隠遁まで サリンジャー評伝・その3

戦場のサリンジャー 評伝その2 - 本と奇妙な煙の続き。 

サリンジャー ――生涯91年の真実

サリンジャー ――生涯91年の真実

 

PTSD 

戦争が終わるも、帰国せず、占領軍の非ナチ化推進任務にあたることに。折れた鼻を矯正することも拒み、爆発音で聴力をかなり失なっていた。戦争体験、兵役の延長、第12連隊と別れた孤独、その苦しみを表現したくないこと、などが重なりPTSDに。 

1945年当時はまだ[PTSDは]認められず、ほとんどの兵士たちは黙って苦しみに耐えることをしいられた。(略)彼は、自分では表現する言葉を持たないすべての兵土たちについて、そしてそんなすべての兵士たちのために、書いたのだ。(略)
だからこそ、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でホールデンの別れの言葉、「だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしないほうがいいぜ。そんなことをしたらたぶん君だって、誰彼かまわず懐かしく思い出しちゃったりするだろうからさ」を読むとき、J・D・サリンジャー第二次世界大戦のことを念頭におくべきなのだ。

“A Girl I Knew”に描かれたように、ウィーンで「あの」家族が収容所で抹殺されたことを知り動揺したサリンジャー、ドイツに戻りドイツ人女性と結婚(米軍人はドイツ国籍者と結婚を禁じられていたので、婚約の贈り物として偽のパスポートでフランス籍に)。さらに除隊後もドイツに残ることに。一般市民として国防省と契約し、戦争犯罪者の捜索、逮捕、告発を行う。その間に、結婚生活は破綻しはじめる。1946年5月4年ぶりに祖国へ妻と帰るも、7月半ばに妻はヨーロッパに戻り離婚請求。

選集『若者たち』、裏切り

[帰国してまもなく、選集に]
融資することになっていたリッピンコット出版が、出版に反対したため、ストーリー出版だけでは資金が足りなくなったのだ。バーネットが約束したにもかかわらず、選集『若者たち』の話は消えてしまった。
 サリンジャーは激怒した。彼は編集者に裏切られただけでなく、ひとりの友人にも裏切られたと感じた。彼はこれを詐欺だと受けとめ、けしてウィット・バーネットを許さなかった。このふたりの長い、ときにはお互い負担になることもあった関係は、その日の午後、ヴァンダービルト・ホテルで終わりを告げた。サリンジャーは編集者という人種は、どこでも裏切るものだと思いこむようになった。ニューヨーカー誌には「マディソン街はずれのささやかな反乱」の掲載で裏切られ、サタデー・イヴニング・ポスト誌には勝手にタイトルを変更され、今回のバーネットのあきらかな裏切りは、サリンジャーがかねてから抱いていた疑惑を確信させただけだった。彼はその後、編集者のやり方や目的を信用しなかった。

カフェやクラブで酒と文学談義、ホテルの客をナンパしてデートしまくり、デートはひとり一度だけ、デートのための策略をめぐらすことを楽しむ、そしてポーカーという独身生活を満喫。
ポーカー仲間のホッチナーが自分の短編の「ボウリングボールでいっぱいの海」というタイトルをサリンジャーが盗んだと責めると

サリンジャーはふたつの「ボウリングボール」作品(とホッチナーの「玉突き場の窓のロウソク」という作品)の相対的な長所を比較して、自分を弁護した。ホッチナーの作品に関して、サリンジャーはきっぱりと、「これらの物語には隠れた情緒がない。言葉と言葉のあいだに炎がない」と言ったという。
 サリンジャーは相手の著作態度を非難して、ホッチナーは自分が知らないことを書いている、自分を自分の物語のなかに置いてみるべきだ、と主張したのだ。「芸術作品として書くということは、経験の拡大だ」と彼は断言した。(略)彼はホッチナーに、「言葉のなかに」炎を埋めこむのではなく、「言葉と言葉のあいだに」炎を置け、と忠告した。その指摘するところは、真の意味は作者が指示するものではなく、読者に感じとられるものだということだ。

