落日のジェイムズ・ブラウン JB論・その2

前日のつづき。

  • この本の中で、一番辛辣な記事

「パパ、屈辱を受ける」

75年 パット・ケリー クローダディ誌

ジェイムズ・ブラウンを待っている間、私は元ワッツ・ポエツのクインシー・トロープから聞いた話を思い出していた。彼が六ヵ月ほど前、ザイールヘと向かう機内でジェイムズ・ブラウンと出会って経験した、悲劇寸前の話である。
 離陸前、ブラウンはまず、ビル・ウィザーズをけなし始めたらしい。「お前は糞以下だ。歌も下手だし、クズ同然。このくそったれが」
(略)
一般的な認識とは裏腹に、大半の黒人が彼を支持していたわけではない。ニューヨークに住む私の幼なじみの多くは、彼を「世界で最も醜い黒人」と考えていた。また、自らの「劣等な」アフリカのルーツを思い出してしまう、という理由で、彼の「黒色人種的(ネグロイド)」な顔立ちを嫌う者たちもいた。漂白クリームをはじめとした自己嫌悪の現れが、その時代の風潮だった。なぜなら、黒人奴隷と白人の奴隷所有者の間に生まれた子供たちは、色の黒い兄弟姉妹よりも優遇されていたからだ。
 しかし、ブラウンの外観を問うことなく、彼が囚われた人間であることを知っている者たちもいた。彼は本当は、縮毛を薬品で伸ばしたり、派手な衣装で極端に走ったりする必要はなかったとしても同じことだ。彼はセックスのことしか歌わなかった。彼のメッセージ・ソングも上辺だけのものだった。ジェイムズ・ブラウンのファンではない大勢の若者に、彼をどう思うか訊ねてみれば、こんな意見が出てきたはずだ――「彼はがさつだ」……「彼をぶっ飛ばしたいと思ってるヤツなら、何人か知ってるよ」……「自分が白人に好かれていると本気で思っているなんて、彼は大馬鹿者だ」……「爪先立ちで踊るあんなニガーを尊敬しろって言うのかよ?」
 私の住む地域では、ジェイムズ・ブラウンは「有名なオカマ」と呼ばれていた(今でもそう呼ばれている)。黒人男性たちは、ブラウンの「歪んだ顔」について冗談を言い、彼が同性愛者であるという噂を信じていたため(「初期のレコード・ジャケットを見てみろ」とは彼らの弁)、一切の容赦をしなかった。また彼らは、彼が「直毛」に露骨なこだわりを見せていることも支持しなかった。彼は「みっともない」人物だったのだ。
(略)
[カメルーンへの17時間のフライト]
 記者だって? 「ジェイムズ・ブラウンを重要な人物だと考えているのか?」。フレッド・ウェズリーが私に訊ねた。(略)見ておけよ。君が俺たちと話しているか、確認しに来るだろうな。ほら来やがった……あのニガー、君が奴よりも俺たちのことを多く書くんじゃないかって、心配しているのさ……ほら、君に笑いかけてるぜ」(略)
私はここで、彼が「リトル・ニガー」「グリーシー(脂ぎった)・ニガー」「キング・ジェイムズ」などと呼ばれていることを知った。
 大物グループは、世話になった人物について皮肉を言うのが常だが、ジェイムズ・ブラウンの痛ましい変化について語れるのはフレッド・ウェズリーしかいない。また、ジェイムズの「シュガー」を真似できるのは、「スウィーツ」だけだ(「シュガー」とは、ジェイムズが同性愛者のような振る舞いをしている時のことを指す)。彼らは、ジェイムズの規則について不満を述べ、彼の肥大しきったエゴや、支払いの遅さ、罰金制度、バンド・メンバーに対する無礼な扱い(あるミュージシャンは、彼のジョークに笑わなかったところ、顔面を殴られたそうだ)、ブラウンがバンド内部に軋慄を生もうと画策する様を冷笑した。(略)
[ホテルに着き]
 数人がメイシオとチャールズの部屋に集まり、新人グループの話から、ジェイムズ・ブラウンのような「偉そうな男」の話に至るまで、あらゆる話題でお喋りしていた。しかし、ジェイムズの話題が、皮肉を込めた会話の90%を占めた。
 午前三時頃、メイシオが叫んだ「ちょっと待てよ。いったい何が聞こえるんだ? 誰かが歌っている」。彼がドアを開けると、聞こえてきたのは……。
 プリーズ……プリーズ
 お願いだから、行かないでくれ
(略)
「ジェイムズの野郎!朝の三時に歌うなんて、なんなんだ?誰も聞きたかねえぞ!食べものすら、誰にも分けようとしなかったくせして!」
(略)
 アメリカに戻った後の公演では、初日の観客はわずか四百五十人ほど、最終日の観客は六百人ほどだった。ジェイムズは疲れていた、とマスコミは報道した。
(略)
ボビットは語り始めた。「彼にも、あんなふうじゃない時期があったんだ。我慢ならないエゴがなかった時期がね。彼が成し遂げたことはすばらしい。厳しい時代(黒人としての意識が芽生える前の時代)には、ジェイムズのような人々はひどい目に遭ったが、それでも彼は金を稼いだ。通常、俺たちは記者をあまり彼の近くに寄らせないんだ。理解できないヤツらもいるからな。彼は『汚れた天才』なのさ。彼は今、苦難に陥っている。
(略)
[ニューヨーク]バンドはまだ到着していなかった。ノース・カロライナから八百マイルの道中にあったのだ。バンドのメンバーは三日間寝ていない、と側近が言った。
 十時頃、JBズが登場した。疲れ果て、辟易とした表情を浮かべている。彼らは衣装に着替えると、お馴染みの曲の数々と、新曲の「ハッスル」を演奏した。
(略)
 公演後、不満が頂点に達した。演奏を取り仕切るフレッド・ウェズリーは、チュニジアには行かないと宣言した。「何を隠そう……」。彼は全員に言った。「俺は辞める。ギャラを貰ったら、即刻ロサンゼルスに戻るつもりだ」
 他の誰かが付け加えた。「ジェイムズの野郎、痛めつけてやらなきゃな。楽屋に入って、『お疲れ様。ありがとう』すら言わなかったぜ」
(略)

