バート・バカラックとディートリッヒ

冒頭、未熟児で生まれた子供へのいい話があり、感動しつつ読みすすめると、その子の悲惨な生涯や、バカラックのゆるーい下半身話が展開されるので、自伝作家さんも考えたなと思いましたw。
もちろん音楽関係の話も充実していますので、御心配なく。

1943年、レナード・バーンスタインのデビューが放送

[ピアノレッスンに行くため]
 ある寒い日、ほかに数人の勇敢な客たちといっしょに2階の席に座っていると、どことなく奇異な印象を受ける若者が階段を上ってきて、わたしの隣に座った。
 わたしが口笛である曲を吹きはじめると、その若者が「今のは〈トゥ・オクロック・ジャンプ〉だろ?」と言った。「そうだけど、なんでわかったんだ?きみはミュージシャンかい?」と訊くと、そうだという答えだったので、どこかのバーでやっているのかと重ねて訊くと、「いや、実を言うとぼくは指揮者なんだ」
 じゃあどこの指揮を取っているのかというわたしの問いに、彼は「ニューヨーク・フィルだ」と答えた。「おいおい、ニューヨーク・フィルの指揮者ならぼくだって知ってるぜ。ブルーノ・ワルターだろ」と反問すると、「いや、ぼくは副指揮者なんだ」という答えが返ってきた。
 おたがいに自己紹介をしたあと、わたしはリヴァーサイドの86丁目でバスを降りた――「じゃあまた、いつかトップで会おうぜ、レニー」と言い残して。わたしは単に、いつかまたバスの2階で会えるかもしれないと思っていただけだった。その彼が今、全国放送のラジオで指揮を取るブルーノ・ワルターのピンチヒッターを土壇場で言いつかり、センセーショナルなデビューを飾ったのだ。
(略)
[月日は流れ、1980年テッド・ケネディの大統領予備選パーティーで]
レニーがつかつかと近寄ってきた。話したいことがあると言う。
 「なあ」と彼は言った。「昔、わたしときみがバスで会ったという話をだれかに聞かせたことはあるか?」。わたしがあると答えると、彼はわたしをじっと見て、「そんなことはありゃしなかった。全部、きみが夢で見たことだ。できればこの話はもうしないでくれ」。わたしは思わず「なんてこった!」と口走った。なぜならそのおかげで、この話がもっとおもしろくなると思ったからだ。

ジャズと初体験

 いちばん好きだったのはディジー・ガレスピーで、彼はわたしのヒーローとなった。わたしが彼を崇拝していたのは、なにをやらせてもとてもクールで、あのおかしな見てくれをしたトランペットを吹く姿も大好きだったからだ。ある晩、肩に猿を載せて通りに立っている彼を見かけたわたしは、家に帰るとすぐ、母親と父親に猿を飼わせてほしいとかけ合ったが、むろん、許してはもらえなかった。
 ディジーだけの話ではない。バードランドで見たソニー・ペインをドラマーに擁するカウント・ベイシー・バンドも、信じられないぐらいエキサイティングだった。いきなりわたしは、それまでにはなかったかたちで音楽に没入していた。(略)
 ハッピー・バクスターという名前を使って――バカラックにできるだけ近い、それでいてユダヤ人ぽく聞こえない名前は、それぐらいしか思いつけなかった――わたしは同年代の男4人とバンドを結成し、2度ほどフォレストヒルズのハイスクールで開かれるダンス・パーティに出演した。
 人前でプレイしていちばんよかったのは、普通なら絶対わたしに話しかけてこない女の子たちと知り合えたことだ。
(略)
 音楽にはずっと真剣に取り組むようになっていたものの、ハイスクールでは相変わらず、最小限の活動しかしていなかった。ある晩、わたしはレゴ・パークで、いっしょに学校に通っていた娘とセックスをしたつもりになっていたが、実際にはとても最後まで行っていなかった。もうひとり、おっぱいの巨大な娘が知り合いにいたが、その娘とは彼女のアパートの屋上に行き、セックスの真似事をしただけで果ててしまった!
 実際にセックスを初体験したのは、ハイスクールの1年が終わったあとの夏休み[父親の米軍慰問ツアーにブギウギ・ピアノ奏者としてついていき]
(略)
年上の女性シンガーがベッドに誘ってくれた夜が、このツアーのハイライトとなった。わたしはさも経験ずみのようにふるまったが、彼女は真相を見ぬいていた。けれども彼女はとても優しく、その時わたしははじめて女性と寝た。

