さよならアメリカ、さよならニッポン

(妄想ジャップロック - 本と奇妙な煙)ここで紹介してる『ジャップロックサンプラー』と同じ訳者・出版社からの本。妄想全開の『ジャップ〜』ではそれを補完するために近田春夫マーティ・フリードマン対談が巻末についていたのだけど、この本にも当時を知ってる日本人にしかわからない微妙な空気を補完するために、萩原健太湯浅学対談がついている。

萩原健太湯浅学対談

萩原  (略)あえて日本語詞でロックしたはっぴいえんどは、だからすごいと。でも、それって69年〜70年ごろ、GS末期のほんの1年間ぐらいの常識。それまでも日本でロックはほとんど日本語で歌われてきたんだから。ジュリアン・コープの 『ジャップロックサンプラー』はそのほんの1〜2年の局地的な現象をガセネタも含めて拡げて、想像力を駆使して力技で一冊にしたというところが面白いわけでね。
湯浅  (略)裸のラリーズなんて別に固定した形ないわけだし。あってないようなものに意味を与えるということがすごくおもしろかったわけ。表紙写真からしてそう。素っ裸でオートバイに乗っているということに意味を与えている。ここが学者とミュージシャンの違いなんだろうけど、ジュリアン・コープはこの写真にかなり魅かれたんだよ。
(略)
萩原  (略)日本語じゃロックはできない、英語でやらなきゃという68〜69年ごろのある種の思い込みの背景には、GSブームというのは間違いだったという反省というか、極端な自己批判があったと思う。普段ジャズ喫茶に出演しているときはアニマルズとかブルース・プロジェクトとか、そういう洋楽ロックのカバーを英語でやっていた俺達が、なんでテレビに出るときは歌謡界の職業作家が書いた日本語の曲を歌ってしまったんだろうという反省ね。それが背景にあったうえでの、「ロックをやるなら英語だろう」という気運だった覚えがある。
(略)
黒澤明のことを語る章で、占領後のアメリカ的なるものと、それ以前の価値観とを対立軸としてとらえていたけれど、もっと単純に、ありがたい音楽とガラクタ音楽という対立軸もあるんだよね。そこの壁が実はものすごく大きい。それは別にクラシック対ポピュラーという意味だけでなく、同じ構図がロックの中にもあった。
(略)
60年代終わりの日本というのは、そういうあまり根拠のない、こっちが偉くてこっちがダメみたいなイメージ先行の価値判断が一挙に押し寄せてきた時期でもあって。
(略)
もちろんアメリカも揺れていた時期で。それが少し遅れて日本に入ってきた感じかな。モンタレー・ポップ・フェスティヴァルでジミ・ヘンドリックスが「サーフィン・ミュージックは死んだ」とMCしたという時代のムードが2年遅れくらいで日本にも入ってきて。たぶん、その発言をしたときにジミ・ヘンが想定していたのであろう初期のビーチ・ボーイズのような軽音楽は文字通り軽くてクズだ、と。そういう認識が急速にロックのリスナーの間で支配的になり始めた。実際、そのころのビーチ・ボーイズは《ペット・サウンズ》や《スマイル》という、時代性に縛られない、むしろ後世になってから評価される名作の制作に挑んでいたんだけどね。
(略)
――『ジャップロックサンプラー』ほど想像や捏造が多いのも問題ですが、逆に正確すぎると、ある意味、日本人が書くのと変わらなくなってしまう。そこにある程度の歪みを期待してしまうところはありますね。
萩原  でも、それって外来の文化を無前提にあがめて自虐的になりがちな我々日本人の考え方なのかな。マイケルさんにはそれがないから、すごくいいですよね。こういう研究を日本の学者さんにもしてほしいんだけど、日本人だとこの人ほどフラットに物を見ることができないかもしれない。
(略)
レコーディング文化というものに最初からものすごく興味を抱いていたという点が、はっぴいえんどならではの特徴のひとつでしょうね。
(略)
何かがはじまった瞬間なんだなあという感じが聞けば聞くほど伝わってくる。(略)たとえば、エルヴィスがメンフィスのサン・スタジオで録音した初期音源を聞き込むうちに感じ取れるようになってくるのと同じ、何かがここではじまったんだというゾクゾクするような感触がはっぴいえんどにもある。というのは、たぶん彼らはレコーディングするためにレコーディングしたからじゃないかと思うんだよね。メディア時代のオリジナリティというのは音源にこそあるということに、彼らは当初から意識的だったんじゃないかな。(略)再生メディアの中にこそオリジナルがある、と。これは20世紀ロックンロール文化最大の特徴なんだけど。日本でそう考えていた音楽家って、当時そうはいなかったんじゃないかな。
湯浅  GSのころはそういう話は聞かないね。
萩原  だってGSの人たちは自分の本質はレコードじゃなくライブにあるって言い張ってたんだから(笑)。

