英語化する世界、世界化する英語

順番を飛ばして個人的に面白かった第9章から。

英語化する世界、世界化する英語

英語化する世界、世界化する英語

 1752年、『ジェントルマンズ・マガジン』誌で、ある作家が「白いアメリカ人」と述べ、それから「わたしがアメリカ人と言っているのはアメリカ・インディアンのことではなく、イギリス人の両親を持ちアメリカで生まれた人のことを意味する」と説明した。この説明は衝撃的だった。(略)
1756年から63年までの七年戦争の間(略)アメリカ先住民はイギリスの側に立って植民地開拓者を相手に戦った。そして、「アメリカ人」というレッテルは先住民ではなく、イギリスに反旗を翻して移住した白人に貼られるのが普通となった。(略)
[米独立まで]イギリス英語という概念はなかった。イギリス英語はただ英語と呼ばれていた。アメリカ独立への動きは言葉の戦争としてだけではなく、言葉についての戦争として始まった。(略)
国家としてのアメリカを設計したひとり、ベンジャミン・フランクリンが印刷工で新聞記者だったことは意義深い。というのは、アメリカ独立戦争印刷機は他の武器と同じぐらい重要だったからだ。暴力の前に雄弁術あり。書くことは独立への種をまき、イギリスの規則の不公平さについての物語を寄せ集めた。
(略)
ジョン・ロックはすべての人びとは自由と財産の権利を持っていると論じ、また同時に、公共の利益を育まない政府は取り替えることができると示唆している。独立宣言は結局、ロックの原則を奉ることになる。
(略)
 アメリカの権利をもっとも激しく主唱したのがトマス・ペインだった。ノーフォーク生まれのペインは最初の37年間は何をやっても――タバコ屋でさえ――うまくいかず、1774年にアメリカに移住した。それが、移住してきてから二年もたたないうちに『コモン・センス』というアメリカ独立を要求するパンフレットを出すと、それは三ヵ月の間に15万部以上売れた。ペインは情熱的にアメリカの大義のために闘い、『コモン・センス』は大きな影響を与えた。とくにその執拗な文体が、見慣れた政治的議論の言葉とはあまりにも異なっていたからだった。「われわれは世界をもう一度始める力を持っている」と彼は書いた。「新世界が誕生する日はもうすぐだ……ホイッグの名もトーリーの名も消滅させよう。そしてわれわれの間では善き市民、率直で大胆な友、人類の権利と自由で独立したアメリカ合衆国の誠実な支持者という名だけで呼び合うようにしよう」
 15年後、『人間の権利』の中で、ペインは事の成り行きを思い起こして「アメリ憲法と自由の関係は、文法と言葉の関係と同じだ」と述べている。自由を生み出すための憲法の役割は「品詞を定義し、実際にそれらを構文に仕立て上げることだ」と。
(略)
1774年に匿名の作家がアメリカ言語協会の創立を提案し、次のように述べている。「英語は一世紀の間にイギリスで大いに発展したが、人間の知識の他のあらゆる分野とともに、それがもっとも高い完成をみるのは光と自由のこの「国」に委ねられているのかもしれない。

H・L・メンケンは、彼の大著『アメリカ英語』の中でこう述べている。「初期のアメリカ移住者たちは、言葉の正確さをおおらかに無視し、それがそれ以来、子孫たちの特徴となっている」。彼はこの例として、彼らが「動詞を名詞に、名詞を動詞に、形容詞をそのどちらか、または両者に」替えていることを挙げている。
(略)
メンケンはbloody[どえらい]やbugger[畜生]といったイギリスでは長い間不謹慎とされていた言葉がアメリカではそうではなかったとしており
(略)
しかしまた、逆もあてはまる。イギリスを訪れた裕福なアメリカ人たちは労働者階級のロンドンっ子の不快で下品な言葉にビクッとし、上流階級の人びとの歯切れのいい早口に困惑した。
 アメリカがばらばらになる可能性に気づき、ベンジャミン・フランクリンは大衆教育を、彼の言葉によると「個々の家族にとっても国家にとっても幸せ」である状態――結束した共同体――を達成する鍵と見なした。彼は1730年代からこれに取り組み始め、会員制有料図書館を展開させ、通信社を改善し、自国民に大学建設を呼びかけ、「互恵主義の一般化」(「将来への投資」という表現に要約される)といった社会変革を提案し、科学を社会に広めた。言語はこのすべてにおいて重要だった。アメリカはバベルではなくエデンになる予定だった。
(略)
 新しく独立した国の言葉として英語の地位は確実なものではなかった。独立戦争の頃、英語を第一言語とした人びとは国民の半分にも満たなかった。スペイン語やフランス語が広く使われていた。ペンシルヴェニアでは大多数がドイツ語を話していた。(略)1750年代に、ベンジャミン・フランクリンはその州で英語を語す人びとは数において劣勢だと危機感をもって記している。この国の言葉がどうなるか定かではないので、トマス・ジェファーソンは娘たちに英語以外の言葉にも習熟するよう勧めた。
(略)
 『アメリカ英語辞典』がウェブスターのもっとも印象的な業績とみなされているが、彼はもっと初めの頃に自分の使命について鍵となる主張を行なっている。[『英語文法提要』で]彼はヨーロッパを「愚かさと腐敗と圧制のうちに年老いてしまった」と非難し(略)
[大英帝国は]もはやわれわれの基準であるべきではない。[と述べた]
(略)
 ウェブスターは自分の辞典で「Americanismアメリカ英語」を「アメリカの慣用句」と定義している。けれどもその前にその本来の意味とみなしているものについて明らかにしている。「アメリカ市民が自国に対して抱いている愛、もしくはその利益を優先させること」。ウェブスターのもっとも永続する業績は、英語と「アメリカらしさ」とを固く結びつけたことだった。彼はまたこの二つが繋がっているという空想を掻きたてた。エミリー・ディキンソンは、自分の所持している『アメリカ英語辞典』は長い間唯一の連れであり、そこで見つける言葉はエネルギーの源だったという思いと同時に、動詞は自己表現の大きな促進力だとするウェブスターの考え方に感銘を受けたとしている。