成績が悪く希望校に行けず、生徒不足でつぶれかかったモントリオールにあるマッギル大学音楽院に進む

 マッギルでの2年目、わたしは夏休みをカリフォルニアですごし、カーピンテリアのミュージック・アカデミー・オブ・ウエストでダリウス・ミヨーに作曲を学んだ。天才で、偉大な作曲家であると同時に、とても優しく、すばらしい男でもあったミヨーは、1940年にパリがナチスに陥落したとき、命からがら逃げ出してきたフランス系のユダヤ人だった。アメリカに渡ったミヨーはオークランドのミルズ・カレッジで教えはじめ、その当時の生徒のなかにはデイヴ・ブルーベックもいた。
 ミヨーの作曲のクラスには生徒が5人しかおらず、他の生徒はみんな、12音階のとても過激な曲を書いていた。当時のわたしはアルノルト・シェーンベルクと、いずれもシェーンベルクに師事していたアルバン・ベルク、そしてアントン・ヴェーベルンに入れこんでいた。最初の課題はヴァイオリンとオーボエとピアノ用に、3つの楽章からなるソナチネを書くことだった。アダージョの第2楽章は思いのほかメロディックに仕上がり、わたしの耳には心地よく聞こえたが、ミヨーの前で弾いたときは、いくぶんきまりが悪かった。
 彼もわたしの気まずさを感じ取ったらしく、演奏が終わるとこう言ってくれた。「口笛で吹けるメロディを書いたからといって、恥じる必要はまったくない」。つまり彼は、一生の教訓を与えてくれたわけだ。
[マッギルの三年目、学位を取る気も失せていた、勃発した朝鮮戦争で召集。基礎訓練中ピアノを弾いていたら将校クラブのピアニストに採用され、自宅から通うことに。ドイツ基地に送られそこのバンドのために譜面を書く]
(略)
 そのころに撮った、軍隊時代のわたしに関するすべてを物語っている写真がある。わたしは片足を噴水のふちに載せ、ナップザックをわきに置いて、どこかの古い廃墟の前に制服姿で立っている。多くの面で、その辺にいる若い兵士となんら変わるところがない。唯一のちがいは、わたしが片方の手にテニスのラケットを持っていることだ。

ハル・デイヴィッド

[ポップス業界に足を踏み入れる、回りにはスペクター、ゴフィン&キング等錚々たるメンツがいたが]
彼らと異なり、わたしがティーン・ポップと呼ばれる類の曲を書くことはなかった。
 クラシックの素養があるせいなのか、それとも子ども時代にジャズと恋に落ちてしまったせいなのかは定かではないが、ビル・ヘイリーと彼のコメッツがやっていたような音楽も、私にはあまりピンと来なかった。(略)
 ジャック・ウルフと何曲か書いたあとで、パラマウント映画の子会社だったフェイマス・ミュージックのエディ・ウォルピンが、わたしと作家契約を結んでくれた。(略)
 ハル・デイヴィッドと組むことになったのは、エディ・ウォルピンのアイデアだった。だが当初はどちらとも、同時に別のパートナーとも仕事をしていた。ハルは週に3日、午前中はモート・ガーソンと曲を書き、午後になったらわたしと組む。わたしもボブ・ヒラードや、ハルの兄のマックとも曲を書いていた。
 ハルにはじめて会ったときのわたしは27歳。(略)ハルは35歳。既婚で、ロングアイランドのロズリンに住んでいた。
 兄ふたりと妹とともに、ハルは1階に両親の経営するデリカテッセンが入ったブルックリンのアパートで育った。第2次世界大戦中は太平洋で特殊部隊に所属し、カール・ライナーやハワード・モリスといった人々の下で、曲や寸劇を書いていた。(略)
 ハルをひとことで評するとしたら、当たり前の男という言葉がいちばんしっくり来るだろう。サミー・カーンはかつてわたしを、歯医者のように見えない唯一のソングライターと呼んだことがある。逆にもし当時のハルをパーティで見かけたら、百人中百人が彼のことを歯医者だと思ったはずだ。わたしと同じくハルも完璧主義者だったけれど、エキセントリックな部分は少なく、服装も音楽業界人らしくなかった。だがいざ曲づくりをはじめると、彼はいつも自分の内面から、並はずれた歌詞を解き放つことができた。(略)
「仕事をするのは10時から5時まで。それが終わったら列車に来って家に帰る」と言われたのを覚えている。