「21年経った今も、不屈の闘志を持ち続ける」

77年 ブラック・ミュージック誌

 ジェイムズ・ブラウンはあまりにも長く活動してきたため、彼の存在は当たり前だと思われがちである。しかし、立ち止まって考えてみてほしい。彼はほぼ間違いなく、自分の音楽の精神を希薄化することもなければ、初期のファンを遠ざけることもなく成功を収め、名声と富を守り続けた初めてのリズム・アンド・ブルース歌手である。
 リトル・リチャード、チャック・ベリー、ボー・ディドリーといったロックンロール・スターの成功は、絶頂期が短く、長期的には不安定だった。彼らが生き残れるかは、白人の関心と懐古の情に大きくかかっており、その成功は、伝説が示唆するほど大きくはなかった。おそらく、ファッツ・ドミノだけが、ブラウンの前に長期的な成功を享受してきたと言えるだろう。しかし、ファッツは伝統的な音楽スタイルを洗練させたが、新しい音楽スタイルを創造したわけではない。また、その成功も、計画的というよりは、時代の偶然だった。そして、その成功も実際のところ、十年ほどしか続いていない。
 一方、レイ・チャールズは後のブラウンと同様、黒人音楽に根幹的な影響を与え始めた。しかし、無数のアーティストと同じように、彼は最も創造的になれる時期に道を踏み外し、袋小路から完全に抜け出すことはできなかった。ジャッキー・ウィルソン、ホビー・ブランド、B・B・キングといった先達や同輩は、それぞれが影響力を持ち、成功もしていたが、ブラウンほど長期的に大きな成功を収めていたわけではない。
 今挙げたアーティストはすべて、過去の時代を反映していることにお気づきだろうか? 過去のヒット、古い名曲、そういった類のものである。一方、ジェイムズ・ブラウンは、スライ・ストーンスティーヴィー・ワンダーパーラメントといった面々……つまり、70年代の英雄たちと同列で語られる。彼は新たな世代のアーティストのような音楽を作ってはいないかもしれないが、彼らと同等の説得力を持ち、彼らと音楽シーンで肩を並べているのだ。
 彼が成し遂げた功績の中でも、これが最も驚くべきことなのかもしれない。記録的な経歴の詳細はともかくとして、華やかなヒットの数々と伝説的なステージは、他のアーティストに影響を与えた。また、彼はこれを独立系のレコード会社と、自身の主宰する小さな独立系組織でやってのけた。
(略)
ジョー・テックスやウィルソン・ピケットに挑戦され、公に激しい口論をしたことで、彼の経歴には傷がついた。(略)

