近代政治の脱構築 ロベルト・エスポジト

ルソー

わたしたちは、すでに述べたように、共同体を所有しない人びとによる共同体を生きているのだ。(略)
[このような認識の発端はルソーにある]
彼の著作はすべて、「共同体はわたしたちにとって必要であるが、わたしたちにとって閉ざされている」というこの恐るべき事実に言及するため、いや、それを声高に主張するためだけに書かれている、と言ってもいいほどだ。
(略)
「もしばらばらの人間が、ただ一者に次々と屈服させられていくとしたら、それが人びとの望みであったとしても、それは単なる「集合」であり、「結合」ではない。そこには、いかなる公的善も、いかなる政体も存在しない」とルソーが述べるとき、彼は、共同体のあらゆる概念の不在ばかりでなく、その暴力的な駆逐をも、ホッブズに帰そうとしている。
(略)
ホッブズ的個人は、彼らの共同の善を抹殺することによってのみ、みずからの生命を救うことができるのだ。
(略)
ルソーの後期の著作のなかで強迫観念的に繰り返される、孤独な生活へのあくなき宣言でさえもまた、共同体の不在にたいする静かな抵抗という調子を帯びている。共同体が存在しないがゆえに、あるいは、存在する共同体のあらゆる形態が、唯一の本物の共同体とは正反対であるがゆえに、ルソーは孤独なのだ。
(略) 
ルソーが幸福と判断する唯一のものは、非社会的な状態なのではないか。まさにこの点にこそ、ルソーの本来の意図が破局をきたす原因がある。個人の形而上学から共同体の哲学が生まれることはありえないのだ。前提とされる個人の絶対性が、共同のものへとつながることはありえない。
(略)
固有の絶対性の内部に閉ざされた個人という、形而上学の例の前提から出発するなら、ルソーの政治的共同体は、全体主義的な可能性へと折り返される、ということである。当然のことながら、ここでわたしは、二十世紀が結果として経験することになった「全体主義」の特殊なカテゴリーのことを言っているわけではない。事実、よく知られているようにルソーは、国家権力のあらゆる濫用から市民を擁護しようと、つねに努力していた。さらに彼は、個人に向けられるいかなる権威的な欲求にたいしても、これを自動的に矯正できるものとして、「一般意志」という概念を採用した。かくして、共同体を構成する部分としての個人は、意志のあらゆる命令が彼自身からもまた発せられたものであるという事実によって、その存在を保証されることになる。(略)
原−全体主義的な危険が浮上してくるのは、共同体的な規範を個人的な規範へと対置させる場においてではなく、二つの規範を重ね合わせる場においてであるということだ。この重ね合わせによって、共同体は、孤立し自己充足した個人という輪郭のもとで構想されることになるのだ。
(略)
共同体への彼の激しい要望は、共同体の神話のうちへと転覆してしまう。その神話とは、まさしく、みずからにたいして透明な共同体という神話であり、そうした共同体において、各人は、自己の共同体的陶酔を他者に伝達しているのである。これこそまさに、絶対的な自己内在性という夢想である。
(略)
他者は、もはや他者ではない。というのも、彼は一者の部分にすぎないのだから。
(略)
ルソー自身、この心の共同体を政治的な共同体に置き換えることをつつしんでいた以上、その危険性に気づいていたようである。
(略)
まさにこのゆえにこそ、民主主義は明らかに実現不可能なのである、神の人民でもないかぎりは。よってルソーは、こう結論づけることになる。いわく、「その言葉の意味を厳密に解釈するならば、真の民主主義はこれまで存在しなかったし、これからもけっして存在しないだろう」、と。

