『リトル・ニモ』を描いた男

『リトル・ニモ』ウィンザー・マッケイの経歴

[マッケイが二年ほど務めた印刷所はサーカスの印刷物を主に扱っており]
『チーズトーストの悪夢』や『リトル・ニモ』に見られる独特の画風、すなわち、道化師や曲芸師、幾多の動物たちが画面から飛び出さんばかりに躍動する構図や、宣伝広告独特の目の覚めるような色彩感覚は、[サーカスの到来を告げる色鮮やかな石版印刷のポスターを描いた]この印刷会社時代に培われたのかもしれない。
(略)
[印刷所とは別に]マッケイは十代の終わりから三十代の始めまでずっと、[週替わりでフリーク・ショウのけばけばしいポスターやビルボード(絵看板)を]10セント博物館のために描き続けていた
(略)
 似顔絵描き、印刷所、10セント博物館。若き日の彼は、あるときは自ら絵看板描きとして人びとのまなざしにさらされ、またあるときは逆に、ヴォードヴィル芸人たちやサーカスの動物たちにまなざしを向け、描く側となった。絵看板を街頭で描くということは、一本一本の線が引かれる様子、やがてそれが人の顔となっていく過程を、道行く人々がリアルタイムで眺めるということだ。ケインメイカーによれば、マッケイが看板を描くのを目撃した人は、彼の「引く一本の線が、ほとんど迷うことなく対象のアウトラインを描き出していくことに驚嘆した」という。マッケイは、ひとつひとつのストロークで通行人を魅了する体験を重ねることで、描くという行為じたいが鑑賞の対象になることを、自覚したに違いない。絵を描く自分がいて、さらにその自分を見ている客がいる。それは、絵という見世物を描きながら自らが見世物となる体験である。まして、マッケイは10セント博物館の芸人たち、人びとの好奇の目を惹きつけるフリーク・ショウの出演者たちや奇術師や軽業師たちと近しい場所にいた。自分の背中を見るような、奇妙に醒めた彼の作風は、こうした若き日の経験に裏打ちされたものだったのではないだろうか。

[1906年興行主に依頼され)マッケイは稲妻スケッチを演じるようになった。すでに漫画家として有名だった彼は、プロクターの劇場で最初からスターの扱いを受けた。寡黙で、ビジネスマンライクな風采ながら、エレガントな手つきでみるみる絵を描いていくマッケイの芸は各地で評判となり、この試みは断続的に十年にわたって続けられた。つまり、マッケイは、緻密な描き込みに満ちた『眠りの国のリトル・ニモ』を毎週描きながら、さらに『チーズ・トーストの悪夢』をはじめとする連載を持った上に、各地のヴォードヴィル劇場で公演を行っていたことになる。忙しい彼は公演先のホテルや舞台裏で連載作品を描くことさえあった。
 こうして見ていくと、『眠りの国のリトル・ニモ』の時代はマッケイにとって紙に描いたもの、そして紙に描くという行為を、次々と奥行きや動きを伴った作品やパフォーマンスに変換していく時代でもあったことがわかる。

アニメ部分のみの動画

マッケイの稲妻スケッチの後にアニメがある動画

黒板アニメ『愉快な百面相』

https://https://www.youtube.com/watch?v=wGh6maN4l2I

この冒頭の場面には、マッケイの驚くべき野心が読み取れる。フリップは正面を向いて、煙を手前から後ろに振り払うのである!ブラックトンも黒板アニメーションを使って煙を表現したが、それはあくまで黒板という面に貼り付いた、チョークを延ばした跡に過ぎなかった。それに対して、マッケイは煙を平面から解放し、奥行き方向に向かってたなびかせるのである。(略)
[しかも]マッケイがやろうとしていることは、現実の煙をそのまま写し取ることではなく、漫画として描かれた煙を動かす試みなのである。
(略)
[フリップとジャングル小僧]の追いかけっこが、単に絵の上で平面的に移動するのではなく、遠近法に従って画面奥と手前を移動することである。
(略)
それにしても、像の伸び縮みのスムーズなこと!(略)マッケイは、単に歪んだ像じたいをスケッチするのみならず、歪みの動きを写し取っているのである。その動きがあまりに自然なので気に留まりにくいが、これもまた驚嘆すべき表現だ。

『蚊はいかに動くか』
https://https://www.youtube.com/watch?v=zr58Gka6KTI

ポーズとポーズのあいだにどんな中間の絵(現在でいう「中割り」)をほどこせば動いて見えるかを、マッケイはほとんど自分一人の頭の中で考え抜いた。さらには、人物や蚊の眉毛の一本一本、角度によって微妙に見え方を変えていくふくらんだ胴体の陰影を、彼は一人で、一枚一枚ペンによって描いた。その量は数千枚に及んだ。

https://https://www.youtube.com/watch?v=ixK1DffOsbE

そもそも、マッケイはなぜ恐竜を選んだのか?

