無くならない アートとデザインの間 その2

前回の続き。

無くならない: アートとデザインの間

無くならない: アートとデザインの間

 
  • 小崎哲哉との対話

サヴァン症候群

小崎 で、三つ目の仮説はサヴァン症候群です。ナディアって少女の話は知っているでしょう。幼児期に、話はできないけど、異常なリアリズムの絵を描いた女の子。(略)信じられないぐらい上手な馬の絵なんですよ。普通「馬の絵を描け」と言われるとほとんどの子供は横向きに描くけど、彼女は正面から馬を描いている。(略)
平面作品なんだけど、あたかも動いているかのように見える。洞窟壁画のなかにある動物の絵に、ちょっと通ずるところがあります。(略)
だけど、その後、その子は教育を受けて、言語を習得するに従って、まず絵に関心を示さなくなり、描かせてみたら、普通の子供の絵しか描けなくなった。
佐藤 (略)褒められれば図に乗ってまたどんどん描いてました。(略)そのときのことは、いまだに、どこかに記録が残っているというより、しょっちゅう思い出すことで、しかもずっと未解決なままなので、何らか普遍的な問いがあると思うんです。
 その後、絵ばかり描いていた幼稚園のときに、針田君といって、いまでも名前を覚えてますが、異様にリアルな絵が描ける子に会った。(略)素でスラスラと電車とか描くんだけど、下の機械類が全部正確に描けているんです。(略)
[図鑑とかは参照]してません。見てないんです。頭のなかにはいっている。記号表記までしてある。もう全部この人のなかに入っているんだと。(略)
目の前でサラサラと電車ができあがっていくんです。何か訓練して到達するようなレベルではまったくなくて、そういう人はいるんだっていうことなんです。やっぱりちょっと悔しいから、自分は見ながら描くんだけど、見ないで描いている針田君のほうが速い(笑)。描けるってこういうことなんだなと思った最初の鮮明な記憶です。