湯浅 妥当な意見が多いんだけど、逆に言うと、この人は妥当なことばかり言ってんだ。破綻がない、なさすぎるところがある。でも、音楽学の人は、この人もそうだけど、私見を交えてはいけないということがあって、その資料から離れられないということがある。でも、はっぴいえんどがどういうふうに聞こえたかという私見は入っていてもいいんじゃないかと思うけど。
――その辺が、マイケル氏の著作だけというより、研究論文の限界かもしれないですね。資料をあまりにもうまく取捨選択して、正確な引用がされているだけに。誤解しにくいという逆の難点があるということですかね。
萩原  それはさっきも言ったように、ぼくたちの中にやっぱりロックは外来のもので、俺たち日本人がやっているロックはニセモノかも……という意識があるからだろうね。海外から見たら奇妙に見えるんじゃないか、だったらいっそひどいこと言ってくれ、みたいな(笑)。
(略)
もうひとつ面白かったのが、笠置シヅ子服部良一の対抗概念として、普通なら古賀政男を出してくるところを、黒澤明を持ってきたところかな。そこが異色というか、〈ジャングル・ブギー〉を説明するためにここまで論を広げるか、と。対立軸の立て方が音楽学というより社会学的なのかな。

上記対談でも研究論文と書かれているように割とそういう文章。無作為に抽出するとこんな調子

 具体化された快感をもたらす音楽のこうした神秘的な力は、服部にとっては普遍的なものだ――「音楽は、言葉の壁を越えて世界に通じるものである」。この考えに従うと、解放は音楽のジャンルを分け隔てする人工的な壁の打破と、戦時中のファシスト的なイデオロギー、および高級な音楽と低級な音楽の区別にこだわるブルジョア的なイデオロギーの両方に抑圧されていた真の肉体的な快感への回帰を意味することになる。

 すでに見てきたように、黒澤、服部との相互関係のなかで、笠置はしばしば肉体の役割、魅力的であると同時に威嚇的な役割をあてがわれていた。言い換えるなら彼女は、肉体的な快感と物質的な消費の象徴となっていたわけだ。これは戦後、抽象的な理想に対する幻滅のあとに登場した、人間的な肉体への肯定的見解とも一致している――抽象的なイデオロギーが大失態をさらし、国家の破壊を導いたかに見える世界にあって、快感、苦痛、欲望を伴う肉体は、唯一、信頼に足る真実と見なされ、それゆえ解放にいたる最良の道と考えられた。

えー、こういう感じなのと思われた方のために、興味引きそうなところをいくつか引用。

寺内タケシ

[67年の芸能誌で「寺内のギターは日本一。いや世界一」と評され]
 神のごとき地位にもかかわらず、寺内は1970年代のロックに飛び移ることができなかったGS関係者のひとりだった。[バンド仲間や弟子にジョー山中内田裕也らがいたのに]
(略)
[1970年以降]彼のレコード・ジャケットを飾っていたのは、多くの場合、タキシードに身を包み、髭も髪もきれいに整えた彼とバンド・メンバーの姿だった。
(略)
シングルB面曲の〈サマー・ブガルー〉(1968年)は、キンクスの〈You Really Got Me〉のリフと歪んだギター・サウンドを改作したナンバーだった。この時期のトラックには、さらに驚異的なものもある。寺内は手に入る限りのエフェクトを用いながら――ファズ・ボックス、ヘヴィなリヴァーブ、過負荷をかけたアンプ、そしておそらくは実際のフィードバックも――〈レッツ・ゴー・シェイク〉、〈悪魔のベビー〉〈たそがれ〉などのトラックで、真に耳障りな、切れ味の鋭いギター・サウンドをつくりだした。(略)
[プロデュースしたフェニックスのデビューシングル<恋するラララ>では日本史上初のワウワウ・ペダルを用いた]
(略)
純粋な演奏能力という面では、寺内はすぐさま新しいギター・ノイズを生み出すために必要な仕掛けとスキルをマスターしたということだ。だが、技術的なすばらしさをよそに、彼は新たなロックのイデオロギーが求めるスタイルおよびサウンドの変化を採り入れることができなかった――あるいは、採り入れようとしなかった。
(略)
[〈たそがれ〉で]歪んだギターのフィルがどれだけラディカルに聞こえようと、曲そのものはGSのお決まりパターンを忠実になぞっていくだけだ。
(略)
激しい〈太陽の花〉は、常時加速しているような感覚をもたらし、ファズ・ボックスをかけまくったギター・ソロに、ヘヴィにフィルターをかけた叫び声を載せるような真似までしている――しかし50年代風のヴォーカル・ハーモニーを伴ったサビがはじまると、カオスはすぐさま取り澄ました秩序に場を譲るのだ。

