戦場のサリンジャー 評伝その2

サリンジャー 生涯91年目の真実 - 本と奇妙な煙

上記からのつづき。

サリンジャー ――生涯91年の真実

サリンジャー ――生涯91年の真実

 

「タイガー作戦」

渡欧経験を見込まれて諜報部隊入りし渡英。ノルマンディー上陸作戦のための大演習「タイガー作戦」中にドイツの魚雷攻撃により749名が死亡。

 陸軍はただちにこの一件のもみ消しをはかり、全員に口外を禁じた。サリンジャーはこの経験についてしゃべらなかったが、彼がそこにいたことはわかっている。(略)
 サリンジャーは自分自身が口外しないだけでなく、ほかの兵士たちに沈黙を守らせる責任も負っていた。スラプトン海岸の惨事をきっかけに、防諜部隊の任務は以前のように、アメリカ人の同僚兵士を監視することにもどっていた。(略)
 これはサリンジャーにとってはひどい立場で、彼がやっと抱くようになった連帯意識に反するものだった。
(略)
[モルテンでドイツ軍の強硬な抵抗にあう]
この闘いは「血まみれのモルテン」と呼ばれ、サリンジャーの部隊が敵を殲滅せんと、すさまじく銃を乱射したといわれている。

パリ解放

 パリ解放を伝えるサリンジャーの筆はよろこびに満ちている。大通りをジープで行くと、おおぜいの市民が彼にうれしそうに群がってくる。着飾った女たちが赤ん坊にキスしてくれと差し出したり、自分がキスしてもらおうと押し寄せたりした。男たちはこぞってワインをふるまった。
(略)
サリンジャーはまた、フランス人のなかからナチ協力者を探し出す使命をおびていた。(略)[同僚の]ジョン・キーナンによれば、そんな協力者を彼らが捕らえたことがあって、ちかくの群衆が逮捕のうわさを聞きつけて集まってきた。群衆は逮捕された男をサリンジャーとキーナンからもぎとり、ふたりが群衆に発砲できないでいると、その男を殴り殺してしまったという。サリンジャーはただ見ているしかなかった。
(略)
パリに滞在したのはほんの数日だったが、彼が従軍中に経験したもっとも幸せな日々だった。その想い出は9月9日のウィット・バーネットヘの手紙に書かれていて、彼にしてはもっとも幸福感のにじみでた手紙となっている。(略)
なんと、パリでアーネスト・ヘミングウェイと会うことができたのだ。
(略)
7月に出たばかりのサタデー・イヴニング・ポスト誌を持っていて、それには「最後の休暇の最後の日」が載っていた。ヘミングウェイは読んでから、なかなかいいと言った。(略)ヘミングウェイが、サリンジャーの恐れていたような、もったいぶった、おおげさなマッチョふうの男ではなかったことにも、安心した。おだやかで浮ついていない、と思った。ぜんたいとして、「ほんとうに、いいやつ(グッドガイ)」だった。

The Magic Foxhole

 未発表に終わったJ・D・サリンジャーの全作品のうち、もっともすばらしいのは「魔法のタコツボ」だろう。彼が前線で戦っているときに書いた最初の作品だ。サリンジャー自身のDデーおよびそれ以後の交戦の体験にもとづき、実戦を描いた唯一の作品である「魔法のタコツボ」は、怒りの物語であり、つよく戦争を非難している。これは一兵士にしか書けなかった物語である。
[署名はジェリー・サリンジャーとなっており、出版されないことを了解していたことを示している]
(略)
[ひとつのタコツボに数人が逃げ込むことになるが、隊の前方15メートル先を行く斥候のガードナーは]
つねに自分のタコツボを確保している。ガードナーがタコツボにはいるたびに、彼はひとり保護されるので、魔法のようにみえるのだ。
 この状況の無意味さや絶望を、実体験者ならではの迫真性をもって伝えている。読者には沼の悪臭がにおい、戦いの徒労のさまが目に見えるのだ。たしかな当てもなく、ただやみくもにドイツ軍の要塞に突撃していく、その描写に感嘆させられる。この戦いにはなんの栄光もなく、ただあるのは兵士たちの鋼鉄の意思と生き残ろうとする必死のあがきだけだ。
(略)
[ギャリティが病院で目覚めると]
ガードナーは目に死の影を宿し、病院のパジャマを着て砂地に立っている。「しっかりしがみついている、まるでコニーアイランドのジェットコースターに乗って、しっかりしがみついてないと、ぶっ飛んで頭われちゃうぞ」みたいに棒にしがみついている。(略)
[ギャリティも]毎日苦しみながら海岸へ出かけ、ずたずたにされて手足のない、撤収された兵士たちをじっと見ているのが好きだという、病的な面を持っている。(略)
軍隊が個性を抹殺することを非難していることとはべつに、負傷兵を精神が回復するまえに前線に送り返す、軍の方針に警鐘を鳴らしている。
(略)
 「魔法のタコツボ」のもっとも力づよいところは、Dデーのノルマンディー上陸を描いた冒頭の部分だ。場面はサイレントのスローモーションで展開するが、情景があざやかに浮かび上がってくる。海岸には死体がごろごろ横たわり、ただひとり生きている男、従軍牧師が砂浜を狂ったように這いまわって眼鏡を探している。彼の輸送船が海岸に近づくと、語り手は超現実的な場面を驚きの目で凝視する。すると、その従軍牧師もバラバラに吹き飛んでしまい、すべての動きがストップする。このとき、そこにあるのは爆発の音だけだ。この部分は忘れられないほど心揺さぶられる場面だが、なによりもきわめて象徴的なのだ。戦闘のまっただなか、死体がごろごろしているなかに従軍牧師がひとり、という設定をサリンジャーが選んだのは意図的だ。(略)自分が答を持っていると信じていたのに、その答がもっとも必要なとき、持っていないことがわかった者の姿を示している。(略)サリンジャーはここではじめて、「神はいずこ?」の問いを発しているのだ。