南北戦争

どんな戦争にもつきものだが、刺激的な軍隊俗語が発達した。兵士たちは「amused the enemy 敵を楽しませた」――すなわち対戦するが死闘にまでもちこまない――また「saw the elephant 象を見た」――言い換えると、戦闘経験を持った。スパイは遠回しに「guide 偵察隊員」、シラミは「crumbs くず」、不慣れな兵士は「veal 子牛肉」。「going down the line 前線から後退する」は実際にはこっそり売春宿にしけこむことで(そこで「diseases of indulgence 道楽病」として知られているものを拾う危険がある)、また「to fire and fall back 発射してのけぞる」というのは嘔吐の俗語だった。南北戦争の俗語の重要な部分は、戦いに向かうのではなく、むしろ避けることに関連している。多くの兵士たちは、肉体的な対決の可能性が強いとき、「played off うまくごまかした」――病気のふりをしたり、戦術的な混乱を演じてみせたり、単に逃げてしまったり。忌避者を言いあらわす言葉はたくさんある。「stragglers 落伍者」、「skulkers こそこそ隠れる人」、「sneaks 密かに抜け出す人」、「coffee-coolers 楽な仕事を欲しがる奴」、「bummers のらくら者」、「whimperers 泣き言を言う人」。戦闘員のほとんどは戦争の経験がなく、楽天的な気分で兵士となり、義務感を持ちながら、上機嫌だった。
(略)
 南北戦争にいたるまでの時期には、disunion[分裂]という言葉は内乱という悪夢を喚起した。それは威嚇的に――批判的に――振りかざされた。戦後、アメリカは新しい用語で表現された。unionという言葉は、disunionという言葉との関連と、北部の表現に大量に使われたこと、また永続する堅固なものというよりも任意の組織を暗に示していたために、損なわれていた。その結果、nationがそれに取って代わった。その転移はエイブラハム・リンカンの演説に明らかだ。1861年3月の大統領就任演説で、彼は繰り返しユニオンという言葉を使ったが、ネーションという言葉はまったく使っていない。だが、1863年11月のゲティズバーグの演説では、それが逆になった。歴史家シェルビー・フットによって有名になった魅力的な話では、南北戦争以前は「The United States are flourishing.アメリカ合衆国は繁栄している」と複数で表現したが、戦争後は「The United States is flourishing.」と単数に変わったという。しかし、現実はそこまでうまくいってはいない。1902年になってようやくアメリカ議会下院の委員会は法改正にあたり、すべての公式の記録でアメリカ合衆国は単数扱いにするとした。

最初に戻って、第1章から。

公式の文書はラテン語かフランス語で作成されていた。[1415年アジャンクールの戦いで勝利したヘンリー五世は]初めて国元への手紙を英語で書くことにした。(略)[ロンドンのギルド組合員たちは]自分たちの書類に英語を使用し始めた。
(略)
シェイクスピアは新しい言葉の作り手であり、さらに面白いことには、当時存在した言葉の源泉の偉大な使い手であり、言葉の意味の可能性を大いに楽しんでいた。新語を「造り出す」という概念は1580年代から起こり、他の言語から言葉を「借用する」という言い方が普通になる前はその代わりに「強奪する」と言っていた。シェイクスピアはとくに影響力のある強奪者だった。
(略)
 接頭辞、接尾辞によって起こる語彙の変化(こうして新語uncomfortable[不愉快]、overindulgence[放埓]、straightish[率直さ]、relentless[無慈悲な]ができる

