孤立の宿命 サリンジャー評伝・その4

隠遁まで サリンジャー評伝・その3 - 本と奇妙な煙 のつづき。

サリンジャー ――生涯91年の真実

サリンジャー ――生涯91年の真実

 

結婚

結婚するとサリンジャーとクレアは、純粋な自分たちの信仰に合わせ、1950年代の世間がとりつかれている地位や外見とは縁を切って、自分たちだけの生活を築きはじめた。それは(略)精神性と自然に重きをおいた素朴な生活だった。(略)夫妻は水を古い井戸から引いた。ふたりで作物を育て、サリンジャーはとくに有機栽培には生涯にわたって情熱を傾けた。ふたりとも生き物を尊ぶと誓っていて、ギャヴィン・ダグラスによると、小さな虫も殺さなかったという。午後はもっぱら瞑想とヨガだった。夜は寄り添って本を読んだ。『シュリー・ラーマクリシュナの福音』やパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨガ行者の自伝』を読むことが多かった。

ビート族

 1950年代半ばには、親の世代の物質主義的な社会から自分が疎外されていると感じる若者たちの運動が、自然発生的に起こってきた。(略)ホールデンが直接自分たちに話しかけてくれ、サリンジャーがインチキや消費主義との闘いをつうじて、社会への自分たちの不満を表現してくれると感じた彼らは、崇拝の念をもってサリンジャー作品のもとに結集するようになった。その結果、これは「『キャッチャー』教」と呼ばれ、ほとんど新興宗教的な熱狂となって、この小説とそれを創った作者を吞みこんだ。(略)
 サリンジャーが「シーモア――序章」を書きはじめたころ、ビート・ジェネレーションが舞台中央に躍り出ていた。ジャック・ケルアックやウィリアム・バローズといった作家はサリンジャーがはじめた対話体を継続し、疎外と置き換えの議論をあらたな段階におし進めた。(略)
彼らの主張には救いが欠けていた。サリンジャーはこのような反体制的な作家たちのアイドルとなったが、彼は彼らに嘲笑を向けた。彼にとって、こんな連中はまさに「ダルマ行者」であり、「ビート族で不潔族、気むずかし族」で、なにより悪いのは「禅の破壊者」だと非難した。
(略)
[註釈]
サリンジャーは「シーモア――序章」のなかで、1958年のケルアックの小説のタイトル「ダルマ行者」を責めて、直接ケルアックに話しかけている。おもしろいことに、サリンジャーとケルアックはコロンビア大学では1学期しか離れておらず、コロンビア大学がケルアックに短期間ニューイングランドの進学高校に通うよう指示しなければ、ふたりは同級生になっていた。

息子

 1960年2月13日の早朝3時13分、J・D・サリンジャーはふたたび父親になった。クレアは26歳で息子のマシュー・ロバート・サリンジャーを、ちかくのウィンザー病院で産んだ(略)サリンジャーは自分の長所と欠点を息子のなかに見ていた。彼は、この新生児には目の輝きから頭の良さと元気さが見えるが、姉のペギーより繊細で敏感そうなところが心配だ、と言っていた。サリンジャーはマシューの思春期にまで思いを馳せて、「やせて、内気で、むさくるしくて、本だらけで困っている」学者タイプになると、ほとんど自分の若いころそのままの姿を思い描いていた。

孤立

 1960年には、サリンジャーの宿命論は宗教的な確信にまで達していた。1957年、著作の素材は自分より高度な力に指令されるままで、自分ではどうにもできないとジェイミー・ハミルトンに語っている。(略)
 1960年4月、サリンジャーは陰気な幻影を見た。そこでは、自分が舞踏室にすわっていて、楽団の音楽に合わせてワルツを踊る人たちを眺めているのだった。奇妙なことに、耳に聞こえる音楽がだんだん薄れていくと、踊っている人たちの姿も遠ざかっていくようだった。それはサリンジャーがまわりの世界から退いていく、それも自分の意思ではなく運命にしいられて姿を消していくという、寂しい光景だった。「私は自分がこんなふうにひとりですわっている姿を、長年にわたって胸に描いてきた」と彼は悲しそうに語った。それでも最後は、泣き言を言わなかった。ほかに仕事のやり方を知らないからね、というのだ。世間から孤立するのは自分の仕事に必要な代償だということが、彼にはわかっていた。
 コーニッシュでは冬が年ごとに長くなるように思われ、サリンジャーの孤立感は深まった。

