デヴィッド・ボウイ コンプリート・ワークス

デヴィッド・ボウイ コンプリート・ワークス

デヴィッド・ボウイ コンプリート・ワークス

 

失明

ボウイは学校でジョージ・アンダーウッドと知り合う。生まれもってのスターがいるとしたら、それはジョージだ。並外れたルックスとカリスマ性。(略)
同じ頃(62年)ジョージとボウイは一人の女の子を好きになる。ボウイはこっそりと彼女にモーションをかけてジョージから横取りする。怒ったジョージはボウイにパンチを浴びせ、この時の傷が元で、ボウイの片方の目の視力は一生戻らなくなってしまう。それから程なくして責任を感じたジョージは、ボウイをザ・コンラッズに誘う。ボウイはヴォーカルとサクソフォンを担当した。
 その後二人は伝説のブルース・マン、ジョン・リー・フッカーにちなんで、ザ・フッカー・ブラザーズを結成し、その後デイヴィ・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズと名前を変える。

「Aladdin Sane」

でバンドに加わったのは、マイク・ガースンというジャズ・ピアニストで、彼をボウイに勧めたのはアーネット・ピーコック

モッズ

「僕にとってモッズとは誰も着ない服を着ることだった。ロックンロールのスターあってのモッズだったんだ」(1973年)

Pin Ups [ENHANCED CD]

Pin Ups [ENHANCED CD]

 

『ピンナップス』

[1973年ツイッギーの恋人で写真家ジャスティン・デ・ヴィルヌーヴは「ヴォーグ」編集者ベン・ミラーにボウイを男性表紙の第一号に推挙]
 撮影初日早々、ツイッギーの小麦色に日焼けした肌はボウイの白い肌と不釣り合いだったため、メークアップ・アーティストのピエール・ラローシュは「マスク」を作った。ツイッギーの顔と同じ色のマスクをボウイに、ボウイの胸と同じ色のマスクを彼女に付けた。
 ボウイは直ちに写真をアルバム・ジャケットに使おうと目を付けた。(略)「僕がボウイに、『アルバムをどれくらい売っているのかい』って訊いたら、『100万枚くらい売れたらいいね』だって、『ヴォーグ』誌でさえイギリスでは8万部くらいだというのにね。僕は写真を持っていたから彼に渡して……。

バンド不和

 1970年、ミック・ロンソンとミック・“ウッディ”・ウッドマンジーは機材と一緒にタクシーに押し込まれ、バーミンガムに向かった。バンド・リーダーのボウイは2階建バスに乗って優雅に移動していることが、どうしようもなく頭にきた。彼らの不満はこの時に始まったわけではない。ボウイと仕事してから、給料は歩合制だったのだ。
 バーミンガムを目の前にして、二人は突然運転手に街を迂回して故郷のハルに行くよう指示した。おかげでボウイはライヴを一人でこなす羽目になった。ロンソンとウッドマンジーは9ヵ月後に現場復帰したが、ボウイはこの時の屈辱を忘れることはなかった。この頃から『Diamond Dogs』の種はまかれていたのだった。
 1973年1月のツアー中に再び反乱が起きた。二人は新メンバーでピアニストのマイク・ガースンが週給300ポンドと、自分たちよりもらっていることを知る。この不平等の腹いせに、ロンソン、ウッドマンジー、ベース・プレイヤーのトレヴァー・ボルダーは一計を案じた。自分たちはボウイと同等の知名度がある。もう潮時ではないか。ここらで一泡吹かせてやろうかと考えた。CBSレコードは既にボウイ抜きのザ・スパイダーズ・フロム・マーズに、巨額の契約金をちらつかせていた。
[それを知ったボウイのマネージャー、トニー・デフリーズはRCACBSより高額の契約金を出させるから、もう少し待てと説得。しかし、デフリーズは一杯食わせるつもりだった]
(略)
[7月3日のライブで]ボウイがマイクに近づき「これはツアーの最後であり、しかも僕たちにとっての最後のステージでもある」と宣言するのだった。
 ウッドマンジーとボルダーはショックを受けた。彼らにとっても寝耳に水だった。ボウイは大勢のファンの前で二人を解雇したのだ。これが最後であることを他の連中も知っていたのだと、二人は後で聞かされた。身勝手で思慮に欠ける、唐突な知らせだった。ソロ・アーティストがステージで引退を宣言するなど、これまでなかったことだ。
 たちまちアメリカでは話題になり、おかげで1年後のボウイに大金が転がり込んだ。

フィラデルフィアでソウルアルバムをつくる

ホテルの部屋でボウイはR&B専用のラジオ番組を聴き、ジョン・レノンと同様にアン・ピープルズのシングル「I Can't Stand The Rain」にノックアウトされた。ルルをメンフィスに連れて行って、同じような曲を作りたいと訴え、これから先のバンドに対してファンキーなものを求めた。まさに音楽を根底から変える旅の始まりだった。

I Can't Stand the Rain

I Can't Stand the Rain

  • アン・ピープルズ
  • R&B/ソウル
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

I Can't Stand The Rain(1979年7月3日 日本青年館ホール )

「ヒーローズ」

ボウイが考えていたのは、ベルリンの壁を舞台にした、恋人たちの禁断の恋だ。その頭の中には、二つの作品のイメージがあった。一つはイタリア人の作家アルベルト・デンティ・ディ・ピラジノの小説「ア・グレイヴ・フォー・ア・ドルフィン」と、もう一つはドイツ人の表現主義者オットー・ミュラーの「ラヴァーズ・ビトゥイーン・ガーデン・ウォールズ」という絵画だ(画像ここにあった→  歌詞についてあれこれ考えながら、ボウイは窓から外を覗くと、なんとヴィスコンティジャズ・シンガーのアントニア・マースとキスを交わしていた。(略)既婚のヴィスコンティがマースとキスを交わし、そんな二人の周囲は壁に取り囲まれている。この光景が脳裏から離れなかったボウイは、後に「NME」誌でこう語っている(ヴィスコンティの不倫については、慎重な発言にとどめているが)。
 「スタジオのそばに
ベルリンの壁があって……スタジオからは20〜30メートルくらいのところで、コントロール・ルームから見渡すことができるんだ。壁の上には小さなやぐらがあって、そこに見張りが何人かいた。毎日昼休みになると、男女のカップルが集まって来て、いちゃつくんだ。どう見ても不倫だね。ベルリンには他にも待ち合わせ場所なんていくらでもあるのに、なぜ見張りがいるやぐらの下のベンチに集まるんだろう。そこで僕は想像を巡らした。不倫に対して後ろめたさを感じているから、せめて困難な状況を作ってメロドラマの気分に浸っているのだろうって」