ジミー・ペイジ自伝・その2

前日のつづき。

奇跡―ジミー・ペイジ自伝

奇跡―ジミー・ペイジ自伝

ジョー・ウォルシュレスポール購入

[1969年、ジョー・ウォルシュから買った1959年製サンバースト・レスポール・スタンダードを弾くように]
ヤードバーズ時代にペイジと知り合っていて、ジェイムス・ギャングが1969年初頭にツェッペリンの前座を務めたときに再会したのだった。(略)
「最初に会ったとき、彼はまだドラゴン模様のテレキャスターを弾いてたんだが、もっとガッツのあるギターを探してるんだと言ってた。たまたま僕はそのとき2本レスポールを持っていたんで、愛着度がほんの少し低いほうをすすめたわけさ!そのギターはかなり特徴があってね、というのもネックが僕の好みには太すぎたから、今は亡きヴァージル・レイに削って整形し直してもらったんだよ

空気感を録るマイクセッティング

[ライヴアクトとしてのダイナミズムをどのようにスタジオ録音に移し変えたか]
鍵のひとつは、僕がジョン・ボーナムのドラムスをれっきとした音響楽器として、まともな音響空間で録ったことにあると思う。ドラムスはバンドの中枢になるものとして、いいサウンドである必要があった。だから僕はマイクの置き方についていろいろ研究したんだ。
(略)
スタジオでイコライザーに頼らなきゃならないはずはないんだ。マイクそのものと、マイクをどう置くかで決まるべきものなんだよ。互いに混じり合う楽器の音が響きを作り出すんだ。何もかもきれいにしはじめたとたんに響きは失われてしまう。音が交じり合うときに生まれる光の輪のようなものが消えてしまうんだ。光の輪を消してしまったら、あとから人工的なリバーブを入れるしかなくなるし、それは自然にできた響きには常に劣るからね
(略)
そこが、50年代に作られた音楽と70年代以降の音楽の一番大きな違いだと思うよ。70年代以降、いきなり何もかも小ぎれいにしなきゃならなくなったんだ。それをやったら、すっかり曲の勢いがなくなってしまう
(略)
遂にはマイクを玄関ホールに置くところまでいったよ。というのが“レヴィー・ブレイク”のサウンドを編み出した方法だったんだけどね。
(略)
パンニングや極端なマイク配置によってすごく刺激的な聴覚体験を生み出せるんだよ。僕が気に入ってるミックスのひとつが、“レヴィー・ブレイク”の終盤なんだけどね。あそこではすべてが動き出し、声だけが一ヶ所に留まっている。

[ヘッドリィ・グランジ]の玄関の上がり口は巨大で、真ん中に三階まで昇っていく階段があったよ。(略)
アンディ・ジョンズがM160のマイクを2本ほど二階から垂らして、そうやって拾ったものをコンプレスし、更にちょっとエコーをかけてあとにまたコンプレスしてと、それだけだったよ。
(略)
フェンダーの12弦エレクトリックでオープンGで弾いてる。低く聴こえるのは知ってるよ。全体に緊迫感を出すためにトラックの速度を下げたからね。あのトラックが巨大なサウンドに聞こえるのはそれも一因なんだ。遅くすると、何でもずっと分厚く聞こえるんだよ。ただそこで唯一の問題は、演奏が本当にきっちりしてないとだめだということでね。少しでもずれがあるとそれが強調されてしまう。

When The Levee Breaks Led Zeppelin

CIA

[ジョージより早くシタールを持っていた。ラヴィ・シャンカールの客がインド大使館の年配者ばかりの頃にコンサートに行き、ラヴィはチューニングの仕方を紙に書いて教えてくれた]
ときどき僕はみんなに『CIAのコネのおかげ』と言うんだけどもね。ほら、C(ケルト)、I(インド)、A(アラブ)の略さ

パクリ問題

でもいいじゃないか、金は払ったんだから!

