なる設計理念に従って制度設計を行うので、出来上がった制度は内部矛盾を抱え込むことになる。また、完成に向けての漸進的な改良をコモンウェルスの制度に施した場合もまた、制度上の齟齬をきたし、コモンウェルスは自己崩壊に陥る。したがって、コモンウェルスは、単一の設計者によって、完全な設計図に従って一気に設立されなければならない。
(略)
重要なのは、ハリントンが、立法者の権限は、「個人的な利益や繁栄よりも公的な利益や繁栄」を目的とし、「正しく設計されたコモンウェルスの設立」のために行使すべきと強調する点である。つまり立法者クロムウェルの役割をコモンウェルスの導入に事実上限定し、自由なモデル設計をする余地は与えられていない。クロムウェルに実際に残されている任務は、ハリントンが『オシアナ共和国』で示す統治モデルの設立と自らの引退に過ぎない。
(略)
「堕落した人民は共和国を形成できない」とも言われるが、ハリントンによれば、人民の腐敗とは、ある政体と、そこで望ましいとされる個人の資質との不一致に過ぎない。したがって目下の課題は、共和国に相応しい市民的資質を発展・維持させる構造、つまり市民としての卓越性を示す場が十分に提供される構造を政体が持つ必要があり、その再建を通してこそ、内乱の終結と平和の回復の達成が可能となる。「よい統治機構が悪しき人間をよきものとするのに対して、悪い統治機構はよき人間を悪きものに変容させる」からである。
(略)
「『わたしたちによき人々をお与えください、彼らがよき法を作るでしょう』という考え方は、デマゴーグの原理なのであって、……極度の過ちに陥っています。しかし、『わたしたちによき制度をお与えください、それらがよき人々を作るでしょう』という考え方は、立法者の[採用すべき]原理なのであって、……もっとも確実で誤りのない」考え方なのである。
(略)
ハリントンによれば、法の支配は、共通の利益が何かの考察(審議)と、その選択(議決)の役割分担に合意するだけで実現する。そしてどちらの役割を担うかは、政治的営みによって明瞭となる。賢明なものが自ずと頭角を現し、世襲や財産ではなく、彼自身の優れた才能によってのみ元老院の構成員として選ばれる。(略)
 そして元老院議員は、人民の命令者ではなく、相談相手であって、提案、審議、鑑定、比較考量をその職務とする。しかし分割と選択とが同一人物によって行われるならば、平等を確保することは難しいので、「選ぶ」機能を代表する組織が別に必要である。これはコモンウェルス全体の利益を代表する「決議」の能力に秀でた者でなくてはならない。このようにして、知恵を代表する元老院と、コモンウェルスの利益を代表する民会とが、不可欠な統治の両輪として認識される。
(略)
 ここで強調すべきは、ハリントンの権限分割は、立法部内部の機能的対等性をも意味することである。「二人の少女」は「完全に対等な理性的能力」を持つものとして描写され、議会の両院は、心臓を形作る左右の心室にも例えられる。
(略)
ハリントンにとっては、二院制こそが議会の名前に相応しいのであり、元老院を特たない一院制の議会は、本来は議会とは呼ばれるべきではない。それは、むしろ「共和国ではなく寡頭政」の名に相応しく、党派的なものでもある

第2章 18世紀前半期イングランドにおける共和主義の二つの型

 名誉革命後の半世紀にわたるイングランドの政治思想を概観すれば、共和主義について錯綜する事情が見て取れる。(略)
この時期には共和主義の著しい退潮があった。これには、内乱を実際経験した旧世代の退場が及ぼした影響も指摘されている。また、何よりも、内乱そのものが、「社会の破滅と混乱の時代」[をもたらし](略)「王殺し」や「秩序破壊」の連想を伴って、肯定的に受け止められてはいなかった。
(略)
[ジョナサン・スウィフトは]「これら共和主義政治の衒学がわれわれに際限なく災いしてきた」と断罪した。(略)「日和見主義者」を自称したハリファックスの言葉を引くならば、イングランドにおいては共和制への「全般的な嫌悪」があったのである。
 共和主義へのこうした拒絶がある一方で、その部分的な受け入れも見られた。反君主制論者という意味での共和主義者はイングランドに存在しないと主張したトーランドであったが、同じ著書の中で、君主制と両立可能な意味におけるコモンウェルスマンの理念を次のように述べていた。
(略)
すべての統治は「コモンウェルス」か「絶対的世襲君主制」のいずれかに例外なく分類されるとしながら、「われわれの君主制コモンウェルスの最善の形態である」と断言した。(略)
トーランドによれば、コモンウェルスには民主制、貴族制、混合形態の三種があり、通常は君主制と見られているイングランドも実際には混合形態を採る紛れもないコモンウェルスである。むしろ、コモンウェルスを自称したかつての内乱政府こそ、その実態を欠いていたと言うべきである。先に触れた通り狭義の共和主義を否認したモールズワースも同様に、「全体の善が全体によって配慮される」という意味でなら、「コモンウェルスマン」の呼称を喜んで受け入れると述べていた。
(略)
このように再定義された共和制概念は、当時急速に一般化しつつあった混合政体論に基づく国制理解と十分に接合可能であった。
 さらに言えば、18世紀にはイギリスの政体を実質的な共和制と捉える見方も登場する。その例として真っ先に挙げるべきは、イギリスを指して「共和政が君主政の形式のもとに隠されている国」と呼んだモンテスキューの『法の精神』の一節であろう。この箇所は、二年後に刊行された英訳版では、「君主政の形式のもとに隠されている、共和国と正しく呼びうるような国」と訳されて、承認を受けることになる。これよりも少し前に、デイヴィッド・ヒュームが、エッセイ「イギリスの統治は絶対君主制と共和制のいずれに傾きつつあるか」(1741)を著し、共和制への傾斜の危険を訴えた時、表現こそ違っているもののモンテスキューと同様に、政体の外見とは別に権力の重心の移動を捉えようとしていた。付言すれば、こうした捉え方は次の世紀にも引き継がれており、例えばウォルター・バジョットは、「共和国が君主国の衣の下に徐々にはいり込んできた」と述べて、「偽装された共和国」の観念を支持した。そして、「君主のいる共和国」とも言うべき観念のある程度の流通は、人民の同意という条件の下に君主制を黙認するという急進ウィッグの政治信条を「理論的共和主義」と呼ぶことを可能にした。