56歳のマレーネ・ディートリッヒのバンマス&ピアニスト(&若い燕?)をやることに

テニス・コートからもどってくると、彼女は6枚のステーキから搾り取った肉汁のジュースを、わたしのために用意してくれていた。
 夏のことで、汗をかきまくっていたわたしはテニスウェアを床に投げ捨ててシャワーを浴びた。部屋にもどると、彼女はわたしの服を洗濯していた。マレーネの驚くべき点は、あれだけの名声とスターダムにもかかわらず、心はいつまでもドイツの主婦のままで、いつもわたしの面倒を細かく見てくれたことだった。
 ある晩、ヴェガスで軽く酔ったあと、部屋まで送ったわたしに彼女がキスをしようとしたことがあった。「なかに入りましょう」と言われたが、わたしは彼女といっしょに入りたくなかった。もしかしたらわたしにはもう、いっしょに寝た女性のバックで毎晩、指揮を取るような真似はできないと気づくだけの分別が備わっていたのかもしれない。たとえ寝たいと思っていたとしても、だ。だがわたしにその気はなかった。それはまるで、炎と恋に落ちるようなものだったからだ。
(略)
[南米ツアー各都市での記者会見]
彼女はいつもわたしを同席させた。すると遅かれ早かれ、わたしたちはつき合っているのかという質問が出る。(略)
「いえ、わたしたちのあいだにはなにもありません。彼はとても忙しいし、とんでもない女たらしですから、女性が途切れることがないんです」と答えていた。
(略)
[「裏切り者」という非難を浴びてのドイツ・ツアーの後、イスラエルへ]
出迎えに来たプロモーターが言った。「ミス・ディートリッヒ、もちろんここでドイツ語の曲をおうたいになるつもりはないでしょうね。ご承知の通り、この国ではその言葉は禁じられていますし、ドイツ映画もいっさい公開されていません。ステージでドイツ語を使うことはできないんです」(略)
しばらくプロモーターをじっと見ていたマレーネは、おもむろに「1曲だけドイツ語でうたうような真似はしません。9曲、ドイツ語でうたいます」と言った。
[プロモーターは冗談ととったが、テルアヴィヴでの初日、2曲英語で歌ってから]
彼女はこう言った。「母親が子どもに子守唄をうたうように、みなさんにこの曲をうたいたいと思います。タイトルは<私のブロンド・ベイビー>」
 観客は大きく息を呑み、マレーネがドイツ語でうたいはじめると、会場は完全な静寂に包まれた。人々は涙を流していた。わたしも流していたし、オーケストラの大半もそうだった。その晩、マレーネはドイツ語の曲を9曲うたったが、これはわたしの人生のなかでも、とりわけ感動的な経験となった。その時まさに、障壁が破られたからだ。イスラエルはすでに、機関銃をドイツに売りはじめていたし、イスラエル人もフォルクスワーゲンを乗りまわすようになっていた。だがマレーネはそれでもなお、あの国に存在していたドイツ語をしゃべることに対する抵抗感を打ち払うと同時に、この2国には実のところ、とても深いつながりがあることをあらためて知らしめたのである。
(略)
 何曲かR&Bのヒットを出したあと、マレーネとパリのオリンピア劇場で2週間の公演をやっていると、終演後の楽屋を友人のクインシー・ジョーンズが訪ねてきた。クインシーに「なんでこんなことをやってるんだ?せっかくいい曲を書いてるのに。そっちの仕事にもどるべきだ」と詰めよられて、わたしは「いや、Q、ぼくは世界を見てまわってるんだ」と答えた。彼ならきっと、その答えの意味をわかってくれるはずだと思っていたが、そこには同時に、マレーネのためにやっている部分もあった。彼女を落胆させるわけにはいかないと思っていたからだ。(略)
 マレーネは常に相反する感情と戦っていた。決してわたしとは別れたくないと思っていたからで、彼女はいつもわたしに指揮を取ってほしがっていたが、わたしがより有名になればなるだけ、そしてより成功を収めれば収めるだけ、私を失う可能性も高まっていた。
(略)
[アンジー・ディキンソンと結婚]
彼女は依然としてわたしがアレンジを書き、可能な時は指揮を取ることを望んでいたが、新しいアレンジのチェックで彼女のスイートを訪ねたとき、マレーネは完全に自制心をなくしてしまった。
「あのあばずれと結婚したのね!あの売女と!よくそんな真似ができたもんだわ!」
 マレーネに怒鳴りつけられて、わたしはあとずさりしながらスイートから退散した。「ぼくらはもうおしまいだ」と思っていたが、それにしても不思議だった。ずっと、マレーネはこんな真似をするほど愚かな女性ではないと思っていたからだ。なにしろ彼女はアンジーを、ありとあらゆる面でこきおろしつづけたのである。