平面作品の行き詰まり

小崎 (略)たとえばいま、アールブリュットが世界的ブームですよね。それは、現代アートがあまりに空疎になったと感じている人が、アート業界のなかにも出てきているから。(略)
でも現代アートのアンチとしてアウトサイダーアートをもってくるのは、違っているような気もする。アンチじゃない、地続きだろうと。
 佐藤さんがやっていることを見ると、原点を考えさせてくれて、すごいなと思うんだよね。一方で、現代アートが見る人を必要としているようには、佐藤さんは観客を必要としてないんじゃないかなっていう気がしたの。
佐藤 描いているときは、見られることはまったく想定していないですよね。描くことを確かめているし、描くことそのもののなかに答えがあるはずだから、そこで嘘をつかないことを確かめているんだと思うんですよね。(略)
意外といま、しゃべって考えているほうの僕がいろいろと解釈しようとするわけですよ。(略)
でも描く側からしてみると、言語に置き換えて「この線をなぜ選んだかというとね」と説明した時点で、もうそれは何かが違っちゃってるんです。(略)
[描きながら展示をした時]
「よくあんなに人が来るところで、雑念まみれになって絵なんか描けるね」と言われるんだけど、そもそも集中して描いているわけではないので逆に集中して描いたら駄目なんです。重ねて描いている絵っていうのは、僕からすると駄目な絵なんです。美術史上にある立派な絵のなかにもそういうものがたくさんあるけれど、そこに魅力は感じない。僕からすると、そういうのは絵じゃないんです。(略)
[重ねて描くとは]自分で考えてることと、描くことを重ねる行為です。ちゃんと自分で設計して、それに自分の手足を従わせる。
小崎 それは現代アートそのものですね。現代アートは、コンセプトから始めなくちゃいけない。そのコンセプトにどれぐらいレイヤーを重ねていくかっていう作業をしていく。
(略)
佐藤 (略)それでみんなが驚嘆するレベルまで行けば、それが一つ何かを示したことになると思うし、それはそれで単純にすごいなと思うんだけど、自分のなかから、そういうふうに出てくる感じはまったくしないわけです。そういうことをしても、ろくなものにならないっていうふうにしか思わない。
 だから、デザインを選んだときも、これは自分が決めるんじゃなくて、状況が決めることに応じてるだけだから、そのほうがまだ間違えないっていう感覚があったわけです。基本、自分で意志を働かしたら間違えると思っているんです。だけと、その結果、デザインやイラストレーションは、その時代にウケるものじゃないと機能しない。ある時期のイラストレーションは、ファインアートのペインティングなんかより全然よかった。商業的なものにまみれて、自ずと出てくる要求に対しても応えているもののほうが、気づかせてくれることも多かった。(略)
80年代以降のサブカルチャーやセゾンがやっていたことなんかは、70年代までのドロドロした情念にまみれたものをスッパリ切った、資本主義的なものに対する期待の現れでもあったと思うんですね。
(略)
小崎 (略)つい20年ぐらい前まで、荒木経惟森山大道は、「何言ってんだよ、写真は写真だよ」「アートなんて変なものじゃねーよ」って言ってたわけですよ。それが、サインをしてリミテッドエディションにすると、何十万何百万で売れるっていうのがわかった途端に変わっちゃった。でも、写真は写真でいいじゃないですか。
 僕は荒木さんの写真も大道さんの写真も好きだけど、それが現代アートとしての要件を満たしているかって言ったら、結構点数低いと思う。それは、平面でやれることがかなりやり尽くされて、相当行き詰まっていることにも関わっています。絵画の世界では、新しいことってほとんどないでしょう。(略)
そうすると、いま、見るべき作品ってインスタレーションなんだよね。空間を設計する。画家が展覧会やるときも、空間設計に相当気を使ってるはずです。それは時代の要請もあるけど、端的に空間にするほうが、要素が掛け算で増えていくからでしょう。一枚の絵だけじゃなくて、これとこれを組み合わせて、こんなふうに置いてみたら、違うものになる。それが大きい。
佐藤 80年代に、ちょっと停滞気味に見えていた平面表現活動に対して、コマーシャルなものがものすごく動きが出てきたように見えたのは、その状況自体が要素だったんだと思うんですよ。
(略)
小崎 コマーシャリズムに入っていくこと自体が、なんかべつの可能性に思えたのかもしれない。
佐藤 湯村輝彦さんは「アートなんかといっしょにすんな」って言い方をはっきりとしています。荒木さんだってそういう文脈でした。荒木さんはコマーシャリズムのなかから出てきて、そこで成功していることにも誇りをもってきたはずです。広がりのある場所に出てこれないで、仲間内だけでごちゃごちゃやって、何か成立してるつもりになってるなんて、ちゃんちゃらおかしいぜと思ってたはずなんです。ところがいまは、その商業的なものに乗っかって成功するってことがどれだけ価値があるのかわからなくなってしまった。ここも行き詰っちゃったわけです。
小崎 日本の場合、欧米と決定的に違うのは、ファインアートとサブカルチャーの区別が、プロですらきちんとついていないことですね。芸術大学でもほとんど教えられていないし、事実上無視されている。でも、違いを知った上で無視しないと駄目だと思うんだよね。習わずに、そんなものがないかのようになっているというのは、あんまり健全じゃない。
(略)
小崎 批評家のなかには「[会田誠の]『電信柱、カラス、その他』は[長谷川等伯の]『松林図屏風』を参照している」と言う人もいます。プロだから、そういう言い方をするんですよ。現代アートは、必ずアート史に参照物を見つけなければいけないってことになっているから。(略)
 ちょっと前まではそれでよかったかもしれないけど、僕はいま、少し違ってきているんじゃないかと思っています。1989年に世界が決定的に変わった。世界情勢が変わり(略)インターネットが普及し(略)
世界中でみんなが写メして、ネットにあげている。(略)CGをはじめ、視聴覚に関わるあらゆるテクノロジーがこれだけ進歩してくると(略)
過去のアート史、つまり縦軸を参照するよりも、同時代の事象、つまり横軸を参照することのほうが、つくり手にも受け手にも求められているんではないか。
(略)
佐藤 ショーヴェの壁画の動物の曲線とかを見ると、あれが描けるようになっている状況が想像できて、すごく共振するんです。訓練もしていると思うんだけど。(略)
うまいですよね。だけど、あの絵、一発で描いてるじゃないですか。修正してないんですよ。描ける状態になってて、ただそこに向かい合ってるんですよ。訓練していたとしてもべつのところでしていたと考えるしかないんです。それがすごくおもしろくて。地面の土の上にでも描いていたのか、中空で手だけ動かしていたのか。いまの美術の世界にはそういう身体性は求められていない。痕跡を残す技術的な訓練だけやっている。いわゆるパクリが生まれてしまうのも痕跡さえ同じならいいという考え方があるからです。記録に残る結果だけが問題になっている。たとえば、古武術の訓練と近代スポーツとしての格闘技の訓練はまったく違います。
(略)
肉体的なものとしての、絵が描けるようになっていた状態からすると、僕らは描けなくなっているんです。どの時代と比べても、もっとも絵が描けなくなっているんですよ。
 美大受験の設定にしても選抜目的ですから、規律訓練でしかなくて、そこを通過しても絵が描けるようになるわけではない。近代スポーツのトレーニングに似ています。そうでありながらそのルールがよくわからない。学校体育レベルってことになるのかな。自然を取りこんで自分のなかにたっぷりと貯まった情景があれば、そこから自在に取り出してきて、絵はできあがっていったんだと思うんです。だから、美大ができる前の画塾ではそれに連なるようなことをやっていたはずです。