ダニエル・デフォー、スウィフト

王政復古が契機となって物腰、とくにいかに最良の言葉や表現を操るかを意識するようになるにつれ、フランスに1635年から存在するような国立のアカデミーを求める声が続いた。中でももっとも声高だったのは1697年のダニエル・デフォーのものだった。彼は当時作家としてではなく、タバコの輸入、煉瓦の製造、ロンドン北部のストーク・ニューイントンでジャコウネコの飼育に携わるなど、危険なことにも手を出す実業家として知られていた。デフォーは、金儲けの計画と政治的にうまい立場にたつことに絶えず関心を払っていたが、「高尚な学問を奨励し、英語を磨いて洗練させ、これほどまでに疎かにされてきた正しい英語を教える機関の設立を進め、純粋で正しい文体を確立し、無知と気取りによって英語に付け加えられた規範に合わないものすべてを一掃する」必要があると宣言した。これを達成するために、国王ウィリアム三世によって協会を設立すべきだと彼は提唱した。その会員には「学問に秀でた人びと」がなる。すなわち、法律家、聖職者、医師は除外して、その代わりに委員会は、十二人の貴族、十二人の「一般の紳士」、そして最後に十二人の「純粋の価値」を持つがゆえに選ばれた人びとからなるべきだとした。この三十六人からなる委員会は「作家の不行跡を正し、検閲する自由を持つ」。さらに「いかなる作家でも、この彼らによる御墨付なしには図々しく造語することはできない」。デフォーの目には、そのような管理体制のもとでは、「造語は硬貨の偽造と同じく犯罪となろう」。そうすれば「会話を不愉快にする」「口から出るごみや糞」――「やかましく、下劣で、馬鹿げた表現」のごたまぜ――であるののしり言葉も少なくなるだろう。しかし、デフォーの提案は強力な支持を獲得できなかった。
(略)
 ジョナサン・スウィフトは自分の嫌悪感を楽しんでいた。彼は曖昧さを忌み嫌っていた。ダブリンでは乞食はおのれの境遇を示すようにバッジをつけたほうがいいと提案した。(略)
 彼は縮めたり省略した表現を驚くほど目の敵にしていた。この点では文筆家ジョゼフ・アディソンの流れを汲んでいる。アディソンは『スペクテイター』誌に、イギリス人についてこう書いている。「イギリス人の生まれつきのおしゃべり嫌い」の素質のせいで、言葉を「子音のかたまり」にまで縮めてしまっている、と。スウィフトとアディソンは17世紀に大いにはやっていた短縮形に対する実感を述べていたのだ。悪いのは詩人たちだ。彼らは自分たちの考えを詩形に当てはめやすいように愚かな省略形を取り入れたからだ、と。スウィフトによれば、このような縮小された不自然な言葉の耳障りな音に我慢できるのは北部地方の人だけだという。could'veに反対するのは、それがたやすく「could of」になってしまうから。話しているときはまったく自然に聞こえるwhen'll やhow'reは活字になったのを見るとそのぎこちなさがはっきりわかる。しかし、スウィフトには――mobile vulgus[移り気な群集]の短縮形であるmob[暴徒]は言うまでもなく――disturb'd[不要な]でさえも耐えられなかった。

前置詞、ドライデン

 どうして、文章を前置詞で終えてはいけないのだろうか。よくある答えのひとつは、「前置詞」の語源に関係している。これはラテン語の「場所」と「前」から来ているのだ。つまり、前置詞はそれが規定する言葉の前に置かなければならない。たとえば、「She sketched his likeness with crayons.彼女はクレヨンで彼の肖像画を描いた」のように。また、文末の前置詞は取り残された感じがするため、論理と美意識からいって望ましくない、とも言われる。
 けれども、取り残された前置詞への敵意はたったひとりの反対者から始まった。ジョン・ドライデンである。自分の英語の純粋さを、いかに滑らかにラテン語に翻訳できるかという点から自己採点するのがドライデンの習慣だった。彼はそのあとラテン語を英語に翻訳し直し、その過程で何も失われたものはないかをみた。これはただの気まぐれではなかった。彼は、英語が英雄的な主題を扱うのにふさわしくなるよう心を砕き、その潜在的な可能性を引き出すためにラテン語との関係をできるだけ強調した。
(略)
ウィンストン・チャーチルは、文章を前置詞で終えるところを公務員から反対され、よくこう答えたとされる。「This is the kind of pedantic nonsense up with which I will not put.それこそ学者ぶった戯言というもの。いいなりになる気はないね」。この話はでっちあげだろうけど、このスッキリしない言い方は、異議を呼ぶだろうと予測して避けようとするとよけい悪くなる、ということを示しており有益だ。

次回につづく。