ジェイムズ・ブラウン

80年 ロバート・パーマー

 フィラデルフィアから甘いソウルが急激に押し寄せてきたときは、ブラウンはいつもの彼らしいやり方で対抗した。ストリングスとホーンとヴォーカルのバッキングを従えて自分のレコードを録音したのだ。ディスコの大流行により、もっとハードで激しいレコードを再び作ったが、ファンはジェイムズ・ブラウンのやり方に飽きを感じ始めているようだった。過去十数年で初めて、それまでブラウンのシングルを無条件でかけていた黒人の放送局がそっぽを向き始めた。
(略)
 70年代後半、ブラウンの輝きは陰りはじめた。1979年に発表したアルバムに『オリジナル・ディスコ・マン』というタイトルをつけたが、これは自分の影響下に出来上がった音楽様式であるディスコの成功から、利益を得ることができないことに対する皮肉のようにも聞こえる。

「パパのバッグに残っているものはあるのか?」

80年 ダウン・ビート誌

 1980年現在、ブラウンが引き起こす騒動もプロモーション活動も下降していくレコード・セールスの肋けにはほとんどなっていない。彼自身にとって信じられないことだろうが、ジェイムズ・ブラウンはもはや、ヤンキースタジアムをいっぱいにすることはできない。60年代の夏の夜であれば、いつでもそれは可能だったのに。それは、カーネギー・ホールでも無理だ。ボトム・ラインですら同じことだ。彼は、ディスコの出現をまったく予期していなかったのだ。
 ビージーズドゥービー・ブラザーズは、軽やかな曲で稼ぐ一方で、ソウルのゴッドファーザーは(彼は「セックス・マシーン」はディスコ・ソングの走りだと主張する、ファンキーな曲で占められた『ジャム・1980』『ルック・アット・ゾーズ・ケークス』をリリースし続ける。
 これらの曲がジェイムズ・ブラウンのファンクの伝統に基づくのにもかかわらずセールス的に振るわないということは、ソウルのゴッドファーザーにとってのマーケットがより縮小しているということを物語っている。
(略)
[ポリドールから外部プロデューサーの起用を求められ]
大きな妥協だったが、ゴッドファーザーは、マイアミ在住のブラッド・シャピロの指揮により、ディスコヘの挑戦を図った。(略)
アレンジだけだったら俺のほうが十種類は多く知っているし、そんなことはシャピロも承知だ。しかし、彼のサウンドは俺には出せない。だからブラッドは俺の右腕なんだ。ブラッドは、俺自身がやるよりジェイムズ・ブラウンをうまくプロデュースできるんだ。それは疑いのない事実なんだ」
 しかし、彼らの蜜月が長く続くことはなかった。ディスコ・スタイルのアルバム第二弾を制作する段になると、ブラウンはわめき出し始めた。「ポリドールの問題は、奴らがリーダーではなく単なる追っかけだっていうことなんだ」。(略)
[親会社ポリグラムの]「ドイツ人たちがしなきゃならないのは……」(略)ギャンブル&ハフみたいなレーベルを俺にやらせればいいんだ。俺を解放してやりたいようにやらせればいいんだ」
 「ディスコを売りたいから、奴らは俺を遅らせたんだ。もうディスコの人気も終わった。昔の俺の曲からいいところだけかっぱらって使い果たすと次は新しいのが欲しいときやがる」。ゴッドファーザーはぼやく。「あいつらのところではもう完璧なファンクのアルバムは出さない。絶対に出さない」 「絶対にですか」。私は思わず叫んだ。
 「そうだ。絶対にだ」
(略)