ニューヨーカー誌に「バナナフィッシュ〜」を渡すも誰も理解できず、わかりやすくするために冒頭にシーモアの妻ミュリエルの場面を追加。2語では意味が広がりすぎるので「バナナフィッシュ」と1語にすべきと説明。

 1945年5月8日、ドイツ軍が降伏したとき、世間はよろこびにわいたが、サリンジャーは感情に呑みこまれるのが怖くて、事態を直視できなかった。いちにちべッドにすわって、両手で握りしめた45口径のピストルを見つめていた。この拳銃で左手のひらを撃ちぬいたらどんな感じだろう、そんなことを考えたりした。
[エリザベス・マレーへの書簡から]

名声にとまどう

[「小舟のほとりで」がハーパーズ誌に掲載された時「作者自身による」著者紹介で]
「今回は手短にすませて、さっさと帰る」と、サリンジャーは断言した。


 まず第一に、もし私が雑誌社のオーナーだったら、寄稿者による伝記的な文章など載せはしない。作者の生誕地、子供の名前、仕事の予定、アイルランド革命のとき銃の密輸で逮捕された(勇敢な悪党だ!)日時など、知りたいとは思わない。


 この「勇敢な悪党」という言葉は、あきらかにアーネスト・ヘミングウェイヘのあてつけだ。彼のうぬぼれと強がりは有名だった。じじつ、サリンジャーはこの欄の大半を割いて、ヘミングウェイのように、自分を売りこんでよろこんでいる作家たちのインチキぶりを批判している。
(略)
ここで彼があきらかにした個人的な事実は、重要だがそれほど目新しくもない3つの情報だけだ。彼は読者に語った、「私は10年いじょう本気で書いている」。「戦争中は第4師団に属していた」、そして、「ほとんどいつも、とても若い人たちのことを書いてきた」。
(略)
[友人の詩人の創作科での講演を引き受けるも]
 その講演を終えてみると、サリンジャーは当惑した。いったん演壇に上がってしまうと、彼は演技者になって、うぬぼれのつよい個性をみせてしまったのだ。これは彼にとって、けっして快適な立場ではなかった――というより、快適すぎたために、隠しておきたかった自分の側面が、表に出てしまったのだ。「その日は楽しかった。でも、またやりたいとは思わないな」
[公衆の前に姿をあらわしたのはこれが最初で最後となった]

サリンジャーが1952年にしばらくデートしたこともある、作家のリーラ・ハドリーによれば、彼のアパートには電気スタンドがひとつ、製図用机、そして軍服姿の自分の写真のほかは、ほとんど家具らしいものはなかった。壁はべつとして、なにもかも黒だった。家具、本棚、ベッドのシーツも黒だった。(略)
 サットン・プレースという高級住宅地のアパートに小さな小屋のような雰囲気を創りあげるという、あきらかな矛盾は1951年のサリンジャーの行動の典型だった。

ヴェーダンタ

 第一にして最重要なことは、ヴェーダンタは一神教だということだ。唯一の神がいて、神はあらゆるものに存在する、と教えられる。ヴェーダンタにおいては、神は至高の現実であり、人間が周囲のものにあたえる名前や区別は幻想である。すべてが神であるから、これらの区別は存在しない。それゆえ、ヴェーダンタではすべての魂は神の一部であるため、神聖な存在であり、肉体は殼にすぎない。ヴェーダンタの目的は神を見ることであり、殼の内を見とおし、その内に神聖なるものを感じとって、神と一体化することである。(略)
 サリンジャーヴェーダンタに惹かれたのは単純なことだった。ヴェーダンタは禅とちがって、神と個人的につながる道を示してくれ、サリンジャーにはそこがたまらなく魅力的だった。このおかげでサリンジャーは希望が、そして憂鬱を癒される保証が得られ、登場人物には可能だった再生をはかることができ、自分が周囲の人たちと結びつき、神を見出し、そしてその神をとおして、平安を得ることができた。

