ボブ・ディラン 湯浅学

ボブ・ディラン――ロックの精霊 (岩波新書)

ボブ・ディラン――ロックの精霊 (岩波新書)

  • 作者:湯浅 学
  • 発売日: 2013/11/21
  • メディア: 新書

61年グリニッジ・ヴィレッジ

ジャズに心酔はしていないものの、近くにあるジャズ・クラブヘもしばしば足を運んでいた。ジャズのレコードも、この時代に数多く聴いたという。メロディと構成に耳を傾け、ジャズとフォーク・ミュージックには似ているところがたくさんあることを実感している。(略)
ブルーノートにソロで出演しているセロニアス・モンクを観に行ったボブは、自分は近所の店でフォーク・ミュージックを歌っているとモンクに自己紹介をする。するとモンクは、「私たちはみな、フォーク・ミュージックをやっているのだ(We all play folk music)」と答えたという。(略)
 歌手だけではなく、コメディアンも大勢ヴィレッジのカフェに出演していた。彼らの言葉の妙技にボブは新鮮な笑いと感銘を受けている。それは後の歌づくり、詩作に少なからぬ影響を与えているだろう。ビル・コスビー、リチャード・プライアー、ウディ・アレン、ジョーン・リヴァース、レニー・ブルースがいた。
 後に改名してピーター・ポール&マリーの一員となって有名になるノエル・ストゥーキーも、物音から歌手まで様々な声帯模写をするコメディアンだった。ボブのお気に入りのストゥーキーのネタは、リトル・リチャードの物真似をするディーン・マーティンだったという。また、ボブの初期の自作曲「ベア・マウンテン・ピクニック・マサカー・ブルース」の元になった新聞記事をボブに渡したのはストゥーキーだった。彼はボブの曲作りの才に最初期に着目した一人だった。
 異才という存在では、60年代後半にサイケデリック・ピエロの〈ウェイヴィー・グレイヴィー〉というキャラクターに変身して名を成す、ヒュー・ロムニーもボブと親しく交流していた。アレン・ギンズバーグレニー・ブルースロムニーの友人だった。先輩コメディアンのロード・バックリーの影響をロムニーは強く受けているが、ボブがバックリーの「ブラック・クロス」をレパートリーに取り入れているのは、ロムニーとの交流によるものかもしれない。

Bob Dylan - Talking Bear Mountain Picnic Massacre Blues

Bob Dylan - Black Cross

Lord Buckley - The Nazz

「風に吹かれて」元ネタ

この歌のメロディはスピリチュアル・ソング「ノー・モア・オークション・ブロック」を下敷きにしている。ボブは後に「この曲はスピリチュアル・ソングと共通する感情が流れている」と語っている。

No More Auction Block (Many Thousand Gone) by Hobo Kin

 

ケネディ暗殺

次の日、ボブは、スーズ、カーラの三人で容疑者オズワルドが法廷に連行されるところをテレビの生中継で観ていた。その中継の最中に、オズワルドは銃で撃たれる。即死だった。ボブは黙ってテレビを凝視していた。
 深く激しい混乱と重苦しい不安が静かに進行していた。そんな中、[トム・ペイン賞受賞](略)
 授賞式でボブは酒に酔ったままスピーチをした。緊張から明らかに飲み過ぎていた。ECLCの革新的理想主義的姿勢に強い違和感を覚えていたボブのスピーチは攻撃的でまとまりがなかった。
「頭の毛の薄い年寄りは道を譲るべきです。私を取り込もうとする人たちには髪の毛がない。とても不愉快です。黒も白も右も左もない。上も下も。下は地面すれすれのどん底です。政治のことなど考えずに這い上がろうと思います。私は左翼の手下ではなく、独立独歩の吟遊詩人です。芸をするアザラシではないのです」とボブは述べた。そしてさらに、「ケネディ大統領を撃ったオズワルドが、何を考えていたのか正確にはわかりませんが、正直にいえば、自分の中に彼と共通するものがある、と思いました。私はあのようなことをするとは思いません。しかし彼が感じていたことと同じものが自分の中にもあると思ったのです」と語る。場内は騒然となり、多くの参加者がボブに腹を立てた。
(略)
 その後ボブは、評論家のナット・ヘントフのインタヴューを受け、この日のスピーチについて、「オズワルドの中に自分たちが生きている今の時代が見えると言いたかっただけで、ケネディが殺されてよかったなどと思ってもいない」と弁明している。

「ライク・ア・ローリング・ストーン」

コロムビアの重役のひとりは、「何を歌っているのかわからないから、歌を録り直せ」と要求し、別の重役は「わが社に六分間の長さのシングルを出した者はいない」と突っぱねたという。(略)
[コロムビアの新譜担当コーディネーター、ショーン・コンシダインは発売棚上げで放置されていたテストプレス盤を持ち出し]
ニューヨークの人気ディスコ<アーサーズ>に持ち込み、DJに頼んで店内で試しに流してもらった。客は一瞬にして立ち上がり踊り出し、その晩、何度もリクエストされたので盤の溝がすり減って針飛びするほどになってしまった。[ラジオ局ディレクターがコロンビアにシングル盤を求めてきて](略)
 事態は急転、緊急発売が決まる。65年7月20日のことである。宣伝コピーは、「六分のシングルだって?いいんじゃないの。だって、ボブ・ディランを六分間も聴けるんだから」だった。念のためラジオ局用には、半分に分割してAB面に三分二秒ずつ収録した盤が配られた。A面しか流さない局には、リスナーから「六分ぜんぶ放送しろ」との要望があいついだ。
 この曲はビートルズの「ヘルプ!」と時を同じくしてチャート・イン
(略)
[7月25日聴衆の前で初披露]ニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージだった。
 前日の7月24日、アラン・ローマックスがホストをつとめるブルースのワークショップに、マイク・ブルームフィールドが所属するポール・バターフィールド・ブルース・バンドが出演した。そのときローマックスは、彼らを“中流階級出身の白人の若憎がやっているブルース・バンドであり、眉つばものだ”と侮蔑的に紹介した。これに対してバンドのマネージメントを予定していたグロスマンが激怒。ワークショップ終了後、ローマックスと口論の末、二人は取っ組み合いのけんかをくり広げたのだった。
 これを見ていたボブは、急きょ翌日のステージをブルームフィールドを中心としたエレクトリックなセットでおこなうことを決意する。ローマックスの皮肉な対応に、フォーク教条主義者への嫌悪が湧き上がったとも考えられる。

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