アニメーションの表現史 細馬宏通

前回のつづき。

手の謎はこうだ。

(略)手を写した写真の切り抜きを(略)描きかけの部分にペン先がくるように[置いたのだ]

人の動きを忠実に真似る道化に対して、人の動きとは似つかぬ[幽霊の]キャラクターを置くと、そのキャラクターの怪物性が際立つとともに、人そっくりに動く道化のほうの不気味さがいや増す。

ミッキー・マウス『蒸気船ウィリー』

キートンの蒸気船』

[息継ぎのシーンで]息を吸おうとして、ミッキーの口は大きく開く。(略)下顎が下がって顔全体の輪郭が、わっと広がる。そして頭が少し後ろに引く。ああ、息を吸っているな、とわかる。ミッキーは、全身で音楽を鳴らしている。(略)音楽を鳴らそうとして、息づいている。

 では、アニメーションのタイトルが『蒸気船ビル』ではなく『蒸気船ウィリー』である理由は何だろうか。実は、流行歌「蒸気船ビル」をもじって作られた映画は『蒸気船ウィリー』が最初ではない。ちょうど同じ年の1928年5月バスター・キートン主演によるサイレント映画『Steamboat Bill Jr.』が作られている。「Jr」とある通り、映画は蒸気船ビルと呼ばれる男と、キートンが演じるその息子の物語だ。(略)息子の通称は「ウィリー」。

なぜわざわざウクレレが持ち込まれ、一音も鳴らされることなく食べられてしまうのだろう。(略)
小柄のキートンに対して父親役のアーネスト・トレンスは大柄の役者で、ウクレレはいかにも小さく、腰に差せるほどの大きさに見える。父親は息子を床屋に連れて行き髭を剃らせ、船乗りらしい硬派な帽子と服をあつらえさせる。ところが、腰からうっかり落としたウクレレを、ライバルに見とがめられ、笑われてしまう。それに激高した父親は乱暴にも、ウクレレを踏みつけてバラバラに壊してしまうのである。
(略)
キートンの蒸気船』は、サイレント映画による音楽の喪失と再生の物語であり、父親によって一度は奪われたウクレレ=音楽が、息子の口笛から音楽となって甦り、息子と父親の和解をもたらしているのである。この構図はそのまま『蒸気船ウィリー』に当てはまる。

ミニー・ザ・ムーチャーの幻覚

ベティ・ブープ』冒頭で元祖ムーン・ウォークを披露するキャブ・キャロウェイ、ややあってから、アニメのセイウチが「ミニー・ザ・ムーチャー」を唄う

あれはドラッグソングで幻覚を見てたのか。ほんまに、ハーイディハーイだったのね。

[例のかけ声の後の歌詞]
つるんでいた男の名はスモーキー
愛したそいつはあいにくコーキーで
ミニーをチャイナタウンに連れて行き
ゴングを蹴って回る方法を教えたとさ


するとスウェーデン王が夢に現れた
王はミニーの望むものをすべて与えた
金と鋼鉄でできた家
ダイアモンドの車にはプラチナのホイール


 ただのナンセンス詩のように見えるけれど、実はキャブはこっそり、仲間うちでしか判らない隠語を埋め込んでいる。「コーキー」とはコカイン売りのことで、「ゴングを蹴って回る」とはコカインを吸うこと。つまり荒唐無稽な「スウェーデン王の夢」は麻薬によって現れた幻覚であり、両手をだらりと下げて歩き回るキャブの奇妙な踊りはクスリでふらふらになってしまった体を表しているということになる。

リップ・シンク

 フライシャーは、このリップ・シンクを実現するために、声を出している人を撮影して、その発音のコマ数を計測するという発明をしている。(略)
 しかし、コマ数を計測してから先が、思いのほか難しかった。1930年から二年間フライシャー・スタジオにいたシャムズ・カルヘインは、当時のことをこんな風に書いている。



 たとえば、スウィングという単語を歌うには十二回の撮影が必要だ。Sだけで三コマ、Wは一コマのみ、Iはさらに六コマ、そしてNGで二コマ。それぞれの音に対して適切に口が開閉していることが求められていたが、誰も口をどんな風に開ければいいのかわからなかった。(略)
実際の会話というのはむしろ頭や手の動きによって成り立っていて、強い口調のときは体全体の動きが口の動きよりずっと重要だということを、誰も知らなかった。


 カルヘインの回想からは二つのことが判る。一つは、口と声との同期は、この時期のフライシャー・スタジオでは、あらかじめ録音された音に基づくというよりは、計算ずくで割り出されていたこと。もう一つは、そこまでしてでも、リップ・シンクは実現すべき問題だったということである。

『愉快な百面相』
https://https://www.youtube.com/watch?v=wGh6maN4l2I
『リトル・ニモ』

『恐竜ガーティー
https://https://www.youtube.com/watch?v=ixK1DffOsbE

 