 彼自身はその理由について、こう書いている。


『リトル・ニモ』を見た観客は、それは描かれたものではなく、実際の子どもの写真を使ったのだろう、と言いました。そこで次の作品『蚊はいかに動くか』では、そんな観客の疑いを取り除くべく、とんでもない蚊の化け物が、寝ている男を求めてドアの上の窓から入り込み、男に飛びかかるところを描きました。観客は喜びましたが、今度は、カメラの前で蚊にワイヤーを付けて動かしたのだろう、と言われました。なんとも悲しむべき、笑ってしまうような事態です。わたしは疑り深い者どもを断固納得させようと決意し、三回目の挑戦にしてようやく成功しました。千三百万年前に生きていた先史時代の怪物、わたし自身によって産み出されたガーティーを描いたのです。

恐竜ガーティーの背景はほとんど勤かない。現在の常識からすれば、こうした背景は別のセルやレイヤーに描いておき、その上にキャラクターを重ねればよさそうに思える。しかし、マッケイはそうはしなかった。マッケイは薄いライスペーパーにペンとインクで次々と描いていき(この頃はまだセルは開発されていなかった)、絵を透かせて前の絵との対応関係を調べた。(略)
[マッケイが恐竜を描いたあと、助手が背景をトレース、その際の]
わずかなずれは、アニメーションにすると微かなゆれとなる。(略)
この不思議な効果は、その後、ノーマン・マクラレンをはじめ、実験アニメーションの作家たちがしばしば用いている。

『ヒーザ・ライア大佐』
 

https://https://www.youtube.com/watch?v=wzZx_g8XmOM

アニメ界のヘンリー・フォード

[マッケイより一回り年下のジョン・ランドルフ・ブレイは1914年に]
アニメーショーンに関する特許を次々と申請している。(略)
特許の一つは、トレーシング・ペーパーに背景を印刷してしまう方法である。(略)[効率的ではあるが]背景の輪郭の息づきや、湖面のきらめきは失われてしまう。
(略)
もう一つの特許は、着色に関するものである。(略)
[黒い背景に人物を描いたトレーシングペーパーを重ねる時に黒くならないように、裏から人物の輪郭の内側を不透明な白等に塗っておく]
[不透明な紙に描いた切り絵の前景をキャラクターの上に置く、その他いろいろ]
(略)
 ブレイがこれらの特許によって実現したのは、背景とキャラクターを切り分け、それぞれを簡素にすることで、分業制を可能にするシステムだった。飛び抜けて秀でた個人が一人ですべてを行うのではなく、協同作業によって効率よくアニメーションを作る。ブレイは、アニメーションにおけるプロダクション・システムを作ったのだった。(略)
やがてブレイは「アニメーション界のヘンリー・フォード」と呼ばれるようになった。
 絵のクオリティだけを考えれば、ブレイのやり方は退行に見える。しかし、短期間のうちに作品をいくつも作ることができるようになったおかげで、思いがけない可能性が生まれることになった。それは、同じキャラクターを配したシリーズものの誕生である。[『ヒーザ・ライア大佐』シリーズ]

 もうひとつ、のちのアニメーションにとって決定的な発明がこの時代になされている。それはブレイ・スタジオにいたアニメーター、アール・ハードが開発した、セルロイドを用いた方法、現在でいう「セル・アニメーション」である。従来の薄い紙を使う方式に比べると、セルロイドの方が透明度が高く、重ねても輪郭がはっきり現れた。ハードは、セルを使う方式にもう一つの工夫を加えた。それは、身体の中で動かない部分を別のレイヤーに描いておき、手足などの動きが加わる部分だけを描き変えるというものだ。透明度の高いセルロイドならば、同じ身体を二枚のレイヤーに描き分けても継ぎ目を感じさせない。

次回につづく。