農園購入

[1966年、売りに出された隣の農園の土地に]トレーラーハウスの駐車場ができることを知って、ぞっとした彼はさっそく自分の[11万坪の]保有地を担保に入れてとなりの土地を購入し、そこを保全した。そのために彼の蓄えのほとんどをつぎこんだ。このことで、彼はコーニッシュの住民に慕われることになった。(略)
[村を開発業者から守ってくれたことに感謝しその忠誠心から]
隣人たちが彼のまわりに結集して、彼のプライヴァシーを外敵の侵入から護ろうというのだ。

ケネディからの招待

[ホワイトハウスからの招待を]名誉には思うものの、またなにか公務を押しつけられそうで、出席するのが心配だった。(略)
 ケネディ家はかんたんには諦めなかった。招待への返事がないことを知って、ジャクリーン・ケネディが自分でこの作家を説得しようと試みた。その年の春、コーニッシュの電話が鳴ったとき、電話に出たのはクレアだった。ペギーは興奮してそのやりとりを立ち聞きしていたが、ファーストレディはサリンジャーの才能を褒めたたえ、サリンジャー家のみんなに晩餐会に出席してほしいと言ったという。(略)
サリンジジャーが口数は少なかったが、それでも彼女の伝説的な魅力になんとか抵抗した。サリンジャーは、お互いをじろじろ監視して、自分が本でけなしてきたさまざまな行動に夢中になっているような、自意識いっぱいの夜にはどうしても耐えられそうになかった。出席すれば、それこそ「インチキ」そのものだっただろう。
 クレアとペギーは王朝の雰囲気を味わう機会を奪った彼を、決して許さなかった。サリンジャーも自分を許せなかっただろう。
(略)
[テレビのケネディの葬儀]光景はサリンジャーに戦争の記憶を思いおこさせずにはおかなかった。古い悲しみと新たな悲しみが一体となって、彼は人目もはばからずに泣いた。ペギーは40年ちかくまえを思い出して、いまでも驚きを隠さず、それは「わたしが生涯でたったいちど目にした父の涙」だったと語ってくれた。

回転木馬

 1964年の晩夏、サリンジャーは8歳の娘ペギーを連れて、ニューヨークヘ出かけた。(略)ふたりはウィリアム・ショーンにペギーの後見人になってもらうよう、頼みにいくのだった。この後見人の役は故ラーニド・ハンド判事が務めていたものだ。(略)
予定表にはまず先にしたいこともあった。父と娘はいっしょにセントラルパークまで歩いた。そこで、J・D・サリンジャーの人生のなかでこれ以上ないほど超現実的で意気揚々たる瞬間が訪れた。父は娘を抱えあげ、セントラルパークの回転木馬の彩色した馬に乗せてやってうしろにさがると、娘がぐるぐるとまわるのを楽しそうに見守ったのだった。

1992年に再婚(再々婚)

花嫁と出会ったのは数年まえで、場所はコーニッシュのバザーだった。(略)コリーン・オニールという地元の女性で、職業は看護婦、趣味はキルティングという気立てのよいしとやかな人だった。(略)結婚が正式に発表されなかったので、ふたりの関係はサリンジャーの隣人たちもよく知らなかった。状況を混乱させたのは、コリーンが1959年6月生まれでサリンジャーより40歳も若く、配偶者とは考えにくかったことだった。