カント

 ルソーが暗黙のうちに示していた矛盾を意識的に引き受けつつ、また、それを極端な結果へと導きつつも、カントはそこからそう遠くない結論へとたどりついた。(略)
「わたしたちが、自らの思索を伝える他者とともに思考するのでないとしたら、多くを思考し、良く思考することができるだろうか。何がわたしたちを彼らの一部とするのだろうか」。共同体の外で思考することはできない。このことはカントが示した前提条件であり
(略)
リュシアン・ゴルドマンにとって、「完全性に到達することも、それを実現することも不可能だが、それは絶対に必要だというのが、カントのあらゆる思想の出発点を形成している」とするなら、アレントにとっては、人間が世界に本質的に参与するという意味で、社交性とはたんなる目的ではなく人間性の起源であるということになる。アレントに受け継がれるカントの新しさは、隣人との依存関係を必要や利益の領域に、つまりあらゆる功利主義の理屈に従属させてしまうような理論と、きっぱり決別した点にある。そうした理論に抗してカントは、判断とは他者の存在を前提としていると断言するのである。
(略)
要するに共同体は、わたしたち人間という存在を構成しているのである。カントは、確たる自覚をもって、ルソーの直感を全面的に受け入れている。
(略)
カントにとっても、いや、むしろカントにとってはなおさらのこと、共同体とは、必要であるにもかかわらず不可能である。(略)
それゆえカントは、ゴルドマンもまた結論づけているように、ヘーゲルマルクスを結ぶ線分とは根本的に対立する、悲劇的思考の源流となる。(略)
カントは、共同体を歴史主義的に解釈しようとする統計的な傾向――ヘーゲルの場合は国家の内部で、マルクスの場合は国家に抗して――にたいする砦となるのである。
(略)
 「けっして十全なかたちで実現されることのない、倫理的共同体という崇高な観念は、人間の手のうちですっかり矮小化してしまう」というカントの主張は、真の民主主義を実現することは不可能であるという、すでに引いたルソーの主張と並べて読まれるべきである。しかも、状況はさらに深刻である。というのも、カントにとっての人間とは、ルソーにとってのそれとは異なり、生来ひねくれた存在であり、したがって自然状態とは、ホッブズにとってと同様に、戦争状態の一種だからである。こうしてカントは、自然の起源にたいするルソーの肯定的な言及をも却下し、政治的状況を治療不可能なアポリアヘと追いやる。
(略)
両者は原則として異なるもので、したがって、政治的共同体は市民をむりやりに倫理的共同体へと参入させることはできない。
(略)
両者の一致を提起することは無謀である。リオタールがいうように、「あたかも〜であるかのように」という脆い橋を架けることによってしか、倫理のフレーズを、政治のフレーズや認識のフレーズと結びつけることはできないのだ。
(略)
自由とは、その本質からして無制限であり、政治の責務とは、自由をその反対物、すなわち抵抗することのできない権力でもって制限することだからである。それゆえ、カントの考える国家が力と強制によって創設されることは、偶然ではない。(略)繰り返すが、国家はあたかも、そしてひとえに、人民の共同の意志に由来するかのようにみえるのである。
 自由――これこそカントとルソーを隔てている観点である――は、悪と分かちがたく結びついている。(略)
もし人間が自由に生まれついているならば、その根源にあるのは悪でしかありえない。このような意味において、わたしたちがここで罪と呼んだもの、すなわち、わたしたちがそこに由来しそこへと向かわざるをえない、共同性の不在としてのわたしたちの欠乏=犯罪
(略)
法は、わたしたちの主観性=主体性を蝕み、脅かし、ばらばらにしてしまう。それはわたしたちの外部から到来し、わたしたちを、わたしたちの外部へと導いていく。(略)もっと過激な言い方をするならば、法は全面的に履行不可能な事態を規定することによって、ある意味で、反旗を翻そうとする主体の解体を命じているのである。法は、継続的な不履行という規約を主体に命じる。それはつまり、帳消し不可能な負債である。
(略)
法の前での、また法の側からのこうした主体の縮小は、一方では法の履行を阻止し、また他方では共同体の逆転した――非政治的――形態を浮き彫りにする。それはまさしく、不履行、欠如、有限性を抱えた共同体である。ルソーにおいてはいまだ手つかずに保存されていた、主体の個人的限界を打ちくだき、完成へのその渇望を骨抜きにすることによって、法は、いってみれば、まさしく履行不可能性のかぎりにおいて、共同の存在の別様な顔を、人類に向けて開示するのである。人類が共有するものとはいったい何か。カントならこう答えるだろう、共同体を実現することの不可能性である、と。すなわち、人類とは有限の存在であり、死すべき存在であり、「時間のなかの」存在なのである。

ここらへんまでで1/3。もう少しやるつもりだったけど、頭痛で終了。