第3章 新マキャヴェッリ派の経済思想と共和主義

18世紀後半には購入者の三分一がオランダ人であったとの推計もあるが、国債が国際市場で流通するには利回りの維持以上に価値低落のないことが重要で、これはすなわち低い利回りと利払いの節減を意味する。議会によって王の専制を牽制することができるという、混合政体としての名誉革命体制がもつ統治形態上の利点が、国際市場での信用を可能にしたのである。
(略)
債券市場の管理運営がまさにこの「信用」という一点にかかっており、国債を頂点とする債券市場の全体系の存続可能性が、国家という最大の被信用主体にかかっているという事実と不可分の関係にある。
(略)
名誉革命によるウィリアム三世の招聘は、英国を予想外の国際力学のコンテクストに放り込んだ。(略)英国は大規模な常備軍を持つ必要に迫られた。しかもそれは、国際情勢の根本的な変化が起きない限り、半永久的に続くと見られた。九年戦争の結果、オランダとの対立時代の終焉と、商業が他国に奪われたものを取り戻す手法であることが明らかになった。(略)政治算術という分野が生まれた。トレード(商業・貿易)が政論の中に大きな位置を占めるようになり、戦時には対外関係や国力の概念と結合されるようになった。
 ところが、戦争は今ひとつの、そしてもっと重要な認識をもたらした。1690年代以降の財政金融革命のなかで、国の繁栄が体制の安定、政府活動の拡大、戦争の遂行と結びついた。イングランド銀行が(国債引受機関として)創設され、人々は政治的安定に投資したが、そのことは、投資が利子を生む限りで投資自体によって強化されるという循環的メカニズムを出現させた。それが常備軍の拡大と官僚制の維持を可能にし、恩顧制の温床となった。投資が繁栄を可能にするとともに、繁栄が再投資を可能にした。
(略)
[常備軍論争]では、不労所得者が公債で生活する時代の政治の腐敗と債権者と株仲買人の結託が弾劾されるようになり、民兵制が賞賛され、戦争と商業が徳に与える影響、英国や欧州の将来が憂慮された。そして新マキャヴェッリ派の新たな時代への見方の特質が表れた。
 ポーコックによれば、ダヴナントはフレッチャーやデフォーを上回って当時最も野心的な新マキャヴェッリ派であり、戦争が腐敗的な金融を生むことに、より注意を集中した。ダヴナントはしばしば国債の増発が英国民を二大勢力に分割してしまったことを嘆く。
   共和国においても、人民のある一部が他の一部に過剰に借りを負うと危険である。だからローマではそれが暴動のきっかけになった。国が巨額の借金をし、それとは別の基金を裏づけに割符を債券として発行すると、通常公衆は大変な債務を負わされるとされる。だが実をいうと事態はそれとは違っており、より適切には、この手の基金は一国をふたつの層に分ける。その一方は債権者、他方は債務者である。
 金融業者が債権者、地主や店主が債務者となった。公的債務は地主が負担し、議会に人を送り出せる力のある人々に国が債務を負えば腐敗が最大になる。商人は利益を得るために借入を求めるが、公債が物価を高騰させるため投機の気まぐれと信頼の動揺に晒される。平時における常備軍維持費を賄う必要から公債が発行され、さらにそれを増発することに利益を見出す一団を生むが、彼らさえそのことによって依存関係の中におかれ、党争を通じて議会を無意味なものにしてしまう。また、国債が富をもたらすとしても、それは不動産である土地のように安定した富の源泉とはいえず、本質的に不安定な信用以外に基礎のない動産であり、いつ消失するかも分からない危険と隣り合わせなのである。

次回につづく。