[ブルースからの拝借がのちにトラブルになると考えたかと問われ]
自分が使うものには常になにかしら新鮮な要素を加える努力をしていたんだよ。必ず、それなりにバリエーションを加えるようにしていた。というかもう、たいていの場合は原曲が何だったか想像もできなかったと思うよ。まあ、100%必ずとは言えなかったかもしれないけれども、たいていの場合はね。だから類似性が問題になるのは大半の場合、歌詞だったんだ。そしてロバートが詞を変えることになっていたんだが、変えないままで歌ってたこともあった。僕達が痛い目に遭ったのはだいたいそれが原因だよ。ギターのパートや曲そのものについてはあれこれ言われることはなかったが、詞のほうで首根っこを押さえられてね。
 たしかに、かなり勝手やってたことは事実だ。でもいいじゃないか、金は払ったんだから!

アンプ

[ライヴではマーシャルを使っていた思われているけど、キメるときはハイワットのアンプを使ってましたよねと問われ]
あれは移行期のアンプだったんだ。(略)初期の僕の主なアンプはヴォックス・スーパー・ビートルだったんだ。あれは素晴らしかったよ。(略)
[その後、みんながマーシャルを使ってたので]ハイワットを手に入れたんだ。フットスイッチのオーバードライヴがついているやつさ。最終的にはマーシャルに移行したよ

「天国への階段」はジョージ・ハリスンからひらめきを受けたという噂はホント?

 「きみ、それ、話は合ってるけど曲違いだよ!ジョージがある晩ボンゾと話をしていて言ったんだ、『きみらのよくないとこはバラードをまったくやらないところだ』って。それで僕は『じゃあジョージにバラードを書いてやろう』と言って“レイン・ソング”を作ったんだ。これは『聖なる館』に入れた。現に、あの曲のはじめの2つのコードは“サムシング”から拝借してるのがわかるだろう」

The Rain Song - Earls Court 1975

「プレゼンス」

当時の僕達の激しい感情状態がそのまま出てる。(略)一切メロウな部分がないんだ。[三週間後にストーンズのスタジオ予約が入っていたので]レコーディングを終えなければというすさまじいプレッシャーのもとにあった。あれを全て18日間で録ったんだよ。だからあの頃、僕は毎日、平均18時間から20時間ぐらい働いていた。
 それに骨の折れる仕事だったよ、はっきり言って他に誰もアイデアを持ち出してこなかったから。あらゆるリフを思いつくのは全て僕の仕事だった。だから『プレゼンス』はあんなにギター中心なんだ。

ZEPへの情熱は薄れていましたか?

「ない、ない、それはない。それどころかボンゾと僕は、次はもっとハードなロック・アルバムを作ろうぜっていう話をしはじめていたんだ。我々二人は『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』はちょっとソフトだなと感じていたからね。僕としては“オール・マイ・ラヴ”はいささか苦手だったな。

ポール・ロジャース談

[スワン・ソングとの契約話になりリハーサルに来てもらうことに]
ピーター・グラントは結局姿を見せなくて、僕達としてはかなりがっかりした。それで機材をまとめて帰ろうとしているときに、彼はいきなり現れたんだ。ずっとドアの外で聴いていたって言うんだよ、僕達を萎縮させたり少しでも影響を与えたりしないように。そして幸い、聴いたものを気に入ってくれた。
 そして彼は言ったんだ、『きみたちは私を知らん、私もきみたちのことを知らん。だからいきなり契約は結ばない。最初の3ケ月は紳士協定で仕事をしよう』とね。
 ピーターは古いタイプのマネージャーで、レスラー上がりだったから、業界のいわば汗臭い部分も心得ていたんだ、わかるだろ? ものすごく勘がよくて、本当に不思議な人だったよ。彼はロマ民族のジプシーだったんじゃないかと思ってるんだ。体格は巨大だったけどすごく優しくてね、僕達に対しては。ピーターを怖いと思ったことは一度もなかったな。それどころか僕達のほうが彼のことをしょっちゅうコケにしてた。ほんと、ひどい態度だった!彼はそういうことも全部受け止めて、ほんとにたいした人だったよ。