 ブラウンのマネージメントによると、彼はこれまで五千万枚のレコードを売り上げ、四十四枚のゴールド・レコードがあるという。しかし、ゴールド・レコードの認定を行うアメリカ・レコード協会(RIAA)によるとブラウンが獲得したゴールド・レコードは二枚のシングル(1972年の「ゲット・オン・ザ・グッド・フット・パート1」と1974年の「ザ・ペイバック」)と一枚のアルバム(『ザ・ペイバック』)のみだ。ジェイムズ・ブラウンのキャリアのあらゆる側面に言えることだが、何が真実かはわかりがたい。しかし、セールスのデータに開きがあるのは、R&Bレコードレーベルが売り上げを過少申告していたというビジネスの慣習によって説明できるかもしれない。事実はどうあれ、ブラウンの数々の偉大なヒット曲は、当然受けるべきRIAAの認定を受けていない。
(略)
 1970年代、ブラウンの帝国は突然少しずつ崩れ始めた。自身のエゴが破裂しただけでなく、財布も空になってしまったのだ。自家用ジェット機、豪勢な経費、ニューヨーク市のクイーンズ地区にあったお堀付きの邸宅などすべて手放した。他にも破産により所有していたラジオ曲三局のうち二局を失った。ソウルのゴッド・ファーザー、悲しいかなジェイムズ・ブラウンも地に墜ちたのだ。
 彼の最も最近の問題は、国税庁との争いだ。国税庁は、1975年から1977年までの間の未払いの税金が二百十万ドルにものぼっていると見積もっている。
(略)
 一方で、コンサートに関して状況は改善してきている。五月からは、ロックのクラブをまわるツアーが始まる。これは、24年間で初めての試みだ。ほぼ黒人のオーディエンスのみに演奏してきたブラウンだが、今、大勢の十代のロックンローラーたちが彼の音楽を聴いていることにやっと気づきはじめた。この実感は、最近公開された映画『ブルース・ブラザーズ』にクレオファス・ジェイムズ牧師役で出演するため、1980年の春にシカゴを訪れたときに現実となった。
(略)
 しかし、去年の冬に行われ、不首尾に終わったある一連のコンサートについては同様のことは言えない。ある土曜の夜のニューアーク・シンフォニー・ホールでの公演は、わずか三分の一の集客。次の夜、ブロードウェイのウェストチェスター・プレミア・シアターでのコンサートもチケットの売り上げは半分以下にとどまった。この二つのコンサートの開始前、ブラウンは見るからに動揺していた。ニューアーク・シンフォニー・ホールのように以前であればソールドアウトだったホールのチケットが売れ残る状況では、繊細なゴッドファーザーを元気づけることはできない。彼の演奏も空席に比例して精彩を欠いた。
 ブラウンの新しいオーディエンスは皆すばらしいが、黒人たちはやはり彼のレコードを買わない。『ピープル』はまったく売れず、業界紙のブラック・アルバム・チャートの75位以内にさえランクインしなかった。クール&ザ・ギャング、スピナーズ、ベン・E・キング、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、ウィスパーズなどの黒人ミュージシャンたちが、長年の沈黙のあとヒットを飛ばして復活しているというのに
(略)
ジェイムズは自分の古いサウンド固執しているようだ。(略)
彼は以前のようにラップをやればいいのだ。今やラップのレコードが人気なのだから。
 「フランキー(・クロッカー。WBLS局部長で、黒人ボッブ・ミュージックの有力な流行の仕掛け人)がジェイムズ・ブラウンのことを大好きなのは知っている。ただ、彼が聴きたい音楽をジェイムズがまだ出していないだけなんだ」
 かつらをかぶりスパンコールでゴテゴテのスーツを着ている黒人エンターテイナーが全盛だった時代を思い出すようなものを、黒人は欲していない。時代は変わったのだ。シックで『GQ』的なもの、立てられたシャツの襟、積極的な機動性が――ビートが効いている限り――流行なのだ。ジェイムズ・ブラウンの生々しい昔ながらのファンクの時代は終わった。

明日につづく。