リキテンシュタイン、マンガとの違いを語る

 『第一ポップ時代』第二章。
理論はよくわかるけど、そこから出てきたものが、村上隆だったり……というスッキリしない気分がいつも残るわけだがw

リクテンスタインへの批判

ハミルトンと同じくリクテンスタインも、世界内の対象よりはむしろ「あいだに介在する処理の様式」に関心を寄せていて、かつ「イメージはつねにひとつの全体性としてあつかわれる」。
(略)
リクテンスタインに向けられた陳腐との批判は当初、彼の取り上げるポップな主題に集中していた。近代の芸術家たちが(少なくともクールベ以降、もっとずっと前からさえ)民衆文化から素材をくすねてきていることは昔から容認されていたが、彼らがそうするのは、高級絵画の謹厳なる形式に、低級イメージのイキのいい内容でもってふたたび活力を吹き込もうとしているからだ、というのが通念であった――つまり、そうすることで低級のほうは拾い上げられて正当な存在理由を与えられ、ことによると賛嘆の念を集めるかもしれない。他方リクテンスタインのばあいは、低級な内容が高級な形式を圧倒しているように見えた。
(略)
[単なるコピーと批判され、著作権侵害で訴えられる]
既存のイメージをコピーしたのはまちがいない。それは本当だが、そのさいの手口は複雑である。マンガのばあいだと、通例、ひとつの段から一コマあるいは複数コマを選び、これらのコマからモチーフをひとつあるいは複数取り出してスケッチし、そうして描いた縮図(マンガをそのまま使うことは決してない)を反射式投映機でキャンヴァスに映し、途中変更を加えながら(だいたいは細い部分を消したり人物をフラットにしたりする)イメージを鉛筆でトレースし、網点や原色やいろいろに組みあわせた語(しばしばコミックスのなかの吹き出しや擬音語の叫びにもとづく)や太い輪郭線を(略)切り抜き型を使って入れていく
(略)
たとえばステンシルによるドットは、手工的と機械的との連続体のどこに位置づけるべきなのだろうか?
(略)
[手描きの]リクテンスタインのドットは、「手製の既製品(ハンドメイドのレディメイド)」というポップ的パラドックスを結晶化させている。

コミックとの違い

1963年、コピーしたとの非難を念頭に置いてリクテンスタインは、自分がどういう源泉を使うかをめぐって次のような重要な声明を発表した。「ぼくの仕事はかたちづけです。マンガはぼくが言うような意味ではかたちづけられてない。コミックスには形状はあるけど、その形状を強く統一されたものにしようという努力はぜんぜんない。目的がちがうんですよ。一方は描出を意図してるし、ぼくは統一を意図してる。じっさいぼくの作品ではマンガとちがって、痕跡(マーク)はみんな、本来とちがう場所にある。ちがいが小さすぎてわからないと言う人もいるかもしれない。ちがいはたいしたものではないことがほとんどだけど、でも決定的なんです」
(略)
ジャスパー・ジョーンズのばあい、酒場にある的といった卑俗なイメージだって、絵画として見てやれば、ポロックのドリップ・ペインティングの向こうを張ることができるのではないか、と提言するアイロニカルな性質のもので(略)反対にウォーホールのばあい、同じモダニズム絵画の高尚なる空間に、凄惨な自動車事故や主婦の中毒死といったザラつくイメージがくりかえしくりかえし登場してくることになり、その秩序転覆的な刃先はいまだに見る者を傷つける。リクテンスタインはジョーンズのアイロニー路線を採ってその強度を高めるが、ウォーホールのばあいとは異なって、絵画という問題がほとんど無意味なものになってしまうような地点にまでは行かない。ウォーホールのばあいと同様、リクテンスタインも高級な領域と低級な領域を並置してショックを与えるかもしれないが、それはあくまで前者の領域でそうだというだけである。ジョーンズのばあいと同様、肝心なのは、タブローにとって文化的他者であるもの(一コママンガ、広告、コミックス)が、意外にもタブローにぴったりはまってしまうこと――その結果パラドクシカルなことに、タブローとその他者の両方をかき乱すということである。このような仕方でリクテンスタインは、おそらくその先駆者や同僚の誰よりも徹底的に、モダニズム絵画の大半の構造を支えていた対立、つまり高級と低級の対立だけでなく、抽象と表象再現の対立をも混濁させる。