自己の希薄化

細馬 たとえば、いま植物を描いているとして、その絵は、その前の絵と比べて、バラエティがあったほうがいいなぐらいの感じはあるんですか。
佐藤 どのみち何らか選択的な抽出にはなるわけですよね。でも、バラエティをことさら意識し出したら、科学と比べてもエンターテインメントと比べても中途半端なものにしかならないです。さりとて、これは創作活動で、俺は作者だから俺が決めればいいんだ、というふうにも思えない。そう思えたら楽なんでしょうが。でも、僕の場合はそれは人が決めることだからと思ってしまうんです。(略)
個が何かを描く。それはそうだとしても、作者とか自己とかいった考え方はかなり新しいものじゃないですか。たとえば印象派みたいな時代の、生き生きしたものに対するシンパシーはあります。近代に特有の自意識のようなものが発生しなかったら印象派なんて存在しなかったでしょう。ただ、それというのは、そのときにはじめてのことをしていたからということが大きい。でも、絵画の様式が変わっても作者とか自己とかいうところだけはずっと温存され続けています。絵画における作者とか自己とかいった概念は本当に意味がない。というかネックになってしまっているんじゃないでしょうか。
 現代のマンガ家は観察者としての力量が問われるので、かつての印象派の画家たちに近い感じがします。作者も自己も変化していく。
(略)
[シャーマンと]いま僕らが個人で責任をもちますというのは、明らかに違います。ただ(略)
個がどういうかたちであろうがなかろうが、「描いているという状態」だけは確実に起こせる。その状態は、そこで生えているという状態とかなり近い感じがするんですよ。
 誰がとかではなくて、述語だけがある。その感じにすごく確信があって、主語が自分ではない。お前が描いたんだろう、と言われたらそうなんだけど、強い自己をもった作家やアーティストになったら、自分というものに定点としての主体を置かなければいけなくなるじゃないですか。そのことに対してものすごく抵抗があるんです。
(略)
 アウトサイダーアートとかアールブリュットとか言われるものと、僕がやっていることの間には、同じような部分もあれば違う部分もあるような気がしています。グラデーションがかかっているというか、境界が複雑に入り組んでいてきれいな繰が引けないというか。
岸野 (略)作業所に通って毎日一時間か二時間絵を描いていく。その描き方も奇天烈な絵を描くというものではなくて、あるエリアの端から一つ一つ塗っていきます。塗るのも僕らよりもずっと丁寧で、絵の具を盛大に使って、とにかく完璧に塗り続けます。そして一日の作業が終わる。また翌日来て、作業をする。そういうことを、ずっとやっているという人が結構いるんです。最初は塗り絵みたいなもんだなと思っているけど、毎日完璧にやるということを繰り返して、それが積分されると一枚の絵になったときに、これは牛ですと言われて、えーっと驚く。そういうタイプの人の絵はおもしろい。
佐藤 作品づくりではないんですよね。どちらかというと行為なんです。音楽だったら、時間軸をもった行為なんです。僕が興味があるのは、どうしてその行為に及ぶのかというところ。行為の残った痕跡を絵画と呼んでいる。音楽も記録媒体に収められたものは行為の痕跡てすよね。ただ、絵は痕跡を確認しながら進んでいる。わざわざ残そうと行為に及ぶことのほうが多い。つまり作為性が強い。
 ある線を引けるようになるというということは、身体的なもので、受け取り手から見たら痕跡としての線が存在するようになったということだけと、それができる状態にあるということ、そこが大きいんです。ショーヴェの壁画は「それができる状態にある」人の絵です。僕らにはそういう意味での身体性がかなり失われてしまっている。描けるようになるといっても、様式であったり道具であったり訓練の仕方であったりのほうの力が大きくて、痕跡さえ残せればいいというものになっている。だから最終的には描かなくてもいいというところに行き着く。自由自在に描けるようになるのではなく、特定のものが再現できるように、機械的な意味で同じ動きができるようになっているにすぎない。
 そこをもう少しはっきりとさせたいと思うことがあります。アートとかデザインとかの制度を批判してすむ問題ではなくて、言語化しにくいところなんてすが。今度の展覧会では、その境目が少しても見えてきたらいいなと思っています。
(略)
細馬 何だろう。同じ筆を動かす行為でも、署名感のある行為とそうでない行為とがあると思うんです。たとえば、壁に落書きをするときって、何か独特の署名感が出ますよね。ただ無名の絵を残すんじゃなくて、自分の名前を刻むみたいな。でも、同じ壁に対して筆を動かすのでも、壁を塗るときには署名感がない。

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