時間がないので訳者向山恭一のあとがきだけで済まそうかと
「被害者限定原則」に代わる「被治者限定原則」
ジョン・ロールズの影響のもと、政治哲学ではもっぱら富の再分配が正義論の第一の課題として論じられてきたが、冷戦後の「ポスト社会主義的想像力」に促されて、マイノリティの傷ついた自尊心の回復をめざす承認の要求もまた、喫緊の課題として浮かび上がるようになった。たがいに異なる存在論的地平に立つ再分配と承認の主張は、正義の文法を混乱させ、その「秤」としての機能に障害を及ぼしつつあったのである。(略)
こうした正義論の混乱は、「再分配か承認か」という問題を提起し、いくつもの論争を引き起こした。(略)
ところが本書では、フレイザーはそうした混迷する正義論に、さらにもうひとつの難問を突き付けている。再分配であれ承認であれ、それらの要求は、いったいだれのあいだでなされるのか。こうした正義の「だれ」をめぐる問いは、正義の「なに」をめぐって争われる再分配と承認に付け加えて、代表という第三の争点を提起している。(略)
グローバル化の進行とともに国家の主権性が弱まり、国境横断的な不正義の存在が明らかになるにつれて、正義の「だれ」それ自体が混乱するようになってきたのである。(略)
正義の実現がもはや主権国家だけに期待されないとすれば、それを補完しうる、まさにポストウェストファリア的な正義のフレームをわれわれは手にしなければならない。フレイザーはまず、そうしたフレームを機能的に分節化し、「被害者限定原則」にもとづいた「リスク共同体」という構想に訴えようとした。(略)
しかし、だれがどれだけ被害を受けているのかという問いはどこまでも波及し、結局のところ「だれ」を決定することすら困難になるかもしれない。さらに、そうした被害者性の拡散は、説明責任の所在さえもあいまいにし、それゆえ正義の実現を無期限に引き延ばすことにもなるだろう。
そこで、フレイザーは「被害者限定原則」に代わるものとして、さまざまな水準での正義の要求に対応しうる、多層的な統治構造の存在を想定した「被治者限定原則」を提唱している。
(略)
彼女が今日の正義論に突き付けた最後の問いは、正義の「いかに」をめぐるものであった。どのようにして正義のフレームを決定するのか。ロールズ以後の正義論では、そのフレームはたいてい経験的事実として、もっぱら社会科学によって特定されるものとみなされてきた。しかし、フレイザーはそのような知の特権を社会科学者から剥奪し、フレームの決定権を民衆の手に取り戻そうと提唱している。彼女が「被治者限定原則」にたどり着いたのも、そうした理由からであった。
(略)
正義論はより自覚的に民主主義へと接近し、自らを民衆との対話に開くことが求められている。国内的な「社会正義」から国境横断的な「民主的正義」ヘ――フレイザーの眼目は、そうした正義論それ自体の民主化にあるのだ。
うぬ?「被治者限定原則」とはということで、本文をパラ見して第5章から
統治の構造への共同の従属
これまでウェストファリア的な国民として理論化されてきたコミュニケーションの「だれ」は、今日ではしばしばデモスを構成しない、分散した対話者の集合となっている。これまでウェストファリア的な国民経済に根ざした、ウェストファリア的な国益として理論化されてきたコミュニケーションの「なに」は、今日では地球全体に広がり、それにともなって拡大した連帯やアイデンティティがもたらされたわけではないが、国境横断的なリスクの共同体に及んでいる。かつてはウェストファリア的な国土として理論化されていたコミュニケーションの「どこ」は、今日ではしだいに脱領域化されたサイバースペースを占有しつつある。かつてはウェストファリア的な国民的印刷メディアとして理論化されていたコミュニケーションの「いかに」は、今日では支離滅裂に重なり合う映像文化の広大な言語横断的な結びつきを内包している。最後に、かつては世論に応答しうる主権的な領域国家として理論化されていたコミュニケーションの「だれに」つまり名宛人は、今日では容易に識別することも、説明責任を負わせることもできない、無定形に混在する公的および私的な国境横断的権力となっている。
被治者限定原則は、人々の集まりを公衆の同胞市民に変えるものは共有された市民資格でも、因果的な基礎構造での重なり合いでもなく、彼らの相互行為の基本ルールを立てる統治の構造への共同の従属であると主張する。したがって、いかなる所与の問題にとっても、関連する公衆は当該の社会的相互行為の幅を規制する統治構造の範囲に合致していなければならない。そのような構造が国家の境界を越えているところでは、それに対応する公共圈も国境横断的でなければならない。それができないとすれば、そこで形成される世論は正統とはみなされないだろう。
(略)
これからは、世論は関連する統治構造にともに従属している万人が同輩として、政治的成員資格にかかわりなく参加しうるコミュニケーションのプロセスから導き出されるかぎりにおいて正統である。
(略)
つまり、現存する公共性の正統性批判は、現存する公共性の「いかに」だけでなく「だれ」も問いたださなければならない。あるいはむしろ、それはだれのあいだの参加の同等性かと問うことで、同等性と包摂性をともに問いたださなければならない。
第9章のインタビューから
ゲームの規則を変える
「ゲームがこのように組み立てられている以上、私たちにはそのゲームをするしか選択肢がありません。現状を考えると、輸出加工区は産業を誘致し、雇用を創出し、開発プロジェクトのために資本を蓄積する最善の試みを表わしているのです」。そのとおりです。ゲームの規則を変えられない定数とみなすなら、この戦略は十分道理にかなっています。しかし、これが本当に唯一の可能性なのでしょうか。19世紀イングランドの労働者たちが「私たちはいまあるゲームを行ない、そのなかでできるだけ最善のものを得ようとするしか選択肢がないのです」といったとしましょう。だれもがそういったとしたら、労働運動も、一日八時間労働も、福祉国家もなかったでしょう。歴史はつねに、そうした集合行為の問題を生み出しています。
(略)
そのような闘争を模索する人々は、いまあるゲームをする代わりに、それをあえて変えようと試みるだけの数と力があるのかどうかを理解するよう努めなければならないのです。