フラッシュラボ

[リクテンスタインが学んだオハイオ州立大のホイト・L・シャーマン教授は]
「最初期における重要な影響源」となった。ゲシュタルト心理学に着想を得てシャーマンは独特の知覚訓練技法を開発し、これを「フラッシュラボ」と名づけた。暗くした部屋のなかに学生を列にして座らせ、シャーマンはスクリーン上にイメージの連鎖を次々に投映した。イメージは平面的、だいたいは抽象的で、投映時間は一秒に満たない。(略)
[そのイメージをデッサンさせる]
奥行を計測するためには両眼が小刻みな注視点移動を行なう必要があるが、フラッシュはこれをあらかじめ防ぎ、視像をほとんど単眼的にする。シャーマンはこうした効果が「イメージや対象を簡単に「全体」として統覚できるようにするので、ひとつのイメージの形成にさいして負の空間が構成的な役割を果たしていることを学生がより強く認識し、三次元空間のなかで見たものを絵画表面の二次元という条件に置き換える工程を手助けする」点で有益だと考えていた。

ピカソのパロディ

[論争を呼んだのは]あらゆる芸術表象は――「パルテノン神殿であれピカソであれポリネシアの処女であれ」――すでに複製である、あるいは別の仕方で網撮り=濾過(スクリーン)されている、つまりハミルトンが言うように、「自分が手をつける以前にあらかじめそういうものとして作られている」のだとほのめかしたからである。モダニズムの表現・抽象形式には、機械複製がもたらすさまざまな効果に抵抗することを目的として開発された面があった。リクテンスタインは、そうした形式を機械複製のプレッシャーから保護することはもう不可能なのだという事実に強調を施すかのように(略)モダニズム表現・抽象の巨匠たちの印刷複製をマンガに還元したのである。リクテンスタインはこれを「白痴」版モダニズムと呼んだ。

 「ハード」で「感覚がバカになる」

1965年に曰く「アメリカは他よりもとにかく工業化が進んでいて、日常生活のすみずみまで行き渡っている」(略)
文化には「ハード」で「感覚がバカになる」側面があるとはっきり述べている。同時に彼が強調するには、こうした「あつかましくて脅威的な特徴…は、強引にぼくたちの暮らしに侵入してくる」。それだけでなく「こういう特徴には暴力的で、それにまた、たぶん敵対的なところがあって、これはぼくにとっては美学面で便利」なのだという。(略)
[脅威的な特徴を]「擬態的に転用」という言い方をするのはなぜかというと、ハードでプログラミング的でインパクトの強いものを擬態することは、リクテンスタインの操作の一部でしかないからだ。同じぐらい重要なのはこういう性質を転用すること、それらの仕掛けてくる「強引な侵入」を自分の目的にあわせて使い回すことである。

≪初期地中海美術の頭部≫
Roy Lichtenstein Foundation – Roy Lichtenstein Foundation
https://www.lichtensteinfoundation.org/images/belem55.jpg