コーニッシュ

 その土地は森の奥深く、丘を登る長い道の果てにあった。丘を登りきったところに、森が切りひらかれて、小さな赤い小屋のような建物が姿を現した(略)草原地帯の高みからの眺めはすばらしかった。眼前にコネティカット川渓谷が横たわり、起伏のある野や森、霧にけむるかなたの山々といった、息をのむ景色が広がっていた。
 美しい環境とは対照的に、家はきわめてわびしい状態だった。それはじつのところ納屋で、とても住めないほど荒れはてていた。2階建ての部屋にむき出しの梁、ちっぽけな屋根裏、わきに押しやられたちいさな台所にいたるまで、いつ改装したかわからないほど古く、物資不足の開墾時代のあらゆる要素を備えていた。そこには水道がなく、バスルームもなく、ニューイングランドのきびしい冬の寒さをやわらげる熱源もないのだった。
(略)
これは社会のインチキから離れて、自分自身の倒錯の森の奥深くの山小屋に逃れるという、ホールデン・コールフィールドの夢を実現するチャンスなのだ。
(略)
サリンジャーは戦争になって忘れていたほんものの幸せをここで見出した。(略)建物の割れ目を補修し、防風窓を取りつけ、庭を整えた。そして、新しい隣人たちとの生活を確立させようとした。(略)
サリンジャーは古めかしい屋根つきの橋を渡ってウィンザーに行き、郵便を受けとり、日用品を買ったりして、町の人たちと交わろうとした。なかでもハリントンズ・スパとナップス・ランチにはよく行ったので、どうしてもウィンザー高校の生徒たちに出遭うことになった。
(略)
生徒たちの仲間にはいって食べ物や飲み物をおごったり、話に夢中になって何時間も過ごすこともあった。また、家探しの旅のために買ったジープに若者たちを詰めこんで、自宅まで連れてくることもあった。そこで彼らは自分たちの人生について議論した。彼らはレコードをかけたり、スナックを食べたりしながら、学校のこと、スポーツ、人間関係などいろいろと話した。(略)
 34歳の有名な作家であっても、サリンジャーはこんな若者たちといることが、驚くほど快適だった。まるで自分の思春期を彼らといっしょに、ただ、今回は仲間のなかでいちばん人気のある一員として、再現しているみたいだった。(略)彼は若者たちに付き添ってスポーツイベントに行き、キャンプに連れてゆき、子供たちの親にも信頼されて教会の若者グループのリーダーにもなった。どこからみても、サリンジャーは監督者を任じてきちんとふるまい、10代の若者の心を抜群の感受性で理解するおとなだった。
(略)
コーニッシュのおとなの住人たちも、親しみやすい話好きな人柄を覚えている人が多く、サリンジャーはよく近所の家を訪ねたり、カクテルパーティを催したりしたという。客を楽しませようとして、宗教や地方の催し物のことを熱心に話し、瞑想やヨガをやってみせたり、新居の変貌ぶりを紹介したりした。また近所の人の真似をしてみせたりして、素朴な田舎紳士として生活を確立しようとしていた。

ウィンザー校の学校新聞インタビューのつもりでいたら、地方新聞に載って、しかも間違いだらけ

 サリンジャーはこの記事に深く傷ついた。ブラニーは学校新聞の活動のためにインタヴューさせてほしいと言って、彼を欺いたのだ。デイリー・イーグル紙が少女を利用したのはあきらかだが、そこが重要なのではなかった。サリンジャーにとってこの事件は、ニューヨークを出て縁を切ったと思っていた権利の侵害や言い逃れが、牧歌的にみえるここにもあったということを示していた,
 クレア・ダダラスとの破局のすぐあとのことだったので、サリンジャーの反応は過激だった。彼はウィンザーに行くのをやめ、高校生との関係にも終止符を打った。隣人を避けるようにもなった。(略)
生徒たちが彼の山荘へどうなったか見にいくと、サリンジャーはなかでじっとすわったまま、居留守をつかっていたという。数週間すると、彼は屋敷の周囲に塀を建てはじめた。

下記につづく。
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