恋するラララ(ザ・フェニックス)[かなりガレージ!!]

〈悪魔のベビー〉(3:32辺りから。冒頭の曲はちがいます)

〈たそがれ〉(曲自体はアレだけど、ほんのりファズギターw)

〈太陽の花〉(画像は無関係なアニメ、これしかなかったw)

民謡GS

 [日本民謡をGS風にアレンジした]寺内らによる「エレキ」ソングの多くは、より歴史の古い日本「民謡」と同様、ペンタトニックのスケールを用いていた。日本のロックの薄っぺらな真正さは、日本の伝統的文化の持つ真正さに訴えることでたやすく補強できたため、それは結果として、音楽は「リアル」でなければならないという、ロック・イデオロギーの要求を満たすことにもつながった。
 これはたとえば寺内のかつてのバンド仲間で、1960年代の後半には自分のバンド、サムライとともにヨーロッパで活動していたミッキー・カーチスにも用いられた戦略だった。プログレッシヴ・ロック的なアルバム《侍》(1970年)を聞けばわかるように、彼らのサウンドオリエンタリズム的な要素を大々的に採り入れていた。すべて英語でうたわれる歌詞は、日本の伝統的な主題をくり返し強調し、曲もやはり、日本の伝統的な楽器や様式を、くり返しほのめかす。
 1970年に帰国したカーチスは、その後のインタヴューで模倣が日本のロックの特徴となっていることを嘆き、彼のバンドはオリジナリティによってヨーロッパのファンを勝ち取ったと主張した。だがこの場合のオリジナリティとは、奇妙なことに、日本の伝統的な音楽のサウンドを模すことを意味していた。

執筆動機

順番が逆だけど本書執筆の動機を記した冒頭の文章から

[84年学生として来日、『ロッキング・オン』を愛読するルームメイトHと音楽情報を交換]
ぼくがプリンスを聴く一方で、彼は佐野元春を聴いていた。ぼくはブライアン・ウィルソンビーチ・ボーイズが好きだったが、彼は山下達郎を好んだ。ぼくはクラッシュとセックス・ピストルズを愛聴し、彼はスターリンとモッズを愛した。ブルース・スプリングスティーンにはふたりとも入れこんでいたものの、Hはそれ以上に浜田省吾を信奉し、現にぼくらの部屋の壁には、漆黒のレイバンで目を隠した浜田の巨大なポスターが貼られていた。
(略)
[一年の留学が終わり持ち帰った日本の音楽をミネソタの友人に聞かせたが誰も受け付けなかった]
彼らの耳には派生的な音楽にしか聞こえず、英語の歌詞の発音も失笑ものだった。だが彼らにはなによりもまず、自分たちの心を開いて音楽を楽しむための枠組みが欠けていたのだと思う。
 つまるところ、彼らは自分たちがイメージするポピュラー音楽の領域地図内に、これらの曲を位置づけることができなかったのだ。
(略)
 日本から持ち帰った音楽にミネソタの友人たちの興味を惹けなかったことが、最終的にはぼくがこの本を書く動機のひとつとなった。英語圏の読者たちに、膨大な量のすばらしい音楽を紹介するとともに、それを楽しむための手がかり――地図を提供したいという気持ちに駆られたのだ。