エジプト、ミノアからエトルリアに至る初期地中海美術の様式ばかりか、ゴーギャンやビカソらがこれらの様式をモダニズムに応用している例も喚起し、こういう漠然とした参照をすべて圧縮して一筆描きのステレオタイプに詰め込んでいる
(略)
 リクテンスタインはこうした芸術と商業デザインの混淆をくりかえしくりかえしおさらいしてみせる。(略)ポップの時点においてはすでに、前衛のいろいろな仕掛けやモダニズムの諸様式はおおかた文化産業のガジェットになり果てていた……工業製品とイメージ、商品と記号は混成してしまっていて、ポップ絵画はこの構造上の等価性をなぞってみせたにすぎない……彫刻はかつては事物どうしの諸関係を探求するのに他のどれよりも適した媒体だったが、いまではこれまた商品に乗っ取られてしまった……ポップのオブジェにできることといえば、商品の効力を擬態することぐらいしかない

Torpedo...Los! - Wikipedia
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/c/ce/Torpedo...Los%21.jpg

紋切型とマンガ

「ヨーロッパの紋切型にすごく興味があるんだといつもぼくに言っていました」[ラトガース同僚アラン・カプロウ](略)
紋切型は「完全に芸術の対極にある」。他方、紋切型は「視覚的な省略表現」であり、「一種の普遍言語」を示唆している。この言語は「驚くような性質」を備えていることもあり、そういうばあいは「美的な要素」を含んでいて、発展させていくことができる
(略)
 古典的なかたちに…興味があります。たとえば理想的な頭像とか。…いや、同じものはマンガのなかでも出てきてるんですね。古典的とはいわなくて、紋切型といってますけど。(略)できるだけハードな原型を確立するためだと思うんですね。これを達成すると、作品が恐るべき感じに見えてくるんです。……ピカソはそういうことをやってるんだと思いますよ、ほんとは。
(略)
「ぼくの作品がキュビスムとリンクするのはマンガがキュビスムとリンクしているのと同じです」
(略)
「マンガの描き方とミロとかピカソとかいった人たちは関係があります。マンガ家のほうには理解できないかもしれないけど、最初のころのディズニーでも関係しているんです」
(略)
 作品の中心的な傾向を勘ちがいしている人が多いと思う。……たとえばコーヒーカップがどういうかたちなのかなんてことは、ぼくはどうでもいい。ぼくが気になるのは、そのカップがどういうふうに絵に描かれるか、何年も何年もかけていろんな商業アーティストがいろんなものをつけ足していったあとでカップがどういうものになったのか、商業アーティストは仕事のときにいろいろ便法を使うし、絵がヘタだったりする、あと、たとえばこのコーヒーカップは、機械複製されるうちに、何年もかけてこういうふうなイメージになってきたっていうこともあるわけで、その両方をつうじて、どういうシンボルが進化してきたのか、っていうこと、それだけ。だから描写されたイメージっていうか、結晶として出てきたシンボル。……ぼくたちの頭のなかには、商業化されたコーヒーカップっていうもののイメージがある。ぼくが描写したいのはまさにそういうイメージ。モノそのものを描いてることはまずない。モノの描写を描いてる――そのモノの結晶化したシンボルみたいなのを描いてる。
(略)
「このへんの色のなかにはスーパーのパッケージから採ったのもあります。パッケージラベルを見て、おたがいのインパクトがいちばん強いやつはどれか調べたんです。このばあい、広告は何よりもまずコントラストを作ろうとしているんだろうなという感じがしました。広告ってのはほんとに強烈に無個性なんですよね!漠然と赤っぽければ、リンゴでも唇でも髪でも何だって同じ赤になるっていう発想がいいなあと思いました」
(略)
「コミック本に描かれているヒーローたちはファシスト系です」(略)「でもこのあたりの画ではあんまりまじめに相手にはしていません――こういう連中をまじめに相手にしないということに何か意味があるのかもしれないですね、政治的な意味が」
(略)
「工業化には別に反対じゃありません。ただ、ぼくにもやることを残しておいてくれないとね」。「画をドローイングするのは、複製するためじゃないんです――再構成するためにやるんです。また、できるだけ変えないようにしています。変えるときは最小限にします」。
(略)
「ぼくはパロディ化しているように見えるけど、実はすごいなと感心している」。

次回につづく。