アンジー・ディキンソンマレーネがわたしを嫌っているのは知っていたけど、ヴードゥー人形のことは知らなかった。彼女が一度、わたしのことを「ずいぶんいろんな納屋で寝てきた女よ」と言っていたとバートに聞かされたことがあるの。あと、「バート、あんなに笑う女はいないわ」とも。
(略)
アンジーとわたしが暮らしていた家に、彼女が夕食を食べに来るたびに――たいてい、ケンタッキーフライドチキンとポテト、それにコールスローだった――あのふたりは信じられないようなダンスをくり広げた。ほんとうに心から敬愛し合っているか、あるいは死ぬほど嫌い合っているかのどちらかだった。
 それを見ながらわたしは、「どうしたらここから逃げ出せるんだろう?」と自問していた。
(略)
アンジー・ディキンソン:夕食の席でのマレーネはとても感じよく接してくれたけど、それが演技なのはわかっていた。勝てない相手なら仲間になったほうがいいとわきまえている、大人の女性だったのね。彼女にとっては、造作もないことだったはずよ。バートはセクシーな男だったし、マレーネは彼を熱愛し、彼といっしょにいられるだけでいいと思っていた。それに彼がいないと、もうまともに仕事ができなくなっていたの。彼女は彼のあやつり人形だったのよ。
(略)
 バートがマレーネの指揮者を辞めたあと、一度、ベヴァリーヒルズで彼女を見かけたことがあって。わたしはあとを追って「マレーネ!」と呼びかけた。それから「バートが連絡をほしがってます」とか「あんなことになって残念です」みたいなことを言ったんだけど、彼女は「もう茶番はおしまいよ」と言って話を打ち切ったの。それっきり、マレーネの姿を見ることも、声を聞くこともなかった。あんなにも長くつづいたすばらしい愛の関係の幕切れは、こんなにも悲しいものだったのよ。
(略)
マレーネ・ディートリッヒ:彼と一緒にいると、私はいつも幸福感に浸れた。(略)これまではバートの芸術家としての面だけを述べてきたが、男性としての彼は、あらゆる意味で女性が望む理想の人であった。思いやりがあって優しくて、毅然としていて勇敢、たくましくて率直、それでいて驚くほど繊細で愛情深く、傷つきやすかった。彼の誠実さは限りのないものであった。
 そのような人がこの世に何人いるだろう。彼は私にとってかけがえのない人だった。
(略)
 彼が去って行った時、私はすべてを投げ出したい気持ちにかられた。私は指導者、支持者、先生、師を失った。私はそれほど弱い人間ではなかったが、それでも深く傷ついていた。私がどれほど必要としていたかなど、彼は気づかなかったであろう。彼はとても控え目で、そんなことは思いつきもしなかったはずだ。私はこの別れをひどく悲しみ、せめて彼が同じ思いをしないことだけを願った。(略)一緒に演奏旅行に出かけ、笑いの絶えなかったあの頃、私たちはまるで家族同様だっただけに、彼はいくらか寂しさをかみしめているかもしれない。(略)
[マレーネ死去の際]あるライターから電話がかかってきた。彼女の自伝は読んでいなかったので、ライターがわたしについて書かれた箇所を引用しはじめると、そのあまりに圧倒的な内容に、わたしは思わず泣きくずれてしまった。

おいおい、音楽の話は?という皆さん、それは次回につづく。