さらに一歩すすんでアニメーションが現実界を産み出す
カートゥーン・ファクトリー』

 

まとめ

現実界と描画面

『愉快な百面相』では、黒板が映像に映し出されてはいるものの、映像の枠内に見えているものは、その黒板という描画面の一部に過ぎない。映像の枠内はあくまで描面面の一部なのである。
 さらに、この描画面の上に、実写の手がまるで当然のように映像の枠外から現れる。つまり映像は、ただ一つの層からできているのではない。そこには手前にある描画する手の層、向こう側にある描画される面という二つの層が映し込まれているのである。描くという行為は、こちら側の層から向こう側の層へと行われる。そして、現実界の象徴である手が映像の枠外へと去ると、映像によって切り取られた描画面は、あたかも映画の魔術にかかったかのように突如動き出し、アニメーション界となる。手の不在によって絵は命を吹き込まれてアニメーションとなる。しかし、再び手が出現すると、黒板上のチョークはぞんざいに消されてゆき、アニメーションは命を失って、ただの絵と成り下がる。
(略)
アニメーション界は、現実界に属する手の動きに応じて、現れたり消えたりする世界に過ぎない。アニメーション界は現実界の属国であった。
 この関係を、ウィンザー・マッケイはがらりと変えた。まず『リトル・ニモ』のアニメーション部分では、描く手を画面から排除し、アニメーション界を独立させた。ここで重要なのは、マッケイが描画面をいかに扱ったかである。マッケイは、アニメーション部分が始まる直前、実写による映像の中にスケッチを入れた木製の枠を置いてみせる。しかし、それは次第に拡大され、ついには映画の枠と一致して、見えなくなる。木製の枠自体がアニメーションの枠にすり替わってしまう。つまり、映像の枠と描画面の境界とを一致させることで、そこに現実界が入ることのできない、アニメーションだけの領域を作ったのである。アニメーションがいったん始まったなら、もはやマッケイは手を登場させはしなかった。それどころか、描画は、アニメーション界の中で、アニメーション自体によって行われた。ニモは画面の中に現れたチョーク(このチョーク自体、描かれたものだ)を使って、プリンセスを描いていく。現実界の属する手の専売特許であった描画行為すら、もはやアニメーション界のものとなった。アニメーション界は、『リトル・ニモ』によってはじめて、現実界から独立した王国として誕生したと言えるだろう。(略)
[さらに『恐竜ガーティー』の分析があって]
ブラックトンの作品では、映像は描画空間の一部を覗いたものであり、映像に現れたアニメーション界は描き手の手の向こう側、すなわち現実界の向こう側にあった。一方、マッケイは、映像と描画空間を一致させ、現実界を映像の外側に排除した。逆に言えば、マッケイにとって、描画面とアニメーション界との間に区別はなかった。描画面をそのままアニメーションの面面にするというのは、新聞漫画を長らく連載し、描画面に親しんできたマッケイらしい発想だったと言えるだろう。これは、現在のわたしたちが当たり前のように享受している形式だが、実はアニメーションの最初からあったわけではなく、マッケイによって、わざわざ描画面の枠と映像の枠とを重ね合わせることで産み出されたものだったのである。
 これに対し、フライシャー兄弟は、描画面と映像とが異なることを新たな形で示した。つまり、ブラックトンとは逆に、描画面を映像の一部へと縮小したのである。これはいかにも科学と発明好きのフライシャー兄弟らしい機知だった。『インク壷から』シリーズでは、現実界に属するマックスとアニメーション界に属する道化師のココとは、同じ映像内を動き回る対等な存在だった。(略)道化師は現実界をうろつき、マックスを混乱に陥れる。(略)
カートゥーン・ファクトリー』では、アニメーションで描かれた工場機械が逆にマックスを次々と複製し、アニメーションによって現実界が産み出されるという転倒した世界を描き出した。

 初期のアニメーションが、描画面と映像との関係を映画の中心にすえたのは、アニメーションがもともとヴォードヴィル劇場で上映され、稲妻スケッチというヴォードヴィル芸を応用していることと深い関係があるだろう。客の目の前に芸人が現れ、メタモルフォーゼする絵画を描く。客は何よりも、絵が描き出される平面に注目する。そこでブラックトンは、客の注目する描画面を切り取ってそこにアニメーションという見世物を据えたのである。しかし、その結果、アニメーションは黒板という描画面にしばりつけられることになった。
 これに対して、マッケイとフライシャーは、それぞれのやり方でアニメーションを描画面から解放した。マッケイは描画面を映像と一致させ見えなくさせることによって、そしてフライシャーは描画面を映像の内部に埋めこみ、キャラクターたちに描画面の境界を越境させることによって。
(略)
わたしたちが描画面を意識できないのは、そうした系譜の果てにある、映像=アニメーション界という構図が自明となった世界で繰り返しアニメーションを見ているためだろう。

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