ヒュルトゲンの悲劇

 サリンジャーがヒュルトゲンの森にはいったとき、彼は悪夢の世界へ足を踏みいれたのだ。第二次世界大戦西部戦線における最悪の愚かな殺戮が、1944年の冬にヒュルトゲンで行なわれたのはほぼまちがいない。しかし、兵士たちを死の瀬戸際まで追いつめたのは、連日味わう森特有の恐怖だった。森の暗がりにはまりこむと、[敵がみえないため]死はいつでも、どこからでも忍び寄る。(略)狂気が泥のなかからしみ出てくる、あるいは降りつづく雨とともに舞いおりてくる(略)
[ドイツ軍の樹裂弾は兵士の頭上で爆発し木の枝が槍のように飛んでくる。第12歩兵連隊のヒュルトゲンでの犠牲者の半数は凍死]
ヒュルトゲンの悲劇は、それがまったく無意味だったことだ。連合軍司令部がそんな最悪の状況で、こんな無用の土地のために、なぜ戦いつづけることに固執したのか理解不能である。ドイツ軍がこの土地を確保したかったのは、主としてダムを支配するためであり、森を通りぬけるより周囲をまわったほうが楽だったからにすぎない。(略)
[連合軍の指揮官たちはそれに気付いても進路を変えなかった。これにより歴史家たちから軍事的失敗であり、人命の浪費だとみなされている]
[戦闘が小康状態になると、タコツボで雪に埋もれて凍死しかけたところを救ってくれたクリーマンを誘って、野営地の近くにいるヘミングウェイを訪問]
ふたりはいちばん重いコートを着て、銃や懐中電灯を持って森のなかを進んだ。2キロちかく行くと、小さな小屋に自家発電機でとびきり豪勢な明かりの灯った、ヘミングウェイの陣地に着いた。
 この訪問は2、3時間だった。彼らはお祝いのシャンパンを、食堂から持ってきたアルミのカップで飲んだ。クリーマンは、サリンジャーヘミングウェイの文学談義に耳を傾けていた。それはサリンジャーが元気づけられ、クリーマンは感激するという、森のなかの奇妙なひとときだった。
(略)
ヘミングウェイはヒュルトゲンのことを公然と非難したが、ほとんどの生存者は二度と口にしなかった。(略)
「よそ者」にみられるベーブの第12連隊への哀悼、「エズメに――愛と汚れをこめて」のなかでX軍曹が悪夢に苦しむさまも、その根源はすべてヒュルトゲンの森にある。(略)
[後年同僚が砲撃で全員が退避する中、テーブルの下でタイプを一心不乱に叩いているサリンジャーの姿を語っている]
[森に入った連隊兵士3080名中生存したのは563名]

バルジの戦い

[ルクセンブルクの「疲れた兵士の楽園」でほんもののベッドで寝る穏やかな一週間を送るも、ドイツ軍に包囲されバルジの戦いがはじまる]
また雪のなかで眠る夜がやってくる。(略)さらに疲労困憊と流血がつづくことを意味した。(略)
 バルジの戦いが1945年1月に終わったあと、アメリカ第82空挺師団は国境を越えてヒュルトゲンの森にはいり、ベルリンを目指した。(略)兵士たちは行進していくうち、恐怖の場面に遭遇した。とけだした雪の下から、何千というアメリカ兵士の死体が現れ、その多くは、まるで祈っているかのように両手を空に向けたまま、凍りついて横たわっていたのだ。

尋問、収容所

[戦争も最終局面に入り防諜活動に従事]
 サリンジャーの諜報活動でもっとも興味ぶかいのは、容疑者を逮捕し、囚人を尋問する彼の職権だろう。家から家へ走りまわり、悪漢を捕らえて、裸電球の下できびしく尋問するサリンジャーの姿など、こんにちの我われには馬鹿げて見えるだろう。しかし、それが実態だったのだ。だれに聞いても、彼はその任務を、著作にたいするときとおなじ誠実さで遂行した、という。
(略)
1992年、第4歩兵師団は合衆国陸軍によって、ナチの強制収容所を解放した部隊として認められた。J・D・サリンジャーが、ダッハウ強制収容所群の犠牲者解放に参加するよう、要請されたことはあきらかである。戦争中にそんな場面に遭遇した多くの兵士がそうであるように、サリンジャーもこの経験をそのまま語ることはなかった

悪夢

 バイエルン滞在中、サリンジャーのか細い神経はいまにも切れそうだった。それと同時に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のなかのアイススケートをする子供たちの場面、やわらかな青いドレスを着た少女たちの場面の、出来たてほやほやの原稿が彼の手許にあった。1945年の冷たい4月のあいだに、サリンジャーはすっかり変わってしまった。罪のない人びとの虐殺を目撃しただけでなく、彼が正気を保つために大切に守りつづけてきたすべてのものを断ち切られたのだ。それは、いったん胸にはいりこむと、消えることのない苦しみを焼きつける悪夢だった。「焼ける人肉のにおいは、一生かかっても鼻からはなれない」とサリンジャーは嘆いた。

以下につづく。
kingfish.hatenablog.com